決闘
【祓魔師学園 — メイン教室】
教師の話し声が、まるで濃い霧のように空気中を漂っていた。
その言葉は右耳から左耳へと抜けていく。
ソウタにとって、教室全体が眠気の魔法に包まれているようだった。
まぶたは鉛のように重く、
手であごを支えながら、乱れた前髪が目にかかる。
彼は眠気と必死に戦っていた。
しかし、その身体のふらつきは…すでに何度も敗北している証拠だった。
──自業自得だ。
彼は夜通し、寮の裏で「ドット&クロス」の訓練をしていたのだ。
同じ動作を繰り返し、繰り返し。
そのせいで指先はまだしびれていて、目の下には濃いクマができていた。
ヴィエル(小声で、鉛筆で彼の腕をつつく):
「ちょっと! 椅子から落ちるわよ!」
ソウタ(まばたきしながら):
「え…? あ、あぁ…」
ヴィエル(ささやき声で):
「またボーッとしてる! このまま寝たら大変なことになるよ!」
ソウタ(うつむいて):
「ごめん…」
彼女はぷくっと頬を膨らませてから、前を向いた。
ソウタも姿勢を正そうとしたが、目のかすみは取れなかった。
単なる疲労じゃない。これは、緊張だ。
──今夜。
彼は、エリアス・フォン・ダーヴァインとの決闘に挑むのだから。
また意識がぼんやりし始めたその時、
廊下に大きな「カンッ」という音が響いた。
──休み時間の鐘だ。
生徒たちは安堵の声を漏らしながら立ち上がり、
ストレッチをしたり、おしゃべりをしたりしながら教室を出ていく。
ヴィエルも立ち上がり、ソウタのそばを通りすがりに一言。
ヴィエル:
「決闘の前夜に徹夜とか…あとで理由、ぜったい聞くからね」
ソウタは眠そうな顔のまま、苦笑して立ち上がった。
足を引きずるように歩きながら、大きなあくびをひとつ。
──その時、廊下で彼の前に立ちはだかる影があった。
リシアだった。
腕を組み、背筋をピンと伸ばして立つその姿は、いつもの明るさとは違う。
真剣なまなざしで彼を見つめていた。
リシア:
「ソウタ、今のうちにちゃんと休んでおくべきよ」
「特に、今夜の決闘を考えればなおさら」
ソウタはその真剣な表情に驚き、言葉を返そうとするが…
リシア(続けて):
「授業の内容は、あとで私が教えるわ」
「私を信じて。……だから、今は体を休めて」
その瞳にあるのは、叱責ではなかった。
──心からの、心配だった。
ソウタ(小さく微笑んで):
「ありがとう、リシア…」
彼女はコクリとうなずき、教室へと戻っていった。
ソウタはしばらく廊下に立ち尽くし、
窓から差し込む昼下がりの光をぼんやりと見つめていた。
──決闘まで、あと数時間。
彼の身体も、心も、覚悟も……
すべてが試される時が近づいていた。
【寮 — 相部屋】
ソウタは静かにドアを閉め、自分のベッドへと向かった。
身体は鉛のように重く、布団に倒れこむように横たわる。
長時間の訓練で痺れる指先、
不安で早まる鼓動。
けれど、疲労には勝てなかった。
──静かに、彼のまぶたは閉じていった。
目を閉じた。
そして、眠りについた。
【ソウタの夢】
闇。
肌を刺すような冷気が、骨の奥まで染み込んでくる。
ソウタは全裸でその場に立っていた。
震えながら、白い吐息を何度も漏らしていた。
足元は氷、空気は刃のように鋭い。
光はなく、壁もない。
そこにあったのは——ただの虚無。
ソウタ(震えながら):「こ、ここは……どこ……?」
あてもなく歩く。
どの方向も、同じように暗い。
何度も首を振り、出口を探す。
声を。
光を。
何かを。
そして——
それを感じた。
“存在”。
漆黒の世界の中、数メートル先にフードを被った人影が立っていた。
沈黙のまま、じっとこちらを見つめている。
そして、笑い出した。
その笑い声は、空洞のように響き、歪み、まるで深い井戸の底から聞こえるようだった。
突然——ザシュッ!
