重く受け止める人がたった1人増えるよりも、軽く取り組む人が100人増えた方が効果的
長くなったので、先にまとめを書きます。
・現在の日本で起こっている児童虐待の中には、かなり酷いものもあります。有り得ない様に思われても、先ずは現実を信じて下さい。
・あなたが既に出会った虐待被害経験者は、数十人から数百人。自分から明かす事はほぼ無いので、身近に居ても気が付きません。
・好意だったとしても、「相手はどう思うか?」考えてから行動して下さい。自分にとって問題の無い行動でも、相手が嫌がるなら止めて欲しいと思います。
『小説家になろう』では、ドアマットヒロインものや追放ものがランキングの常連です。
導入部の困難は、現実世界なら通報されてもおかしくない状況である事も少なくありません。
しかし、主人公の苦しみを読んで、「私達の世界に実際に起きている児童虐待の問題に取り組もう」と思う人など、存在するでしょうか。
居ないよ、という話ですよね。
『なろう』は別に社会派の作品を上げても構わないサイトですけれど、読み手の主流はラノベを望んでいると言っていいでしょう。
気楽な作品を楽しんでいる時に、そんな重い社会問題に想いを馳せたりしてないと思います。
けれど、時々思うんです。
「重大な問題だから、相応しい重厚な気持ちになれないうちは、考えません」
「ゆるふわな気持ちだけど、ほんのちょっとだけ、無理なく出来る範囲で、もう取り組んでまーす」
当事者目線で、どちらが嬉しいか?
後者に決まってますよね。
気持ちがどうかなんて実際はよく分からないですし、「何はともあれ取り組んでもらえている方が良い」なんて、当たり前です。
という訳で、このエッセーは「重い社会問題でも、気楽な気持ちで取り組んでもらおう」と思って書いています。
と言った途端に暗い話題で恐縮ですが、次の様な犯罪について考えてみて下さい。
なお、犯行以前の被害者と加害者は全くの他人であり、どの場合も、犯人は全く反省をしていないとします。
小学校にも上がらない幼い子に、煙草の火を押し付け、痕が一生消えない火傷を負わせる。
女子中学生に日常的な売春を強要し、利益を奪い取る。
この様な犯罪の被害者に対して、加害者を赦す様に言う人の事を、どう思いますか? 大して事情も知らないのに、「許してあげて」と被害者に説教をする様な人物です。
恐らく、共感できる人は非常に少ないのではないでしょうか。
では、加害者と被害者が実の親子だったとしたら、どうでしょう? 特に、加害者が母親だった場合は? つまり、児童虐待の話ですね。
他の条件は同じとします。
先ほどより共感する人がかなり多いと思われます。「母親なら、反省しているはずだ」という意見も出るでしょう。あるいは、「そんな事件が現実に存在するはずない」と言い出す人もいるかもしれません。付け足しておくと、私達の現実世界に起きている虐待には、もっと酷いものもあります。
「何故、そんな違いが?」という点は、後で考察します。
取り上げたいのは、児童虐待被害者の、成長後の人生についてです。
先ほど挙げた犯罪例は、被害者の心にダメージを残すような出来事です。
赤の他人が犯人であっても胸中に爪痕を残すのに、ましてや実の親から受けたとなれば、被害者の心にはどんなに深い傷が残る事でしょう。
十分なケアやサポートが必要になります。
なのに、周囲からの共感は、赤の他人が加害者だった時よりも得られにくい。
実の親から受けた被害だからこそ、より大きな支援が必要になるのに、実の親から受けた被害だからこそ、周囲の理解や協力が得られない。
虐待の被害に遭った人は、犯行から逃れた後も救われない事になってしまいます。
分かり難かったかもしれませんので、小説の形で考えてみましょう。
なるべく短く仕上げますので、どうぞ最後までお付き合い下さい。
……目が覚めると、赤ちゃんになっていた。生まれ変わりかな? どうやら、今世も男であるらしい。見た感じ、また現代日本みたいだ。
新しい父は、ちょっとヤンチャな感じがあるが格好いい。母は、気弱そうだが美人だ。まだしゃべれないが、パパ、ママと呼ぼう。良い人生になるといいな。
「うるせぇっ!」
……泣く度にパパから怒鳴られるようになった。まだ、赤ちゃんだから、泣く事しか出来ないのに……。その度に、ママはパパに「ごめんなさい」、僕には「早く泣き止んで」と言う。
……ママが居ない時に泣くと、パパから抓られる様になった。そんな事されたらもっと泣いちゃうよ。でも、僕が泣くとパパは笑うんだ。何だか嫌な笑い方。ママからは「あなたが泣くと私が叱られちゃう」と言われている。……ママ。ママは僕の事、好きでいてくれてるよね? 僕のママなんだよね?
少し体を動かせる様になってきた。嬉しい。……だってパパは僕を殴るから。パパから逃げなきゃいけない。ママ。ねぇ、ママ、助けてよ。痛いよ。苦しいよ。怖いよ。……でも、ママは僕から目を逸らすんだ。
パパが殴って、僕が泣く。パパが怒鳴って、ママが僕を叩く。ママ。ねぇ、ママ、どうして僕を助けてくれないの? どうして、パパと一緒に僕を叩く様になったの?
ねぇ、ママ。僕知ってるよ。僕達が助かる方法。ママが僕を抱いて警察や児童相談所に行けばいいんだよ。どうして、そうしてくれないの? ママしか、僕を助けられないんだよ! ……僕が助かるよりも、ママはパパと一緒に居る方がいいの?
……もう、ママの事を許せそうにない。僕の体には、煙草の火を押し当てて出来た火傷がある。時間が経って傷が乾いても、醜いクレーターの様に痕が残る。ママが僕に押し当てた。あの瞬間、前世も含めてこんなに叫んだことは無いというほどの悲鳴が、僕の喉から迸った。その様子をパパは楽しそうにビデオに撮っていた。また後で見て楽しむんだって。
「うるせぇっ! ゴミ箱にでも入ってろ!」
ある日、そう言ってパパは、散々嬲った僕の体を本当にゴミ箱に押し込んだ。
……そうして、僕は死んだ。まだ2歳だった。
ママは、最後まで、僕の体をゴミ箱から出してはくれなかった。
地上では、パパとママの裁判が行われている。監禁致死の罪に問われている。……殺人罪ではないんだって。
ゴミ箱の中で死んだのがセンセーショナルだったせいで、ニュースでは僕の事件がよく取り上げられている。
パパの事を非難する声がたくさん上がっている。
……ママは、世間から同情されているみたいだ。ママの事も「被害者だった」みたいな言い方をする人がいっぱい居る。
大勢の人が、ママはパパが「怖くて逆らえなかっただけ」だって言ってる。
僕は、僕を助けてくれなかったママの事を「悪くない」って言われるのが納得いかなくて、そういう人達の心の中を見てみた。
「女は男よりも弱いから、逆らえなくても仕方ない」んだって。……その人も、僕のママと同じ様に、いざって時は自分の子を生贄にするつもりなのかな? 僕のママに同情するって事は、そう言う事だと思うんだけど。
それから、「母親に愛されない子の存在は哀し過ぎる」って思ってる人達。
「せめて母親だけは我が子を愛していた」と信じたいから、「脅されて仕方なかった」事にしようと思うんだって。その方が僕にとって「救いがある」んだって。
……「救い」って、何? ママが僕を助けてくれてたら、それは間違いなく救いだったよ。
でも、僕が助けられなかった後の世界で、ママが僕を「実は愛していた」事にするのは、誰にとっての「救い」なの?
