第一話 遙か遠き幸福の残照
私は、欲張りになってしまったのかもしれない。
クレエア家にいた頃、苦痛を感じたことはなかった。
狭い座敷牢に押し込められていても、食事が粗末で僅かでも、父親や妹から罵声を浴びせられても、それは当たり前のことで、辛くなどなかった。
なぜならば、私のメイドが。
唯一無二の親友たる、カレン・デュラがいてくれたからだ。
彼女が独房へ持ち込んでくれる謎は、ただただ朽ちるに任せて無為に日々を過ごすだけだった私にとって、希望の光のようだった。
真実を明かす、謎を解く。
その味のなんと甘美なことか。
私はその美酒に酔いしれ、カレンを通して渡されるおじいさまの依頼をやり遂げ、やがて政略結婚のコマとされる。
辺境伯家に嫁いでからも、決して不幸ではなかった。
互いに望まぬ結婚ではあったから、上手く行っていたとは言いがたい。
すれ違い、掛け違い、仲違い……私が気が付かないだけでエドガーさまにはたくさんの迷惑をかけているのだろう。
けれど、冷遇されたことは一度も無かった。
私は謎を解くことを自由に許されて、それが幸せで。
――だから、親友を失った。
思うに、幸福とはトレードオフだ。
何かを手にすれば、何かを失う。
ハゴス子爵が黄金郷で仲間を失って黄金を得たように。
私はエドガーさまと結婚したことで、カレンから居場所を奪ってしまった。
……いや、これが思い上がった言葉なのは解っている。
元よりカレンは私のメイドでしかなく。
彼女に自由意志など存在せず。
クレエア家に縛られた娘だったのだから。
「ラーベ」
寝室の扉がノックされた。
エドガーさまだ。
普段ならば問答無用で押し入ってくるこのかたにまで気を遣わせてしまうほど、いまの私は意気消沈しているのだろう。
苦笑いしつつ、招き入れる。
「話すべきことがある」
彼は、随分と疲れ切っているように見えた。
目の下のクマを隠すドーランはいつにも増して濃く。
ろくに食事も取っていないのか、頬がこけはじめている。
病み上がりの激務。
破滅への対処。
それが、エドガーさまを蝕んでいるものの正体だ。
「ラーベ」
もう一度、彼が私の名前を呼んだ。
七色に移り変わる彼の瞳が、何にたとえることも出来ない紫色で止まる。
「どこまで把握している」
「……辺境伯領に、査察が入ったところまでは」
「ならば、解るな? 我が家が〝黒幕〟として裁かれるのは時間の問題だ。クク……随分と楽しませてくれる」
彼が強がりを口にするところを、初めて見た。
事実、エドガーさまは追い詰められている。
「私の実家が、申し訳ありません」
「無用な謝罪だ、小鳥。これは俺の戦いなのだから」
数日前、王都から査察団が到着した。
彼らは本来、クレエア領の調査に向かうはずの一団だったが、とある弁明を受けて行動指針を転換したのだ。
それは、私の父、クレエア家当主たるドノバン・クレエアによる王様への陳情に基づくもので。
曰く、王都の混乱はハイネマン辺境伯が画策したもの。
クレエア家はこの対処に明け暮れてきたが、隙を突かれ黒幕に仕立て上げられた。
その証拠に、ハイネマン領では今回の一件で用いられた特殊な毒や、魔導具を製造するための資材が整っている。
王族を襲ったものはこの毒に洗脳されていた。
我々はその毒から第三王子を守ろうとしたが、不甲斐なく失敗し、濡れ衣を着せられた。
全ての証拠は辺境伯領を調べていただければすぐに解る。
パロミデス王は君子。
セレナさんの一件すら、鷹揚に抱え込んで見せた。
それが悪い方に作用する。
双方の言い分を、王様は聞いたのだ。
結果、クレエアを処断する前に、査察は実行され、お父様が告げた〝証拠〟は大量に見つかった。
――辺境伯領の中で。
「巧妙に隠されてきた。否、俺は〝結社〟を追うあまり、足下をおろそかにしたというわけだ」
見つかったものは、厳密には原材料や採掘施設。
点と点を恣意的に結んで線を描き出し、いびつな図面を導き出しているに過ぎない。
だが、放置を続ければ、証拠の数は増えていくだろう。
その結果、なにが起きるかと言えば。
「エドガーさま、今すぐ私と婚約破棄を」
「……ならん」
「ですが、このままではいずれ、私は謎を解いてしまいます。与えられた情報から組み上がる実像が正しく見えるのなら、私はそれを真実としてしまうでしょう」
これが私の最大の欠点。
明かすものたるラーベ・ハイネマンは、誰かに忖度して推理の方向を変えるなんて真似は出来ない。
もっともらしい事実を、厳密な真実に仕立て上げてしまう。
そういったどうしようもない間違いを起こす。
小娘一人が謎を解いたところで世界に影響など無い……と断言出来ればどれほど楽か。
問題は、これまで防諜にクレエア家が用いてきたのは私の才覚であると、お父様が開き直って喧伝していること。