手。
黒く歪んだ無数の手が、闇の中から飛び出してきた。
亡霊のように伸び、ソウタへと襲いかかる。
ソウタ(叫びながら):「や、やめろォォォーー!!!」
【目覚め】
ソウタは、息を荒げながら飛び起きた。
涙で濡れた目。
冷や汗でびっしょりの体。
呼吸が乱れ、胸が激しく上下していた。
窓の外はすでに赤く染まり、沈みゆく太陽の光が寮の部屋をオレンジ色に照らしていた。
数メートル先のベッドには、カイエルが座っていた。
静かに、彼を見つめている。
カイエル(小声で):「…また悪い夢?」
ソウタはすぐに答えなかった。
震える手で顔をぬぐい、深く息を吐いた。
カイエルは視線を落とし、少し躊躇いながらも口を開いた。
カイエル:「ソウタ…質問、してもいい?」
ソウタ:「え? うん…」
カイエル:「君の…ご両親のこと。」
カイエル:「ずっと聞けなかったんだ。悲しませたくなくて…」
ソウタは驚いたように彼を見た。
ソウタ:「…悲しませる? なんで…?」
カイエルは真剣な表情でソウタを見つめ、そして視線を膝の上に落とした。
両手の指をぎゅっと組みながら、ぽつりと呟いた。
カイエル:「…毎晩なんだよ、ソウタ。」
カイエル:「寝てる間、泣いてるんだ。」
カイエル:「うなされてる。たまに『お母さん』って呟いたり…」
カイエル:「『お父さん』って呼んだりもする。」
カイエル:「それから…『弟』って言ってたこともあった。」
部屋に、沈黙が落ちた。
ソウタはゆっくりと視線を落とした。
その瞬間——
記憶が、彼の胸を打った。
日本の街並み。
家。
母の声。
父の小言。
手を繋いで笑っていた、小さな笑顔。
そして——すべてが、消えた。
すべてが、夢から覚めたように消えた。
だが、痛みは残った。
想像以上に、深く、鋭く。
ソウタ(無理に笑いながら):
「…ほとんど、何も思い出せないんだ。」
「記憶喪失だったって聞かされた。」
「目が覚めたら…もうこの街にいて、ヴァン・アウレンハルト男爵に世話されてた。」
カイエルは黙って聞いていた。
ソウタ(天井を見上げながら):
「でもさ…時々思うんだ。」
「家族は、今でも俺のこと覚えてるのかなって。」
「探してくれてるのかなって。」
ソウタ(少し間を置いて):
「…でも、きっと違う。」
「もう…俺のことなんて、忘れたんだろうな。」
苦く、重い沈黙が部屋を満たした。
だがその時、カイエルが立ち上がった。
決意のこもった表情で、ソウタのベッドの端に腰掛け、正面から彼を見つめた。
カイエル:
「そんなこと、言わないで。」
「僕なら、絶対に忘れないよ。」
「もし君がいなくなったら…世界の果てまで探しに行く。」
カイエル(笑顔で):
「だって、君は本当にすごい人だから。」
ソウタは驚いたように彼を見た。
そして、久しぶりに——心の底から、微笑んだ。
【夜 — アカデミー地下・三年生訓練場】
上階の廊下は、すでに闇に包まれていた。
ほとんどの生徒は部屋で眠っていた。
しかし、地下では——夜がようやく始まろうとしていた。
三年生用の訓練場。
結界の円と魔力制御の壁で補強された広い空間には、天井付近に浮かぶ結界灯のみが淡く光を放っていた。
空気は重く、緊張に満ちている。
即席で設置された観覧席には、ほぼ百人近くの生徒たちが詰めかけていた。
一年生、二年生、三年生。
皆が集まり、囁き合い、笑い、そして賭けをしていた。
「エリアス、頑張れー! 真の祓魔師ってやつを見せてやれ!」
「新入りなんて、十秒ももたないだろ!」
観客の声援は明らかだった。
圧倒的に——エリアスを支持していた。
ソウタは脇の扉からゆっくりと入ってきた。
心臓は激しく脈を打ち、冷や汗が背中を伝う。
その時——
誰かが後ろから肩を抱いた。
ジュノ(穏やかに微笑んで):
「心配すんなって、ソウタ。」
ソウタが振り返ると、いつものように落ち着いたジュノの笑顔があった。
ジュノ(親指で後ろを指差しながら):
「みんな応援してるぞ。」
ソウタは指差す方向を見た。
——そこには、彼らがいた。
