第二話 きっと彼は来ない
その後、リーゼは私に各地の様子を見せて回った。
彼女に魔術の素養はさほどないので、おそらく例のこそ泥さんあたりがどこかに潜んでいるのだろう。
映像を見ている間、何度か第三王子さまが暴れそうになったが、そのたびに妹が鞭を鳴らし、事なきを得た。
あれにはどうやら、魔獣を制御する術式――あるいは成分が織り込まれているらしい。
ただ、気になったのは、第三王子さまが動き出すのは、いつもリーゼがこの計画について否定的な意見を述べるときだった。
やはりこのあたり、関係性があるのだろうか。
さて、各地の様子だが、驚きでおろそかになった初回はともかく、二回目以降は正確に観察出来た。
民草が魔獣へと変貌すること。
これは事実であると仮定していいだろう。
どれほど私を目の敵にしているリーゼでも、嫌がらせのためだけに遠見の映像をでっち上げたりはしない。
彼女はそこまで、無駄に徹せられない。
だから注目すべきは、魔獣化が一気に進むものとそうでないものがいることの違いの方だった。
部分的に、手足などが変わっているもの。
完全に魔獣化しているもの。
何も変化がないもの。
いくつかのパターンに分かれており、だからこそパニックが生じている。
当然だ、目の前で知人がモンスターになれば、誰だって恐怖するし混乱する。
驚き、恐怖し、或いは怒りによって立ち向かい、結果として傷を負って逃げ惑い。
説得を試み、失敗し、その積み重ねが隣人への疑いへと変わっていく。
自分と他者のなにが違うかすら解らないのだから。
すでに軍隊も動いているだろうが、このまま行くと冤罪によって多くの人が処刑される未来まで見える。
事実、王都が映し出されたときには、いつかエドガーさまと一緒に歩いた町並みが混乱の只中にあり、治安維持部隊が出動していた。
「おや?」
リーゼが次々に切り替える各地の光景。
その一つを見て、私は首をかしげることとなる。
砂漠……おそらく無名都市では、魔獣化する人間が非常に少なかったからだ。
おまけに、組織だった抵抗まで行われている。
ほかの領地とは明らかに違う。
いったいなぜ?
犯罪互助組織、煙龍会が噛んでいる?
「……そういえば、リーゼは無名都市を訪ねていたそうですね」
「犯罪王選定、その直前の話ですわ」
「なにか細工を?」
「探りを入れるのが下手だという自覚、お姉様はもっと持って下さいまし。答えは、いいえ。何人かそそのかしはしましたが、神に――いえ、クレエアの家名に誓って、暗躍などしておりませんことよ」
「…………」
それは、極めて重要な情報だった。
彼女は犯罪王の選定をかき回しはしたが、妨害はしていない。
つまり――駄目だ。
何か閃きかけたが、届かない。
もどかしくなって、また指輪に触れる。
もう少し、リーゼから情報を引き出そう。
「この術式は不完全ですね」
「ええ、みそっかすお姉様を生贄とはしておりませんので」
「……いつ、私は挙式を?」
「時期はわたくしに一任されておりますので、たったいまからでも。或いはお姉様の態度によっては、少し伸ばしてさしあげても構いませんわよ?」
「命乞いの作法は心得ています」
「結構。ですが」
彼女が、半月の笑みで、嘲笑する。
「数日の助命をしたところで、助けに来てくれるあてがありますの?」
「――――」
咄嗟に、言葉が出なかった。
ほんの数秒前まで、私は十全な余裕を持って妹と対峙していた。
けれど、縋る寄る辺があるのとかと問われたとき、真っ先に脳裏に浮かんだ方のことを何も知らないのだと理解して。
脳裏が、真っ白になって。
「ああ、そういえば結婚しておりましたね。政略結婚。でも、打算での婚礼ですし、そこまで信頼の置ける方でして?」
「も――」
もちろんと答えたい。
彼のことは信じている。
大切で、傍にいるだけでぬくもりを感じて、謎解きしか興味のない私が、世の中の多くのことを知る切っ掛けをくれて。
だが、違う。
そんなことが重要なのではない。
救援など、それこそ信頼出来る従者、親友たるカレン・デュラがいる。
だが、私は誰よりも先にあのかたを、エドガーさまの顔を思い浮かべた。
そして理解する。
彼のことを。
まだなにも知らないままなのだと。
どこかで高をくくっていた。
もしくは興味がなかった。
政略結婚、儀式のような関係、仮面の夫婦。
初めて出会った夜、私は彼に告げた。
謎を解かせて欲しいと、それ以外は要らないと。
では、では、では。
エドガーさまは、どうだったのだろうか……?
私は彼を知ろうとする努力を怠った。
知ろうとした矢先にこうなった。
助けに来て欲しいなんて、厚かましくも願っているわけではない。
けれど、思うのだ。
なぜ彼は、閣下は、エドガーさまは。
あんなにも私を、大切にしてくれたのかと。
彼はずっと助けてくれた。
私に付き合い、困難をその刃で斬り破ってくれた。
体面か、それとも仮にも夫婦だったからか?
いま眼前に転がっているのは、巨大で空虚な謎だ。
エドガー・ハイネマンはなぜ、ラーベ・クレエアを容認したのか。
私は謎を放置出来ない。
ゆえに考えてしまう。
けれど、考えても、考えても、どれほど悩んでも、その答えは出ない。
だって私は。
彼の妻として、ふさわしいことなんてやってこなかった。
ならば、かつてリーゼが大陸をひっくり返そうとしたときの言葉も。
私を愛するという彼の言葉が嘘か本当かという問いかけの答えも、いまでは違うものになってしまっているのではないだろうか?
そう思うと、キュッと胸が苦しくなった。
どうしようもない絶望が押し寄せてきて。
視界がぐらぐらと揺れて。
「……なんて酷い、興の削がれる顔」
侮蔑の言葉を。
リーゼが。
とても優しく、囁いた。
「もういいですわ。今日は取りやめとしましょう。明日、確実にお姉様を獣へと落とします。それまで、精々各地の混乱でも御覧になっていて下さいまし。さあ、行きますわよ、第三王子だったかた?」
『ぐるあ!』
吠える魔獣に鞭を打ち、リーゼが塔の最上階から退出していく。
私に残されたもの、それは。
魔術によって変貌していく人々の映像と。
そして、どうしようもなく苦しい、閣下への想いだった。




