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09 気さくですから



 じゃん、と最後のピアノの音が鳴る。


 パッと私は顔を上げて、彼の反応を窺う。

 思った通り、驚愕の表情を浮かべて、公爵は私を見ていた。


「できた……」


 過ぎ去る日々の、目に追えないほどの速さと言ったら、もう途方もない。

 あっという間に、夏が来ていた。


 私はせっせと公爵様の音楽教室に通い続けていた。それ以外にも、春の花が枝から散るのを窓越しに見ながら、毎日こつこつ発声練習。短い雨季の薄青く曇る空を見ながら、かたつむりのごとく遅々として音程確認。段々と学校の皆さんや街の皆さんに歌とダンスの力量を見抜かれて、喉に優しい食べ物の差し入れが雨霰。


 そういう日々を耐え忍んだ甲斐があったと思わされる瞬間が、とうとう来た。

 多分、公爵にとってもそうだったんだと思う。


「――できていたぞ、今!」

「はい!」


 あんまりにも元気よくそう言われるものだから、自然と私も大きな声で返してしまう。

 忘れないうちにもう一回、と公爵は言う。そんな高度なことをまるで当たり前の要求のように渡されて私は戦慄する。


 でも、自分でも信じられないことに、二度目もできた。

 となればきっと、三度目もできるだろう。


「……ようやく」

 しばらく、放心したように公爵は天井を見つめていた。


 よほど心労をかけていたらしい。公爵家を切り盛りするような大人物にこれだけの負担をかけるのだから、私の音楽下手もなかなかのものだ。自分で自分に感心してしまう。


 そして同時に、その上達ぶりにも感心してしまう。


 歌えるんだ、私。


「ようやく一曲、できたか……」


 一曲だけだけど。

 子どもだって簡単に歌えるような曲を、季節を跨いでようやく一つだけだけど。


「ありがとうございました。公爵」


 それでも前進には違いない。私は深々と頭を下げた。実際こうして上達する余地があるのなら、初めから私が「もしかしていつか聖女に選ばれるかも」と将来の可能性を見越してひそかに練習していればよかっただけの話だから――いやそんなことは無理だけど――公爵にはかなり要らない苦労を掛けてしまったことになる。


「いや、当然のことをしたまでだ」

 けれど、公爵はあっさりとそう答えた。


「国事だからな。民から税を取って暮らしている貴族としては、こうして聖女の助けになることも予定された仕事の一つに過ぎない。それより、むしろ称賛されるべきは君の方だ。普段の仕事と掛け持ちながら、よくこれだけ長いことレッスンに真剣に向き合ってくれた。自分の苦手なこととこれだけ長時間向き合わされるのは苦しいこともあっただろう。感謝する」


 その上、長広舌で感謝される。

 意外と伝わるものなんだな、と私は不思議な感慨を抱いていた。実際、私はこのレッスン期間中、かなり真剣に歌に向き合ってきた。しかしそれが、人に伝わるものとは思っていなかった。むしろ、公爵ほどのピアノの腕前を持つ人からすれば「ふざけてるのか?」くらいのことは思われてるんじゃないかと危うんでいた。


 でも、公爵は結局、そんなことを口にしないどころか、態度に滲ませることもしなかった。

 気さくというか、懐が深いというか、面倒見が良いというか。


 自分の暮らす土地の政を担っているのがこういう人だというのはなかなか幸せなことなんじゃないかと私は思った。もちろん、本人に表立ってそれを伝えたりはしないけれど。


「何とか間に合って、安心しました」

 だから、それとは別の本音で話を続けることにする。


「これでお披露目は何とかなり……ますか?」


 ちょっとの心配を込めながら言ったのは、もうすぐだったからだ。

 実を言うと、聖女が歌って踊るのは、一度だけじゃない。儀式を行う前に、『お披露目』と呼ばれる行事もあるのだ。


 たとえば、卒業式だっていきなり本番が行われるわけじゃない。その前に予行演習があって、そこで段取りを確認したりする。聖女も同じだ。あらかじめ儀式の関係者を集めて、今回の聖女はこんな調子でこんな感じのことをできますといった演習をする場がある。


 それが『お披露目』で、王宮で行われる予定で、再来週に迫っている。

 移動期間を踏まえると結構、いや、かなりギリギリの仕上がりだった。


「何とかするしかあるまい」

「ダンスはどうしますか?」

「今から複雑な動きを覚えられる自信はあるか?」

「ありません」

「だったら、もう左右にステップを踏むだけでいい。一、二。一、二だ」


 こう、と公爵が立ち上がって動きを見せてくれる。流石に私も、このくらいのことならできる。一、二。一、二だ。よし、と公爵は深く頷く。


「とりあえず形にはなった。王宮に入ってからはもっと専門的な人員と共に儀式の演出構成を考えていくことになる。後のところは、そこで相談になるだろうな。健闘を祈る」


 その言いぶりに、ちょっと驚いた。


「公爵様は、王宮に入ってからはあまり儀式には関わらないんでしょうか」

「具体的な演出面に関しては、先例通りならそうなる。今更だが、簡単に言うと――」


 さらりとわかりやすく、彼は説明してくれた。

 聖女の世話をする後見人の役割は、聖女が暮らす土地の貴族が担う。しかしそれは通常あくまで生活上の不便を解消することであったり、儀式に伴う一連の事務作業や手続きの代行であったり、実務的な段取りであったりで……


「……もしかして、聖女が歌の練習を始めるのは、通常お披露目以降のことなんですか」

「そういうわけでもない。普段から音楽的な活動をしていない者が選ばれた場合、その基礎的な音楽教育を後見人が請け負う場合はないでもない」


 ないでもないということは、あまりないということだ。


 随分ご苦労をおかけしまして、と頭を下げる。気にするな、と公爵は言う。かえって君の拘束時間を延ばしてしまった、とも。


「っと、そうだ。近いうちに夕食でも昼食でも、空いている食事の時間はあるか」

「特にしばらく予定はありませんが、何かご用ですか」

「王宮に入る前に、テーブルマナーの確認をしておこうと思ってな。話をしていて思い出した。本来であれば、後見人が聖女に教えるといえばそういうもの方が多い」


 差し支えなければ今日の夕食はどうだと訊かれる。私は、用事はできるだけ先送りにせず、さっさと済ませてしまうタイプだ。ではよろしくお願いします、と返す。

「これも、それほど気負う必要はない。何もステージの上で食事のパフォーマンスをするわけではないし、聖女に完璧を求めようという貴族もいない。ただ、いざというときに戸惑わないよう、あらかじめ流れを確認しておくだけだ」


 これはこれで予行演習だな、と公爵がまとめたのを最後に、私たちはまた夕食の時間まで歌とダンスの練習をする。


 夕食の時間が来れば、私は再び公爵の驚きを見ることになる。



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