裁判が終わって、パパの懲役は11年、ママは7年になった。
パパの裁判の後には、裁判員をした人達が記者会見で量刑の短さを語っていた。ママの裁判員の人も「被害者の気持ちを代弁する人が、いないのがつらい」と言ってくれた。
ママの裁判の後では、パパの時と違って、記者会見を引き受けた裁判員はいなかった。……ママを「無罪にしなかった事を責められるのが怖い」って思ってる人が居た。
見た事のない女の人が囁いている。
「みんな、なんで母親を庇うんですか、守ろうとするんですか? 結局、虐待に加担してたんですよ」
女の人は、僕と同じ様な目に遭っていた。彼女の左足は、父親からの暴力のせいで、上手く動かなくなっている。
彼女の母親は、僕のママと同じく、彼女を一度も守ろうとはしなかった。
生き残って大人になっていた彼女だけど、羨ましいとは思えなかった。だって、彼女は女性だったから。僕と違って、女性だからこその虐待を……。
みんな、どうして、僕達に「母親」の事だけは許させようとするの?
「実は愛していた」なら、僕達を助けてくれたっていいじゃない!
一度も助けてくれなかったどころか酷い目に遭わせておいて、謝ってくれたこともない相手を、許す事が出来ない、僕達が悪いの?
まるで世界から、僕達の心が「要らない」って言われたみたいだ。
……あの女の人は、自殺してしまった。
歯を食いしばって生きて来た彼女だったけど、虐待被害者への無理解からくる理不尽にずっと苦しんできた。
彼女は僕の裁判の様子を見て、自分が世界から理解される日のくる事を、諦めてしまった。
僕は、彼女に会えるのを待っていたけど、ここには来られないんだって。自殺だから、地獄行きなんだって。
様子を覗いて見たけど、割と平気そうにしてた。地上の地獄と違って、こっちでは人間の尊厳は踏みにじられないからね。
僕は、生まれ変わる事が出来る。生まれ変われば、つらい記憶も全部、忘れられる。
でも、望まなきゃいけない。あの世界に再び生まれる事を。
パパとママの事は許さなくても大丈夫。
許さないといけないのは、あの世界。
僕を見殺しにしたママを、被害者みたいに言った、あの世界。
僕の事を、「せめて母親からは愛されていた」事にしたくて、ママの罪を見なかった事にしようとしていた、あの世界。
僕は、僕達は、あの世界を再び望むことが出来るんだろうか?
如何でしたか? 楽しめました?
「どこが気楽な作品だ!? こんな胸糞展開、読ませやがって! こんなもんにポイントなんか入れねーよ!」
はい、全くその通りですよね。
ポイントを入れてもらえないというより、先ず読まれないですよね、あらすじ見ただけで。児童虐待を訴えると書いてあっても、というか、書いてあるからこそ。
この話は、現実の事件を参考にして書いてまして、まあ、ここまで目を通してもらっただけでも、最低限の目的は達してるかなと思います。でも、出来れば最後までお付き合い下さい。
犯人の容姿と日常生活の部分、個々の気持ちの表現はもちろんフィクションです。
一方、2008年12月の練馬区で、当時2歳の男の子がゴミ箱に閉じ込められて窒息死した、という事件は事実。証拠品として被告による撮影映像があった話や量刑も参考にしています。
検察側は、被害者の全身に虐待の跡とみられる傷が52か所あったと主張したそうです。その中に煙草の痕があったかどうかは分かりませんが、他の事件では煙草の火による虐待は珍しくありません。
女性の話は、植原亮太さんの『ルポ 虐待サバイバー』集英社新書(2022年)の「はじめに」から取らせてもらいました。
「どうせフィクションなんでしょう」「誇張してるんだよね」「現実世界の事じゃないんだから」の様な取り組まない理由としての、虚構を否定したかったのです。
詳細が気になるのであれば、実際に調べてみて下さい。
他の児童虐待の実例であれば、CreatMediaから出ている『日本一醜い親への手紙』シリーズなどもあります。尚、手にした際は、心を強くしてお読み下さい。
本当の地獄って、この世界の事だよね。そんな気持ちになります。
あの世の地獄は、閻魔王の裁きの後に行く所ですから、理不尽さは私達の世界にしかありません。皮肉ですね。
厚生労働省から、2021年度の児童虐待件数が207,660件、死者数は74人と発表されています。
死者数に関しては、把握されていないだけで、実際は5倍近いという推計値もあります。しかも、概ね横ばい傾向で10年前あるいは20年前と比較して、減少しているとは言えません。
ここで、虐待被害者が身近にどの程度存在するのか、考えてみましょう。
同じく2021年度の児童数が1493万人ですので、単純に計算して207,660件÷1493万人≒1.390%です。
1%を少し超える値になっていますが、虐待件数が延べ数である場合に過大評価な一方で、通報されなかった虐待が相当数存在する時は過小評価と言えるでしょう。
差し引きして、大雑把な目安として扱う事にします。
つまり、日本では100人と知り合いになった場合、その内の1人程度が児童虐待の被害経験を持っている可能性があるのです。
この作品にR15指定を入れない様にした理由でもあります。
学校で3クラスほどあれば同級生の1人が、今まさに虐待されているという計算です。
いつも不衛生だったり、体にやけに傷が多かったり、常に暗い表情をしていたりする子に気が付いたら、助けて欲しいと思います。
家で虐待されている子どもは、学校ではいじめに遭う事が多いという調査結果があります。余裕のない状態に追い込まれているから、当然と言えば当然ですが、本当にやるせない。
どうか協力して下さい。
児童虐待用の緊急コールナンバー189や、こども家庭庁の相談窓口などもあります。
学校に通っている年頃のお子さんを持っている方は、我が子の同級生の誰かが、今、虐待に遭っているという考えを持っていて下さい。
虐待経験者の割合は、意外と多いと思われませんでしたか?
人は、生涯で合計約3万人と出会うらしいです。
年齢にもよりますが、数千人から数万人との出会いはもう済んでいるでしょう。
という事は、数十人から数百人の児童虐待被害者と出会ったはずですね?
