40(終) 愛してるってことです
ステージから降りても、人生は続く。
今更だけど私は、そんな当たり前のことに気が付いていた。
歌って踊って、誰かに希望を与えたり、ちょっとだけ背中を押してみたり。輝かしい光を浴びて、『推し』なんて言葉をつけて、大切に思ってもらえたり。
そういう輝かしい季節が過ぎた後、でも、そこで急に人生が終わったりするわけじゃない。昨日が終わって、今日が始まるみたいに、当たり前に生活は続いていく。
観客に見つめられて、応援されているだけじゃない。
同じ地面の上に立って、お互いに見つめ合うような日が、やってくる。
たとえばそれは、今みたいに。
「…………」
「…………」
私は、一世一代の勇気を出した。
優柔不断とこれだけ長く付き合ってきて、自分でも信じられないくらいの、一生だって誰かに自慢できるくらいの、大きな勇気を。
そして、その勇気をぶつけられた相手は、びっくりしちゃって動かない。
「――じゃあ、」
もう、やることは一つだった。
「そういうことですので」
「は?」
一目散に逃げ出した。
何だかそれで急に、小さな頃の記憶が蘇ってきた。同じことをしているからだと思う。大人になったらピクニック気分になるはずなんて楽観的な考えをどうして持てていたのか、自分でもわからない。同じ場所で、同じように早歩きだった。何かに追い立てられるように、夢中になって足を動かしている。
「待てっ」
手を掴む誰かがいるところまで、あの日と同じだった。
「な――なんだ、今のは」
掴んでおいて、公爵はこの言いようと、戸惑いぶりだった。
私は彼と違って、気まずいときでも目を逸らさない。うっかり顔を見つめてしまう。そのまま窒息しそうになる。
「何って、そのままです」
どこからこんな勇気が湧いてくるんだろう。
私は今日、二度目の開き直りを見せた。
「公爵様が好きで、愛してるってことです」
「あ――」
公爵は、顔を真っ赤にして絶句した。
私も多分、真っ赤だった。子どもの頃に風邪を引いて、頭が朦朧していたときと全く同じ症状が出ていたから、間違いないと思う。
「本当は、あなたが私を『推し』だって言ってくれたときも、『どうせなら好きって言ってください』って思ってました!」
公爵は、形容しがたい顔をしていた。
多分、分解すると「そうなのか」「嘘だろ?」「なんでそんな恥ずかしいことを真顔で言えるんだ」の三つと、後何かが八つくらい出てくる。そんな表情をしていた。
「な……」
その表情から捻出された次の言葉は、これだった。
「なぜ、俺なんかを」
白々しい、と私は思った。
言わせようとしてるのかとも思ったから、逆に言わせてあげることにした。
「むしろ、なぜ自分が好かれないとか、愛されないとか思うんですか」
「それは、」
ぼそぼそと、公爵は言う。
俺は不愛想だし、気も利かないし、そう魅力があるわけでもないし――
「最初に会ったときから、あなたは私にとっては優しくて、笑顔の素敵な男の子でした」
思い出してください、と私は言った。
「再会してからのことでもいいです。あなたが私にしてくれたことと、伝えてくれたことを、全部」
「…………その、」
公爵は、たっぷりの沈黙の後、
「正直に言うと、一度。そうかもしれないと思ったことがあった」
彼が言ったのは、あの予行練習のステージの上で起こったことだった。
私が好意を込めて、伝われと思って歌ったあのときのこと。彼はそれを引き合いに出して、
「もしかすると君は俺を――俺は君のことを、本気で好きになっているんじゃないかと、そう思った。だが、」
だが、は要らないと私は思った。
でも、そんなことはなかった。
「だが、変に自分の中に押し込める必要もなかったのかもな」
彼が、そう言って笑ったから。
「俺は結構、」
と、公爵は言った。
もう、顔は赤くない。ただ、本当に申し訳なさそうに、
「厄介な男だぞ」
「大丈夫です。好きなところも、たくさん知ってますから」
「それだけじゃなくてだな。その、曲がりなりにも公爵なんだ。もちろん俺も力を尽くすつもりではいるが、貴族社会でやり取りしてもらうことも多くあると思うし、二人で生きていくには、かなりの苦労があると思う」
ああそういう、と私は納得した。
納得して、私はもう、その心配に対する答えを持っている。人に言ったこと。
やってみたら、大したことなかったりするんだよ。
もちろん、いつでもそうとは限らないけれど――
「じゃあ、一緒に頑張りましょう」
笑って、私は言った。
公爵は目を見開く。そしてふっと口元から、徐々に顔を緩めるようにして、微笑んだ。
「俺からも、一つだけいいか」
「何ですか」
「君のそういう、前向きなところが好きだ」
一拍開けて、彼は、
「愛してる」
そのとき不意に、私たちの目に入った光景がある。
それは、自然に起こる出来事だ。きっとこの季節、注意深く観察さえしてみれば、いろんな場所で見られるだろう現象。
草野に萌え広がる蕾の一つが、風に触れられて、その固い衣をするすると解いていく。
春色の、美しい花が咲き初める風景。
それが、この庭の至るところで起こった。
記憶の中にある風景と、それはとてもよく似ていた。白い花、黄色い花、淡い紅色の花……いくつもの彩りが花野に宿る。違うところがあるとすれば、それを見つめる私の目の高さくらい。
あの頃よりも、背が伸びて。
あの頃に恋した人と一緒に、それを見る。
季節がもたらした贈り物なのかもしれない。
あるいは、儀式が過ぎてもまだ、人々の傍には女神様がいて、そっと私たちのことを見守って、祝福してくれているのかもしれない。
どちらにせよ、私は嬉しくなって、そのことを伝えたくて、隣に立つ人を見た。
そうしたら、ちょうど彼も、そうしてくれていた。
言葉にしなくちゃ伝えられないことは、確かにある。歌にも、ダンスにも、きっとそれぞれ、そうしなきゃ伝えられないことも、それだけじゃ伝わらないことも、いくつもある。
でも、このときは。
ただ、目を合わせるだけで、全ての気持ちが伝わった。
春の柔らかい風が、私たちの頬を撫でて、通り過ぎていく。
公爵の手が、私の肩にかかる。花野にかかる私たちの淡い影が、少しずつ近付いていく。
私は目を瞑って、心の中、静かに数字を数えた。
いち。にい。さん。しい。
ご。
(了)