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ラゼク・ミリオン

【ソルヴェンハルト王国──ライウェンハルトから三日】


ソルヴェンハルト王国は、その完璧な建築と腐敗した道徳で知られていた。首都ヴェリンデンは、白い大理石、古代の彫像、そして対称的な街路で輝いていた。しかし金色の柱の裏には、湿った通路が隠れていた。そして貴族の香水に満ちたあらゆる隅には、口を閉ざすべき物語が潜んでいた。この国では、血筋が人の価値を決めた。姓のない者は、無価値とされた。


自分の名前を発音できるようになる前から、ラゼクは男たちが来たときに黙っていなければならないと知っていた。荒々しい笑い声が聞こえたり、母親の声が腐った蜜のように甘く変わったときには、部屋から出てはいけないと分かっていた。


彼らは、ヴェリンデンにある売春宿の裏部屋に住んでいた。湿った部屋には、ゴミだらけの路地に面した小さな窓が一つだけ。布団は共有だった。おもちゃは一つもなかった。でも、母は母なりに彼を守っていた。


母「誰かに聞かれたら、洗濯をしているって言うのよ。それと、お父さんは戦争に行ったって。わかった?」


まだ五歳だったラゼクは、うなずいた。父のことを聞いたことはなかった。彼の世界は、母と部屋と登ってはいけない階段だけだった。


その部屋は、いつも湿気と古びた化粧の匂いが漂っていた。窓から差し込む光はどこか悲しく、まるで太陽さえもその場所を見るのを恥じているかのようだった。ときどき、母がカビ臭いチーズ付きの硬いパンを持ってくると、それを二人で分け合い、まるでごちそうのように食べた。他の日は、何もなかった。


ラゼクは、木炭のかけらで床に絵を描くのが好きだった。鳥、大きな手をした人、竜──見たこともないものばかりだった。彼は、外の世界には清潔な城があって、騎士たちは温かいパンを食べ、母たちは夜に泣かない世界があると想像していた。


ときどき、母が「仕事」を終えて部屋に戻ると、靴を脱いで無言で彼を抱きしめた。二人はそのまま、階下の足音と遠くの叫び声を聞きながらじっとしていた。母の抱擁はとても弱々しく、まるで強く抱きしめすぎると彼が壊れてしまうのではと恐れているかのようだった。それでも、その温もりはラゼクにとって唯一のものであり、最も愛おしかった。


別の夜には、母は泣いた。顔を彼の首に埋めて。そして彼は何も言わず、母の髪を撫でながらこう言った。


ラゼク「何か描いてあげようか?」


母「うん、お願いね、ラゼク。」


それでも、彼は母を愛していた。母が彼に話しかけるとき、その声はまるで世界に彼しか存在しないかのようだった。どんなに汚れていても、どんなに貧しく、沈黙に満ちていても、母はいつだって彼のことを「愛してる」と呼んでくれた──それがまるで彼の本当の名前のように。


ラゼクが初めてそれを経験したのは、七歳のときだった。


その日は珍しく空気が澄んでいて、大人たちの怒鳴り声も聞こえなかった。近所の子どもたちと一緒に、小川のそばで遊んでいた。水は石の間を流れ、ラゼクは手を浸して光の反射を捕まえようとしていた。