この作品は、あなたの身近に居る児童虐待を生き残った人『虐待サバイバー』への対応を考えてもらいたいという意図で書いています。
「虐待経験者がそんなに多いはずは無い」と仰る方へ。
児童相談所が対応したものだけで、年間20万件もの児童虐待が発生しています。
日本小児科学会が、15歳未満の児童の虐待死亡数は年間350人、という推計値を2016年に発表しています。厚生労働省が把握していた死者の3~5倍にあたります。
実際の虐待件数も、分かっているよりも遥かに多いかもしれないと考えた方が妥当ではないでしょうか。
確かに、虐待被害経験者数に関しては調査結果を見つけられませんでしたので、大雑把な目安です。
ですが、児童虐待とは、遠い何処かで起きた他人事ではなく、「自分の身近に居る誰かの話なのだ」と感じて頂きたいです。
虐待被害者が、苦し過ぎて飲み込めていない経験を他人に話さないのは、当たり前の事ですから。
虐待死も減らしたいけれど、「虐待経験がある人への世の無理解を少しでも無くしたい」というのが、今回のテーマです。
要は、先ほどの小説部分の「女の人」の事です。こういう自殺を、私は止めたい。
愛されて育った皆さんには、親にされた経験を悩んでいる人の話を聞いても、「お母さんを許してあげて」の様な事を言わないで欲しい。
何故なのか、できる限り分かってもらえる様に書いていきます。
そして、どうしてもらいたいかも、私なりにまとめていきます。
そろそろ、私の事について語っておきましょう。
私は、実の母親による日常的な暴言に晒されながら育ちました。
「お前みたいな子が生まれると分かっていたら、産まなかった」
「生まれてこなければ良かったのに」
「お前なんか、死んでしまえ!」
何か母の気に入らない行動を取ってしまうと、この様に言われました。
ただ、言われた事があるだけではありません。
耳がおかしくなるのではないかという程の大音声で、何時間も罵倒され続けます。
目立たない場所で小さく身を縮こまらせ、時には「本当に殺されてしまうんじゃないか」と感じながら、何もする事が出来ない、ただ辛いだけの時間をやり過ごしてきました。
ようやく、母が叫ばなくなった頃、僅かな希望を胸に、そっと様子を伺います。
「まだ生きてるのか! さっき『死ね』って言っただろ! 早く死ね!」
でも、残念ながら、この様な言葉を投げつけられるのが常でした。
そしてまた、「お前が生まれると分かっていたら、産まなかった」「生まれてこなければ良かったのに」「死んでしまえ!」を繰り返されます。
そんな日常が、物心ついた頃から成人までずっと続いていました。
6歳の時点で、母の暴言が3日に1日の割合だったと言い切れます。
この認識が明瞭なのは、嘘つき呼ばわりされた事があったから。
ショックのあまり、数十年経っても一連の出来事がVTRの如く鮮明に思い出されます。
入ったばかりの小学校の同級生とそれぞれの親が揃った場でした。
経緯の詳細は省略しますが、目新しい同級生の親に、私が自分の母から日常的に「生まれてこなければ良かった」と言われていると話しました。
そして、噓つきだと言われたのです。
「私はこの子のお母さんを知っているけど、ちゃんとした人よ。そんな事を言う訳が無い」
「だから、この子は噓つき」
「みなさーん、聞いてくださーい。この子は噓つきですよー。ここに大噓つきがいますよー」
彼女は自身の夫に止められてなお、私が噓つきである事を周囲にアピールし続けていました。
後日、私の母親が彼女に私の事を「こんな子、生まれてこなければ良かったのに」と直接言った事で誤解は解けましたが、何の意味があったでしょう。
周囲に声を張り上げて訴えた彼女は、私にだけひっそりと謝りに来ました。
私の心を僅かたりとも慰める事の無い謝罪だったと言わざるを得ません。
学校へ通う様になってからは、母との接触時間が減ったために、少しずつ暴言の頻度が下がっていきました。
成長した私が要領良くなっていった事もあり、3日に1日が、1週間に1日、数週間に1日、1ヶ月に1日、数ヶ月に1日へと徐々に減少していきました。
数ヶ月に1日の頻度になった頃、私は高校生でした。
けれど、時間が経っても、母の根本が変わる事はありません。回数が減っただけです。
居合わせた父が仲裁に入ってくれた事は、一度もありません。
実の親から虐待を受けて育つのは、地獄の様な体験です。
でも、その地獄から抜けたとしても、向かう先には次の地獄が広がっています。
何故なら、世の中の人々に虐待経験者の気持ちは理解されないから。
「他者の気持ちを自分のものの様に感じる」
共感の能力は、非常に有用です。
思いやりや親切と同義語の様に使う人も居るでしょう。
しかし、万能ではない点を意識してもらいたい時があります。
例えば、ここまでの話。ゴミ箱虐待死事件や私の体験談。
あなたは、どの立場で読んでいましたか?
虐待被害を受ける子ども側に共感してくれた方には、「お母さんを許してあげて」と言わないで欲しいという私の訴えは、比較的届きやすいと思われます。
けれど、親の目線で考えていた方には、まだ納得してもらえていないのではないでしょうか?
子の将来を考えれば、ただ優しいだけの親でいる訳にいかない事も分かります。時には嫌われても、躾をしないといけない。親を批判する子の言葉に反論もしたくなるでしょう。
ですが、児童虐待は躾とは違います。子どものための行動ではない。
共感は、舞台に1つしか設置されていないスポットライトの様に作用します。
つまり、異なる状況にある複数人に対して、同時に共感する事は基本的に不可能という事です。
子どもの立場で考えていたら、親側に親しみは感じません。
親目線で見ていたら、子の苦しみは無視しがちです。
治療を待つ小さな女の子が痛みに耐えかねて泣いているのを見たら、「もっと早く診てあげて」と訴える事もあるでしょう。その時、医師がもっと幼くてもっと重症な患者を優先している事には、気付かないかもしれません。
共感している相手には思いやれるけれど、別の立場に対しては、寧ろ理解から遠ざかってしまう。
「共感」の持つ一面です。
自分が誰に共感しているのかを意識して、別の立場に視点を動かすのは、理性の仕事だと思います。
先ずは、虐待被害者に共感して読んでもらえませんか?
結論を出す時に、元の立場に戻る事も出来ます。
私は、実の母親に暴言を言われながら育った事を、信じてもらえた事が一度もありません。
逆に「そんな嘘をつくのは良くない」「そんな嘘をついてまで、他人の関心を引きたいの?」などと言われてきました。
おかげで少々、人間不信を患っていますね。
今ではもう、自分の事を他人に話そうとは思いません。
当時と違って、SOSの意味もありませんから。
ここに書いているのは、実体験の方が児童虐待問題を身近に感じてもらいやすいと考えたからです。
同情や慰め、励ましが欲しいのではありません。
虐待の経験の無い方から、感想で私自身に対して何か書かれたら、寧ろ苦痛に感じるでしょう。
誰かに愚痴を聞いてもらうのが、嫌な事があった時の対処法として有効な事は分かります。
けれど、「嫌な事」がもっと重大な時は、共感してもらおうと思わない、という事も知っておいてもらいたいと思います。
「会社を辞めたい」とよく言う人は意外と辞めない、本当に死のうと思っている人は相談せずに自殺してしまう、などが近い様に感じます。
私と同じ様に親から心理的虐待を受けて育ち、親しい人に共感してもらいたくて話をして、却って心にダメージを負ったという経験談は珍しくありません。
「あなたの気持ちは分かるよ。でも、もうお母さんを許してあげて」
こんな事を言われてしまって、半日くらい何も手につかず、ただ涙を流して過ごした。そんなエピソードをいくつか見聞きした事があります。
何故、そんな事が起こるのか。
相手が「お母さん」に共感してしまっているからですね。
しかも無意識なので、目の前にいる「子」の事も「分かっているつもり」です。
日本の「お母さん」大変ですよね。
家事も、子育ても、全部一人で責任を持たなきゃいけない。夫婦共働きなのに、家庭内のやらなきゃいけない事の99%が「お母さん」の仕事だったりします。
「完璧には出来なくても仕方ない」ですよね。
だから、他人の家の「お母さん」だったとしても、「母親」をしてる人に同情してしまう。
先ほどセリフも、「分かるよ」と「でも」の間に、「私も人の親になったから思うんだけど」の様な言葉が入りがちです。
でも、待って下さい。
最初の方に書いた小説部分の「僕のママ」は、本当に、あなたが共感すべき相手でしたか?
