1話:婚約破棄、砂へ
間に合わなかった。
指先が冷えるほど確かな証拠を掴んでいたのに、王子の冤罪づくりのほうが早かった。
あと少し。神殿の封印庫で原本と照合できれば、逃げ道を潰せたはずだった。
グレイス=ソフィア=リヴェルノートは、王宮の大広間へ向かう回廊を歩きながら、胸の奥の重みを押さえた。
香の匂いが薄く漂い、磨かれた床が光を返す。整いすぎた場所は、逆に息が詰まる。
背後には配下が控えていた。
改革の実務を回してきた者たち。帳簿に触れ、倉庫の出入りを見て、神殿の記録にも出入りした者たち。
その中にいる侍女は、いつも通り表情を崩さない。
けれど、指先だけがわずかに硬い。
今朝、封印庫は閉ざされた。
立会人が欠けた。許可が下りない。規定を盾に動かない。
そして王宮から届いた召喚状。
“正式な場で、処分を言い渡す”。
扉が開く。
眩しい光と、ざわめきが流れ込んできた。
玉座の前、壇上に第1王子――カシウス=コンラート=グランセルが立っている。
穏やかな笑みは、いつも通りに整っていた。
「リヴェルノート公爵令嬢、グレイス=ソフィア=リヴェルノート」
名を呼ばれ、グレイスは一歩進む。
背筋を伸ばし、視線を逸らさない。ここで揺れたら、揺れた瞬間を“罪”にされる。
壇上の左右で、役人が布包みの帳簿を掲げた。
封蝋。署名。押印。
どれも“それらしく”整っている。整いすぎている。
グレイスは、違和感を拾う。
封蝋の端の癖。押印の角度。筆跡の硬さ。
――原本を知らない者が、原本らしく作ったもの。
カシウスが告げた。
「本日をもって、婚約を破棄する」
広間がざわめく。
驚きよりも、待っていたような熱が混ざる。
カシウスは淡々と続けた。
「理由は明白だ。税の不正流用、備蓄物資の横流し、賄賂の受領。国庫と民を食い物にした罪は重い」
断罪の空気が床を這うように満ちていく。
誰かが息を呑み、誰かが小さく笑った。
その空気を、低い声が切った。
「待て」
列の中から、グレイスの父リヴェルノート公爵が一歩前へ出る。
怒鳴らない。走りもしない。
ただ、そこに立っただけで、周囲の呼吸が揃って止まった。
「今の言い分は“断定”だ。証拠の原本はどこにある」
カシウスの眉が、わずかに動く。
「帳簿はある」
「“ある”では足りない。改ざんの有無は照合しなければ判断できない」
公爵の声は淡々としていた。
感情を出さないからこそ、言葉が刃になる。
「グレイスは改革で記録の型を整えた。だからこそ、型だけ真似た偽物も作れる。王太子府が公正を掲げるなら、神殿の記録院で原本照合を行え」
ざわめきが変質する。
罵声ではない。疑念のざわめきだ。
公爵は娘を見ない。
見るのは壇上だけ。
娘を“庇われる存在”にしないために。
「それとも――照合されると困る理由があるのか」
その一言で、広間の温度が下がった。
カシウスは笑みを崩さない。
「手続きはすでに進んでいる。証拠は充分だ」
「充分かどうかは、照合して初めて決まる」
「決まった。……国外追放だ」
空気が一気に“決定”に傾く。
議論をさせない速度。ここまでが、王子の作った筋書きだった。
グレイスは口を開かない。
反論はできる。矛盾も指摘できる。
だが、今この場は“正しさ”ではなく、“終わらせ方”を求めている。
グレイスは、ただ一つだけ確かめるために言った。
「殿下。確認します」
ざわめきが止まる。
視線が、彼女の口元に集まった。
「承知しました。では、これは“王国の正式処分”として記録されますね」
ざわめきが、わずかに止まった。
それは抗議ではない。事務的な確認だ。
だからこそ、重い。
カシウスの笑みが、ほんの少しだけ硬くなる。
「当然だ。王国の名で下す処分だ」
グレイスは一度だけうなずく。
「分かりました」
その返事だけで十分だった。
逃げ道を消すための言葉は、もう置いた。
カシウスは視線を外し、黒衣の術師に顎で合図した。
「始めろ」
床の魔法陣が淡く光り、詠唱が広間に満ちる。
帰還座標のない転移――戻れない型。
その直前、侍女が静かに一歩前へ出た。
表情を崩さないまま、小ぶりのトランクを差し出す。
留め具は硬く、革は新しい。
中身は豪奢ではない。生きるための最小限だけだ。
グレイスは受け取る。軽い。運べる重さ。
蓋の隙間から、乾いた香りがした。携行食。量は少ないが、数日は持つ。
中には、細身の木杖が収まっていた。
派手な装飾はない。けれど握った瞬間に分かる。指が自然に収まる形で、重心がぶれない。先端へ向けてわずかに細くなる、道具として完成した一本。
鞘に納められた短いナイフもある。
武器というより、切るための道具だ。
侍女は声を出さず、目だけで言った。
“お持ちくださいませ”。
グレイスは小さくうなずく。
それ以上の言葉は、この場では毒になる。
そのとき、公爵が、再び声を通した。
「確認する」
カシウスが視線を向ける。
「本日の処分に用いた帳簿と証憑は、神殿の記録院へ提出されるのだな。原本照合ができる形で」
広間の空気が、わずかに張る。
カシウスの笑みは崩れないが、返答は一拍遅れた。
「手続きは、規定に従う」
公爵は小さくうなずく。
「よろしい。ならばこちらも、公爵家の権限として規定通りに動く」
それだけで、逃げ道が消える。
「本日をもって、リヴェルノート公爵家は、王太子府ならびに関係機関への協力を停止する」
ざわめきが走った。
貴族たちの目が、静かに揺れる。
「水路、倉庫、会計監査、救済の基金――これまで我が家が負担してきた分については全て精算し、記録を提出する。改ざんがあれば、神殿の記録院に原本照合を求める」
脅しではない。事務連絡だ。
だからこそ、重い。
公爵は最後に、壇上ではなく娘へ視線を落とした。
「……すまない」
言い訳はない。慰めもない。
ただ、その一言だけが父親の本音だった。
グレイスは瞬きを一度する。表情は崩さない。
「大丈夫です」
声も揺れない。
揺れないまま、彼女は前を向く。
魔法陣の中心へ歩く。
トランクの取っ手を握り、背筋を伸ばす。
カシウスが低い声で言った。
「終わりだ。グレイス」
グレイスは立ち止まらない。
中心で、背筋を正した。
「殿下」
カシウスが目を細める。
「まだ何か」
グレイスは静かに言った。
「殿下が怖れているのは、私の罪ではありません。真実です」
次の瞬間、光が跳ね上がった。
音が消え、匂いが消え、床の感触が抜け落ちる。
落下。
熱が頬を殴った。
砂が口に入り、喉が乾き、息を吸うだけで痛い。
砂漠。
グレイスは膝をつき、掌で砂を掴んだ。細かい。乾ききっている。
トランクの革が、熱でわずかに軋む。




