3話:下から減る
☆
貯水槽の蓋が開く音は、詰所の空気を変えた。
水の匂いが漏れる。
それだけで人は寄ってくる。寄ってくれば揉める。
だから今日は、最初に“枠”を置いた。
詰所長が門番へ命じる。
「立て。入口を絞れ。――貯水槽には水番と倉の者、それと俺が入る。ほかは入れるな」
門番が頷き、槍を立てた。構えない。
ただ、そこにいる。
それが一番効く。
記録係が札を掲げる。
“王家の保証により、貯水槽補修を実施。妨害は王家への敵対と見なす。”
文字は短い。
短いほど効く。
グレイスはベールの内側で息を整えた。
水を守るのに必要なのは、まず人を守る枠だ。
☆
貯水槽は石造りだった。
石と石の継ぎ目が、年月で痩せている。
痩せた目地は、見えないほどの隙間を作る。
隙間は、日々の滴で川になる。
グレイスは縁に膝をつき、指先で継ぎ目をなぞった。
乾いているように見える。
だが、濃い筋がある。
染みが続いている証拠だ。
水番が呟く。
「穴っていうより……筋だな」
「筋で十分です」
グレイスは淡々と言った。
「筋は、毎日水を捨てます」
詰所長が低く言う。
「どれくらいだ」
「まず現状を形にします」
グレイスは指先に冷気を集めた。
魔力は太く使わない。
確認のためだけ。
目地の一部が薄く凍る。
すると、凍った縁だけに水滴が浮いた。
ゆっくり。だが、確かに。
倉の者が息を呑む。
「……出てる」
「出ています」
グレイスは頷いた。
「ここが主です。他にも数箇所。――全部、印を付けます」
記録係が石に白い粉で小さく印を付けていく。
見えるようにする。
見えれば、誤魔化せない。
☆
問題は、塞ぎ方だった。
グレイスは詰所長へ言った。
「応急は氷で止めます。本補修は、昨日話した配合で」
詰所長が頷く。
「砂、灰、粘土。枠と乾かす時間も要るな」
「はい。だから今日は“止めて、量を出す”ところまでです。数字が出れば、作業の優先が決まります」
詰所長が短く言った。
「やれ」
☆
まずは漏れの量を取った。
止める前に、どれだけ捨てているかを知る。
知っておけば、止めたあとに“差”が出る。
目地の下に小さな受け皿を置く。
同じ形の受け皿を3つ。
印を付けた箇所のうち、濡れが濃い順に当てる。
記録係が砂時計を裏返した。
大げさな道具ではない。
だが、時間が揃えば言い訳が消える。
水番が落ち着かない声で言う。
「……こんなの、いつまで待つ」
「10分です」
グレイスは淡々と答えた。
「10分で出るなら、1日でどれだけ捨てているか出せます」
詰所長が低く言う。
「出せ。数字が欲しい」
砂時計の砂が落ちきる。
記録係が合図する。
受け皿の底に、薄い水面ができていた。
目で見えるほどの量だ。
見えるほどの量が、毎日消えている。
倉の者が息を呑む。
「……これ、全部が飲めたら」
「飲めます」
グレイスは頷く。
「だから止めます」
基準椀で換算する。
受け皿1は0.09杯。
受け皿2は0.06杯。
受け皿3は0.04杯。
記録係が読み上げる。
「10分で、合計0.19杯」
詰所長が眉を寄せる。
「……0.19杯?」
「はい」
グレイスは紙に線を引いて書いた。
「1時間で1.14杯。24時間で27.36杯。――この3箇所だけで、です」
水番が顔色を変える。
「……俺たち、毎日27杯も捨ててたのか」
「捨てていたのは仕組みです」
グレイスは淡々と言った。
「人のせいにすると場が壊れます。だから、まず塞ぎます」
☆
応急は短く、確実にやる。
氷は万能ではない。
だから厚くしない。
隙間だけを埋める。
グレイスは杖を握り、最初の目地へ先端を向けた。
魔力を細く流す。
冷気が石と石の間に沿って走り、透明な楔が入る。
水滴が止まった。
水番が息を吐く。
「……止まった」
「次」
グレイスの声は短い。
作業を止めれば、目が増える。
目が増えれば、口が増える。
2箇所目。
3箇所目。
同じように塞ぐ。
透明な線が増える。
増えるほど、貯水槽は“守られる容器”になる。
詰所長が低く言った。
「……今ので、どれだけ変わる」
「夜半で出ます」
グレイスは即答する。
「今日の実測と並べます。差が出れば、明日から本補修に入れます」
倉の者が言った。
「本補修の材料、集めるぞ」
詰所長が頷く。
「集めろ。……ただし、勝手に貯水槽へ近づくな。札を立てろ。見張りを付けろ」
門番が動く。
札が立つ。
“王家の保証により補修中”の短い文字が、余計な手を止める。
☆
日中。
貯水槽の周りは慌ただしくなった。
灰は竈から集めた。
砂は細かいものを篩にかける。
粘土は、外縁の古い水路跡の低地から掘り出す。
掘り出す、という言葉はここでは刃にならない。
土を取るだけだ。誰も騒がない。
鍛冶の見習いが呼ばれ、木枠用の釘と留め金を用意する。
枠は“支え”だ。
目地を詰めるだけでは、また割れる。
詰所長がグレイスへ言った。
「……お前、どこまで見てる」
「必要なところまでです」
グレイスは淡々と返した。
「塞いだ場所が割れるのは、材料のせいではなく、力のかかり方のせいです。枠があれば、力が分散します」
詰所長が短く息を吐く。
「合理的だな」
その言葉に、グレイスは返さない。
今は褒めても水は増えない。
☆
夜半。
鍵の音。
倉の扉。
そして、貯水槽の蓋。