少年: 「見て!これ!」


少女: 「泥投げは禁止だよ!」


ラゼク: 「魔法を見せてあげる!」


彼は両手を閉じ、笑った。


その瞬間、小さな青い光が彼の濡れた指の間に浮かび上がった。まるで水に養われているように、チカチカと輝いていた。


最初、他の子どもたちは静かに見ていた。でもすぐに、目を大きく見開いて近づいてきた。


少年: 「おい!どうやったんだよ、それ!」


少女: 「手品?」


少年: 「もう一回やって!もう一回!」


ラゼクは興奮した。笑いながら、もう一度集中した。再び、それは起こった。青い火花が彼の手のひらの上で踊るように震えていた。


彼らはまだ知らなかった。その瞬間の純粋な共有が、理解を超えた何かの始まりであることを――。


・・・


その夜、ラゼクはいつものように床に炭で絵を描いていた。母親は裸足でベッドの上に座り、膝を抱えて彼を見つめていた。


母: 「ラゼク、今日が何の日かわかる?」


ラゼク(顔を上げながら): 「火曜日?」


母(優しく笑って): 「違うよ、バカね。今日はあんたの誕生日。」


ラゼク: 「ほんと?」


母: 「そう。もう八歳になったのよ。」


母は立ち上がり、マットレスの下から何かを取り出した。そして、誇らしげな笑顔でそれを差し出した。


それは、布の端切れでできた小さなぬいぐるみだった。ボロボロだけど清潔で、不揃いなボタンの目と、縫い目の荒い耳がついたウサギだった。


母: 「お誕生日おめでとう、私の愛しい子。」


ラゼクは驚いたようにそれを受け取った。目を輝かせながら、力強く抱きしめた。そして笑いながら部屋の中を跳ね回った。


ラゼク: 「ありがとう、ママ!ありがとう、ありがとう、ありがとう!」


母はその姿を見つめ、ほんの一瞬だけ、その目にも光が戻った。まるで、その一瞬だけ、貧しさも苦しみも存在しなかったかのように。


ラゼク: 「見てて!」


彼は座り、目を閉じて、もらったぬいぐるみの思い出を胸に強く抱いた。そして片手を伸ばし、集中した。


青い火花が再び現れた。だが今度はただの火花ではなかった。小さな、丸い形――長い耳とまるっこい体を持つ、光のウサギが空中にふわりと浮かび、ぴょんぴょんと跳ねようとしていた。


母(動かず、笑顔が崩れながら): 「…ラゼク…」


ラゼク(目を開け、嬉しそうに): 「どう?ママがくれたのに似てるでしょ!」


母は彼の前にひざまずき、肩に手を置いて、低い声で言った。


母: 「いい?よく聞いて。こんなこと、誰にも見せちゃダメよ。絶対に。」


ラゼク(困惑して): 「どうして?悪いことなの?」


母: 「ううん、悪くない。とっても綺麗よ。でもね…この国じゃ、名前のない子が綺麗なものを持ってたら――壊されるの。」


ラゼクはよくわからなかった。ただ、母が震えていたことだけは、はっきりと感じた。


光は彼の手の中で消えた。


そしてその日から、彼はその秘密を肌の下にしまい込んだ。


数日後、ラゼクはひとりで小川で遊んでいた。湿った砂の上に棒で絵を描いたり、小石を跳ねさせたり、流れに足を浸したりしていた。リラックスして、鼻歌を口ずさみながら、石の上を歩く虫を見下ろしていた。


