第九話 霧のなかの大男事件(答え合わせ) 後編
息を呑む声が二つ。
靴屋のハーフフッドは顔を俯かせ。
そばかす赤毛のトールマンは、目を見開いた。
「アンナさんは以前、視察を兼ねてシェレンさんのお店で採寸をしてもらっています。そしてアンナさんとディビッドさんは事実上の内縁関係にあった」
だから、起きたことを時系列で列挙していくならばこうなる。
ディビッドさんが靴の作成をシェレンさんに依頼する。
その出来映えについて二人は議論を重ねる。
接触が増えたことで、アンナさんは二人が不倫状態にあるのではないかと危惧。
あの大雨の夜、自身が待機任務にあることを利用してディビッドさんの工房を訪ねる。
問い詰めてもはぐらかされた彼女は、そこでシェレンさんの靴を目撃。
「親しくもない男性のもとに女物の靴があるというのは、充分浮気を疑う要因になります。そこでアンナさんは衝動的にディビッドさんへ襲いかかります。おそらく背後から不意を突いて、後頭部を一撃したのでしょう」
そこで、魔が差した。
この罪を恋敵に押しつけようと考えてしまったのだ。
「アンナさんはシェレンさんの靴を無理矢理足に巻き付けて、雨がやむのを待って外に出ます」
そして、できるだけ足跡が綺麗に残るようにしながら靴屋へと向かう。
「このとき、濃霧が発生したことで、シェレンさんは錯覚するのです。大男がディビッドさん工房へ向かって行っているというように」
実際は彼女へ冤罪を着せるため忍び寄っていたわけだが。
「待ってください。うちの店までやってくることは出来たでしょう。しかし、そこから足跡を残さずに、どうやってアンナさまが逃走したというのですか?」
疑義を呈したのは、またしてもシェレンさんだ。
ただ、今回の疑問は至極もっともである。
確かに靴屋の前には飛び石があるが、それは途中までだ。
ある程度進めば、どうしても泥道に踏み出すこととなる。
「アンナさまは立派な警邏さまです。日頃からこのあたりの治安維持に奔走し、事件があれば誰よりも早く駆け付け、現場の保全へと詰めてらっしゃいます。靴底だってすり減るのが早くて、そんな立派な方が罪を犯すなど」
「現場保全。いま、そう仰いましたね?」
シェレンさんは不要に頷くことも言い募ることもしなかった。
ただ、彼女の瞳は私への恐怖に揺れていて。
「保全魔術。事件現場を一定の状態へ保つための、状態静止術式。これを地面に打てばどうでしょうか」
「それは、足跡を」
「そう、何の痕跡も残さずに移動出来ます。衛士であるアンナさんには、これが可能だったのです」
結果、アンナさんは無事に脱出し、その足で衛兵詰め所へと向かう。
現場から、あるものを持ち去ったまま。
「とあるかたに探していただきました。これが事件の全てを明瞭にします」
閣下の懐刀さんに頼んで探してもらっていたものを、私は取り出す。
それを見たとき、最早誰も言葉を発さなかった。
「金属製の底材が打ち込まれたトールマン用の靴。即ち、シェレンさんがディビッド氏の発注を受けて作った靴」
そして。
「ディビッド氏を殴打した凶器にして、アンナさん……あなたに渡されるはずだった、プレゼントです」
§§
ぐらりと、赤髪の長身が揺らいだ。
アンナさんが膝をつき、ガタガタと奮えている。
浮かんでいたのは、理解と慚愧の表情。
彼女はいま、全てを理解したのだ、事件の真実を。
「ディビッドは、浮気なんてしていなかった……?」
「そうです、アンナさん。むしろ、日々歩きづめのあなたを気遣っていた。だからできるだけ足への負担が少なく、その上で靴底がすり減ることもない履き物を贈ろうとしていたのです、心からの愛情を込めて」
最後の言葉は完全な推論であるが、おそらく合っているだろう。
そっとシェレンさんを見遣れば、彼女は痛恨の極みといった表情で口を開いた。
「間違いありません。そのように、オーダーを受けましたから」
「だったら、自分は何を……? 自分は、取り返しのつかないことを――」
歯の根も合わない様子で震え上がり、いまにも失神してしまいそうなアンナさん。
そんなとき、一つの影がエドガーさまの横に現れた。
先ほどまで凶器の靴を探してくれていた衛兵さんだ。
彼は耳打ちを終えると、こちらへウインクをしてまた姿を消す。
閣下が、よく通る声で、こう仰った。
「安堵せよ、穢れなき罪人。いま、ディビッドの意識が回復した」
「え?」
「元より致命傷ではなかった。医者も快癒すると述べている」
「――――」
呆然とするアンナさん。
彼女を、駆け寄った影が抱きしめる。
シェレンさんだった。
「よかったですね、本当によかったですね、アンナさま」
長身のトールマンが座り込み。
小柄なハーフウッドがその身体を包み込む。
それはなんだか、一枚の絵画から抜け出したような光景で。
「解決ですね」
私はホッと、息をついたのだった。
§§
「今回の事件は、お互いをもっとよく知っていれば起きなかったのかもしれませんね」
連行されていくアンナさんの後ろ姿を見詰めながら、私はそんなことを呟く。
だって、そうだろう?
すれ違いがなければ、相手を思っての行動が裏目に出なければ、こんな悲劇は起きることはなかったのだ。
「案ずるな、小鳥。あの衛士はさしたる罪に問われることはない」
「それは、ディビッド氏が彼女を訴えないからですか?」
「加えて俺が握りつぶすからだ。こんなことで、お前の靴を作る職人の手を鈍らせてはならぬ」
それは、なんとまた職権乱用で……。
いや、なんであれ悪いことではないのかもしれない。
事実、私は今、とある思いを抱いていた。
「閣下」
「なんだ」
「私は、もっとエドガーさまのことが知りたいです」
もっとずっと、たくさんのことを教えて欲しい。
「好きな食べ物は何ですか? どんな色を好みますか? 生きたい場所、見てみたい景色、子どもの頃のエピソード、なんでも教えてください」
後悔したくない。
今回のことで痛感した。平穏など、いとも容易く失われる。
であるなら、私もっと、彼のことを知りたかった。
エドガー・ハイネマン。
大切な伴侶のことを。
「だから、教えてください」
「俺は。俺の、好物は――」
彼が、何かを口にしようとした。
その時だ。
『るあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!』
人間のものとは思えない雄叫びが、街中に響き渡る。
刹那、颶風の如きものが、私へと殺到。
身体が、持ち上げられる。
エドガーさまにされたときのようにではない、元乱暴に、乱雑に。
巨大なバケモノ。
ひとがたをした毛むくじゃらの何かが、爛々と両目を黄色に光らせながら、この身を掴み取っていた。
悲鳴を上げる間もなく、化け物が跳ぶ。
「ラーベ!」
こちらへと手を伸ばす閣下。
今までに見たこともないような、必死の表情。
私も賢明に、彼の手を掴もうとして。
――けれど、この試みは失敗する。
『ばああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!』
絶叫をあげるもの。
異形の巨体。
私を掴んだバケモノは、地を蹴り、瞬く間にエドガーさまから離れていく。
町には同じようなモンスターが溢れ、混乱の極みへと達し。
かくして、私たちは引き裂かれる。
これは、後に大陸を揺るがす最悪の事件。
〝皆人類魔獣化事件〟の始まりだったことを。
私は、数日後、思い知ることになるのだ。
他ならない、身内の言葉によって――




