38 十数年越しに
驚いたのは、大して長い旅にもならなかったことだ。
今、彼は本邸の方にいるわけではなかったらしい。王宮楽団がこっちに来ていると聞いて、彼女たちが自分に挨拶をしやすいようにと気を利かせて、その進路の傍、つまりは私が住んでいる街の外れにある別荘まで、足を運んでいた。
「通してくれ」
一度は面識のある執事の人が、私たちの代わりに扉をノックしてくれる。中からの声に反応して、開けてくれる。
「久しぶりだな、楽団ちょ――」
う、という瞬間までの顔を、しっかり私は見ていた。
何だかにこやかだった。憑きものが落ちたというか、そんな感じの顔。落ち着いて、何もないのにちょっとした微笑みすら口元に浮かべているような、そんな表情で、彼は机からこちらに視線を移してきた。
それが、ぴたっと固まる。
手に持っていた書類が、ばさばさと音を立てて床に落ちていく。
「お久しぶりです。公爵」
ネアネイラさんは、やっぱりにやっとした笑顔を浮かべて、そんな彼に挨拶をした。
彼女は、私の方に手を向けて、
「お土産」
「お久しぶりです、公爵様」
お元気でしたか、と私は訊ねる。
彼はじっと、私の顔を見ている。
挨拶だけをして、私はそのまま一旦、部屋から出ていくことにした。
特に駆け引きとか、そういうつもりじゃない。単純に、そこからの話は王宮楽団長と公爵がする専門的なやり取りになるはずだったから。その場で私が横にいても変だ。
どうせ優柔不断で、先送りばかりの人生なんだし。
今更焦るようなことなんか、何もない。
「では、しばらくこちらでお待ちいただければ」
いつかの執事さんにそう言って案内されたのは、懐かしい部屋だった。
公爵の別荘の中にある、音楽室。
お茶を出してもらう。ではごゆっくり、と執事さんはにこやかに微笑む。部屋を出ていく。
扉が閉まる。
その余韻が消えれば、しんと部屋は静まり返る。
あの頃は、あんまりよくこの部屋の中を理解できていなかった。でも、こうして見るとすごく大した設備だと思う。板張りの床に、吸音性の高い壁材。大きな鏡があるからダンスの練習にもうってつけだし、一面に並んだ大きな窓から見える景色も、いかにも公爵領らしい穏やかさで、すごく綺麗だ。
窓辺に立つ。
その景色をじっと見て――ああ。やっぱり、と私は思う。
それだけ確かめ終えたら、後はただ、時間を持て余していた。
お茶を飲んで、ぼんやり外の風景を眺める。昔の癖で、ちょっと立ち上がる。鏡の前でステップを踏む。何だか前よりも上手くなった気がするけれど、今日は少し気温が高い。汗をかく前にやめておく。外では風が吹いている。草木がなびいている。
ピアノの前に立つ。
流石に、勝手に蓋を開けたらまずいかな。
「待たせた」
そのとき、扉がノックされた。
返事をすれば、扉が開く。
公爵が立っている。
やたらに緊張していそうな面持ちで。
笑ってしまいそうになった。さっきのあのやわらかい感じはどうしたんですか。そんな風に、軽口を言いそうになった。
言わない。
代わりに、最初に通された席の方に戻る。公爵から着席の許しを貰って、彼の向かいに座る。
「……久しぶりだな」
「はい。お久しぶりです」
すみません突然来てしまって、と。
当たり障りのないことを私は言う。うむ、と彼は当たり障りのない相槌を打つ。お茶を淹れる。湯気が薄く立つ。
「その、」
それに口を付けることもしないまま、彼は言った。
「今日は、どうした」
このときのために、いくつもの想像をしてきた。
それは、予行練習と言い換えてもいいかもしれない。眠れない夜に、暗い部屋の中、天井を見つめながら。私はこんな風に彼に問い掛けられる場面を想像して、いくつもの答え方を考えてきた。
「あなたは、」
でも、結局どれが正しいのかなんて、言ってみなきゃわからない。
「このペンダントを、覚えていますか?」
首元に隠していたそれを、見えるように外に出す。
彼は、目を瞬かせた。あーあ、とそれで思う。
「返しに来たんです。十数年越しに」
多分彼は、こんな昔のこと、全然覚えていない。




