第八話 霧のなかの大男事件(答え合わせ) 前編
「じ――自分を疑うのでありますか?」
アンナさんは取り乱さなかった。
ただ困惑したように首を傾ぎ、曖昧な表情を浮かべるだけ。
私は、黙って彼女を凝視する。
うっと呻いた彼女は、弁明のようなものを口にした。
「違うのであります。自分は通報しただけで、ディビッドを殺してなんて――」
「――それが、あなたを疑う切っ掛けでした。アンナさん、あなたは誰も殺していない。事実として殺害に至っていない。ディビッドさんは、死んでいない」
「なに、を、言って」
「被害者である彼は意識不明で入院中です。にもかかわらず、どうしてあなたは彼が死んだと思っていたのですか? 工房の中へ、踏み入り、被害者の身体を見たわけでもないのに」
「――――」
アンナさんの顔に浮かんでいたのは、怖れや嫌疑をかけられたことへの抗議、あるいは怒りなどではなかった。
純粋な驚き。
或いは、やはり戸惑い。
私は、話の道筋を付けるため論理を紐解く。
「アンナさんの証言をまとめましょう。ディビッド氏の工房にて口論と揉み合いの音を聞き、詰め所へと走った。その際に人影は見ていない、誰とも会っていない」
逆説的に言えば、彼女は誰にも見られていないのだ。
そう、家を出た時点から詰め所へ駆け込むまで、彼女を観測したものはいない。
「そ、そんな理由で自分を怪しむのでありますかっ」
アンナさんは抗議の声を上げるが、当然これだけな訳がない。
「では、あなたの家から詰め所までの足跡はありましたか?」
「……は?」
「ですから、あなた自身の足跡です」
「――っ」
そこで、彼女は酷く重要なことを自覚したらしかった。
そう、誰にも目撃されていないということは、人通りがなかったということ。
人通りがなければ、当然足跡は消されることがない。
ぬかるんだ道に付けられたはずのアンナさんの足跡はどこにもない。
それは、いったい誰が消したのか?
「初めから、なかったと考えればつじつまが合いませんか?」
「違う、違うのであります! 自分は」
「雨が降っている間に行動した、でしょうか? そうすると矛盾が生じますね。あなたは確かにこう仰いました、シェレンさんの足跡を確認したと」
であるならば、工房から靴屋まで足跡が残ることはないはずだ。
ここまで突き詰めると、答えは自ずと限られてくる。
私はここで、シェレンさんへと向き直った。
「シェレンさんは、こうのように証言されていましたね。霧のなか、工房の方角へ向かって遠ざかる大男を見たと」
「はい、間違いありません」
「残念ながら、それは大いなる勘違いです。なぜなら、その影は――あなたの店へと向かって、やってきていたのですから」
え? と彼女が声を詰まらせる。
驚いて当然だ。
普通に考えれば有り得ない。
人影というのは、通常近づけば大きくなり、遠ざかれば小さくなる。
だが。
「当時、現場は濃霧に閉ざされていました。そして時間帯は早朝。差し込む光は、犯人を照らし出します。するとどうなるか」
「光の屈折か」
閣下の合いの手に、首肯を返す。
背後から差す光を受けて、犯人の姿が霧の投影される。
明かりを持って、壁に向かって同じことをしてみれば解るだろう。
ここで影は、普段とはまったく逆の振る舞いをするのだ。
「遠ざかるほど大きくなり、近づくほど小さくなる」
「で、ではあのとき犯人は」
「そう、あなたに向かって歩いてきていた。もしもすぐに店に入って戸締まりをしていなければ、不幸な遭遇があったでしょうね。あるいは、襲われていたかもしれません。なぜなら」
私は、そっとアンナさんを見遣って。
こう告げた。
「彼女はシェレンさんを、ディビット氏の不倫相手だと、考えていたのですから」
§§
「いったいなにを……」
狼狽の声を上げたのはシェレンさんだった。
彼女は戸惑うように視線を私から、ゆっくりとアンナさんへ向ける。
そばかすの衛士は真一文字に口元を結び、キッと靴屋の店主を見詰めていた。
まるで、仇敵を見るがごとき顔で。
「シェレンさん、ディビッド氏とあなたは頻繁にやりとりをしていましたか?」
「仕事のことがありますから、当然」
「時に口論になったり?」
「……お互いに妥協出来ない点で、ある程度」
「それを端から見ていたものはどう考えたでしょうか」
彼女はしばらく考えて、有り得ないと顔をしかめた。
「ただのビジネスパートナーです」
「けれどそう思わないものがいた。なぜならシェレンさん、あなたの靴が、ディビッド氏の工房にあったからです」
「ですからそれは、新技術開発と新素材適用のための雛形で!」
「はい。その件で、あなたは沈黙されていることがある。違いますか?」
「――――」
こちらの指摘を受けて、彼女は凍り付いたように動きを止める。
微かに揺れる瞳が、自分を睨み付ける衛士へと流れ、意を決したように細まる。
そこにあったのは職業倫理だ。
彼女は初めて出逢ったあの日、言った。
お客様の情報は開示出来ないと。
ゆえに沈黙する。自分がどれほど不利な状況に追い込まれても。それが矜持であるから。
しかし、私はただ謎を暴きたい。
だから無遠慮に、彼女たちの間にある壁を破壊する。
「靴屋の店主であるあなたへ、単刀直入に質問します」
シェレンさん。
「あなたがディビッドさんの依頼で作成した靴は、アンナさんのものですね?」
(諸事情により)後編に続く




