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22 届いた



 私が学校の合唱を口パクでやり過ごしていた頃、隣に立つ友人たちはいつも先生からこう言われていた。


 心を込めて歌いましょう。


 耳学問というと大げさかもしれないけれど、そんな指導を実践する日が一度でも私の人生に訪れたかと思うと、不思議な感慨があった。


「――――」


 ネアネイラさんが作ってくれた曲に、詞はない。余裕があったら付けてもいいかもとは言われているけれど、今のところは何も。


 だから、好きな思いを込められる。


 歌い始めると、すぐに公爵と目が合った。

 いつもそうだ。まるでこの音楽ホールの主みたいに、一番よく見える場所に座っている。真剣な顔をして、それこそ私が失敗しようものなら、また「頑張れ!」なんて叫びそうな様子でそこにいる。


 伝えてみよう、と思った。


 相手がどういう風に自分を思っているのか、思い悩むのにはもう飽きてしまった。だって、どうせ考えたってわからない。生まれも違えば、育ちも違う。遠い昔にたった一度すれ違っただけの人だから。


 どうしてこの人は、自分をこんなに気にしてくれているんだろう、なんて。

 そんなの、「後見人だから」って言われたら、私は結局、それで納得するしかない。


 だから、自分の気持ちを大事にしてみようと思った。


「――――」


 歌いながら、少しずつステップを入れていく。

 腕を振る。足を伸ばす。


 芸術的な舞踊なんてものにはほど遠いけれど、公爵が目を丸くするのが、何度か来てくれて常連になっている貴族の方々が、思わぬ動きに息を呑むのがわかる。私はここに来てようやく、歌うことと踊ることの気持ち良さに気付き始めていた。大きく声を出したり、身体を動かしたり。子どもの頃にやったきりのことを、誰に気兼ねすることもなく、思い切りやれることの楽しさに。


 それから、たまには思い切り、自分のやりたいことをやってみることの開放感に。


 好きだって、伝えてみようと思った。


 私はあれから、考え続けていた。相手が自分のことをどう思っているかじゃない。自分が相手を――公爵をどう思っているかについて、ずっと。


 古すぎる恋には、もう自信がない。

 多分あれは、私がその場で立ち止まっているための言い訳だったから。


 十年以上も経って、埃を被ったような昔の恋だなんて、今更引き合いには出せない。子どもが子どもに抱いた淡い『好き』が、今、こうして大人になった私に何を保証してくれるというんだろう? 何も。だから私は、今のことを考えた。


 公爵と、出会ってからのことを考えた。


 印象は、初めから悪くなかった。面倒見の良い人だと思った。気さくな人だとも思った。いつも忙しそうに見えて、誰かが隣にいてあげたらいいのになあとも思った。つまり、放っておけないな、なんてことも生意気に、ちょっとだけ思った。


 それから、私を目一杯応援してくれた。

 それが、『彼らしからぬ』行動だとも聞いた。


 忙しいはずなのに、ずっと王宮にいてくれる。毎週、私の舞台を見に来てくれている。誰より真剣に見てくれている。それで、私が人と話していると慌てて駆け寄ってくる。


 色んなことを振り返る。


 改めて私は、淡い『好き』を抱き直している。


 もしかしたら私は、一生このくらいなのかもしれない。喫茶店で友達が盛り上がっていたみたいな、叫んでしまうくらいの熱狂も、失ってしまえば泣き暮らすしかないくらいの執着も、私にとってはただずっと、隣の席でうんうんと頷いて聞くものでしかないのかもしれない。


 ただぼんやりと、この人が好きになった。

 勘違いさせる方が悪いんじゃないの、って開き直れるくらいには。


 ただの仕事だったらごめんなさい。それならどうも私は、勘違いしがちな女みたいです。でも、あなたもそれを責められるほど察しの良い人じゃないですよね。勘違いは、これまでにあなたが一回。私がまだ〇回だから、これでおあいこになるはず。


 声が一層、高くなる場所。

 思い切り腕を振って、私は準備する。


 心を込めてみよう。

 きっと目にも映らないような、ほんのかすかなものだけれど。


 私はあなたのことが好きみたいですよ、って。

 耳打ちするみたいな気持ちで、私は大きくターンをする。




 振り向いた瞬間、目が合った。

 伝わった、と思った。




 それは不思議な感覚だった。どうしてそう思ったのか、自分でもよくわからない。ただ、そうして振り向いた先の公爵の瞳を見た瞬間、心が……心に何か、じわりと何かが湧いたような気がした。


 その何かが、あんまりにもささやかなものだから。


 私はつい、舞台の上で、素の表情で笑ってしまった。


「――――」


 歌は、それで終わり。


 自分でも驚くくらいにきっちりとダンスも合わせられて、額に汗が滲むのを感じながら、ほんの一瞬、息を整える。


 パチパチパチ、と盛大な拍手が聞こえてきた。

 驚いて見ると、それはついさっき挨拶したばかりの、地方から来たという伯爵だった。私が終わりの礼をする前に拍手をする人は少ない。だから、あまり待たせていては彼も居心地が悪いだろう。


 余韻に浸る間もなく、私はすぐに礼をする。

 そうしたら、拍手は一気に音量を増した。


 面を食らってしまった。それは、初回の予行練習のときと変わらないほどの大きさだったから。そしてあの日より、ずっと客席の人数は少ない。それが意味するところには察しが付くけれど、あまりにも自分に都合が良すぎて、本当にそうだとは思えない。


「ほらね」

 舞台袖に戻って、ネアネイラさんの言葉を聞くまでは。


「言っただろう? そんなに単純じゃないって」


 今度は、わかりにくくなかった。

 良かったよ、と彼女が言う。私は、その言葉を深く噛みしめる。春からの日々を、そっと思い返している。



 その日から、公爵は客席に姿を見せなくなった。



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