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第七話 佑 1

「…………」


 杜世瀬とよせ町のX軸を流れる杜世瀬とよせ川は、町を等分するように丁度真ん中を流れている。

 川幅は広く、河原には少年野球用のダイヤモンドがあり、春には斜面に菜の花の黄色が咲き乱れた。

 土手の上は住人の散歩コースになっていて、脇に並ぶ桜並木はどこまでも遠く伸びている。


 ボクの持つリードの先で、ぽちが唸り声を上げていた。

 秋田犬に良く間違われる雑種の尻尾は、小さく丸まっていた。

 それでも、その人(・・・)のズボンの裾を咥えながら、果敢に首を振っている。


「はっはっは、やめたまえ犬君。僕のズボンは君のおもちゃじゃないぞ」


 鷹揚に笑いながら、その人がぽちの頭をポンポンと叩く。

 音楽家のような細く繊細な指で顎の下を掻いてやると、段々とぽちの態度が軟化していく。

 やがて躊躇うように牙を外して、ぽちがワンと一鳴きした。

 その瞬間、まるでタイミングを計ったように、その人のお腹もなる。

 ぽちの唸り声にも負けないような大きな音で、ぐるるるるるるるるるるる〜、と、間の抜けた音色を立てる。


 木立の中では、蝉が、明日絶対目が腫れるだろうなってくらい、わんわん大泣きしていた。

 ぽちの吼え声、お腹の音、蝉の声。

 夏休みのある日に現われたのは、そんな情景だった。



 その人が落っこちていたのは土手の斜面だった。

 今は青々と茂っている菜の花の茎を折り、人型のミステリーサークルの中に仰向けで大の字に寝転がっていた。


 ――行き倒れ。


 最初に浮かんできたのはそんな言葉だった。

 だからと言って、別にそれだけで呆気に取られていたわけじゃない。

 普段、中々出会う機会のない状況だけど、ボクが気を取られていたのはそこではなく、彼女・・の格好の方だった。


(貴族――だよね、これ)


 平べったい筆でサッと撫でたように、薄く赤色の混ぜられた空はまだまだ明るい。

 十分な光量の元で見る限り、彼女はそういった人物に見えた。


 えらく時代がかったジャケットにズボン。

 美術の教科書に載っている、貴族を描いた絵画から抜け出してきたような、そんな感じのデザイン。

 服装の仕立ては男装でも、フリルの付いたシャツから覗く胸元には膨らみが見て取れて、この人が女の人だという事が分かる。

 ライトブラウンの短い髪は乱れ、少しタレ目がちの目元、その中で銀色の瞳が光を吸って輝いていた。

 その瞳をボクに向けると、彼女はふっと笑った。


 余裕と自信に溢れた笑み。

 ともすれば相手を貶めかねない笑顔で彼女は口を開く。


「やあ」

「えと、こんにちわ」


 ふと、こんばんわの方が相応しいかななんて思ったけど、今はあんまり関係ないので黙っておく。


「それで、こんな所で一体どうしたのかな?」


 ……こっちの台詞だよ。

 その言葉をぐっと飲み込んで、ボクは答える。


「犬の散歩」

「ふむ、この困ったお嬢ちゃんか」


 そう言って、ぽちの頭をグリグリ。

 撫でられるまま、ぽちは機嫌よさ気に尻尾を振っている。


「よく女の子ってわかったね、間違える人多いのに」

「分からない方がおかしい」


 ――あー、ボクわからなった。


 何を隠そう、ぽちの名付け親はボクだった。

 捨て犬だったぽちを、侃諤かんがくの議論の末、なんとか飼う事を許されたその日。

 勝手に男の子だと思っていたボクは、躊躇うことなくやせ細った子犬に、ぽちと名前をつけた。

 その後、家族の中で名前が定着し始めたころに、ぽちが女の子だという事が判明してまたひと悶着あるんだけど、良く考えると、ぽちが男名なのか女名なのかもハッキリしなかったから、変名の混乱を避けて名前はそのままになっている。


「お姉さんはこんな所で何してるの?」


 ボクがそう訊ねると、彼女はふっと空気を吐き出すように笑い、前髪を掻きあげた。


「空を見ながら思弁しべんに耽っていたのさ。このどこまでも広がる空を見ていると、人間などなんてちっぽけな存在だと思い知らされ……――ぐるるるるるるるるるるるるぅぅぅぅぅぅぅぅ――」

「……お腹、鳴ってるね」


 決まり悪そうな沈黙。

 ボクの指摘を、コホンと咳払いをして跳ね除ける。

 彼女は仕切りなおすように笑顔を作ると、それをボクに向けてきた。


「なにを、気のせいだろう」

「え、でも……」

「高貴な者の腹は鳴らんように出来ているのだ、そも……」


 ――きゅるるるるぅぅぅぅぅ。


 凄いベタなタイミングで、お腹がなった。

 彼女は慌ててお腹を抑える。


「こ、こら、許可無く鳴くな。しーっ、私語禁止!」


 そう言ってる間も、彼女のお腹は可愛いらしく鳴き声を上げている。

 しばらく、そうやってお腹を抑えたり、体を屈めてみたりしていたけど、どれも無駄な努力に終わった。

 やがて、諦めたのか、それとも体力の限界を迎えたのか、上体が後ろに倒れて、元の大の字に戻った。


「お腹すいてるの?」

「…………」


 その質問には答えずに、彼女はむくりと起き上がり、真剣な顔でボクのほうを見た。


「実を言うと、ここ三日ばかり何も食べていない」

「あ、やっぱり……」

「おっと、誤解するな、僕がじゃないぞ」


 え、じゃあ、誰?