――その時、それは起こった。


内側から突き刺すような痛みが、額に走った。目を大きく見開いたラゼク。


閃光。断片的な映像。煙…火…自分の部屋…炎の中で身をよじる人影…母親の悲鳴。


ラゼク(息を切らしながら): 「なに…これ…?」


その映像は、一瞬で消え去った。しかし痛みは残った。まるで体の奥底で何かがうごめいているかのようだった。


何が起きたのか、彼には分からなかった。ただ、胸の奥で何かが叫んでいた。


ラゼク(震えながら): 「家に帰らなきゃ…!」


走った。まっすぐに。脇目も振らず。裸足の足に石が当たるたびに痛みが走ったが、それすら感じなかった。心臓の鼓動が、足音よりも速く鳴っていた。


そして――見たのは、地獄だった。


家、いや、売春宿全体が炎に包まれていた。窓から炎が舌のように噴き出し、壁も家具も思い出も、すべてを貪っていた。


ラゼク: 「ママーッ!!」


彼は裏手に積まれた古い木箱をよじ登った。その先にある小さな窓。涙と煤で視界がぼやけたまま、そこを覗き込んだ。


部屋の中は真っ黒に焼け焦げていた。マットレスは炭と化し、あのウサギのぬいぐるみは炎に包まれ、ボタンの目が溶けかけていた。


そして――その中心に、母がいた。


彼女の体は炎に包まれていた。皮膚が焼け落ち、筋肉が露出していた。足はもう動いていなかった。でも、彼女の目はラゼクを見ていた。確かに、彼を見ていた。


口を開いた。何かを言おうとした。でも、出たのは言葉ではなく、炎と――人間とは思えぬ叫び声だった。


ラゼクはバランスを崩し、箱から落ちた。背中を地面に打ったが、痛みはなかった。


炎は、彼の中にあった。


胸の奥で、何かが焼け焦げていた。


そして彼は走った。


どこへ向かっていたのか、自分でもわからなかった。誰の声も聞こえなかった。地面の感触も、風の冷たさも、何も感じなかった。


ただ――走った。


そして、二度と――戻らなかった。


【五年後】


十三歳になった頃、ラゼクはもはや別人だった。


彼は商人や欲深いギャンブラーを騙して生き延びていた。

彼の“結界”の力を使い、カードを動かし、物を操り、わずかな仕草で結果を変える。

周囲の者たちにとって、それはただの手品や早業にしか見えなかった。

だが、実際には――それ以上のものだった。


彼は魅力的な笑みを浮かべ、どこかの金持ちから奪った上質な服を着こなし、

状況に応じて人を笑わせたり、怒らせたりする言葉の達人でもあった。

広場では、当て物ゲーム、コイン投げ、カップトリック、インチキなサイコロ勝負などで観客を惹きつけていた。


その日も、即席のテーブルの前に人だかりができていた。


ラゼク: 「さぁさぁ、どうぞどうぞ! エースを当てたら三枚の銀貨を進呈! 手品じゃないよ、みんなの目の前で!」


カードが消え、現れ、回転する。

コインが飛び交い、観客の感情もまた揺れ動いた――興奮と怒りの間で。


――その時だった。


頭の奥を鋭く刺すような感覚が走った。

今までよりもはっきりとした…明確な“視界”。


自分の姿――両腕を押さえられ、袋を頭から被せられる。

灰色の鎧をまとった兵士たち。冷たい空気。聞き取れない怒鳴り声。


ラゼク(息を乱しながら): 「ダメだ…今じゃない…!」


そして、彼らを見た。


通りの奥。鎧をまとった男が一人…さらに二人…三人。


ラゼク: 「……ちっ。」


彼はカードを一瞬で隠し、テーブルを派手にひっくり返した。


ラゼク: 「失礼します、お嬢様方ご紳士方! 本日のショーはここまで!」


怒号と銀貨を後ろに残し、彼は駆け出した。

そして、その後ろには兵士たちの追跡の声が響いた。



路地を走り、角を曲がり、果物の荷車を飛び越え、それを倒して追手を妨害する。

鼓動が激しく胸を打ち、額を汗が流れる。


そして、見つけた――木製の看板。

古びた酒場。かすれた灯りが入口の脇で揺れている。

扉は湿気と傷みでひび割れており、窓ガラスは煙に曇って何も見えなかった。


彼は扉を押し開け、つまづきながら中に入った。


中は、古びたビールと木と強いタバコの匂いに満ちていた。

客はまばらで、無言で酒を飲む男たち、隅で眠る楽師たち、空いた机の上には黒猫が座っていた。


ラゼク(息を切らし、震えた声で):

「お願いです…助けてください…追われてるんです…見つかったら、殺される…!」


その声が、店内の沈黙を破った。


全員が振り向いた。数秒間、静寂が支配した。

少年の目は、テーブルからテーブルへと泳いだ。怯え、震えながら。


カウンターの向こう側に立つ、禿げ頭で灰色の髭をたくわえた男が、静かに彼を見つめていた。

その隣には、丸い眼鏡をかけ、杖をそばに置いた細身の男が、ゆっくりとグラスを下ろした。


眼鏡の男は、わずかに指を二本動かした。


酒場の主人もまた、小さく頷き、カウンターの奥にある扉を顎で示した。


店主(落ち着いた声で):

「あっちだ。早く。」


ラゼクは一言だけ頷き、ふらつきながら駆け出した。


誰も止めなかった。誰も言葉を発さなかった。

ただ見ていた。警戒する者、無関心な者――だが誰一人、動かなかった。


ラゼクは、指定された扉を抜けた。

そこは短い廊下で、先には箱やワイン樽、空の瓶が雑多に置かれた貯蔵室があった。

彼はその中の大きな樽の後ろに身を縮め、まるで追い詰められた獣のように壁に背中を押し付けた。

息を潜め、身体の震えを抑えることができなかった。


数分後――

酒場の正面扉が激しく開け放たれ、重いブーツの足音が床を響かせた。

厳しい声が飛び交う。


兵士: 「十三歳くらいの子供を探している!痩せ型、茶色の目、街の詐欺師だ!この辺に入っていったのを見た!」


別の兵士: 「ここに入ったのか?話をしたか?」


カウンターの向こうで、店主はグラスを拭く手を止めず、面倒くさそうに顔を上げた。


店主:

