29 抜け出しましょう
そうしていよいよ、日々は過ぎ去っていった。
そろそろ私も、王宮で過ごす日々を名残惜しく感じるくらいに。
「いやあ、こうして前夜祭の季節が来ると、私もまた一回り年を取ったと感じますよ。お若い聖女様には、なかなかわからないことかもしれませんがね!」
「おやおや、オールラ伯爵。そうやって年齢にかこつけて若いお嬢さんに絡み出したら、それこそ本当に年寄りの始まりですよ。失礼、聖女様。私たちも普段はつつましやかな紳士として過ごしているのですが、どうしても儀式が近いと思うと興奮してしまうものでしてね」
いえいえ、と高位貴族の皆さんの顔色を窺うのも、すっかり慣れたものだ。
王宮の、いっとう広い舞踏会場だ。
ちょっとした街の広場くらいの大きさのあるそこには、いくつもの食べ物と飲み物が並ぶ。私の手にもシャンパンが入ったグラスがあるけれど、それを飲み干す暇はない。
前夜祭、と呼ばれている。
もうじきの儀式を前にして、お国の貴族の皆さんが聖女を励ましてくださる会のこと。
当然私は、主賓としてそこに出席していた。
「皆さんのご期待に沿えるようなものがお見せできたらいいのですけど。何分、先代の聖女様が素晴らしい音楽家でいらっしゃいましたから。前夜祭の今日になっても、いまだに足が震えてしまうくらいです」
「何を何を! 聞いてますぞ、今代の聖女様も、先代の聖女様のご指導あって素晴らしい音楽を奏でられると!」
「私どもなどは、ほれ、なかなか遠方から王宮まで参るのも厳しいものですから。王宮で行われていたという予行練習は拝見する機会もなかなかございませんでしたが、かえって楽しみというもので。そうだ、ご先代といえば今は楽団長をされておりますが、私も思い返せば六年前――」
とは言っても、本気で私が主役というわけでもない。
どちらかというと、これを機会にと中央に集結する貴族たちの交流の場の性格が強いように思った。
最初の挨拶回りが終われば、それから積極的に話しかけてきてくれるのは、酔いが回り始めたお調子者の年配貴族ばかり。大体はすぐに身内で話が盛り上がり始めるから、私は折を見計らって、「他の方々にもご挨拶してきますね」と抜けていく。
同年代で積極的に話しかけてくれたのはフリーア様……以前にお茶会に呼び出しをかけてきたあの伯爵令嬢が率いる一団くらいのものだけど、彼女たちも麗しい貴公子の一団を見かけるや、みんなでさっさとそっちに行ってしまった。
だから多少、気は楽だけど。
やっぱり視線自体は集まるから、何となく気が休まらなくはある。
折角これだけの料理が並んでいるんだから、思い切り食べてみたいという気持ちがないと言えば嘘になる。こうして手にしているシャンパンだって、自分ではお酒はあんまり好きな方じゃないと思っていたけれど、口にしてみると香りも豊かで、思わず飲んだくれてしまいそうになるくらいに美味しい。
聖女が終われば、ここまで豪華な宴席に出ることもまずなくなるだろう。
そう思うと何だかもったいない……なんて。儀式を前にした聖女としては、いかにも不純なことを考えている。
でも、あの女神様なら、それだって「いいね」と言ってくれるだろうか。
自分で自分の想像に、くすっと笑ったときだった。
「上機嫌だね、お嬢さん」
するりと自然に、隣に立った人がいた。
もう、声だけでもわかるくらいになった。隣を見る。予想通りの顔が、そこにある。
「ティアーロ殿下」
「聖女様の微笑みを引き出すなんて、お酒の力は偉大だな。今ならダンスに誘っても、快く引き受けていただけそうだ」
「さっき、令嬢の皆さんに囲まれているのを見ましたけど」
「ああ。ちょっと旗色が悪くなってきたから、ご挨拶を口実に逃げてきた」
はは、と笑った後、彼は私の視線を追って、
「もしかして、全然食べられてないか?」
「実は」
「それはいけないな。聖女様を腹ペコにしたままパーティを終わらせたなんて知られたら、民衆から袋叩きにされてしまう。どうだろう。僕が上手く食事に誘導する代わりに、一緒に踊ってもらうというのは」
「どうしてそんなに踊りたがっているんですか?」
「実はさっきから、誰が一番最初に僕と踊るかで揉めている」
あのへんが、と彼は言う。
私は「あのへん」を見る。言いたくなった言葉がある。
自業自得。
「やめた方がいいですよ」
流石に直接声には出さないで、
「往復ビンタで済むところを、わざわざ足の骨折までして逃げ出すことはありません」
「骨折?」
ぎょっとした顔で王子が言うのに、私は、
「皆さんのご助力のおかげでステージでは踊れるようになりましたけど、それ以外はてんでダメなままなんです。しかも今日はヒールですから。骨折どころか穴だらけにしてしまうかもしれません」
ほら、と踵を鳴らす。
しばらく王子は呆気に取られた後、ふっと笑って、
「――やれやれ。フラれたな」
と肩を竦めた。
「覚悟を決めて取り合いの輪に入ってくるとしよう。どうも、一番安全でお優しそうな聖女様は、お相手が決まっているようだし」
じゃ、と軽く手を振って去っていく。
どうも、と私も手を振ってそれを見送る。
それから思う。
お相手が決まってる?
「聖女様」
振り向くと、やっぱりその人だった。
私が話しかけようとすると、しっ、と彼は唇の前に人差し指を立てる。その指をそのまま、窓の外の方に向ける。
抜け出そう、と。
公爵様は、何も言わずに言った。




