知らない世界
「ソウタ……」
ソウタはまだ混乱していたが、ようやく名乗った。
少女は彼の様子をじっと見つめ、小さく頷くと手で合図した。
「こっち。座ったほうがいいわ。」
彼女に導かれ、酒場の静かな隅にある空いた席へ向かった。ソウタは黙ってその後ろをついていった。頭の中はまだ霧の中にいるようで、すべてが現実感を欠いていた。
椅子に腰を下ろすと、木がぎしりと音を立てた。まもなく少女が湯気を立てるカップを持って戻ってきて、彼の前に置いた。甘くて湿った土のような香りがした。
「ありがとう……」ソウタは両手でカップを持ちながら呟いた。
少女はソウタの向かいに腰を下ろし、肘をテーブルに置いて静かに彼を見つめていた。
「私はリッカ。ここの店で働いてるの。今朝、あんたは路地裏で倒れてたのを見つけられたの。怪我はなかったけど……様子がおかしかったから、上の部屋に運ばれたの。」
ソウタはゆっくりと頷いた。聞く言葉すべてが、現実味を持たないまま胸に積もっていくようだった。
「ここは……どこ?」
「ライウェンハルト王国よ。首都のエリンドル。」
彼女の答えを反芻するように繰り返す。どの名前も、彼にとっては未知の響きだった。額に手を当て、目を閉じた。
「夢じゃないんだよな……」
リッカはすぐには答えなかった。まっすぐ彼を見つめ、やさしく言った。
「そうは思えないわね。」
ソウタはうつむき、カップから立ち昇る湯気をぼんやりと見つめた。
「何もわからないんだ……。通りを歩いてた。家に帰る途中だった。で……トラックが。誰かを助けようとして……それから、真っ暗になった。」
「トラック?何それ?」
「大きな鉄の塊……説明しても無駄かも。」
ソウタは手を動かしかけて、言葉を飲み込んだ。「とにかく、気づいたらここにいて、全部が違ってた。空気も、色も、音も。」
リッカは腕を組んで考え込んだようだった。
「話し方がちょっと変だけど、言葉は通じてるし……言ってることも、どこか変。けど、ちゃんと理解はできてる。……不思議ね。」
ソウタは乾いた笑いを漏らした。
「全部が自分のものじゃない気がする。身体さえ、自分のものじゃないみたいで。」
「自分らしく感じないの?」
「……うん。まるで、他人の世界を見てるだけみたい。」
リッカは少しだけ表情を曇らせた。最初の無邪気な興味から、今は何かを察したようなまなざしに変わっていた。
「ショックのせいかもね。でも、時間が経てば少しずつ……」
ソウタは黙ってカップの縁をなぞった。すっかり冷めたお茶が、妙に心地よかった。
リッカはしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。
「今夜はここに泊まっていいわ。明日になったら、どうするか決めたらいい。お金もいらない。見たところ……悪い人には見えないから。」
ソウタは目を伏せた。何もかもを失ったはずなのに、その一言が胸にしみた。
「ありがとう。」
リッカは微笑んだ。
世界はまだ混乱していた。けれどその中で、ソウタは初めて小さな安らぎを感じた。
その夜、眠りは訪れなかった。
ソウタは寝台の上で何度も寝返りを打った。下の階からはリッカの声や客の話し声が微かに聞こえてくる。どうしても目を閉じていられなかった。
彼は静かに起き上がり、部屋を出た。
ちょうどその瞬間、右側の窓から瓶が投げ込まれた。床に叩きつけられ、ガラスが砕ける音と共に炎が一気に広がった。
「っ……!」
思わず後ずさりするソウタ。その直後、下から悲鳴が上がった。
「火事だ!燃えてるぞ!」
ソウタは階段を駆け下りた。煙が立ち込め、酒場の一階はすでに炎に包まれていた。人々が叫び、走り、混乱の中にあった。
「リッカ!」
ソウタの声が響いた。
リッカは年配の女性を助け起こしていた。ソウタに気づき、叫んだ。
「裏口よ!みんなを導いて!」
ソウタはすぐに動いた。裏口を開け、客たちを次々と外へ避難させた。煙が肺を刺し、熱が肌を焼くようだった。
だが、全員がなんとか外へ出ることができた。
外に出たソウタは、肩で息をしながら膝に手をついた。リッカが近づいてきた。顔はすすけ、腕に深い切り傷があった。
「大丈夫……?」
ソウタが近づきながら問う。
「ガラスで切っちゃった……大したことないけど。」
だがその表情は、痛みをこらえているように見えた。
「ダメだ、それ、ひどい。誰かに診てもらわなきゃ。」
「平気よ、こんなの慣れてる。」
「いや、そういう問題じゃない。火もまだ広がってる。俺が助けを呼んでくる。」
リッカは静かに頷いた。
「みんなと一緒にいて、無理しないで。」
ソウタはそう言って立ち上がり、走り出した。
街全体が混乱に包まれていた。あちこちから煙が上がり、家が燃えていた。
そして屋根の上に、影。
長いフード付きのローブを纏った者たちが、屋根の間を飛び移っていた。手に火を灯した瓶や松明を持って。
どこを見ても、火の手が上がっていた。
ソウタは足を止めた。心臓が激しく打ち鳴っていた。
この世界は、ただ知らないだけじゃない。
――今、燃えているのだ。
作者コメント
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます!
第2話では、ソウタが異世界の現実に少しずつ向き合い始めます。
そして、いきなりの混乱と火災…!
この先、彼はどんな運命に巻き込まれていくのでしょうか?
次回も読んでいただけたら嬉しいです!