王様がこれを事実と納得している部分にある。
つまり、私は実績ある真実暴露装置として認識されてしまったのだ。
確かに私は自動的だ。
自分を偽ることが致命的に下手である。
辺境伯領の各地に点在する〝証拠〟が一点に集約されたとき、この頭脳は私の意志とは関係なく真実を暴き立て世に公表するだろう。
そうすれば、エドガーさまは国家叛逆の罪で裁かれる。
あまりにも荒唐無稽だが。
これが、現状起きていることの全てだ。
「ラーベ」
閣下が、今一度私の名を呼んだ。
愁いを帯びた眼差しが伏せられて、重たく、そして弱々しい言葉が、彼の口元からこぼれ落ちた。
「俺は、お前を失いたくない」
エドガー・ハイネマン。
冷酷無慈悲な辺境伯。
私を愛することはないと言った、政略結婚の相手。
そのひとが、こんなにも私を求めてくれているのに。
……だというのに私は、この屋敷から出奔ることすら出来ないでいる。
査察団の一部が、護衛という形で控えているからだ。
実態は、私を縛り付ける枷。
この場にとどめ、情報を与え、粛々と真実を出力させるための執行機関。
僅かに許された自由は、こうしてエドガーさまと口を利くことのみ。
当然会話は、諜報術式で全て記録されている。
「……小鳥よ、お前の侍女はなにをしている?」
無為な時を過ごすことが許されない彼は、すぐさま話題を転じた。
彼の疑問はもっともだ。
カレンの不在は、つまり彼女こそがこの事態を招いた一因であることを示していた。
端的にいえば、クレエア家の密偵だった、ということである。
「カレン・デュラは、真実我々を裏切ったのか? あれはお前を、謀略の駒に仕立て上げるつもりか?」
「……それは、明瞭ではありません」
「ならば」
「私はっ」
思わず、大きな声が出る。
外が騒がしい。すぐに衛兵が飛んでくるだろう。
その前に。
この思いだけは告げておきたかった。
私は。
生まれて初めて。
「いまこの謎を、解き明かしたくはないのです。カレンのためにも、他ならないエドガーさまのためにも」
「――――」
見開かれた瞳に宿っていた色は、怒りだったのか、呆れだったのか。
解らない。
解らないが、時間が無い。
聡明な彼ならばいつか理解してくれると信じる。
現状は板挟みだ。
私が推理を進め、順当な答えを導き出せば、おそらく閣下は物事を裏から操っていた黒幕になってしまう。
それだけの証拠が既にある。
では、この証拠が捏造されたものなら?
当然、それを運び込んだ人員がいるはずだ。これを見逃した者もいるだろう。そこには政治的な腐敗があり、この監視下で口に出すことは出来ない。
人手でなければ、超抜級の転移術者の関与を疑うことになる。
これまで私が、あらゆる事件でその関与を疑ってきたように。
実家を犯人と断ずれば、その人物も黒となる。
実家が無罪だとすれば、閣下が犯人だと告発しなければならない。
ダブルバインド、身動きの取れない自己矛盾。
どれほど己の中の渇望が推理を望んでも、私の人格はこの一線を越えることを拒絶している。
だから……方法は一つ。
「エドガーさま、やはり私を切り捨ててください」
「既に否定したぞ、小鳥」
「それでも、いまならば間に合います。このラーベをクレエア家の間諜だったとして処断すれば、一時の時間を稼げるでしょう」
「馬鹿な。俺は」
「それが政治ではありませんか? 閣下、どうかお間違えなきように。これはお家の大事。この身は既に、ハイネマン家へと嫁いだ身」
ならばこそ。
「……閣下に不利な結論を出す前に、死ぬ覚悟は出来ています」
彼は答えなかった。
ただ、腰の剣に弱々しく手を置き。
「友だけではなく、妻の血まで我が剣に吸わせろと言うのか。お前は、残酷なことばかり言う」
冷酷無慈悲と噂される彼は。
しかし、結局剣を抜き放つことはなかった。
代わりに。
「……茶は飲んでいるのか」
「はい。毎日、滞りなく、決まった時間に」
そんな言葉を交わす。
私は視線だけを背後にある机へと向けた。
先ほどまでなかったはずの紅茶が、湯気を立てていた。
「――――」
「――――」
視線が交わる。
いくつもの思いが絡み合う。
そうだ。まだ、逆転の手はあるのだ。
「面会の時間は終わりです、ハイネマン卿」
扉が音を立てて開け放たれ、衛兵達がやってきた。
退出を促される彼へと向かって。
私は最後の言葉を投げる。
「閣下。私に出来ることは謎を解き明かすことだけです。どうかゆめゆめ、それをお忘れ無きよう」
返答はない。
それでも私は信じる、通じ合うことが出来たはずだと。
去って行く一同を見送り。
私は紅茶を喫する。
変わらない味、幼少期からずっと口にしている味。
「カレン」
知らず、その名を呼ぶ。
いまどこで、なにをしているのかと思いを馳せながら。
私の親友にして。
転移術の心得がある、彼女のことを。