「ここにはいろんな奴が出入りする。探したければ勝手にどうぞ。だが見つかるのは酔っ払いと厄介者だけだ。」


兵士は眉をひそめ、前に出ようとした――

だが、その前に眼鏡の男が口を開いた。


???:

「この店は古い。静かで落ち着いた場所だ。騒ぎを起こしたいなら、もう少し先のうるさい酒場に行くといい。」


兵士は彼を数秒間睨んだ。

その視線はまるで品定めをするようだった。

やがて、鼻を鳴らして言った。


兵士: 「ちっ…隠してるなら…」


店主:

「だったら探せばいいさ。だが、壊したものは全部払ってもらう。」


空気が張り詰めたまま、沈黙が数秒続いた。

そしてようやく、兵士たちは舌打ちしながら店を出て行った。

扉が閉まると、ギシギシと木がきしむ音だけが残った。



ラゼクはしばらく動かなかった。

樽の後ろで、体を丸めたまま、ひたすら息を殺していた。

ようやく足音が遠ざかったのを確認すると、彼はゆっくりと息を吐いた。

その手はまだ震えていた。


その時、奥から低い声が響いた。


店主:

「もう出てきていいぞ。奴らは行った。」


ラゼクはすぐには返事しなかったが、数秒後、足音を立てながらゆっくりと暗がりから姿を現した。

目は赤く、服は汗で湿り、胸元で両手を握りしめていた。


ラゼク(おそるおそる):

「どうして……どうして助けてくれたんですか…?」


店主:

「兵士は嫌いなんだよ。特に、子供を追い回すような連中はな。」


???: (眼鏡を直しながら)

「それに、こんなに面白そうな子を見殺しにするなんて、もったいないだろう?」


ラゼク:

「あなたたちは…誰ですか…?」


グレント:

「グレント。グラスを磨くだけの男だ。質問はしない。」


エスモンド(軽く会釈しながら):

「エスモンド・ヴァエン。かつてはいろいろやってたが、今は酒を飲んで観察するだけだ。」


グレント:

「ここに置いてやってもいいが、面倒ごとは持ち込むな。寝床は倉庫。うるさくしたら追い出す。」


エスモンド(肩をすくめて):

「でも、今までよりはマシな場所だろう?」


ラゼクは静かに頷いた。

この世界に自分の居場所があるかはわからない――

だが、この夜、初めて“屋根の下”があった。

それだけで、十分だった。


【二年後】


酒場の暗さは変わっていなかったが、ラゼク自身はまるで別人だった。

彼は今や十六歳近く、髪は少し伸び、笑みには鋭さが宿っていた。

シャツのボタンは開けたまま、袖はまくり上げ、借り物のジャケットを自分流に着こなしていた。


彼の目の前には、高級そうな服を着た商人が歯を食いしばって座っていた。

テーブルの上には数枚の硬貨。


ラゼク:

「言いましたよね。赤にかけるって。残念ながら、今回は黒じゃなかったんです。もう一回いきます?」


商人:

「これは不正だ!何か仕掛けがあるに違いない!」


ラゼク(肩をすくめて、にやりと笑う):

「それは私の魅力的な瞳のせいでしょうか?それとも、この香水の香りですかね?」


怒りに満ちた商人はテーブルを乱暴に叩き、舌打ちしながら出ていった。


エスモンド(バーの端で、静かにお茶をすする):

「随分と腕を上げたな。」


ラゼク(片眉を上げて):

「それって…褒めてくれてるのか?」


エスモンド:

「事実を言ったまでだ。昔のお前は、靴が破れただけで泣いていた。今は貴族を泣かせるようになったか。」


ラゼク(軽く笑いながら):

「全部、あんたのおかげだよ。俺にケッカイの使い方と…あの“視え”の力を教えてくれた。」


エスモンド(視線を逸らしながら):

「私はただ、お前が死なないようにしただけだ。残りは全部、お前自身の力だ。」


ラゼクは微笑んだ。

内心ではわかっていた。

グレントとエスモンドがいなければ、自分はとっくにこの世にいなかっただろう、と。


グレント(奥から怒鳴る):

