30 これが最後
「後見人として、細かい挨拶と調整は済ませてきた。前夜祭は明確な終わりの時間がなく、真夜中まで盛り上がるのが通例だから、君の方でも折を見て部屋に戻ってもらって構わないぞ」
と、公爵が隣で言っているとき、私は話を聞いているようで聞いていなかった。
「おぉ……」
「……まあ、食べてからの話でいいが」
結局、パーティ会場を抜け出していつもの中庭に来ている。
私の目の前には、たくさんのごちそうが並べてあった。
あまり食べられていなそうだったからと、公爵が会場から一部を持ってきて、ここに並べてくれたのだ。王子に続いて公爵にもバレていたとなると、他の出席者の皆さんにもバレていたんじゃないかと不安になる。
それはそれとして、食事はすごく美味しい。
しばらくの間、私は黙々とそれを食べる。実を言うと、練習の後に汗を流してそのまま前夜祭行きだったから、結構お腹が減っていた。使った分の体力はしっかり取り戻しておかないと……そんな言い訳を込めて。
とは言っても、元々そんなに食べる方でもないし、ドレスだって結構すっきりしたラインのものだから、大食いとまではいかなかった。
ナイフとフォークを置く。一応、口元を拭いておく。
ふう、と一息ついて頭を上げる。
秋の星空が、冷たい夜に輝いていた。
「寒いか?」
息が白く濁ったからかもしれない。
先回りするような公爵の言葉に、いいえ、と私は答えた。
「ただ、ちょっと」
「ちょっと?」
「もうすぐなんだなあと思うと、感慨が」
少し間を置いて、ああ、と彼は頷いた。
前夜祭から二日を挟んで、とうとう本番が来る。
実際のところは、歌とダンスが三日後というだけで、儀式自体はもう明日からだ。その二日の間に私はやることが多いわけでもないし、最終調整のための練習も行えることには行えるけれど、流石に王宮も、それから後見人である公爵も、一気に緊張感を帯びて忙しくなることだろう。
普通の日は、今日が最後。
ふ、と笑ってしまった。
なんだ、と公爵が訊ねてくる。いえ、と私はそのまま笑いながら、
「普通の日なんかじゃなかったのになあと思って」
何の話だかわからないというように、公爵は首を傾げる。それはそうだ。私の頭の中にだけ、そういう不思議は存在してるんだから。
あの日から、ずっと当たり前じゃない日々だったのに、いつの間にかこれが普通の日々のような気がしてきていた。
慣れっていうのは、本当に不思議なものだ。
あの日、光に照らされたときには――公爵と出会ったときには、こんな風に儀式の直前を過ごすことになるなんて、夢にも思わなかった。
こんな風に、心穏やかに。
過ぎ去っていく日々を、惜しむ気持ちすらあるなんて。
「酔っているのか?」
「え?」
公爵が、心配するように覗き込んできた。
私は、自分の顔を手で触る。
「赤くなってますか」
「血色は良くなっていると思うが、俺はその仕草をする人間を酔っ払い以外で見たことがない」
確かに。
と思うと、あはは、とまた笑ってしまった。すると公爵は、失礼なことに変なものでも見るような目をして、
「笑い上戸か。こんなにわかりやすいのも珍しいな」
「普通です、普通」
でも本当に、自分としてはそんなでもないつもりだった。
さっきまで握っていたグラスだって、ご飯を食べるタイミングがないからちまちま飲んでいただけだし。飲みやすかったし。今はご飯も食べたし。このとおりもう一杯だって「お、おい」ほら、全然平気。
「もうやめておけ。飲みすぎは身体に悪い」
全然酔ってない。
でも、公爵がそこまで「酔ってる」と言うなら、そういうことにしてあげてもいい。
「踊ります?」
「は?」
そして、酔っ払いは何をしてもいい。
私はそれを、成人を迎えた頃、酔いつぶれた同級生たちの介抱をしながら学んだ。
私は靴を脱いだ。公爵の制止の声も聞かずに。草の感触が足の裏に気持ち良い。
振り向く。
「多分、足は踏むと思いますけど。これなら穴は開かないと思いますよ」
ほら、と私は手を差し出す。
じっと、公爵は固まっていた。
「…………あ、ごめんなさい。勝手に楽しくなっちゃって」
それで私は、一気に意気消沈した。
いや、と公爵が焦り出す。
「突然すぎて、驚いただけだ。どうしたんだ急に」
別に、と私は投げ出した靴を月明りの下で探しながら答える。なかなか見つからないので、本当にちょっと酔ってるのかもしれない。
「ただ、もうすぐ儀式じゃないですか」
「練習の一環か?」
「聖女の仕事が終わるなら、公爵と踊る機会もこれが最後だなと思って」
折角だから記念に、と呟いたときに、ようやく見つけた。
私は屈み込んでそれを拾おうとする。でも、これだけ上等なドレスの裾を草につけるのも何だかと思った。一瞬躊躇った。
そうしたら、手を掴まれた。
「……確かに、そのとおりだな」
公爵が。
いつもみたいに、ちょっと目を逸らしながら言った。
「踊るか」




