37 決心
風に乗って、一つの噂が流れてきていた。
ウィンスカーレ公爵、アダン・ウィンスカーレに関する噂だ。
これまでの彼についての評価は、こんなものだった。実務家。合理主義。若くして敏腕の計画屋。堅物もいいところの、それがかえって胸騒がせる、ティアーロ王子と並ぶ社交界の華。
その公爵が、前よりも柔らかくなった、と。
そんな噂が、流れている。
人は言う。先代公爵も人当たりの良い明るいお人柄だったから、きっとその性質を継いだのだろう。今までの態度も、きっと若くしてご当主をお継ぎになったことに緊張されていたからに違いない……。
あるいは、こんなことを言う人もいる。きっと聖女様の後見人をされたのが良い方向に働いたのだろう。女神様に捧げられる歌とダンスをもっとも間近で見てきたことで、そのお心から硬いところが取れ、以前よりも一回り大きく、懐の広い方になったに違いない。
そして、私はこう思っている。
頑張ってるんだな、って。
その夜、私は家に帰って、しばらく眠れずにいた。
時間はどんどん過ぎていく。明日はお休みだけれど、入眠の時間が平日とズレることには何のメリットもない。早く寝ようと思えば思うほど、深みに嵌っていく。
全然寝られない。
起きてみた。
いつまで経っても寒いと思っていたけれど、今夜は不思議とそんな気もしなかった。一枚だけ、上着を羽織ってベッドサイドに座り込む。
明かりを点けて本でも読もうか。
なんて、そんな気分には到底なれない。
私は、昼間に言われたことを思い返していた。
歌とダンスで全てが伝わるなんて、大間違い。
言われてみれば、そのとおりだったから。
一体私は、たったの半年の間の練習で、一体どんな音楽の真髄を知った気になっていたというんだろう。歌って、踊って、目が合って。たったそれだけのことで、一体何が伝わったと思っていたんだろう。
言葉にしなくちゃ、伝わらない。
でも、本当に言葉にする必要なんてあるの?
私は色んなことを頭の中に思い浮かべてみた。身分差とか、そういう大仰なことももちろんある。その一方で、ものすごく些細なこともある。
学校を出て、今でもふらふらしているような優柔不断な人間なのに。
そんなに大それた選択なんて、私にできるんだろうか。
女神様に導かれて、聖女の肩書を持っているときですら、言葉にできないくらいだったのに。
今更、素になった私が、何かできるんだろうか。
「……どう思う?」
訊ねかけたとき、部屋の中には誰かがいるわけじゃなかった。
ただ、ベッドサイドのチェストを開けただけ。その中に入っているペンダントに、話しかけてみただけ。
折角元の持ち主に会えたって言うのに、私はそれを持って帰ってきてしまった。何も言わないまま。何も伝えないまま。
きっと、高価なものだろう。
そしてもう――あの日、聖女としての儀式の前、ペンダントを握らなかった私には、必要ないものなんだろう。
返しに行くと思えば、それは一つの言い訳になってくれる。
でも、今の自分が見つけなきゃいけないのは言い訳じゃないってことも、わかっていた。
ペンダントを手に取る。少しひやりとした感触に、私はあの雪の日を思い出す。
自分と似た生徒に向かって、言ったこと。
自分じゃできないって思ってることも、やってみたら大したことなかったりするんだよ。
いつでもダメって、決まってるわけじゃないんだよ。
人っていうものは、と私は思う。きっと、悩んでいる人を目の前にすると、普段の自分よりも一段、ちょっと賢くて立派な人になるものだと思う。だから、口から出る言葉には結構、含蓄みたいなものが籠っている。
そして、そうやって人に与えてあげられる言葉を、自分に向けられたなら。
大抵の場合、それで悩みは解決しちゃうんだろう。
先生として背中を見せようとか、そういう素晴らしい志に基づくものじゃない。
私はただ、人にあげた言葉を、ちゃんと本物にしようと思って、心を決めた。
「お」
と、私が宿まで訪ねていくと、ネアネイラさんは眉を上げた。
予想していたみたいだった。この間の、ちょっと変わった様子はない。彼女はいつもどおりの、にやっとした顔で、
「一緒に行く?」
はい、と私は頷いた。