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06 最初のレッスン



「…………」


 絶句は多分、優しさの表れなんだと思った。

 だから私は、自分で自分に肩を落としながら、平手を差し出して、その優しさは不要のものだと伝えることにする。


「どうぞ、正直なご感想を」

「……独特だな」


 ひどいな、と言わないだけ、根の優しさが表れていると思う。

 歌ったのは、小さな子だって歌えるような、簡単な曲だったのに。


「その、すまないが、色々と不躾なことを訊いてもいいか」

「どうぞ、ご遠慮なく。何でも訊いてください」

「いつからそうなんだ」

「気付いたときにはもうこうです」

「今までどうしてきてたんだ」

「人は歌わなくても生きていけます」

「……一応訊くが、聖女に選ばれた理由に心当たりは」


 ありません、ときっぱり伝える。

 流石に公爵も、頭を抱えた。


「……よし。まずは一曲、簡単なものを習得することを目標にしよう」


 しかし、実務家と噂されるだけのことはある。

 切り替えは早く、彼は人差し指を押し込んで、鍵盤を鳴らした。


「まずは音を取る練習からだな。この音と同じ高さの音を出してみてくれ」

「あー」

「低い」

「あー」

「まだ低い」

「あー」

「高い」


 というようなやり取りが、三十往復くらい発生する。私は昔のことを思い出していた。同級生だったマーガレット。分数がどうしても理解できないという彼女に、一週間くらい居残り勉強を付き合ったことがある。あの頃の、どんどん何もできないままで夕日が暮れていくことの侘しさ……。あの頃私は教える方だったけれど、今は教わる方だ。


「そこだ」

 公爵が手を止めた。


「今の音を、もう一度声に出してみてくれ」

「あー」

「…………」


 彼の思うようにレッスンは進んでいないらしいが、私としてもそんな高度なことを要求されても困る。常に音の基準がある状態でさえ三十往復かかったのに、何の基準もなくなって、記憶だけを頼りにもう一度同じ音を出せと言われても、不可能だ。


 公爵は天を仰いでいる。

 可哀想になってきたので私としても何とかしてあげたいが、ない袖は振れない。しばらく、無言の時間が続く。


「ダンスの方はどうなんだ」

 考えるのがつらくなったらしく、公爵は話を変えた。


 聖女が女神様に捧げる儀式と言えば、歌とダンスだ。私も直接見たことがあるわけではないけれど、たとえば演劇の中でこの儀式が扱われるときは、決まってその二つが組み合わさって表現される。


 一縷の希望に縋るように、公爵は訊ねてきた。


「歴代の聖女たちも、必ずしも歌とダンスの両方を得意としてきたわけではない。たとえば先代は歌を押し出し、ダンスについては非常に単純な動きしか取り入れなかった。かなり前には遡るが、踊り子が聖女に選ばれたときは、王宮楽団をバックバンドとして、本人はほとんど踊っているだけだったという例もある」


 残念ながら、そんな都合の良い希望は叶わない。

 私は「にこっ……」と笑ってみる。公爵の顔が若干引き攣る。


「一人で、今すぐ踊れるようなダンスはあるか」

「ありません。ダンスをしたことがないので」

「全くか? うちの領内では、学校行事の中でダンスを取り入れているところも多いと認識していたが」


 実際、そのとおりだ。

 新年を祝うパーティとか、あるいは卒業の前祝とか、そういう場面ではみんな手に手を取って踊る。そのパートナーに誰を誘うかで様々な恋の駆け引きが行われたりもする。青春の象徴と言ってもいいだろう。


「強いて言うなら、友人と一度だけワルツを」


 それが『一度だけ』なことにはもちろん理由がある。その理由に思い至らなかったのか、それとも嫌な予感を押し込めるためにあえて思いを馳せなかったのか。そうか、と喜色を浮かべて公爵は立ち上がった。


「では、まずはそれでもいい。基本的なリズム感を確認しよう」


 手袋を渡されて、それを嵌めている間に説明をされる。まずは俺がどちらに動くかを指示するから、三拍子のテンポでそれに合わせて足を出すんだ。何、そんなに気を張ることはない。技巧など要らん。左右に揺れていればそれでダンスだ。


 盛大な事前のフォローの後、実際にダンスが始まる。

 一、二、三、


 ぎゅむ。


「すみません」

「……いや」


 四、

 ぎゅむ、


 五、

 ぐきっ、


 六、

 ばたーん。


「……すみません」

「…………いや」


 一体いくらするのかわからないピアノの上に、倒れ込むところだった。

 何とか公爵が腕を引いてくれてそうならずには済んだけれど、私の足は公爵の靴を思い切り踏んづけている。しかも片足どころの話じゃない。両方。


 新年のパーティの前、もちろん私たちはいつ誰に誘われても恥をかかないようにとあらかじめ練習をしていた。そのとき私に付けられた異名は『壊し屋』だ。友達の足に消えない痣が残る前に、私は潔くダンスを諦めた。


 公爵の足の上から降りる。

 公爵が襟を正す。ごほんと咳払いをして、


「とりあえず、毎日数をこなすべきだな。平日も時間が許す限り歌って踊るように」


 お医者さんみたいな口調で私に言って、いっそ不毛と言い切ってしまった方がすっきりするような、遅々とした歩みの練習が始まる。


 帰り際、アンケートも渡された。



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