プロローグ『君といた時間』
ーー時々思い出す、君がいたあの時間を。
俺、細井透は昔から暗い性格だった。
周りと壁を作り、自分からその距離を埋めようとはしなかった。
そんな俺にも、好きな人がいた。
幼馴染の河井沙里奈だ。
明るくて、誰にでも優しくて、俺とは正反対の彼女。
だけど、彼女だけは俺に分け隔てなく接してくれた。
まるで俺が作った壁なんて初めから存在しないみたいに。
「ねぇ聞いてる?ねぇ透?」
「あ、あぁ聞いてるよ」
反射的に答えたけれど、正直ちょっと上の空だった。
沙里奈が目の前で話しているのに、俺の視線はどこか遠くに彷徨っていた。
いや、ちゃんと聞こうとはしてたんだ。
ただ、ついさっき見かけたカフェの限定パフェのことが頭の片隅でチラついていて……気がつけば、脳内で「どのタイミングで誘ったら不自然じゃないか」なんてシュミレーションしていた。
「透ってば、本当に聞いてるの?」
沙里奈がじっとこっちを睨む。
そうだよな、今の俺、多分間抜けな顔してたに違いない。
「ごめん、もう一回言って?」って誤魔化そうとしたけど、沙里奈がふっと笑って言った。
「いいよ、どうせ聞いてないと思った!」
なんだかんだで、彼女には全部見抜かれている気がする。
「テストも近いんだからちゃんとしなよ、そんなんじゃ今回も私に負けちゃうよ?」
沙里奈が小さく笑いながら挑発してくる。
俺はその余裕たっぷりの表情に少しムッとして、つい言い返したくなった。
「ずっとちゃんとしてます~、今回はほんとに自信あるんだよ!」
そう言ったものの、自分でもどこまで本気でそう思ってるのかは怪しい。
実際、昨日も勉強の合間にスマホをいじってたら、気づけば動画を何本も見てしまっていたし……。
沙里奈はジト目で俺をじっと見つめる。
絶対、心の中で「透の言うこと信用ならない」って思ってる顔だ。
「へぇ~、自信あるんだ。じゃあ今回は負けた時の言い訳もちゃんと考えてるんだ?」
「いやいや、言い訳なんてしないし!勝つから!」
言い切ったけど、沙里奈の余裕の笑みを見てると、だんだんプレッシャーが増してきた。
負けた時のことなんて考えたくないけど、やっぱり少しだけ考えちゃう自分が悔しい。
「わかってると思うけど、透が負けたらまた私の買い物に付き合ってもらうからね。」
沙里奈が得意げにそう言い放つ。
ニヤリとしたその表情に、俺は思わず身構えた。
あの記憶が一気に蘇る
――前回、沙里奈のショッピングに付き合わされた時のことだ。
終わらない試着の嵐に、どんどん増えていく紙袋たち。
気づけば俺の両手は戦士の盾みたいにパンパンに膨れ上がっていたっけ。
「分かってるよ!!もう二度と荷物持ちなんて勘弁だ!今回は絶対勝つからな。」
俺は勢いよくそう宣言した。
自信を見せておかないと、沙里奈には軽くあしらわれるのが目に見えてい
る。
けど沙里奈は、それを面白がるように笑う。
「へぇ、じゃあ楽しみにしてるね~。……あ、でもサイズとか合わなかったら返品しなきゃいけないから、そこも付き合ってもらうかも?」
「いや、だから絶対勝つって言ってるだろ!!」
なんでこんなにもペースを握られるんだろう。
沙里奈の笑顔を見てると、勝つどころか結局また付き合わされる未来が薄っすらと浮かんでしまう。
そうして俺たちは、いつもと変わらない夕焼け色に染まった街を歩きながら、
それぞれの家に帰っていた。
足元のアスファルトは夕陽を受けて柔らかい光を帯び、どこからか子どもたちの笑い声が聞こえる。
そんな何気ない景色の中で、沙里奈は楽しそうに歩きながら、さっきの会話の続きを軽やかに口にしている。
俺は横で適当に相槌を打ちながら、心の中で「本当に負けたらどうしよう」なんて考えていた。
沙里奈と過ごす日々は、いつだってハチャメチャで、予測不能だ。けれど、その全部がどうしようもなく楽しい。
些細な口喧嘩も、からかい合いも、時には本気で言い合うことだってあるけれど、気がつけばどれも笑い話になっている。
沙里奈と一緒にいると、時間がいつも駆け足で過ぎていくような気がした。
振り返れば、今日も結局彼女に振り回された気がする。
でも、不思議とそれが嫌じゃないどころか、むしろ心地いいと思ってしまうのが自分でも不思議だった。
「透、ぼーっとしてないで早く歩きなよ。置いてくよ?」
少し先を歩く沙里奈が振り返りながら笑う。
その笑顔が、夕焼けに溶け込むように柔らかく光っていた。
「はいはい、わかってるよ!」と返しながら、俺は少しだけ早足で彼女に追いつく。
こんな日々が、いつまでも続けばいい。
そう思いながら、俺たちはいつもと同じ景色の中を並んで歩いていた。
そんな沙里奈が、この世を去ったのは、去年の春のことだ。
高校に入学して間もない頃、それまで仲の良かったグループから突然イジメ を受けるようになった沙里奈は、ある日、学校の屋上から身を投げた。
その知らせを聞いたとき、時間が止まったような感覚に襲われたことを覚えている。
信じたくなかった。
信じられるはずがなかった。けれど、事実は容赦なく突きつけられた。
俺の中で、彼女の笑顔も、あの日の出来事も、今なお色褪せることはない。
「あ…ああ…ああああ…ああああああああ…」
俺は叫び続けた。
涙が止まらない。
沙理奈がいないという現実が、心を締め付けて離さない。
その事実を受け入れる隙間が、俺の中にはどこにもない。
ーー沙理奈が死んだ。
その言葉が、どれだけ願っても消えることはなかった。