・リッシア、小さなナイロを腕に抱き、真剣な眼差し。
・カイエル、腕を組みながら静かにうなずく。
・ヴィエル、いつも通り落ち着かないが、それでもしっかり立っていた。
人数は少なかった。
たった四人と一匹の狐。
——でも、その時のソウタには、それだけで十分だった。
ソウタ:「ありがとう…」
その言葉を口にした直後、場内に大きな声が響いた。
???:「注目ーッ!」
三年生の高身長の男子が、闘技場の中央で手を挙げた。
アナウンサー:
「今より、決闘を開始します!」
「両者、戦闘エリアにお進みください!」
ざわめきが一層強くなり、観客の一部は席を立って視界を確保し始めた。
ソウタは唾を飲み込んだ。
彼の足は自然と中央へと進んでいく。
そこには、すでにエリアス・フォン・ダルヴァインが待っていた。
高貴な立ち姿。
腕を下げ、自信に満ちた顔。
——傲慢さすら漂う、その表情。
エリアス(目を横に向けながら):
「倒れる前に、少しは楽しませてくれるといいな。」
ソウタは答えなかった。
ただ前に立ち、もう一度唾を飲み込み、深呼吸をした。
視線を上げ、戦場、観客、天井、結界の円、そして——仲間たちを見た。
その瞬間、緊張はあったが——心の中で何かが定まった。
もう、準備はできていた。
アナウンサー(声を張って):
「決闘開始! ルールは単純!」
「どちらかが降参、もしくは戦闘不能になった時点で終了!」
「唯一の禁止事項は——殺害行為!」
その言葉に、会場からは納得のざわめきが起きた。
両端から、補助の男子生徒二人が走ってくる。
一人はエリアスへ、もう一人はソウタへ。
彼らの手には、強化結界で作られた訓練用の木剣が握られていた。
刃はなくとも、十分な威力を持つ武器だ。
エリアスは余裕の笑みを浮かべ、軽く手首を回して剣を構える。
ソウタは両手でしっかりと受け取り、真剣な眼差しで握りしめた。
アナウンサー:「配置につけ!」
二人は一歩前へ進み、円の中央に立った。
わずか五メートルの距離で、互いに向き合う。
アナウンサー(手を高く上げ):
「始めッ!」
カァン!!
乾いた開始の音が響き、観客たちの歓声と混ざり合った。
——エリアスが、即座に飛び込む。
剣を振り上げ、一気に間合いを詰めてくる。
彼の武器は、紫黒のオーラに包まれていた。
それは彼の生まれ持つ力、霊圧の現れ。
ソウタは、咄嗟に木剣を交差させて防御。
ガッ!
衝撃で足が滑り、何歩か後ろへと押し戻される。
床の上で足が擦れ、バランスを保つのがやっとだった。
エリアス(笑いながら): 「これで終わりかよ、“男爵の神童”さんよ?もっと面白いもん見せてくれよ!」
再び攻め込んでくる。低い突きのあと、水平の斬撃。
ソウタはギリギリで後退し、かろうじて避ける。
次の一撃は肩をかすめ、体勢を崩した。
ソウタ(心の声): 「速い…それに、強い!」
エリアスは間を与えない。
彼の動きは、何年もの訓練によって磨かれた正確無比な連撃。
まるで殺しの舞のように、美しく、そして致命的だった。
ソウタはただ本能で後退し、受け流し、避けていた。
だが、このままでは長く持たない。
何か、しなければ。
その瞬間、ソウタは素早くしゃがみ込み、地面の砂を一握り掴んだ。
そのまま反撃するように、砂をエリアスの顔めがけて投げつける。
エリアス(驚いて): 「なっ——!?」
砂が目に入り、エリアスは後退しながら咳き込む。
ほんの一瞬の隙。
だが、ソウタにとっては十分だった。
彼はすぐさま距離を詰め、腹部に触れるように素早く手を当てた。
小さな赤い火花が走る。
ソウタ(小声で、静かに): 「クロス。」
そしてすぐに跳ねて後退し、ポケットから小さな石を取り出す。
それは戦闘前に用意していたものだった。
左手に握り、蒼いオーラがじわじわと石を包み込む。
ソウタ(小声で): 「ドット。」
石は彼の周囲をゆっくりと浮遊しながら回転し始める。
振動し、力を溜めていく。
エリアスは怒りをにじませながら砂を払っていた。
エリアス: 「この…卑怯な野郎…!」
そして、正面を見た瞬間——
ビュンッ!
