第1話「紅に沈む密室」
宮廷の薬は、嘘をつかない。
人の舌や肌、浴槽の縁に残る微かな匂いは、唇の言葉より雄弁だ。秋月麻乃はそう信じている。
その夜、麻乃は浴室の前で立ち止まった。奥の浴槽から漂うのは、血の匂いとも海の匂いともつかぬ混ざり物。微かに塩と鉄の匂いを感じ取り、指先で縁の湿りを確かめる。
「水死……か」
低く呟く。だが、体表に細かな斑点があること、浴槽の藻屑の混じり方、そして微量の砒素の痕跡――すべてが偶然とは思えなかった。
「どうしてこんなところで……」
若い側室の姿は静かに沈み、周囲の侍女たちは泣き叫ぶ。だが、麻乃の目は冷静だ。目の前の現象を、薬学と論理でひとつずつ解釈していく。
浴槽の縁に残された小さな紙片に、金色の封蝋が押されている。開けてみると、そこには詩が記されていた。
「夜は薬を隠し、朝は嘘を裂く。貴女よ、黄昏を見よ」
差出人はなく、署名も“詠み手”とだけある。意味は分からない。しかし、これは偶然の落書きではない。明確に“誰かが仕掛けた”証拠だ。
「薬で……誰かを殺したのか」
麻乃は浴槽の水の匂いを嗅ぎ、微量の砒素を指先で確かめた。薬学の知識が、次の疑問を呼び起こす。
そこに現れたのは、若き廷臣・尚。
「麻乃殿……こんなことが――」
感情が溢れる声だが、麻乃は表情を変えず答える。
「水死ではない可能性があります。体表の斑点、藻屑、微量の砒素……これらが、事故ではありえない痕跡を示しています」
尚は眉をひそめる。
「そんな……それは、どういうことですか?」
麻乃は浴槽の水に指を入れ、手早く分析するように見せた。
「殺意があったと考えるのが自然です。ですが、毒は完全に意図的に調整されている。誰かが“事故に見せかけた”――そういう痕跡です」
その時、麻乃は紙片に再び目を落とした。
詠み手の詩。
「夜は薬を隠し、朝は嘘を裂く……」
言葉の奥にある意味を考えながら、麻乃はゆっくり息をつく。詩は事件の鍵か、それとも挑戦状か。
「尚殿、これから宮廷の誰も信用できません。見えるものだけを、信じましょう」
外から侍女たちの声が聞こえる。泣き、叫び、疑念を滲ませながら、宮廷は夜の帳に沈む。麻乃は浴槽の縁で手を洗い、冷たい感覚を指先に残した。
薬も詩も、嘘はつかない。
そして、今夜の宮廷には、まだ語られていない真実が紅く咲いている。