少し、例え話をしましょう。
主人公になった気持ちでお考え下さい。
今、2歳の男の子を育てています。初めての育児で、毎日がもうギリギリ。ある日、どうしても必要があって、子どもを連れて銀行へ出かけました。そこで、なんと強盗事件に遭遇してしまいました。叫ぶ犯人に、怯えて泣く息子。
必死で我が子をあやしていると、犯人に怒鳴りつけられました。
「そのガキを殺せ! 出来なかったら、俺に寄越せ! どっちもダメなら、お前を殺してやる!」
さて、主人公はどうするでしょう?
A: 自分の身を守るために、犯人に子どもを渡す。
B: 自分の安全が脅かされるとしても、我が子を守れる方法を探す。
もし、あなたが躊躇なくAを選ぶなら、ゴミ箱虐待死事件の母親に共感するのは、仕方ないでしょう。
究極の選択なので、Aを選んだからといって非難するつもりもありません。散々迷うとか、実際どうなるか分からないとかも、至って普通の事だと思います。
でも、絶対にBを選ぶというなら、極端にA寄りの存在とは、相容れないんじゃないですか?
「僕のママ」やそのモデル、「彼女の母親」はAの傾向が非常に強い人だった可能性が高いです。
ゴミ箱虐待死事件の母親側の裁判員も、同じ様に思ったんじゃないですか?
積極的に殺そうとしたのではないけれど、「助けようとしたとは、とても思えない」と判断したんじゃないでしょうか。
起こした事件に対する妥当性はともかく、世間的に7年の懲役が軽いとは言えないと思います。
裁判員たちは、「普通の人」の代表です。事件の詳細を知らなければ、「母親」に同情する様な人だったんではないでしょうか。少なくとも、そういう人もいたはずです。
でも、実際の証拠を見、関係者の話を聞いて、「世間の声」とはズレのある気持ちを抱いた。だから、「父親」と違って「母親」の記者会見を引き受ける裁判員がいなかったんじゃないかと思います。
一般的に言って、人生で最初の人間関係は、「母親」との繋がりですよね。
絶対に自分を守ってくれる存在。必ず自分の話を聞いてくれる存在。自分を甘やかしてくれる存在。
そういう「お母さん」を安全な基地の様にして、人は少しずつ人生を踏み出していきます。
必ずしも生みの母である必要はないので、場合によっては父親だったり祖母だったりするでしょうが、「お母さん」と表記していきます。
一方で、虐待を受ける、とはどういう事か?
児童虐待防止法による定義では、身体的虐待、心理的虐待、ネグレクト、性的虐待の4つです。
けれど、ここでは母親との関係に注目したいと思います。
他ならぬ母親本人から、日常的に暴力を受けている。
暴力は父親や家庭内の他の人間からだが、母親は知っていて助けてくれない。
明白な暴力は無いが、両親、特に母親から関心を持ってもらえない。
これらのどれか、もしくは重複や全てに当たる状態が、虐待を受けるという事だと思います。
*暴力は物理的なものと精神的なもの、性的なもののどれかです。重複や全ての場合も含みます。
言い換えると、虐待を受けた人には、母親は居ても「お母さん」は居なかったのです。
寧ろ、あなたが共感しようとしている母親は「共感」の能力に欠けていて、我が子の気持ちが分からないからこそ、酷い虐待をしてしまう人である可能性が高いと言えます。
人の想像力にも限界があります。
ニュースにでもなっていれば大きな事件でも信じられるけれど、目の前に居る一見すると普通の人が、刑事事件になっていてもおかしくない様な体験をしているとは、なかなか思えないものです。
「どうせ、大げさに言ってるに決まってる」
「せいぜい、子どもの頃に何回か言われただけなんでしょう」
この様に、実態を小さく見積もってしまう。
しかし、人は受けた心の傷が深い時ほど、原因になった事件をあまり大きくは語れないものです。
刑事事件として告発されてもおかしくない程のイジメや、性犯罪、あるいは災害によって家族を喪った経験。
同様の被害を防ぐために語り部の役を担おうとする人はいても、虚構に近い様な誇張ができる人は滅多にいません。
一方、聞き手は話を常に小さく受け止めがちです。
自分の経験に無い大きさの悲劇を、人は想像できない。
さらに「虐待が既に終わった」という思い込みもあります。
今の日本語には、完了形が存在しません。
そのため「母親から暴言を吐かれてきた」という表現は過去形だと認識されます。
「かつてはそんな事もあったが、今はもう無い。完全に過去の事だ」の様な判断を、無意識にしてしまいがちです。
確かに、被害者は大人になっており、幼少期と違って親から逃げられる様になっています。
だからと言って、「母親がもう暴言を吐く事が無くなった」のではありません。
今なお、何かがあれば「お前の様な子が生まれると分かっていたら、産まなかった」「生まれてこなければ良かったのに」「今すぐ死ね」と言われるのが現在です。
状況が改善していない中で「もうお母さんを許してあげて」と言われたなら、実質的な意味は「母親の要求を受けて、自殺しろ」になりませんか?
少なくとも、私はそう感じます。
虐待とは無縁な人にとって、「我が子に酷い事を言ってしまった事を、きっと後悔しているはずだ」と考えるのは普通の事なんでしょうね。だから、そんな話は無かったのに、母親が「もう我が子に謝罪した」様に思ってしまっているかもしれません。
私が成人してから、母がニュースを見ていて、「今の法律はおかしい」と言っていた事があります。
児童虐待事件の裁判のニュースでした。
何をおかしいと思っているのか疑問に思いながら話を聞いていると、「親は我が子に何をしても良い」と言っていました。
「親が自分の子を意図的に殺しても、無罪なのが当然」という意味かと問うたところ、はっきりと是の答えが返ってきました。
母は、自分の事を慈愛に満ちた母親だという意味の事をしばしば言っていたのですが、やっと意味が分かりました。
「殺しても構わない我が子を、怪我もさせずに面倒を見ている」それが、母の言う慈愛なのです。
理屈は通っていると思いました。
私が、自分の母親の事を狂人だと認識した瞬間です。
他の人の虐待経験も読んでみましたが、加害者が「親は我が子に何をしても良い」という認識をしているケースはかなり多く存在していると思いました。
寧ろ、そんな認識だからこそ、他人にすら出来ない様な事も実行できるのでしょう。
児童虐待の犯罪者にしろ、パートナーに暴力を振るうDVの加害者にしろ、見た目に判別がつく事はありません。
「家庭外で常識的に振舞うためのストレスで家族に暴力を振るう」という意見もあります。
ニュースで、「とてもそんな人には見えなかった」という犯人の知人のインタビュー映像が流れたりしませんか?