石が銃弾のように飛び出し、クロスで印をつけた腹部へ一直線に突き進む。
ズドンッ!!
エリアスの体が後方へ吹き飛び、地面を転がっていく。
数メートルも滑り、苦悶の声と共に止まった。
一瞬、場内は静まり返った。
そして——
「今の何!?」 「吹き飛ばされたぞ!」 「石なんて見えなかった!」
ソウタは息を荒げながらも、その眼差しは揺らがなかった。
確かな覚悟がそこに宿っていた。
エリアス(立ち上がりながら、怒りを込めて): 「それが…お前の“特別な能力”ってわけか。面白ぇ…」
再び剣を構え、今度は全身から異様な霊圧を解き放ち始める。
まるで見えない嵐が部屋中を圧倒するようだった。
観客の一部はその圧力に身を縮め、鳥肌を立てる。
エリアス: 「じゃあ…遊びは終わりだ。」
その霊圧はさらに拡大し、空気を震わせる。
ソウタは歯を食いしばり、剣を握り直す。
数秒の沈黙。
すべてが極限の緊張に包まれた——
ドオオオオオオン!!!
雷鳴のような爆音が響き渡り、地下の壁が震えた。
地面が揺れ、天井が軋み、漆喰と石の破片が降ってくる。
悲鳴が上がり、生徒たちは後ずさる。
エリアス(警戒しながら): 「な、なんだ…!?」
ソウタはなんとか踏みとどまり、浮遊していた石は無力に足元へと落ちた。
天井の一部に亀裂が走り——
そこから赤い光が差し込んでいた。
それは、灯りの光ではない。
——炎だ。
「襲撃!?」 「うそだろ…!」
「全員、ここから出ろッ!!」
場は一気に混乱に陥る。
生徒たちは唯一の出口、上階への階段へと殺到した。
ソウタも人波に押されながら走る。
すぐ隣では、リッシアがナイロを抱えて必死に走っていた。
カイエルは後ろを振り返りながらヴィエルを探している。
ジュノはソウタの背中を押し、後れを取らせまいとしていた。
皆で階段を駆け上がり、学園の西翼へと繋がる扉を抜けたその先に——
地獄が、あった。
炎に包まれた廊下。
崩れた壁。
響く悲鳴。逃げ惑う人々。
そして——全ての至る所に、呪詛を纏ったフード姿の襲撃者たち。
ソウタはその場で立ち尽くす。
あまりにも凄惨な光景が広がっていた。
教師の一人が、倒れた柱のそばで襲撃者と取っ組み合いをしていた。
廊下の反対側では、一人の女生徒が壁に押し付けられ、首を締め上げられ——
やがて動かなくなった。
床は、赤く染まっていた。
カイエル: 「こんなの…嘘だろ…大虐殺じゃないか…!」
ジュノ(怒りに満ちて): 「騎士団はどこだ!?学園長は何してる!?」
後ろでは、リッシアがナイロをしっかりと抱きしめていた。
ナイロは毛を逆立て、まるで小さな守護獣のように唸っている。
ソウタは唾を飲み込む。
足が震えていた。だが、拳は強く握りしめられていた。
これはもう…決闘じゃない。
訓練でもない。
——混沌だった。
ジュノ(叫びながら): 「ソウタ!しっかりしろ!ここから逃げなきゃ!!」
ソウタはまばたきをした。
混沌の只中で、体が動かない。
だが——
ジュノの叫びが、雷鳴のように彼を突き動かした。
カイエル: 「行くぞ!こっちだ!!」
全員が中央の廊下へと駆け出す。
煙がすでに至る所に立ち込め、苦痛の叫びが壁に反響していた。
カチャッ!
「危ない!!」
側道から二人のフード姿の襲撃者が飛び出してきた。
そのうちの一人が、遅れて走っていたヴィエルに向かって短剣を突き出す。
「ヴィエル!!」
ソウタは動けなかった。
だが——ジュノは動いた。
彼の右腕が一瞬で硬化し、金属のように輝く灰色に変化する。
カンッ!
