05 再会
別に、深刻に気にしたことはなかった。
歌ったり踊ったりできなくても、人間は死なないからだ。
一番最初に自分の歌が下手だと気が付いたのは、学校の入学式のことだった。両親は子どもの創造性を阻害しないよう口を噤んでいたのか、あるいは処置なしとして初めから降参を決め込んでいたのかはわからないけれど、私に「おまえは歌が下手なんだよ」とは告げてくれなかった。
その結果どういうことが起こったかというと、入学式、誰でも知っているような簡単な童謡を新入生たちが声を揃えて歌うそのとき、私はまず音を外した。
あまりにも自信満々に外すものだから、周りの数人が道連れにされた。
数人が固まれば、数十人に影響を及ぼすことだって容易い。
後に上級生たちは言った。今年は新入生にものすごく難しい曲を歌わせるんだなあと思った、と。そして入学式の進行表を改めて見て驚愕した、とも。全然知らない音楽に聞こえたらしい。
でも、重ねて言うけれど、歌が下手でも命に別状はない。
大抵の欠点というものは、別にそれを前面に押し出した生き方をしない限りは、致命的な支障にはなりえない。
いきなり国を代表して、歌ったり踊ったりしてくださいと言われない限りは。
「サラ先生にも、意外な弱点発見だね」
職員室にイズィさんが日誌を置きに来たとき、私は多分そういう、いかにも弱点に向き合わされていますという格好をしていたんだと思う。
具体的に言うと、両手を顔で覆って、机に肘を突いて、溜息を吐いていた。
はいありがとう、と日誌を受け取る。イズィさんはそれでいつものように「んじゃ私は帰って寝ますさよーならー」とは去っていかない。私の机に寄り掛かるようにして、こっちを覗き込んでくる。
「でも、全然知らなかった。卒業式のときとかどうしてたの?」
「卒業生っていっぱいいるから」
「うそ、口パク?」
「雰囲気づくりに徹してたの」
私の苦しい言い訳に、あはは、とイズィさんは声を上げて笑った。
「それで、これからどうするの?」
「猛特訓」
「大変だ。じゃあ、しばらく学校はお休み?」
ううん、と首を横に振って答えた。
「この街の外れにも公爵の別荘があるって知ってる?」
「あ、うん。あのお屋敷でしょ」
「あそこに音楽の先生を呼んでくれるらしいから、そこと行き来することになってる」
そっか、とイズィさんは頷く。それから笑って、
「良い先生に教えてもらえるといいね」
予想外の先生が立っていた。
「こ、公爵様……?」
「なんだ」
いかにも音楽の練習にお似合いの一室だった。
花咲く丘を臨む、この穏やかな街でも一等地と言って差し支えのない場所に、公爵の別荘は立っている。その一室。一室と言っても、私みたいな平民の考えるような一室ではない。ガラス張りで、学校の教室より広くて、天井なんかどうやって掃除するんだろうというくらいに高い。そんな音楽室に、私は緊張しながら案内されてきた。
そうしたら、ピアノの前に公爵が立っていた。
なんだ、ではなかった。
「今日は、音楽の先生がレッスンをしてくれると聞いていたんですが」
「俺だ」
俺だ、でもないと思った。
しかし、流石に思ったことをそのまま口に出せるほど、まだ打ち解けているわけではない。困惑していると、
「聖女の役割は、」
お構いなしで、話が始まってしまった。
「結局のところ特定の日に、特定の場所で歌って踊ればいいだけだ。その巧拙にさしたる意味はない。これまでの歴史的な人選を振り返る限り、その時代を代表する歌姫から、ダンスなど卒業パーティでやったきりという人間まで、女神様がお選びになる方は様々だからな」
しかし、その話の内容にはほっとするところがあった。
そうなんだ。関係ないんだ。歌が下手でもダンスがひどくても大丈夫なんだ。
「ただし」
それに釘を刺すように、
「全く調子外れの儀式になっていいかというと、流石に話が別だ」
「……はい」
「先代の聖女が特に音楽的な素養に優れていたから、どうしても比較は起こる。君ははっきり言って、注目の的だ。こういう言い方もどうかと思うが、普段の生活を削りながら国事に力を尽くしてもらう以上、こちらにも君が壇上で恥をかかないよう、助力する義務がある」
そういうわけだから、と彼はピアノの蓋を開いた。
「今日からしばらく、よろしく頼むぞ」
堂々と言い切られてしまったけれど、流石にそろそろ私も気持ちの整理が付いてきて、最初の困惑を穏当な形で質問に変えられる。
「大丈夫なんですか」
練習が始まる前に、訊いておこうと思った。
「公爵様が直接ご指導してくださるのは、恐れ多いというか。お忙しいのでは」
「問題ない」
けれどきっぱり、公爵は答えた。
「聖女が選ばれた領は、多くの場合国内では多くの便宜を得られる。つまり根回しだの何だのというややこしいことが減り、俺の仕事も軽くなるということだ。そういう状態であれば、仕事の場が多少ずれ込んだところで支障はない」
それに、と譜面を捲りながら、彼は呟く。
「俺は、大事なことは自分でやる」
さあ、と促される。まずは先日歌った曲をもう一度。
そうして、部屋には音楽が流れ始める。