ARを脱いだ日
ARを脱いだ日
俺はARグラスをかけた。視界は、世界を完全に上書きした。
西暦2077年。リセット法が施行されて十年。かつて父の町工場があった第六区画の空は、太陽光さえも均一な白色にフィルタリングされ、幾何学的なグリッド線と冷たい青色のレーザーが引かれた完璧な更地を映し出す。俺の嗅覚だけが、このARの無臭に抗った。路地の隅の湿った土の匂いの記憶が、俺の鼻の奥に焼き付いている。
「見事な景色だな、アキラ君。すべてが合理的に再構築される、未来のキャンバスだ」
隣の上司、サトウが俺に冷静さを保たせるように**「君」**と呼び、呟く。
「政府は『理想都市』だと言う。だが、私は違うと知っている」
サトウはARグラスを外し、物理的な空き地を指差した。彼の目に映るのは、泥と鉄筋がむき出しになった、生々しい瓦礫の山だ。
「ARで我々が見せられているのは、ただの完成予想図だ。現実にあるのは、お前たちが愛した街を徹底的に消し去る解体作業の跡。私は、この欺瞞を、自分の手で進めてしまった」
俺の血液が一瞬で冷たい金属に置き換わったような感覚が走った。
俺はARグラスを外し、手を伸ばして瓦礫に触れた。
土と埃のざらついた不快な感触。この物理的な不快感こそが、真実だった。
その夜、俺はVRヘッドセットを装着した。
VRの第六区画では、父の町工場が、再現されたハンマーが規則的に鉄を叩く鈍い音とともに存在していた。
ヒロキが現れた。VRでの彼は、自分の設計図が並ぶ、匂いも埃もない冷たいガラスの箱庭の中にいた。
「アキラ、これが僕の理想だ。君はまだ、あの不便で非効率な現実に固執しているのか?」
「固執してるんじゃねえ!これは、俺たちの人生を、路地の隅々まで剥ぎ取った世界だ!あんたの理想は、俺たちの現実を殺したんだ!」
俺ののどの奥から、鉄を削るような掠れた声が出た。
VRの空間に、一瞬、ノイズのような静寂が落ちた。
ヒロキの顔はVRの空間でありながら血の気を失ったような白さだった。
「僕は、最初からこんな破壊を望んではいなかった。政府は僕の設計図を殺人の道具に変質させた。僕は、僕の理想が汚れていく様を、ずっと見てきたんだ。・・・僕の罪だ」
「アキラ、僕は、僕が作ったこの世界を、僕自身の手で壊さなければならない。君の怒りだけが、僕がまだ人間だった証拠だ。頼む、僕に協力させてくれ」
翌日、俺はサトウに告げた。「俺たちで、この理想のシステムをぶち壊して、奴らの嘘を暴くんだ」
サトウは静かに頷いた。
「いいだろう。私には、あの不完全な街の匂いがまだ忘れられないんだ。・・・お前を助けよう」
彼は、VRユニバース側のネットワーク構造や、政府との癒着のデータが隠された場所を俺に教えてくれた。
「VRユニバース側の警備兵は、ARグラスを装着して巡回している。彼らには虚像しか見えていない。お前たちはVRで戦え。ヒロキの技術と、お前の記憶を使って、彼らのシステムを混乱させるんだ」
俺たちはARグラスを外した。瓦礫の山がそこにある。
俺はヒロキと目を合わせた。一瞬、幼い頃のあの無謀な顔が重なった。
「行くぞ、ヒロキ」
「ああ、アキラ。僕の理想の残骸を壊して、君の現実を取り戻す手伝いをさせてくれ」
僕らはVRヘッドセットを装着し、戦いの場であるVR空間へ飛び込んだ。
VRの空間で、俺たちが愛した街の不完全な風景を、落書きされた壁を、傾いた電柱を、データとして再構築しながら、ヒロキの「完璧な設計図」の中核へと激しく衝突していく。
警備システムの抵抗は強烈だったが、ヒロキは自分の知識を使い、アキラの**「記憶データ」**を設計図の根本に注入し始めた。
「今だ、アキラ!全て上書きしろ!」
俺の記憶が、ヒロキの合理性を侵食していく。VR空間のグリッド線がノイズを上げ、ガラスの箱庭にひび割れが走る。ヒロキは同時に、隠された癒着の証拠データを外部サーバーへ転送した。
『VRユニバース・システムコア、デストロイド——』
VRの世界全体が光に包まれ、俺とヒロキは現実世界へ弾き出された。ヘッドセットを外すと、周囲は静寂だった。
翌日、ニュースはVRユニバースと政府の欺瞞を一斉に報じた。リセット法は凍結されたが、第六区画は変わらず、瓦礫の山のままだった。ヒロキは、システムの崩壊を確実にするため、逮捕されることを選んだ。
俺は再び、第六区画の空の下、瓦礫の中に立った。
勝利の対価は、残酷なほど現実的だった。家は帰ってこない。だが、俺は瓦礫の中から父が使っていた錆びた工具の破片を掘り出した。
俺は瓦礫の上から、強く焼き付いた湿った土の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。その匂いに、一瞬だけヒロキが目指した冷たい無臭さが混ざった気がした。
俺はARグラスを瓦礫の上に置いた。冷たい青のレーザーはもう見えない。
そして、錆びた工具の破片を使い、瓦礫の平地に無数の不規則な線を刻み始めた。ヒロキのグリッド線とは対照的な、俺たちが生きた街の地図。
俺たちの手には何も残らなかったかもしれない。だが、瓦礫の下で、俺たちは確かに生きていた。
俺は刻み終えた線の上に、工具の破片を置いた。
この不規則な線だけが、次の世代への地図だ。リセットは、終わらせない。