詰所長が立ち会い、責任者も同席する。
記録係が紙を構える。
グレイスは言った。
「今日も基準椀で換算します。昨日と同じ手順です」
水番が頷き、汲む。
倉の者が数える。
記録係が書く。
作業は淡々と進む。
淡々と進むのは、仕組みができた証拠だ。
記録係が手を止めた。
「夜半の残り……基準椀で、1,468杯」
グレイスは紙を見た。
昨日の夜半は1,440杯。
今日は1,468杯。
差は――28杯。
詰所長が言葉を失う。
「……増えた?」
「増えていません」
グレイスは淡々と言った。
「減りが減っただけです。――下からの漏れを止めた分が、残りました」
水番が喉を鳴らす。
「……28杯」
「先ほど計算した漏れの見込みが、約27杯でした」
グレイスは紙を指で押さえた。
「一致しています。だから、明日から本補修に入れます。――やれば、猶予は伸びます」
詰所長がゆっくり息を吐いた。
縋る息ではない。
計算が合った時の息だ。
「……殿下に報告する」
「はい。数字で」
グレイスは頷いた。
☆
夜半の実測が終わり、会議室の灯りが落とされた。
詰所の騒がしさは薄れたが、静けさは安心ではない。
眠りが来る前の時間ほど、考えが濃くなる。
グレイスは客間へ戻り、机代わりの小さな台に紙を置いた。
今日の数字。
漏れの推定と、残った差。
一致している。
一致しているから、次の段へ進める。
扉が軽く叩かれた。
「入るぞ」
詰所長の声だった。
返事を待たずに扉が開き、彼が敷居に立つ。
昼間の厳しさはそのままに、疲れが滲んでいる。
それでも目は澄んでいた。
「……見た。28杯。計算が合ってる」
「はい」
グレイスは頷く。
「漏れは、主の筋を止めました」
詰所長は一拍置いて言った。
「本補修は、こっちで回す」
グレイスの指先が止まる。
「私が――」
「お前がやれば遅い」
詰所長の言葉は短い。
責める声ではない。判断だ。
「人手はある。鍛冶も回せる。倉の者も水番も使える。……お前は配合と手順だけ残せ。検査もだ」
グレイスは息を整えた。
そうするべきだ。
自分が現場で泥を被っている時間が、一番高い。
「分かりました」
グレイスは紙を引き寄せた。
「砂、灰、粘土の比率。詰める順番。乾かす時間。水位を落とす幅。――全部、書きます」
詰所長が頷く。
「札も立てた。見張りも付ける。勝手に近づく奴は止める」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
詰所長は言い切ってから、少しだけ声を落とした。
「……殿下の文書が効いてる。今は、口が減る」
グレイスは頷いた。
紙は水を生まない。
だが紙は、時間を生む。
詰所長が続ける。
「明日の朝から、目地詰めを始める。夜までに“水が止まった状態”にする。乾かしながら監視はこっちで持つ」
グレイスは言った。
「夜半の実測も取ってください。今日と同じ手順で。差が出れば、誰も文句が言えません」
「分かった」
詰所長は短く頷いた。
「……で、お前は?」
グレイスは迷わず答えた。
「夜明け前に動きます」
詰所長の眉が動く。
「採取か」
「はい」
グレイスは頷いた。
「猶予は伸ばします。でも、掘り始めるのは早いほどいい。――当たりを先に取ります」
詰所長は一拍置き、低く言った。
「……任せる。だが、無茶はするな」
「無茶はしません」
詰所長は扉に手をかけ、最後に振り返った。
「言っておく。ここは前線だ。お前が倒れたら、また揉める」
「分かっています」
「頼む」
扉が閉まる。
鍵の音はしない。
預かる距離感のままだ。
☆
部屋の隅ではラズが伏せていた。
黒い毛並みが灯りを吸い、体の緑の線がゆっくり明滅する。
眠っているようで、眠っていない。
夜の気配に耳を澄ませている。
グレイスは紙に線を引き、短く言った。
「……明日、夜明け前に出ます」
『目的は』
「水の匂いが濃い場所を当てたい」
グレイスは言い方を選ぶ。
まだ“掘る”とは言わない。
刃になる言葉は必要な時にだけ使う。
「あなたの嗅覚なら、当てられる。……私の水の匂いを砂漠の夜に拾ったんです。信用しています」
ラズが低く返す。
『我は、当てる。風が邪魔をしなければな』
「なら、夜明け前。風が落ちる時間に行きましょう」
『ああ。匂いの筋を掴む。――筋の先に、濃い点がある』
「その点に、試しの穴を入れる」
グレイスは頷いた。
「点を3つまで絞ります。……外れを早く捨てるために」
ラズの尻尾が一度だけ動いた。
『良い。無駄がない』
グレイスは最後に確認した。
「危険な匂い――魔物の匂いも分かりますか」
『分かる。水の匂いに寄る獣は多い。……近づくなら、我が先に見る』
「お願いします」
灯りが揺れ、影が伸びる。
外で風が鳴った。乾いた国の音だ。
その音に混じって、誰かの咳が一つ。
乾きはまだ終わっていない。
グレイスは寝具に腰を下ろし、ベールの内側で息を吐いた。
「……起こしてください。夜明け前に」
『任せろ』
短い返事。無駄がない。
それが今は一番の安心だった。
貯水槽の本補修は詰所が回す。
グレイスは当たりを取る。
猶予を伸ばしながら、掘りの時間を作る。
順番は崩さない。
崩せば、また下から減る。
明日、匂いを追う。
その一歩が、井戸計画の最初になる。