短剣がその腕に当たり、鋼のように弾かれた。
ジュノ(歯を食いしばって): 「この子には…指一本触れさせねぇ!」
左腕も硬化させ、素早く回転しながら拳を叩き込む。
襲撃者の一人は吹き飛ばされ、炎に包まれた壁へと突っ込んで崩れ落ちる。
二人目が反撃しようとするが、ジュノは硬化した前腕で攻撃を防ぎ、押し合いに入る。
ジュノ(仲間たちに向かって): 「走れ!早く行け!!俺はあとで追いつく!!」
ソウタ: 「だめだ!ここに置いていけない!!」
だが、カイエルが強くソウタの腕を掴んだ。
カイエル: 「時間がない、ソウタ!助けを呼んで戻ってくるぞ!」
ソウタは歯を食いしばる。胸が震え、本能は戦えと叫んでいた——
だが身体は、仲間と共に走り出していた。
燃え上がる廊下を駆け抜け、崩れた扉を飛び越えて——
そしてついに——
彼らは外へ出た。
冷たい夜風が、現実の冷たさを叩きつける。
皆、咳き込みながら地面に倒れ込む。
ヴィエルとリッシアは膝をつき、苦しそうに咳をし続ける。
カイエルも両膝に手をついて喘いでいた。
星が瞬く空の下、
その背後では——学院が燃えていた。
ソウタは突然振り返る。
目は必死で何かを探していた。
ソウタ: 「どこだ…?誰かいないのか…!?どこに助けが…!?」
次々と生徒たちが外へ出てくる。
怪我を負った者、泣いている者、混乱する者たち——
だが、その中にジュノの姿はなかった。
ソウタ(震えながら): 「いやだ…また…また何もできずに終わるなんて…いやだ…!」
彼はきびすを返すと、燃える建物へと一歩踏み出す。
戻るつもりだった。
だが、その肩に——誰かの手がそっと置かれた。
???: 「落ち着け。」
???: 「もう、大丈夫だ。」
その声は穏やかだった。
優しく、そして——
燃え盛る炎の中にありながら、不思議と温かい光のようだった。
ソウタはゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは——
カエン・イツキだった。
王直属の祓魔師の制服を纏い、
漆黒の瞳には炎が映り込んでいた。
その佇まいには、恐れの欠片もなかった。
彼は何も言わず、ゆっくりと学院の入口へと歩き出す。
ソウタは動けなかった。
ただ、見つめることしかできなかった。
カエンは手を差し出した。
すると、周囲の炎がふわりと浮かび上がり、
まるで命を持つかのように揺らめきながら、壁から離れ——
一粒一粒が彼の身体に吸い込まれていく。
彼の歩みは静かだった。
神聖さすら感じさせるような、ゆっくりとした足取り。
フードを被った襲撃者たちが彼に気づき、襲いかかろうとした。
——それは、致命的な判断だった。
カエンは腕を一振りしただけで、
見えない熱波が放たれた。
襲撃者たちはまるで人形のように空中に吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
だがカエンは足を止めない。
次々と敵をなぎ倒しながら、
歩みを進めるたびに、彼の後ろでは火が消えていった。
遠くからその姿を見つめていたソウタは、
肌を刺すようだった夜の熱が——
まるで希望のように、優しく変わっていくのを感じた。
【数時間後 — 首都の街路、学院の前】
空が徐々に明るくなってきた。
街の屋根の間から、朝の光が差し込む。
石畳の通りはまだ灰と血で汚れていた。
半壊した学院の前には、
数十人の生徒や教師たちが、道の端に敷かれた毛布や直接地面に座り込んでいた。
周辺の家々は避難済みで、王国の騎士たちが秩序を守り、負傷者の手当てをしていた。
遠巻きに見る市民たちは、不安と好奇心の入り混じった表情を浮かべている。
ソウタたちのグループは、学院の正門から少し離れた噴水のそばにいた。
ヴィエルとリッシアは時折咳き込んでいた。
吸い込んだ煙の影響がまだ残っているのだろう。
カイエルはソウタの隣で、疲れきった様子で座り込んでいた。