驚きの表現だとしても、「そんな事をする親は居ない」とは言わないで下さい。
本当に酷い児童虐待事件では、被害者が文字通り殺されかけたり、それで負った傷で手足に不自由が残っていたり、実父から日常的にレイプされていたり、その結果の妊娠中絶で子供が産めない体になっていたり、実母による強姦のお膳立てでPTSDになっていたりします。
信じられないならば、実際に調べてみて下さい。実在の被害者に向かって、疑われていると思わせて傷つけてしまう前に。
「親に向かって、こんな事を書くなんて許せない」「何を偉そうに」などと言う人も居ます。
でも、決めるのは私ではありません。そういう人のお子さん、本人です。
もし、本当に我が子を愛して育てていれば、体が動かなくなっても、見捨てられたりはしないでしょう。
逆に「これだけの金と手間暇をかけたんだから老後の面倒は見てもらって当たり前」と思っていても、成人した子が嫌がれば、放っておかれたり、「早く死んでくれないかな」という態度を隠されもしなかったりするかもしれません。
私から言えるのは、もしも心に引っかかっている言動があれば、本人に謝った方が良いという事だけです。
本当に大した事が無いのであれば、何の問題も発生しないでしょう。
謝っても許してもらえない場合であっても、謝らないより、まだマシです。
ここまで、児童虐待問題を親の立場で見てしまうために被害者が救われない、という点について述べてきました。
しかし、視点を変えても、まだ虐待サバイバーには共感してもらえない場合があります。
ここからは、子の立場で見ても理解できない部分がある事について、説明したいと思います。
あなたは、「今まさに虐待されている子が親に対して感じるのは、怒りや憤り、恨み辛みである」と思っていませんか?
間違いでもないですが、認識が不十分です。
親に虐待される、という意味を理解していません。
赤ちゃんだった時の思い出が豊富な人は、あまり居ないでしょう。
これは記憶が古いからというより、脳が未発達だったためです。
人間は、未完成の状態で生まれてきます。成長と共に心身が出来上がっていくのです。
人生で最初の人間関係は、母親との繋がりです。絶対に自分を守ってくれる存在。必ず自分の話を聞いてくれる存在。自分を甘やかしてくれる存在。そういう「お母さん」を安全な基地の様にして、人は少しずつ人生を踏み出していく、と書きました。
そして虐待されるという事は、母親は居るけれど「お母さん」が居ないとも述べました。
つまり、虐待サバイバーは、自我が形成される重要な幼児期に、成長に必要な安心できる環境、保護者、人間関係を持っていなかったのです。
当然、その影響は精神に残ります。
少し迂遠に感じられるでしょうが、理解してもらうために『家庭内ストックホルム症候群』の説明から始めさせて下さい。
『ストックホルム症候群』は、誘拐や監禁の被害者が、脅迫や虐待してくる犯人に対して共感や愛情を抱く心理的現象を指します。
生きるか死ぬかというような極限状態下でなければ、あまり見られないと言われています。
名付けの由来となった事件では、5日間の監禁で人質側に、犯人への協力行動、警察の救助活動に対する妨害が見られる様になりました。
本来ならば、自分達の命を不当に脅かす犯人に対抗し、助けようとしてくれている警察にこそ協力すべきです。なのに、逆の行動を取るという思考になっていました。
自我の確立した大人が、わずか5日間の体験で、正しい判断が出来なくなったのです。
しかも、損なわれた精神の健康は、怪我からの回復よりも取り戻すのが難しい。
後遺症と思われる行動は、事件の数十年後にも見られたそうです。
『家庭内ストックホルム症候群』は、文字通り、ストックホルム症候群が家庭内で見られる場合の事です。
パートナーからのDVや、児童虐待などが該当するでしょう。
そう。
虐待されて育った人は、親に対する感情や判断がおかしくなってしまっているところから人生が始まるのです。
自我が確立している大人ですら、わずか5日間で精神の健康を損ねるのですから。
赤ん坊の頃から虐待を受け続けて、健全な精神になれなくても、何も不自然ではありません。
「お父さんが僕を殴るのは、僕がダメな人間だから」
「お母さんが私に『お前はどうしようもないクズだ』と言うのは、私を良くしようと思ってくれているから」
そんな風に、思わされてきた。
だから、虐待サバイバーが親に対する怒りを顕わにしているなら、それは、その人の心が本来あるべき健康にようやく近付きつつあるという事です。
ずっと何年も抱え続けてきた怒りとは限りません。
親元から離れ、世間の常識を知り、親が自分に施していたものが理不尽な暴力だった事に、やっと気付けた。
そうして、やっと怒り始めたばかりなのです。
その怒りは、被害者が自分の人生を取り戻す最初の一歩を踏み出すための、大切な命の灯です。
親への怒りを否定するという事は、自分の力でようやく地獄から這い出してた虐待被害者を、抜け出してきたばかりの地獄へ押し戻そうという意味に他ならない。
けれど、今の世間では、「怒り」という感情が殊の外、ネガティブなものだと思われています。
『小説家になろう』の作品の中でも、虐待してきた親への主人公の怒りや恨み辛みが描かれていないものがあります。
作品全体では、『ざまあ』という因果応報があったとしても、主人公の心の中にそういう感情が無い。
「ネガティブな感情から、いち早く解き放たれる主人公は、器が大きい」そういう風潮の作品が、少なからず存在するように思います。
怒り、悲しみ、憎しみ、恨み。
確かに、抱いていると気分の悪いものではありますね。
だとしても、不要なものでしょうか?
ロボトミー手術という治療法があります。
癇癪やヒステリーを抑える効果があり、その功績はノーベル賞に至りました。
しかし、感情を失ってしまうという副作用があり、現在では使われなくなっています。
もしも、ロボトミー手術がネガティブな感情だけを人から取り去るものであったなら、どうでしょうか?
手術を受けたいと思いますか?
殴られたとしても、怒りを感じる事はなく、裏切られたとしても、悲しく思う事もありません。
ネガティブな感情は全て捨ててしまうのですから、状況が何も改善しなくても、嫌な気持ちにはならずにすみます。
世界に広まるべきだと考えますか?
少なくとも、私は御免です。
自分の自然な感情を失ってまで、周囲に合わせて生きていく意味を感じません。
小さな事であれば、嫌な出来事も時間経過で忘れていけるでしょう。
けれど、親との関係性の様な大きな事は、本人が心の中でもう一度向かい合って乗り越えなければ、消化できないものです。
逃げ出せただけで「憎しみや恨みは溶ける様に消えていった」の様な表現を見た事があります。
ネガティブな感情に囚われない主人公は器が大きい、という表現なのでしょうか。
結果的に「親を許せないのは、子の人格が悪いから」というメッセージになりかねない。虐待被害者を追い詰める事になっているのに、気が付いてくれていない事を悲しく思います。
また、許す許さないは、感情だけの問題ではありません。
私の場合、母を許すか迷っていた時期があります。
そして、半ば許してしまっていたためか、大失敗をしてしまったのです。
会社の同僚に「死ね」と言ってしまいました。上司からもパワハラに当たらない範囲でかなり厳しい叱責を受けました。
勿論、反省しきりですが、一方で「母親にいつも言われてたセリフなのに、私が他人に言うのは一度も許されないんだな」とも思ってしまったんです。
その時に、母の事は許さない事に決めました。致命的セリフを放置し続けていた父の事も。
私にとって両親を許すという事は、「死ね」という言い回しを日常語にしてしまうという事です。実質的に、常識を捨てるに近い。
これからも私の人生は続きますので、そんな非常識な人間になる訳にはいきません。必然的に、両親を許さない事になります。
謝罪も無いのに親を許すという事は、虐待行為自体を人生に受け入れる事になりかねません。
もちろん、切り分けて考えるべきかもしれませんが、皆さんの想像以上に労力が必要です。
そんな苦労をしてまで、親を許さないといけないのか?
私の答えは非です。
そもそも、他人が被害者に許しを強要する事自体が、間違っていないでしょうか?
