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頑張って働きました。文字通り命がけで。

作者: 相葉 綴

 最後のキーを叩き終えて、ずるずるとキーボードから手が滑り落ちた。

 短針はてっぺんを超えて、少しだけ右に、その身を傾けている。しんと静まり返った部屋には、パソコンのファンの音だけが響いていた。部屋は明るいのに、目の前が暗い。瞼が、重い。もう腕が上がらない。


 あぁ、水を飲まなきゃ。飯も食わなきゃ。風呂にも入らなきゃ。

 明日からも、今日と変わらない日常が待っている。それなのに。

 どっしりと身を預けたデスクチェアから、一歩も立ち上がれなかった。このためにいい椅子を買っておいて、よかったな。

 どこか遠くのほうから、バイクがリズムを刻む音が聞こえてきた。集団ではなく、ひとりきりのようだ。もう日付も変わっているのに元気なものだ。こちとら昨日から一睡もせずに資料を作っていたというのに。


 ここのところ、いろいろ立て込みすぎている。

 既存プロジェクトの納期遅延。新規プロジェクトの立ち上げ。新人の受け入れ。上司の異動に、自身の異動。それぞれは小規模でありつつも、四本のプロジェクトを同時に進めながら社内のごたごたにも巻き込まれた。

 当然、担当しているプロジェクトの管理はその場しのぎになり、メンバーには非常に迷惑をかけたと思っている。それでも、精一杯だったのだ。リーダーである自分が実作業を担当してはいけないことはわかっているが、それしか手がなかったのだ。いったいどうすればよかったのか。いったいどうすればいいのか。


 そんなことばかりが、頭をぐるぐる巡る。

 本当はわかっている。きっとスタートで躓いたのだ。もっと余裕を持てばよかった。納期をタイトにしすぎたのだ。わかっている。けれど、余裕を持たせたところで、どうなったのかはわからない。

 結局、結果論でしかないのだ。


 こんなだから婚期も逃すんだろうなぁ。

 ディスプレイとの睨めっこを長年続けたおかげで、目つきが悪くなった。クマも目立つようになってきた。

 おしゃれだってする余裕はなくて、今だって誰も見ていないことをいいことに、ホットパンツにキャミソールでパソコンにかじりついていた。

 いくら自宅とはいえ、こんなだらしない恰好で仕事をするような女を、誰が好き好んでめとるというのか。そんなもの好きがいるのなら、一度くらい見てみたかった。


 最後に彼氏がいたのはいつだったか。確か、就職してしばらくはいたはずだ。学生時代に付き合っていた彼氏と別れて、同期と付き合い始めたのはいつだったか。結局、性格の不一致だか生活リズムの不一致だか、よくわからない理由で別れた。

 そういえば、私は当時から忙しかったのに、あいつはなんであんなに暇そうだったんだ。不公平だ。あいつは、今でも元気に働いているだろうか。靴底をすり減らして、方方を歩き回っているだろうか。朗らかで人懐っこい笑顔のあいつには、営業は天職だったろうな。


「よっ、生きてるかー」


 突然、玄関ドアが開いた。


 今何時だと思ってる。

 そう怒鳴ろうとしたけれど、喉から出てきたのはかすれた呼吸の音、声になりきれなかった息の成れの果てだけだった。


 ドカドカと荒い足音と、ビニール袋のシャカシャカした音が近づいてくる。


「あちゃー、死に体だな」


 私の顔を覗き込んだ男が言った。


「なんで……」


 いるんだ、と詰問したかったが、やはり声が出ない。体も動かない。目線だけで私の心の内を訴えかける。


「そりゃだって、オレ別れたつもりないもん。お前が早とちりしただけ」


「そんなはず……」


 言い返そうとして、黙る。

 その当時の会話を、出来事を、もう働いていない頭で必死に思い出す。


 それはまさに売り言葉に買い言葉。しかも、売りつけてるのは私。性格や生活リズムの不一致なんかじゃない。私のせいだった。私が一方的に怒って、喚いて、こいつを追い出したんだった。


「あの頃、お前必死だったからなぁ……。しばらくそっとしとこうと思って」


 やつが悪びれもせず言う。そりゃそうだ。こいつはなにも悪くない。疲れて頭が回らない。悪くもないのに、勝手に悪者扱いしてしまう。認識を改められない。


「とりあえずそこから動こうぜ」


 言って、デスクを指差す。点きっぱなしのモニタ、開きっぱなしの企画資料。それを光源に、煌々と照らされる自身の死に顔を想像して薄く笑った。


「……体が動かん」


 しばらくして、ぼそっとつぶやくことができた。体どころか、腕も上がらんのだ。


「ったく……」


 やつは苦笑しながら、私に肩を貸した。腕を取り上げて肩に回し、腰に手を添えて、よっと立ち上がらせる。よろよろと肩を借りながら、ベッドに腰掛けた。


「ほら」


 キャップの外されたスポーツドリンクが差し出される。

 けれど、それさえ受け取る余裕もなくて、受け取るはずの両腕は体の横にだらんと垂れたままだ。


「仕方ねぇなぁ……」


 ペットボトルを、そっと口元にあてがわれる。傾き、口の中に冷たい液体が流れてきた。しょっぱいそれを、なんとか嚥下する。


 じわぁっと体になにかが広がっていく。


 からからに乾ききっていた臓腑に、四肢に、少しずつ水分が染み込んでいく。


 生きている。


 まだ、生きている。


 そう感じた。


「ちょっ……ごふっ」


 流し込まれすぎてむせた。長いよ、バカ。


「ごめんごめん」


 手首で口元を拭いつつ、やつを睨み上げると、ヘラヘラと笑っていた。緊張感のない、その緩みきったにやけ面に、なぜだか心の緊張が緩んでいく。少しずつ、少しずつ、なにかが解れていく。


 思えば、入社からずっと、私は走り続けてきた。なにかを成したくて、なにかに成りたくて、それが自分のためであり、誰かのためになると信じて、ずっとずっと頑張ってきた。

 でも、ふと思う。

 私は、なんでそんなに頑張れたんだろう。

 辛かったし、苦しかったし、疲れるし大変で。見返りなんてほとんど感じなくて、前に進んでるように思えなくて。それでも、ただがむしゃらに、ただひたむきに、日々の業務に邁進できたのは、なぜなんだろう。


 もう一度、やつを見上げる。

 やっぱりこいつは、へらへらと笑みを浮かべていた。


――あぁ、だからなのか。


 すっと、なにかが喉元を通って、胃の辺りにすとんと落ちた。

 つっかえが取れたような、憑き物が落ちたような、心を覆い隠すように絡みついていて、モヤモヤとさせていたなにかが消え去っていく。


「ん?」


 目が合う。

 相変わらず、軽薄そうな表情をしている。

 いや、軽薄なのではないな、これは。こいつなりに私を安心させようとして微笑んでくれているのかもしれない。そう考えると、なんだかかわいらしくも見えてくる。


「いや、なんでもないよ」


 見つめ合っていた目線を外し、ベッドに横になる。ふかふかのマットレスが私の体重をしっかりと受け止めてくれた。

 途端に、睡魔がやってくる。やはり、私は相当疲れていたらしい。そりゃそうか。もう日もまたいでいるのだ。疲れないわけがない。

 けれど……。


 重たくなっていく瞼の向こうで、目を細めてほほ笑む彼の顔を見ながら、思う。


 これならまた、頑張れそうだ。

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