カエン・イツキはそのすぐ傍に立ち、
腕を組みながら、崩れた学院の残骸をじっと見つめていた。
火は鎮火し、襲撃者たちは倒された。
だがその夜、別の「闇」が静かに燃え上がったのだった。
その時——
朝焼けを破るように、馬のひづめの音が響いた。
二頭の馬が、石畳の道を全速力でこちらへ駆けてくる。
一人は肩まで伸びた長髪で、カエンと同じ制服を身にまとっていた。
もう一人は——
漆黒の重厚な鎧に身を包み、左肩には白い十字、
そしてもう片方の肩には堂々としたマントを纏っていた。
その姿を見たカイエルは、ピタリと動きを止めた。
カイエル(小声で): 「あの鎧は……」
馬たちはグループの目の前で止まり、
朝露で濡れた石畳に、カツンと力強い蹄の音を響かせた。
最初の男が、優雅な動作で馬から降り立った。
二人目の騎士は、馬から降りようとして派手につまずいた。
石畳でブーツが滑り、あわや顔面から落ちそうになったが、なんとかギリギリで踏みとどまった。
顔は真っ赤に染まっていた。
ライゲン(どもりながら): 「ひ、ひ、ひ…こんにちは、カ、カエン…お、お、お伝えしたい重、大事なメッセージが…」
ケンシン(笑いながら): 「ライゲンが言いたいのは、ソーレン・ミカゲが君を探してるってことさ。」
カイエルは驚いて立ち上がった。
カイエル: 「え、ソ、ソーレン・ミカゲ!? 黒騎士団の隊長!?」
皆が彼を見た。
リッシアは眉をひそめ、ソウタは横目で彼を見た。
カイエル(焦りながら): 「い、いや、別にファンってわけじゃ…なくてさ…!
た、ただあの人は王国で一番強い騎士だって…!」
顔を背けながら、耳まで真っ赤になっている。
カエンは楽しそうに微笑んだ。
ケンシンはチラリとライゲンを見て言った。
ケンシン: 「こいつ、ライゲンにそっくりだな。もしかして親戚か?」
ライゲンはまだ固まったまま、視線を地面に落としている。
その耳はまるでトマトのように赤く染まっていた。
カエン(ため息混じりに): 「でも、なんでソーレンが俺に? あいつ、俺のことほとんど我慢してるだけだぞ…」
ケンシンはそっと耳元で何かを囁いた。
ソウタは聞き取ろうとしたが、ただの微かな囁きしか分からなかった。
だがその言葉を聞いた瞬間、カエンの表情が一変した。
彼は皆に向き直り、真剣な顔になった。
カエン: 「俺は城に戻らないといけない。
今回の襲撃の件はすでに各家族に伝わってるから、すぐに迎えが来るはずだ。
もう安全だ。しばらくは騎士たちと一緒にいろ。」
ソウタ: 「カエン…」
カエン: 「大丈夫だ。また会えるさ、ソウタ。」
彼はケンシンと共に馬に乗り、石畳の小道を駆け抜けていった。
煙の残る街の中へと姿を消していく。
そして、朝日が都の屋根を照らし始める頃——
新たな物語の幕が開かれようとしていた。
その静寂を破るように、遠くから一つの叫び声が響いた。
???: 「ソウターーーッ!!」
灰の残る石畳に、蹄の音が激しく鳴り響く。
煙の向こうから、一人の騎手が全速力で駆けてくる。
カイエル(眉をひそめて): 「えっ…?」
ヴィエル(困惑して): 「誰、あれ?」
馬が目の前で急停止し、砂埃を巻き上げた。
騎手は勢いよく馬から飛び降り、血相を変えて駆け寄ってきた。
ラゼク・ミリオンだった。
ラゼク(息を切らして): 「みんな無事か!? ソウタ!? カイエル!? リッシア!? ヴィエル!?」
一同は唖然として動けなかった。
リッシア(警戒しながら): 「ラゼク…? なんでここに?」
カイエル(小声で): 「あれって、この前モノ売ってた商人じゃね?」
ヴィエル: 「うん…そんなに仲良かったっけ?」
ラゼクは彼らの言葉を無視し、まっすぐソウタを見つめていた。
ソウタ(驚きながら): 「僕たちは…大丈夫。少なくとも、生きてるよ。」
視線を横にずらすと、
ジュノが医師たちに手当てを受けている姿が目に入った。