酷い事をされたなら、怒って当然ですよね。
謝罪もなく、嫌な事をされ続けて、怒りをずっと抱いていたとして、非難される謂れは無い。
幼かった被害者は、怒りすら、自由に持つ事が許される状況にはありませんでした。
なのに、ずっと怒りの感情だけに囚われて生きてきた罪人の様に非難され、やっと芽生えた気持ちすら否定される。
絶望して自殺してしまっても、おかしくないのです。
ところで、冒頭で「重い社会問題でも、気楽な気持ちで取り組んでもらおう」と書きました。
この意図は、逆からも考えてもらえればと思っています。
例えば、子どもの頃のあなたが勉強を頑張ってテストで90点を取ったとします。お父さんに褒めてもらいたかったのに、「なんだ、100点じゃないのか」という応えしか返ってこなかった。
あなたの胸の中には鉛の様なものが残り、勉強を頑張る気持ちは目減りしていきました。
あるいは、別の例。お母さんが「お勉強をたくさんして、良い大学に入ってね」とお兄ちゃんに言っているのを聞いたあなたは、自分も頑張って良い成績を取りました。けれど、お母さんには「あなたは女の子だから、勉強はそこそこでいいのよ」と言われて、四年制大学への進学は許してもらえませんでした。
法律で認められている児童虐待は、被害者の心身に異常が残ってもおかしくない様な強度の強いものになっています。税金を使用しての対策が必要という点で、どこかで線引きをしなくてはならないからです。
けれど、もしもあなたの心に、ご両親や周囲の大人からもらった「冷たくて重い何か」があるならば、ここで一緒に考えてもらえればと思っています。
「両親には感謝してるけど、あの時のあの言葉だけは、許せそうにない」
「お父さんお母さんの事は好きだけど、こういう部分だけは受け入れられない」
「大した理由ではないと言われるけれど、親を憎む気持ちがどうしても消せない」
ネガティブな気持ちだったとしても、大事な心の一部です。他人からも、あなた自身からも、ちゃんと大切にされるべきです。
人の心は千差万別なので、同じ様な経験をしても、得られる気持ちも様々でしょう。
他人には大した事では無い様に思えても、自分では深く傷つく様な出来事だったかもしれない。逆もまた然り。
周囲に向かって表現する必要もありません。伝えたい相手には聞いてもらえばいいし、誰にも言いたくなければ黙っていればいい。
両親との関係もあなたが良ければ、別にそのままで良い。
けれど、世間体を気にして忘れようとするのは危険です。
どんなに見ない様にしても、無くなりはしないので、コントロール出来ない感情になってしまいます。
知らないうちに、あなた自身を傷つけたり、両親に似ている別の誰かを代りに攻撃してしまったりする事があります。
ちゃんと向き合わないと自分の人生を始められません。
取り組まないのも自由ですが、その選択も含めて、あなたの権利です。
結果はあなたに跳ね返ってくるのだから。
関係ない誰かに「たかがそんな事で?」「勉強しない言い訳でしょ」「心が狭いな」などと言われる筋合いはありません。
ましてや、加害者側の「大した事ない」呼ばわりなど聞くまでもない。
「他人が嫌がる事はしない」のは、人間関係の基本です。
「何故、嫌なのか」を今回は出来るだけ書いていますが、本来は理由なしに尊重されるべき事だと思います。
「嫌がっているみたいだけど、私だったら何とも思わない事だから、ちょっと不愉快になる程度なんでしょう」の様に、過小評価をするのも止めて下さい。
既に精神的にボロボロの相手に加える追撃は、小さくても致命的です。
そもそも、ダメージが大きいか小さいかで許されるかどうかが決まるのではありません。
意思表示をしている相手に、嫌がっている事を敢えて行うのは、非難されるべき行動です。
最後に、実際に虐待経験者と接するにあたっての、私なりの提案をします。
あくまで個人の意見ですが、虐待経験の無い方にとって予想していなかった内容であったならば、尚、気に留めておいてもらいたいと思います。
基本は、ここまでお願いしてきた事に常識的な内容を足し合わせただけです。3つに分けて、まとめました。
・先ずは信じて下さい。驚きの表現だったとしても「嘘でしょう」「信じられない」「親がそんな事をするはずがない」などで終わらせないで下さい。
・虐待経験者が親への怒りや憎しみを持つ事を否定しないで下さい。本人が苦しそうだとしても、周囲に言われて無くせるものでも、無くすべきものでもありません。
・児童虐待に限った事ではありませんが、善意だったとしても、「相手はどう思うか?」考えてから行動に移して下さい。自分にとって問題の無い言動でも、相手が嫌がるなら止めて欲しいと思います。
実践では、虐待経験者を2つに分けて考えます。
自分の体験が虐待だと「分かっている」人と「分かっていない」人です。
「分かっていない」人の方が、重症です。
家庭内ストックホルム症候群の洗脳が解けていない状態と言ってもいいでしょう。
例えば、癌の手術を受ける事になったのに、迷惑がかかると言って親に連絡しようとしない。あるいは、失業して自身の経済状況に問題があるのに、親に仕送りをしようとする。
子ども時代の話を聞けば、親を憎んでも当然の様な事をされているのに、親の言う事には絶対に従わないといけないと思って行動しています。
「どうして、親に頼ろうとしないのだろう?」と思ったら、「児童虐待をする様な、頼る事が出来ない親なのでは?」という考えをしてみてください。
親が敵の様なものですから、縁が薄くても周囲が動いた方が助かると思います。
心の傷が、さらに他の障害、精神疾患になってしまっている場合もあります。
例えば、どう見ても死のうとしたとしか思えない行動を取ったのに、本人は前後の事を全く覚えていない。過去の体験談を聞けば、自殺を考えても不自然ではないほどの酷い目に遭っているのに、不自然に無自覚である様な場合。
自分が親に愛されていなかった事を、受け入れられていないからです。
親からされた事が異常だと認めてしまえば、自分が愛されていなかったと分かってしまう。
だから、明らかに理不尽な扱いを未だに親から受けているのに、素直に従おうとしてしまうのです。
正常な親を持った人と違って、虐待被害者にとっての愛は、見返りを前提にしています。
その様に育てられたからです。自分が親にとって「いい子」でなくては、愛してもらえなかった。
だから、誰かに親切にされるためには、先ず自分が相手に何かしてあげなくてはならないと思っています。
そのため、不当に他人から搾取する様な人と恋愛関係になってしまったり、周囲に助けを求めるべき状態でも我慢してしまったりします。逆に、何の見返りもなく親切にしてくれる相手からは、遠ざかってしまう。
回復していくためには、親と出来るだけ離れる事が必要です。
虐待をする親は、我が子の事をまるで家畜の様に思っていて、関係を続けていても、搾取されるだけです。
ここで、他者が彼らにしてあげられるのは、自分を犠牲にするだけの関係が異常だと知らせる事です。
とは言え、本人達も薄々気が付いていて、敢えて知らない振りをしたい事なので、知らせ方はデリケートな問題になります。
虐待被害者も「あなたの親は異常だよ」とは言われたくないのです。しかし、正常だとも言われたくない、複雑な心境をしていると思います。
メンタルケアを薦めるなら、虐待被害に詳しいところである必要があります。
心理学が専門の方であっても、優しい「お母さん」を前提にしている場合は、症状が良くなりません。
本人が自分を虐待被害者だと分かっていない場合で、最も重要なのは、相手が話を切り出してきた時の対応を誤らない事です。