「そのテーブルを拭け、バカ者。豚が唾を飛ばして汚したぞ。」


ラゼク:

「はーい、親父様。今すぐ。」


布を取りながら、ラゼクはふと思い出した。

あの火のこと。燃えるぬいぐるみ。

そして――今、初めて違う炎が胸の奥で灯っているように感じた。


その時だった。


鋭い痛みが頭を貫いた。

閃光のような視界。

まるで記憶のようで、しかし未来のようでもあった。


グレントが、カウンターの上に倒れている。

頭部は潰れ、血がボトルの間を流れていた。


エスモンド――

彼は壁にもたれ、両脚と片腕を失っていた。

苦しげに息をし、眼鏡は割れ、目は虚ろだった。


そして…酒場は――燃えていた。


闇の中を歩く、一人の兵士。

彼はラゼクの首を掴み、持ち上げる。

剣が光を放ち、そして――黒。


ラゼクは布を落とし、頭を両手で抱え込んだ。

息が荒くなり、後ずさる。


エスモンド(カップを置き、立ち上がる):

「ラゼク!?どうした!?」


ラゼク(息を切らしながら):

「来る…!奴らが来る…殺される…!酒場が…燃える…!」


グレント(奥から、低い声で):

「何の話だ?」


エスモンドはラゼクの肩を優しく掴み、落ち着かせるように言った。


エスモンド:

「落ち着け。見えたのか?何を…?」


ラゼクは喉を鳴らし、息を整えながら、すべてを語った。

死体。火。兵士。そして…終わり。


沈黙が落ちた。


グレント(低く、しかし揺るぎない声で):

「この店は俺のすべてだ。誰が燃やそうと、俺の死体を踏み越えなきゃ無理だ。」


エスモンド(静かに頷いて):

「安心しろ。今回は先手を取れる。お前のおかげだ、ラゼク。」


ラゼクはうつむきながらも、胸の奥に微かな誇りを感じた。

初めて、自分の力が“生きるため”だけではなく、“守るため”にあったのだと。


【その夜】


ヴェリンデンの夜は静かに更けていった。

酒場の中には、グレントとエスモンドだけが残っていた。

グレントはいつも通りにグラスを拭いており、エスモンドはカウンターでゆっくりと濃い酒を飲んでいた。杖は脇に立てかけてある。


エスモンド(ぼそりと):

「今夜はやけに静かだな。」


グレント:

「静かすぎる。」


ドアが突然激しく開かれた。

蝶番が悲鳴を上げ、冷たい風と共に、一人の男が中に入ってくる。

黒い甲冑に金の装飾を施したその男は、肩にボロボロの赤いマントをかけ、長剣を腰に下げていた。


???:

「こんばんは。」


その声には落ち着きがあったが、底には鋭い殺意がにじんでいた。


エスモンドはゆっくりと杯を置き、グレントはグラスを片付けて前に出た。


グレント:

「お前は誰だ?」


???:

「ソルヴェンハルト王国近衛隊、ダリオン・フェル司令官。

指名手配中のラゼク・ミリオンという少年を捜している。」


グレント:

「聞いたこともねぇな。」


ダリオン(さらに一歩踏み出しながら):

「今日の昼に詐欺を働いたとされる商人が証言している。

この店で働いていたと語る者もいた。

それに…彼はこの国の有力な政治家の庶子であり、本来なら貴族の財産とみなされる。」


エスモンド(低く、嫌悪を込めて):

「財産…か。」


ダリオン:

「証人は複数いる。実際にこの店の前で騙された商人の証言もある。」


その言葉を聞いたグレントは、カウンターを回り込み、ガラガラと音を立てて木製の長い棍を取り出し、構えた。


グレント:

「ここにはいねぇ。だからさっさと帰るんだな。」


ダリオン(剣を抜きながら):

「ならば、口を割らせてもらおう。」


――一瞬だった。


グレントが棍を振り下ろすと同時に、ダリオンの剣が斬り上げた。

金属と木がぶつかる甲高い音。

ダリオンは身を翻し、膝蹴りをグレントの腹に叩き込んだ。


グレントは呻きながら後退するも、すぐに反撃の構えを取ろうとした。

だが遅かった。


シュッ――


鋭い突きが、胸を貫いた。


グレント(口から血を吐きながら):

「この…野郎…」


そのまま倒れ、カウンターにぶつかってから床に崩れ落ちた。


エスモンドは無言のまま立ち上がり、コートを脱ぎ、漆黒の細身剣を抜いた。

杖を足元に残し、前へと歩み出る。


エスモンド:

「それは…してはならんことだったな。」


ダリオンは不敵に笑い、再び斬りかかる。

刃と刃が激しくぶつかり合い、火花を散らす。


エスモンドは最初の一撃を紙一重でかわし、胴をひねりながら腹部にケッカイを纏わせた剣を突き立てた。


ズドン――!


