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01 思い出は客席に



 大切にしている思い出って、誰にだって一個くらいはあるものなんじゃないかと思う。

 私にとってそれは、もうずっと昔の話だ。




 その頃の私は、まだまだ物心がついたばかりの子どもだった。

 思い返してみると、これよりも古くてはっきりとした記憶なんて一個もないんじゃないかと思う。そのくらい昔の、ただ空に太陽が輝いているだけのことが不思議で仕方なかったような頃のこと。


 私は、見知らぬ花畑に迷い込んでいた。

 どうしてそうなったのかはわからない。両親とはぐれてしまったのか、それとも二人の目を盗んで、好奇心のままに家から抜け出してしまったのか。どちらにしろ、私はそのとき、一人ぼっちだった。


 東西南北、なんて言葉すら聞いたことがない頃だ。


 みぎとひだりとうえとした。

 そんな言葉だけを頼りに、私はその美しい花野を歩き回っている。


 怖かった。

 今ならきっと、余裕たっぷりにその場所を行くことができるだろう。思い返せば、あの白い花も、黄色の花も、淡い紅色の花も、大人になった私の胸の高さに当たるかどうか。景色を楽しみながら、あっちじゃない、こっちでもない、とのんびりピクニックすることだってできるはず。


 でも、そのときの私にとってはそうじゃない。

 自分よりも背の高い花が、ずっと視界を遮って、頭の上から見下ろしてくる。


 お化けに取り囲まれたみたいな気持ちだった。


 それに、その頃は足の長さも全然違う。必死になって走っているはずなのに、いつまで経ってもどこにも辿り着けない。きっと、生まれてこの方一番の遠出だったのかもしれない。そのうち、もしかしたらもう二度と家に帰れないんじゃないかなんて思い始める。お母さんとお父さんにも、二度と会えないような気がしてくる。


 間違った方に来ちゃったんじゃないか。

 そう思って振り向くと、そっちも同じ。花に遮られて、何も見えない。


 もうどこにも行けない気がした。


 とうとう私は、声を上げて泣き始めた。


「誰かいるの?」

 そのとき、声がした。


 もちろん私は、その声も怖かった。がさがさと花野をかき分けてくる音も、怖かった。でも、あんまりにもびっくりしてしまったから、逃げようという考えが浮かばない。浮かんでくる頃には、その声の持ち主が目の前に現れている。


「大丈夫?」


 優しそうな男の子だった。

 黒い髪に黒い瞳。その頃の私よりは背が高くて、少なくとも花畑の真ん中を歩いていても、怖くはなかったらしい。


 そっと、彼は屈み込んでくれた。


「どこから来たの?」


 私は、自分が何と言って答えたのか覚えてない。

 覚えているのは、そのまま彼が私の手を引いて歩いてくれたこと。その手のひらの柔らかさと、温かさのこと。


 花野を抜けると、小高い丘に出た。

 その丘に立つ、一番大きなオークの木。彼はその木陰で、私にいくつかのことを訊ねた。ご両親の名前はとか、どこに住んでいるのとか、きっと、迷子を家に帰すために必要なだけのことを。


 でも、私は答えなかった。


 知らない人についていったらいけないよ。今更になって、両親のそんな教えを頑なに守ろうとしていたからだ。その頃の私はまるで融通が利かなくて、本当は目の前にいる人を頼りたくてたまらないのに、口をぎゅっと引き結んで、自分の名前だって教えずにいた。


 もちろんその男の子は、困る。

 でも彼は、幼い私よりもずっと柔軟だった。


「それなら、ここから真っ直ぐ行ってごらん」


 遠くの場所を指差して、彼は言った。


「そうすれば、すぐに道に出るから。そのまま歩いていけば、街に出られるよ。そこで、知っている人を探せばいい」


 そう言われても、本当のところはついてきてほしくて仕方がない。

 知らない人だから何も教えないもんと言う割に、これからまた一人ぼっちになると思うと寂しいし、怖い。もしかしたらこの人を最後に、もう誰にも会えないかもしれない。


 我ながら、面倒な子どもだったと思う。

 でもその男の子は、そんな風に思っている素振りなんておくびにも出さないで、そっと、首につけたそれを外した。


「お守りをあげる」


 それは、ペンダントだった。


「不安でも、きっとそれが君を守ってくれるよ」


 子ども騙しのおまじない。

 首にそれをかけてもらって、子どもだった私は、すっかり騙されてしまった。


 丘の上を、彼に言われた通りに歩いていく。ときどき振り返る。彼は私を安心させるように、オークの木の下で、ずっとこちらを見守っている。


 その顔が、とうとう見えなくなろうとしたそのとき。

 男の子は私に向かって、こう言ってくれた。


「がんばれ!」


 思えば、それが初恋だった。




 というようなことを突然思い出したのには、理由がある。

 今、私はたくさんの人の前で歌って踊っているのだ。


 自分でもどうしてこうなったのか、全く理解ができてない。でも、確かなことはこれが現実だっていうこと。ピアノの伴奏に合わせて、綺麗な衣装を着て、たくさんの人々の――しかも貴族の方々の前で、私は歌って踊っている。


 その上、足を引っ掛けている。

 盛大に転びそうになっている。


 人間、ピンチになると急に頭が冴え渡るものだ。傾いていく視界の中で、私は色んなものを見た。伴奏の音楽家の苦々しい顔。観客の皆さんの驚く顔。自分の手が宙を泳ぐところ。踵の高い慣れない靴が、思い切り横倒しになるところ。


 それから――



「頑張れ!」



 そう言って私に叫んだ、公爵様の顔。

 それがそっくりそのまま、初恋の人の顔だということ。


 そういうことが全部、大切な思い出と一緒に、頭を過っていた。



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