ごく普通のトーンで、突然、悲惨な告白が始まります。
今は、児童虐待の話だと分かっているから、心構えが出来ているでしょうが、虐待サバイバー相手だと分かっていない時に始まります。
それでいて「何故、そんな事が刑事事件として取り扱われなかったのか?」くらいの経験をしています。
驚くでしょうが、頭ごなしに否定しないで下さい。
「嘘でしょう?」「信じられない!」の様なリアクションを取ってしまったなら、驚きの表現であって疑っている訳ではないと訂正して下さい。
事件になっていないのは、被害者が子どもだったからです。
常識を教えるべき保護者が起こした虐待だから。被害者に「それは犯罪だ」と教える人との出会いが無かったら、事件として通報されません。
そのため、誰にも知られずに被害がそのままになってしまった。そんな事が起こりえます。
因みに、私の場合も、児童相談所へ通報されなかったため、事件ではなかった事になっています。通報されていれば、児童虐待として取り扱われているケースでした。
他人同士ならば傷害罪になるところを、被害者が実の子だったために、何も無かったことになっている場合があります。親が付けた傷だから、障害が残るほどだったのに、人知れず不注意などで済まされています。
強姦致傷になるべきものを、心の傷の深さ故に被害者が口を噤み、闇に葬り去られている事もあります。
殺人罪であってもおかしくないものを、訴えるべき被害者の遺族が真犯人であるために、事故で片付けられているケースは、医師が数百件と推定していると前述しました。
せめて「もっと特別な事を言う様に、話を始めて欲しい」と思われるかもしれませんが、彼らにはそれが日常だったので、仕方ない面があります。
しかも恐ろしい事に、数十年の間にたった1人へ話をして否定されたと感じると、そのまま心を病んでしまったり、自殺してしまったりします。
「いやらしい事をされてる」「小突かれてる」程度の言い方をされた場合も、要注意です。
実際の話を聞くと、刑事事件レベルでもおかしくありません。話の切り出しや表現が小さ過ぎるのは、本人が受け入れ切れていないからです。
「そんなの普通だよ」「みんな、そうだって」「気にしないで大丈夫」などと返すと、重症化して後で大変な事になる場合があります。
例として、実の父親からの性的虐待を相談した中学生の実話を挙げておきましょう。
「抱き着いてのキス」という内容を聞いた教師は、「愛情故のスキンシップだから、許してあげて」と答えたそうです。
やがて、父親は娘の乳房をもんだり女性器を直接触ったりする様になりましたが、勇気の訴えを踏みにじられた少女は、誰にも相談できないままでした。
*参考文献:「日本一醜い親への手紙 そんな親なら捨てちゃえば?」1997年、CreatMedia。
(注意、比較的マイルドな例をかいつまんで取り上げています)
母親から殴られていたという話は聞いたけど、父親から同様の暴力は無かったと確認しました。
慰めのつもりで、「じゃあ、お父さんには優しくされてたんだ。良かったね」と声をかける。
ところが、父親からは性暴力を振るわれていて、望まない妊娠中絶を繰り返し、子を産めない体になっていた。
「じゃあ、お父さんには優しくされてたんだ。良かったね」は、全く意味の異なる言葉になってしまいます。
相手は、そのまま自殺しに行くかもしれない。
心折れないで下さい。
そもそも、何か声をかけてあげる必要がありません。
言われたくない言葉は数え切れないほど存在しますが、言って欲しいセリフは全く思い浮かびません。
基本的に、本人が自分の力で癒していくしかありません。
周囲が出来るのは、話を聞く事くらいです。
「私の言葉なら、被害者を癒してあげられる」と思うならば傲慢であり、相手への蔑みです。あなたが望むのは、被害者が救われる事ですか? それとも、可哀そうな人を助けたという、あなたへの賞賛ですか?
可哀想だと感じたとしても、自分ならば「私はあなたの事を可哀想だと思います」というメッセージを受け取りたいかどうか、考えてみて下さい。
私が虐待サバイバーの人達に感じているのはリスペクトであって、憐れみではないとお伝えしておきます。
解決策を口にする人も居ますが、表現する前によく考えて下さい。
「子どもを持つことを許可制にする」というアイデアは、よく聞きます。
このアイデアは、差別を生む可能性があるだけでなく、虐待をする人としない人の間にグレーゾーンがある事を無視しており、親にもなっていない状態では判別できないという現実的な問題があります。
そして何より、虐待サバイバーの誕生自体を全否定しているとも捉えられます。つまり、「虐待被害者は、生まれて来なければ良かった」という意味があり、実際に存在している本人に向かって言うべき事ではありません。
「どうして、そんな酷い事が?」という気持ちは分かりますが、これも被害者本人に言う事ではありません。理由は、当人こそが知りたいでしょう。
「酷い目に遭ったね」という同情の表現のつもりかもしれませんが、言われた側は感じません。「どうして?」「何故?」は、相手を責める響きがあります。
「なんて酷い」「許せない」も言わない下さい。
加害者を責めているつもりだったとしても、被害者の心が慰められる事はありません。
虐待経験者は、自己肯定感が低くなる様な育てられ方をしているので、自分の存在を責められている様に感じます。
とにかく、知っている人、考えてくれる人が、少しでも増える事に意義があります。
実際の話がハード過ぎて耐えられなくても構いません。
「話が重すぎて聞けない」と答えて下さい。
無理に聞こうとするより、遥かに誠実です。
協力して頂きたい理由は、人道面からだけではありません。
経済損失が大きいのです。
虐待被害経験者は、当然ですが心の傷が大きく、自然に回復するタイプのダメージでも無いので、重篤な精神疾患になってしまう場合が多い。しかも、非常に回復しにくいらしいです。
働けなくなった結果、生活保護受給者になってしまうのは当然の帰結でしょう。
でも、彼らは酷い目に遭ったのに、犯罪者にもならず、真面目に働いてきたんです。
精神疾患が改善するか、そもそも心の傷を悪化させなければ、優良な納税者なんです。
あなたの周りの、やけに自己犠牲的な人に、少し注意を払ってもらえればと願います。
ただ、安易な同情は禁物です。
今、しようとしている事は、自分がされたらどう思うか。
自分は構わない事でも、嫌がる人は居ないか。
実行へ移す前に相手の立場で考える。
嫌がっていたら止める。
特別な事ではありませんよね。
重症度の低い方、自分自身の経験が虐待だったと分かっている人への対応のコツにいきます。
彼らは、親から理不尽な目に遭わされてきた事、そして、社会が自分を助けてくれなかった事を知っています。
その結果どうなっているかというと、……性格が歪んでいます。
かまってちゃん、マウント癖、フレネミー、自称HSP、その他諸々の困ったちゃん状態。
皆が皆、そうでは無いと思いますが、虐待被害経験者がこういう困ったちゃんになっている場合があります。
ここまで書いてきた事が台無しに思われるかもしませんが、これはこれで重要な事です。
困ったちゃんの中には、自分の虐待の話をする人も居ます。
大げさに話を盛っている様に見えて、実はよく聞くと……、全く嘘をついていないどころか、本当はもっと重篤な被害に遭っている場合もあり得ます。
従って、噓つき呼ばわりは絶対やってはなりません。