ダリオンは数メートル吹き飛び、テーブルをいくつも破壊して倒れ込んだ。


エスモンドはその隙に間合いを詰めて攻撃を繰り出す。

だが、ダリオンは素早く起き上がり、剣を交差させて次の攻撃を防ぎ、鋭い一閃で反撃。


シュパッ!


エスモンドの左腕が宙を舞い、血が噴き出した。


エスモンド:

「くっ……!」


痛みと出血に体がよろける。杖にすがりながらも、歯を食いしばって前を見据える。


ダリオン:

「もう限界だな。」


エスモンド(苦しげに笑って):

「いや…俺に必要なのは、少しの時間だけだ。」


彼は目を閉じ、残った力でケッカイを解放する。


ズゥン――


空気が震え、見えない衝撃波が部屋を包んだ。

ダリオンは膝をつき、剣が手から滑り落ちる。


その隙に、エスモンドは振り返り、ふらつきながらも裏口へと走る。

貯蔵庫の奥、樽の陰に隠れていたラゼクが、震えながら顔を上げた。


エスモンド:

「今だ…!逃げるぞ!」


片腕でラゼクを引っ張り、外へと飛び出す。

そこには雨の中、一本の馬が繋がれていた。


エスモンドはラゼクを持ち上げ、馬の背に乗せると、思い切り尻を叩いた。


ヒヒィィィ――!


馬は勢いよく駆け出す。


エスモンド(最後の力を振り絞って叫ぶ):

「生きろ…!」


ラゼク:

「エスモンド――!!」


しかし、手綱はなく、馬は止まらない。

彼はただ振り返るしかなかった。


――そして、見た。


エスモンドが立っていた。

血を滝のように流しながら、片腕で馬を見送っていた。微笑みながら。


背後に現れたダリオンが、ゆっくりと剣を突き立てる。

腹から入り、胸を貫き――最後は頭のてっぺんまで。


体が真っ二つに裂け、地面に崩れ落ちた。


ラゼクは叫んだ。


またしても…彼の“視えた未来”は、現実になった。


そしてまた、何もできなかった――。


その後の数年間、ラゼクはエスモンドの「生きろ」という願いを胸に、旅を続けていた。


ソルヴェンハルト王国の首都には近づかず、国から国へと移動しながら、商人としての腕を磨いた。

交渉術、表情の読み方、価格操作、そして自分の“視える力”を駆使して、常に一歩先を読んで立ち回った。


あの夜、エスモンドが逃がしてくれた馬は、今もラゼクと共に旅していた。

森の中で眠り、見知らぬ人の手から食べ物を得て、風のように居場所を変えて生きていた。


――そしてある日、ラゼクはライウェンハルトの地にたどり着いた。


他の国々と比べて穏やかに見えるその土地に、数日だけ商売をすることに決めた。

彼は町の中心にある賑やかな広場に小さな露店を開き、香水や小さな宝飾品、不思議な液体の詰まった瓶、他国から仕入れた奇妙な道具を並べた。


その独特な商品と話術に、すぐに人々が集まり始める。


その中に、ひときわ目を輝かせた少女がいた。

彼女は棚に並べられた香水の中から、心の中で「これだ」と思っていた――

それを、ラゼクは先に差し出した。


彼は、彼女が欲しがっているものを“視て”いた。


ラゼク:

「これですね。――紫のハート型。」


ヴィエル:

「えっ!? な、なんで分かったの!?」


ラゼク(にっこりと笑って):

「僕はね、勘のいい男なんです。」


そう言って、胸に手を当て、丁寧にお辞儀をした。


ラゼク:

