第二話 捕まった格闘家
私たちの眼前に、手足を縛り上げられた男が横たえられていた。
裾が擦り切れた、ボロボロの胴着を着込んでいる無精髭の男だ。
男爵とアゼルジャンさん、そして私にカレンを除いた客人達は、壁際へと退避し、こちらの様子を窺っている。
男の捕縛に用いられているのは、魔術封じの術式が織り込まれた縄。
貴族が自衛用に持つ特注品で、魔力をほぼ十割カット出来る上、並みのモンスターでも引きちぎれないほど丈夫な素材で出来ている。
古い逸話では、ドラゴンとこれで綱引きをした猛者がいたとか。
男の身体は筋骨隆々としているが、さすがにドラゴンよりは劣る。
純粋な筋力、或いは魔術でこの縄を引きちぎることは困難だろう。
だというのに、彼の口元には不貞不貞しい笑みが浮かんでいた。
「彼が、本当に盗人なのですか?」
私の問い掛けに、眼鏡の執事アゼルジャンさんが強く頷く。
「間違いありません。この男はキッチンに潜伏し、料理を盗み食いしておりました。宝箱を盗んだ後、腹を満たそうとしたに違いありません」
「それは、さすがに」
無理筋だと思ったが、胴着の男性に視線を戻すとその口元は確かに食べかすで汚れている。
忍び込んで食事をしていた、というのは事実なのだろう。
やれやれといった様子で、トマス男爵が容疑者へと声をかけた。
「君、うちの執事はこう言っているがね、事実なのか? 無論のこと無銭飲食は罪に問うし衛兵にも突き出すが、〝開かずの宝箱〟の中身まで君が盗んだのかね? あれはあくまで見世物で、稀少品としてはともかく実用品としては決して価値があるものじゃない。すぐに返すならば処遇を検討するが?」
「…………」
「男爵様が質問しているのだぞ。なんとか言ったらどうだ!」
アゼルジャンさんが重ねて詰問するが、男性はだんまりで。
ただ、値踏みをするように一同を見詰め。
ぴたりと、その視線を止めた。
えっと、私を視ている?
そう認知したときには、カレンが割って入っていた。
「お嬢様、お下がりを」
聞こえたのは破裂音。
宙を舞う、捕縛に使われていた縄の切れ端。
魔術で壊せないものをどうやって思う間に、男が跳ね起きる。
その全身の筋肉は、先ほどより倍ほども膨れあがっていた。
「コォオオオオオオオ」
奇妙な音が男――格闘家の口元から鳴った。
刹那、その巨体が颶風となってこちらへと迫る。
疾い。
いつか目にした剣聖閣下の弟子と互角の速度で、小山のような身体が肉薄。
だが。
「カレン!」
「もちろんにてございます。正面より組み合うなど、愚の骨頂」
繰り出される男の剛腕を、カレンが流水の動きで受け流す。
いなされるまま男は壁へとぶつかり。
轟音。
「おっと、これにはカレン喫驚」
壁面に、大穴が開いた。
人が丸々通れるような穴だ。
この人物は素手で、これほどの破壊をやってのけたのだ。
「気功術ですお嬢様」
気功?
「魔力に依存しない身体強化術。呼吸によって発生した〝気〟を四肢に載せ、爆発的な破壊力と耐久力を付与する術理。このものは、おそらく武闘家かと」
……なるほど。
で、あるならば、確かに〝開かずの宝箱〟を壊せたかもしれない。
彼は先ほど、魔術殺しの縄を引きちぎって見せたのだから。
「来ます」
カレンのセリフに、ハッと現実へ引き戻される。
「コォオオオオオオオ」
再び放たれる音は、即ち男が大気を貪る音色。
気を錬るための呼吸法。
強靱な足腰から放たれる蹴撃がカレンへと迫る。
彼女は躱すが、当然追撃。
連続突き。
左右から揺さぶるように放たれる、手刀、抜き手、正拳、鞭のようにしなる蹴り、頭突き、前蹴り、回し蹴り、かかと落とし、ありとあらゆる打撃の嵐。
「な、ん、の!」
だが、捌く。
カレンは攻撃の全てを捌ききる。
最早、常人では目で追うことも出来ない応酬。
されど趨勢は明白。
カレンが体格、体力、あらゆる面で不利だ。
魔術式を構築する暇すらない!
二人は先ほどまで会場の中心でやり合っていた。
しかし徐々にカレンは壁際へと追い詰められている。
参加者達へ累が及ばないように立ち回った結果、自身が窮地へと立たされているのだ。
何か活路を開く手段はないか。
相手は気功術の達人。
気功とは呼吸によって剛力を得るもの。
ならば――
「武闘家のあなた、稀代の使い手とお見受けします。お名前と目的を伺っても?」
私の問いを耳にして、カレンが愉快そうに口元を歪めた。
武闘家は無言。
カレンが、煽る。
「この身が持つ名はカレン・デュラ、お嬢様の筆頭護衛メイド! 試合の流儀にて、貴様も答えなさい、武人!」
「――従うとも、勝者にならば!」
「言質!」
太く重たい声で男が吠えれば、カレンは狂喜の笑みで打って出る。
間髪入れずに飛び出した矮躯が、大男の喉元へ蹴りを突き立てる。
気功とは呼吸術。
それが正しいのなら、発話は気の流れを乱すことに繋がるはず。
カレンはそんな私の考えを読み取ってくれたのだ。
事実として一瞬、武闘家の身体能力は低減。
打撃は間違いなく直撃。
だが、男は一枚上手だった。
完全なタイミングでカウンターの拳がカレンへと炸裂。
彼女が身に纏う対魔導特殊メイド服が、散り散りに四散する。
「カレン!」
「――――」
いまにも倒れそうな彼女へ、男が必殺の構えを取った。
壁を破壊した最強の一撃。
地を蹴り、一気にとどめを刺そうとする武闘家。
幕引きの拳が振りかぶられて――
「え?」
おそらく、その場に居合わせた全員が呆気にとられた。
男が、派手に転んだのだ。
何もないところで、盛大につんのめって。
彼は床へと顔から突っ込んで。
そして、そのまま沈黙した。
「やれやれ――カレン、辛勝」
親友が、疲れ切った声で勝ち鬨をあげた。