関心を引くための嘘だと決めつけ、正義感から「そんな嘘は良くないよ」などと言ってしまうと、凄まじいまでの恨みを買います。
もし、あなたが「月の無い夜に、めった刺しにされて死ぬのが夢なの」と言うなら、私の手に負えませんのでコメントは差し控えます。
けれど、おじいちゃんおばあちゃんになるまで生きて畳の上で死ぬのが理想ならば、健康に留意して畳のある家屋を入手するのみならず、不必要に他人を怒らせるものではありません。
そもそも、他人を噓つき呼ばわりした時点で、非難されるべきはあなたです。
真実かどうかに寄らず、名誉毀損で訴えられる可能性があります。
虐待の話が真実と分かると気の毒に思えるかもしれませんが、安易な同情が禁物なのも変わりません。
困った人だと思っても、一人前とみなして対応して下さい。
当人がするべき仕事は、ちゃんと能力があるという前提で、毅然と対処しましょう。
理不尽な行いも我慢すべきではありません。上司や公平な第三者にきちんと訴えましょう。
本人に児童虐待の自覚があるケースで、最も重要なのは、困ったちゃん達からあなた自身を守る事です。
振り回されるのは、彼ら本人の為にもならない。
周囲に攻撃的になってしまっている彼らの罪を増やさない事も思いやりです。
ゴミ箱窒息死事件もそうですが、実際の虐待事件は、本当に救いが無いです。
私の場合などはまだぬるい方でしょうが、誇張どころか語っていない事もあります。ハッピーエンド要素も持っていません。
可哀想な主人公が登場して、さらに酷い目に遭って話が展開し、悲惨なまま亡くなって終わり。
あるいは、生き残っているけれど、体には後遺症が残り、現在は重篤な精神病を患っている。助けてくれる親しい人も存在しないので、生活保護を受けて何とか生きている。精神病は原因を理解してもらえないから回復しなくて、明るい未来が全く描けない。そんな人が少なくない。しかも、碌に把握されてもいません。
*参考文献:植原亮太『ルポ 虐待サバイバー』集英社新書(2022年)
ドアマットヒロインのざまあなし、バッドエンド版ですね。なろう小説だったら、多分、最低評価ですよ。
けれど、耐えられないからと言って、現実の被害者にハッピーエンドを押し付けないで下さい。
「お母さんを許してあげて」もそういう事だと思います。「本当はお母さんも、あなたを愛していたんだよ」と言う人もいます。
恋愛の元鞘ものみたいに、「誤解があっただけで、本当は愛されていた」事にしたい、という思いからくる強要。
そうして、ハッピーエンドだった事にして立ち去っていった人は満足かもしれないけれど、現実の問題は何も解決していません。
実際に起きた虐待は、被害者の心に傷となって残っていますから。
生じた虚構と現実のギャップがさらに被害者を苦しめます。
結果として、自殺して舞台から立ち去るか、精神を壊した人形となって残るかの2択の様になってしまう。
繰り返しますが、周囲が助けられる事などありません。
傷つける事は容易く出来るけど、救ってはあげられないのが現実です。
本人達が、自分で這い上がってくるしかない。
とは言え、ダメージの大きい言葉を言われないだけで、かなり違います。
虐待する親の元に生まれてしまうのは、酷いハズレくじに当たる様なものです。言わば、親ガチャ大ハズレ。
デフォルトで貰うものもつらくて苦しいですが、その後も問題です。
虐待被害者の割合は、およそ1%。つまり、残りの99%からは理解されない人生を送る事になります。
99%側の人が悪気無しに一言だけで済ませたとしても、同じセリフを繰り返し何度も、ずっと言われ続けるのです。
ピンとこないかもしれないので、例え話をしますね。不要なら読み飛ばして下さい。
異世界転生をしました。
でも、生活水準も同じくらいなので、無双できなくて平民として普通に暮らしています。
大体は満足なんだけど、どうしても我慢できない事があります。
それは音。
昔から、ガラスを引っ搔く音が耐えられないくらい苦手なんだけれど、前世では困らなかった。共感してくれる人が結構いたから。
でも、今世では、共感してくれる人が全く居ない。
しかも、道路信号に当たる魔道具の動作音になっていて、街中でしょっちゅう聞く事になってしまう。
聞こえると思わず耳を塞いでしまうのだけど、毎回不思議そうにされます。
「どうしたの?」「危ないよ」「普通の音じゃない。なんで苦手なの?」
会う人会う人、皆に聞かれる。
説明するとすぐに納得してくれる人が多いけど、とにかく毎回聞かれるから、うんざりする。
たまに、しつこく「どうして?」「おかしいよ」「なんで?」って、ずっと言ってくる人もいるし。
なんでかなんて、そんなの私にだって分からないよ。聞かれたって困る。
ホントしんどい。
多数派は少数派の事を意識しなくても生きていけるけれど、少数派は多数派を意識せずには生きられない。
そういう事です。
児童虐待の経験に限った事では無いですけれどね。
もしもあなたが、少数派としての生き辛さを知っているなら、「どうして?」「なんで、皆と同じ様にしないの?」「もっと普通に生きればいいのに」の様な言葉を投げかけられる事のやるせなさが分かると思います。
「それが出来たら苦労はしていない」ですよね。
逆に、「良く分からなかった」と感じたなら、あなたはラッキーな人。これまでの人生をずっと強者の立場で生きて来られたんです。
代わりに、社会的弱者の気持ちを察する事は出来ません。
「そんな事はない」ではなく、どうか「頑張って意識しないと、理解できない人が大勢いるんだ」と思って頂きたい。切実に。
随分と長くなってしまいました。
まとめて終わりたいと思います。
今の日本の児童虐待死は年間350人(日本小児科学会による推計値、2016年)。毎日大体1人の子どもが保護者に殺されているくらいの計算になります。しかし、事件として認められているのは3分の1もありません。
虐待されて育った人は、思ったよりも身近に存在していると認識して下さい。
誰彼構わず「お父さんお母さんを大事にしなさい」の様な事を押し付けると、自殺するしかなくなる人も世の中には居ます。
もしも、主旨に賛同して頂けるならば、この内容を広めて下さい。
当事者ではないと思われる誰かと、話をしてもらえればと思います。
多少なりとも知っている人が、増えていく事が最も効果的です。
地獄を生き延びた人が、せめて普通の世界で生き残っていけます様に。
少しでも、悲しい自殺が食い止められます様に。
そして、虐待によって死亡した数え切れないほどの被害者の冥福を祈って。
読んで下さってありがとうございます。
この作品は、別小説「『我が子を愛さない親は存在しない』という呪詛」(https://ncode.syosetu.com/n4834jc/)の作中エッセーでもあります。
どちらも、児童虐待について扱い、「被害者側が嫌がる事を押し付けないでほしい」を最も言いたい事としています。
ある程度切り取ってまとめざるを得ないため、腹落ちしないところもあったと思います。
ですが、主旨にご賛同いただけるなら、ポイントやブクマを頂けると、他の人にも読んでもらうきっかけになります。
よろしくお願いいたします。
感想欄は、質疑応答的に使わせて下さい。
当事者意識の無い感想は歓迎できません。
質問には丁寧に答えたいと思いますので、どこがどの様に分からなかったのか、親と子のどちらの立場で読んだのかなど、説明に必要な情報を出来るだけ入れて下さい。
長くなる分には構いませんので、伝えたい内容は出来る限り説明して頂きたいです。
個人的な事情を含む場合は、メッセージ機能を使用して頂いて構いません。プライバシーには配慮いたします。