「猫だ」

「ネコ?」


 コクリと頷く。


「そう、あれは三日前の事。この河原で、弱々しく鳴いている所を拾ったのだよ。弱者に憐れみの心を示すのも高貴な者の勤め。しかし、手持ちの糧食も尽きて、このように鳴き声を上げている」


 ――きゅるるるるるるるるるるるぅぅぅぅぅっぅうぅぅぅぅぅ。


 その言葉に答えるように、が鳴き始める。

 ……それにしても、変わった鳴き声の猫がいるんだね。


「だから、恥を忍んで君に頼みがあるんだが。この猫……この、憐れな子猫の為に、何か食べ物を持ってきてくれないだろうか……。僕じゃないぞ。あくまで、この、母猫を亡くしたばかりの、憐れでみすぼらしい子猫の為に」

「そう……」


 ……いう事にしておいた方が良さそう。


「わかった。いいよ」


 ボクがそう言って頷くと、彼女の表情に喜色が広がった。


「本当か?」

「うん。何か買ってくるから、ぽちのこと見ててくれる?」

「勿論だ」


 心底嬉しそうにぽちのリードを受け取ると、彼女は前髪をファサッと払って、胸に手を当てた。


「僕は、レイナート王立大魔法学部三年、ベルナデット・クロンカイト」


 あれ? 今、魔法とかって……。

 まあ、いいか。


「えーっと、ボクは杜世瀬第一中学の二年生で、駒野こまのゆう。で、こっちは、ぽち」

「そうか。ありがとう、ユウ、ポチ」


 ――あ、何だ、ちゃんとお礼が言える人なんだ。

 ベルナデットは、自信満々と言った感じで、ボクに笑顔を向けてくる。

 さっきからやたら態度は偉そうだけど、悪い人じゃ無さそうだ。

 頭を撫でられているぽちが、ワンと吼えた。


「じゃあ、ちょっと行ってくるね」


 そう言って斜面を駆け上がろうとして、ボクは立ち止まる。


「どうした?」


 怪訝そうなベルナデットの声にボクは振り返った。


「あのね、ベルナデットがその猫の好物とか知ってると助かるんだけど……」


 ボクがそう訊ねると、彼女は何かに気が付いたように少しだけ顔を赤くした。

 それから小さな声で、「サンドイッチ」と答えたのだった。



 ボクにはたった一つ、ボクを掴んで離さない、小さな記憶があった。

 それは、小学生一年の夏祭りの帰り道。

 母さんに手を引かれて、一つ下の妹と一緒に、薄暗く、賑やかな夜道を歩いていたとき。


「あ、いぬだ!」


 何の前触れもなく、反対の手を握っていた妹のそらが声を上げた。

 先ほどまで、夢中でヨーヨーをばんばん叩いていたはずなのに、暗闇の奥を指差して、楽しそうにはしゃいでいる。


「本当ね」


 母さんが言って、ボクもそちらを見た。

 見ると、確かに、提灯の頼りない灯りの下、もふもふした毛に包まれた、体の小さな子犬が、段ボール箱に入れられて、道の片隅からこちらを見ていた。


「わかった、おにいちゃんつれてかえろう」


 何が分かったのか分からなかったけど。

 ボクを見上げながら言う妹に、母さんは首を横に振った。


「ダメよ。面倒見きれないでしょ」


 母さんがにべもなくそう言い、促がすようにボクの手を引いた。


「えー」


 不満そうに言う妹の手は、しっかりとボクの手を握っている。

 引きずるように、引きずられるように歩きながら、ボクは黙って、こちらを見ている子犬を見ていた。


 翌朝早朝。

 ボクは気になって、昨夜子犬がいた場所を訪れた。

 物音で起き出した妹を連れて(連れて行かなきゃ、お母さんに言うと脅された)、昨日歩いた道を逆に辿った。

 そらはまだ眠いのか、片手で目を擦っていた。


 その場所には三十分くらいかけて到着した。

 果たして、その場所に子犬はいなかった。

 ポツンと段ボールが残されているだけで、その中に居たはずの小さな毛むくじゃらの姿はどこにもない。


「いないねー」


 不安そうに首をめぐらせる妹。

 ボクは、小さく、うん、と頷いた。


 結局、それからしばらく辺りを探したけど、子犬を見つけることは出来なかった。

 流石に空が明るくなり始めたので、ボクは今にも泣き出しそうな妹の手を引いて、家路に着いた。

 家に帰り着くと、既に起き出していた母さんが玄関で仁王立ちしていて、ボク達は大目玉を喰らい、本格的に大泣きするハメになるんだけど。


 今思うと、多分誰かに拾われたんだと思う。

 あの日は夏祭りで人通りも多かったし、誰か優しい人に拾われたに違いない。

 それでも、あの時はそんな事思いもしなくて……。


 あれ以来、あの子犬の姿は見ていない。

 誰かの手にあるリードを引く姿も、感動の再会があったわけでも、死んでいる姿を見つける悲劇もない。

 ただ、“どうなったか分からないだけ”。


 時々、考える。


 ――あの犬は本当は今どうしてるんだろう?