胸に包帯が巻かれ、ポーションが手渡されていた。
ソウタ(小声で): 「一番ひどかったのは…ジュノだ。」
ラゼクは彼の言葉に表情を強張らせ、拳を握りしめ、歯を食いしばった。
だが次の瞬間、軽く瞬きをして、いつもの調子に戻った。
ヴィエルはまだ不思議そうにラゼクに尋ねた。
ヴィエル: 「で、なんで私たちがここにいるって分かったの?」
ラゼク(明らかに動揺しながら): 「あっ! ああ、えっと……その…街の中心にいたら、すごい煙が見えてさ。
で、このあたりって学院の場所だよなって思い出して——
君たちがそこの生徒って知ってたし、それで……来てみたんだ!」
肩をすくめて、営業スマイルを浮かべながら続ける。
ラゼク: 「良い商人は、お客の無事を第一に考えるものさ。えへへ…信頼って大事でしょ?」
一同は沈黙したまま、彼を見つめた。
カイエル(小声で): 「今の…かなり怪しくなかったか?」
リッシア: 「うん、怪しすぎ…」
だがソウタはふっと微笑んだ。
ラゼクの表情には、どこか見覚えのある本気さがあった。
それはただの商人としての関心とは思えないほど、必死なものだった。
その時、再び石畳に蹄の音が響いた。
一台の上品な馬車が急停止し、砂埃が舞い上がった。
御者席にはリリエンが座っていた。
手綱を強く握りしめ、顔にははっきりと不安が滲んでいた。
馬車が完全に止まると、リリエンはすぐに手綱を放して飛び降り、
ソウタの元へと駆け寄る。
何も言わずに、彼を力強く抱きしめた。
リリエン(震える声で): 「よかった…本当によかった……無事で……」
その抱擁には、確かな温もりがあった。
まるで姉のような、母のような…
強くて優しいその腕に包まれて、ソウタはしばらく硬直していた。
だが次第にその温かさに心が溶かされ、
目を閉じて、その抱擁を受け入れた。
守られている——そう感じた。
その直後、馬車の扉が勢いよく開かれた。
バロン・エドガー・ヴァン・アウレンハルトが、
心配そうな表情で馬車から飛び降りる。
バロン: 「ソウタ!」
彼は駆け寄り、何も言わずにソウタを抱きしめた。
大きな手で彼の背をしっかりと包み込む。
その瞬間、ソウタの胸にこみ上げるものがあった。
異世界に来て以来、初めて感じた——
「本当に、守られている」
「本当に、誰かと一緒にいる」
バロン(感情を押し殺しながら): 「怪我はないか? ひどい目にあってないか? 本当に無事か?」
ソウタ: 「大丈夫…ちょっと汚れてるけど。かすり傷だけ。」
バロンは深く安堵の息を吐き、彼の顔を見つめ、強くうなずいた。
バロン: 「さあ、今すぐ邸宅へ戻るぞ。」
だが、ソウタはすぐに首を振った。
ソウタ: 「…行けません。まだ、皆を残して行きたくないんです。」
すると、リッシアが一歩前に出て、やわらかく微笑んだ。
リッシア: 「心配しないで。私は都に屋敷があるの。
ヴィエルとジュノを連れて行って、しっかり休ませるわ。」
カイエルもうなずいた。
カイエル: 「俺も親戚の家に行けるから、大丈夫だよ。心配しないで。」
そして、いつもの穏やかな笑みを浮かべながら、ラゼクが言った。
ラゼク: 「良い商人ってのは、客の世話を忘れないけど……
それ以上に、足を引っ張らないことも大事なんだ。
安心して行ってこい。」
ソウタはもう一度迷ったが、
最後には静かにうなずいた。
少しだけ、心が軽くなっていた。
彼はリリエンとバロンと共に馬車へ乗り込んだ。
車輪がゆっくりと動き出す。
ソウタは窓から外を見つめた——
空は、少しずつ明るくなり始めていた。
この日、彼は何かを失った。
けれど、それと引き換えに手にしたものもあった。
——抱きしめてくれる腕。
——帰る場所。
——そして、戦う理由。
【作者より】
読んでくれてありがとう!
今回はちょっと感情の波が激しい回でしたね…!
ソウタも少しずつ強くなっていきます。
次回もぜひ楽しみにしててください!
またね!