「ラゼク・ミリオン。以後お見知りおきを。」


彼は同行していた少年少女たち一人ひとりと握手を交わした。

だが、そのうちのひとり――ある少年の手に触れた瞬間。


視えた。


暗闇。フードを被った男たち。

その少年が連れ去られ、叫び、縛られ、拷問されている場面が――一瞬、脳内に焼きついた。


ラゼク(心の中):

(また…だ。)


何かを言おうとした瞬間、別の少女がその少年に近づき、「一緒に買い物に行こう」と誘った。


他の子たちは香水を買い、そのまま露店を離れていった。


だが、ラゼクの視線はすでに少年の背中に釘付けだった。


ラゼク:

「…すみません。」


彼は小さく呟き、すぐに後を追った。


そして、少年の姿を発見した時には――

すでに遅かった。


その少年――ソウタは、すでにフード姿の不審者たちを追って走り出していた。


ラゼク:

「くそっ…!」


周囲を見渡し、大きめの木の棒を拾い上げる。

走る、走る、箱を飛び越え、人を避け、彼はただその未来を変えるために駆けていた。


そしてついに、ソウタに追いついたその時。

ちょうど一人のフードの男がソウタを捕らえようと手を伸ばした。


ラゼク:

「おいッ!!」


彼は持っていた棒で、迷わずその男の後頭部を思い切り殴りつけた。


バシィッ!


男はその場に崩れ落ち、動かなくなった。


ソウタ(驚いて振り返りながら):

「ラゼク!? なんでここに――!?」


ラゼク(息を切らしながら):

「後だ!お前こそ、なんでこんなとこにいるんだよ!早く逃げるぞ!」


彼はソウタの腕を強く掴んで引っ張った。


だが――その瞬間だった。


上から、フード姿の男たちが一斉に屋根から飛び降りてきた。


ドサッ、ドサッ――!


ふたりは完全に包囲された。


ソウタは懸命に反撃し、一人を殴り飛ばした。

ラゼクも棒を振り回そうとしたが、不器用で動きが遅い。


すぐに押さえつけられ、地面にねじ伏せられる。


そして――

ふたりとも捕らえられた。


【現在】


ラゼクは鎖に吊るされていた。

顔は腫れあがり、片目は塞がり、唇は切れ、息をするのも苦しい。

その前に立つ男がひとり――彼をじっと見つめていた。


フードを脱ぎ、仮面を外すその男の名はスレル。

顔は縫い目だらけで、顎の下には皮膚がなく、露出した筋肉とむき出しの歯茎が、不気味な笑みを形作っていた。


ラゼクは思った。


(…どうしてこうなったんだ…?)


エスモンドのことを思い出す。

グレントのことを思い出す。

炎、馬、市場、そしてあの少年――ソウタ。


スレル:

「降ろせ。」


ギィィ…ッ。


鎖が緩み、ラゼクの体は地面に叩きつけられた。

鈍い音とともに、彼の頭が床を打ち、視界が揺れる。

誰かが彼の服を掴み、ずるずると引きずっていった。


たどり着いたのは、もっと広い部屋。


石造りの壁と鉄の扉、血と腐敗の臭いが染みついた空間。


そして――そこには“何か”がいた。


六本の脚を持ち、肉が波打つような異形の体。

尾の先には針のような器官があり、全身には目の代わりに口が無数に開いていた。


ラゼク(心の中):

(…だめだ。ここで終わるんだ…)


足が震え、涙が頬を伝う。


その時だった。


――ドォン!!


天井が揺れ、亀裂が走る。


バキィン!


破片が降り注ぎ、何かが天井を突き破って落ちてきた。


ドスン!


立ち上がったその人影は、大柄な男だった。

燃えるような赤髪。戦闘用の美しい服に身を包み、ただ立っているだけで熱を放つような気配。


スレル(後ずさりながら):

「…誰だ、お前は?」


男はその場にいる全員を見下ろし、静かに名乗った。


カエン:

「俺の名はカエン・イツキ。王国直属の祓魔師だ。」


その声は深く、揺るぎなく、雷のように響いた。


カエン:

「この男を今すぐ解放しろ。――さもなくば、お前ら全員…燃やし尽くす。」


作者の一言

今回はいつもより長い章になりました!

でも、それだけ感情のこもった大切な物語です。

ついにカエンが登場――

この先、何が起こるのでしょうか?

読んでくださってありがとうございます!

次回もお楽しみに!


挿絵(By みてみん)

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