 それは、学校からの帰り道、ふと視線をやった道端で。

 それは、散歩中の土手から見下ろした河原の中ほどで。

 誰からも目を向けられることなく、暗い中独りぼっちでポツリとこちらを覗く丸い目を、記憶の中に見つける度に、考えてしまう。


 ――あの犬は今どうしてるんだろう?


 もしかしたら、その答えが知りたいから、ボクにはこんな"拾い癖"が出来たのかもしれない。



「いや、うん、うん……」


 あの後、コンビニで食糧を調達してきて。

 食べている所を見られるのを異様に嫌うっていう猫の食事が終わると、「けぷっ」っと小さくゲップをしながら、ベルナデットがこんな事を言い出した。


『……あまりに薄汚れているのだ』

『うんと、なんのこと?』

『猫。……長い間雨風に打たれて、こんなにみすぼらしい格好に。せめて最後くらいは、この憐れな老猫を元の美しかった姿に戻してやりたい』

『子猫じゃなかったの?』

『死に逝く命への手向けに、せめて美しい姿で見送りたいと思うことはそんなに我侭な事なのだろうか?』

『あ、えーと……じゃあうちのお風呂使う?』


 と、いう訳で、やたら上機嫌のベルナデットと、急に老け込んだ猫を連れて、ボク達は帰宅の途についた。

 ぽちに水をやって玄関に入ると、丁度、妹のそらが二階から下りてくる所だった。

 友達と電話しているみたいで、「うん」とか、「それで?」とかって声が聞こえて来る。

 玄関にボク等を見つけて、唐突に笑い声を上げた。


「いや、それはさ……あはははははっははははは……え? いやー、ごめん。なんか兄貴がユーロ圏の貴族拾ってきててさ…うん? そうそう、あの兄貴……」


 ――どの兄貴だろ?


 リビングに消えていく妹の背中を見送ったあと、ボク等は思わず顔を見合わせた。



「今すぐ元居た場所に返してらっしゃい」

「いや、そんな犬猫じゃないんだから」


 台所で夕飯の準備をしながら、母さんはそう言った。

 言葉の内容に、思わずと言った感じでそらが口を挟む。

 一瞬チラリとそちらを見て、母さんは首を振った。


「家に他人ひと様の面倒を見る余裕なんてありません」


 突き放すように。

 父さんの仕事は、絵本作家だ。

 特に売れている様子はないけど、食べるのに困らない生活はさせてくれている。

 かといって、余裕があるわけでもない。


 ――ボクだって、別に一生面倒を見られるなんて思ってないけどさ……。


 それでも、このまま追い出してしまうのは、なんだか気が引けた。

 無責任、というのとはちょっと違うけど、途中で物事を投げ出すような、そんな後ろめたさがある。

 それに、ベルナデットって生活能力低そうだし。


「だったら、せめて行き先が決まるまで置いてあげられないかな?」


 ボクがそう提案すると、母さんばかりか、今度は天にまで溜息をつかれた。


「出たよ、佑の悪い癖が」


 リビングのソファで携帯電話を弄っていたそらが、頭が痛いと言う風に眉間を押さえる。


「てか、大体あの人何してるどこの人なわけ?」

「えと、大学生?」

「なんで疑問系? ……どこの大学?」

「なんとかっていう、多分外国の……」

「どこの国?」

「え、さあ〜?」

「は?」

「だって聞く機会無かったし……」

「はあ〜〜?」


 呆れてモノがいえないって言うのは、多分今の天の状態を指すんだと思う。

 あんぐりと口をあけた後、ぱくぱく開閉させながら、母さんの方に半笑いの声を向けた。


「お母さんこいつダメだ。こいつホントダメだ」

「なんだよ〜」

そら。お兄ちゃんに向ってそんな口を利くものじゃないよ」

「だって、お父さん……」


 今まで、ずっと黙っていた父さんが、天を嗜めた。

 リビングの隅っこにある小さな机の上でパソコンを叩いていて、てっきり話なんか聞いていないと思ってたから少し驚いた。


 夕食は、家族一緒にとるという取り決めのため、父さんはこの時間は書斎兼アトリエを出て、この隅っこに置かれたパソコンと向かい合ってる事が多い。

 今は、前に抱えていた仕事を終わらせて、次回策の構想を練っている段階らしく、声にも、どこか余裕が感じられた。

 実際、絶対ボク達の前では態度に表さないけど、締め切り前のどこかピリピリしたような雰囲気は、ちょっと居心地が悪い時がある。


「その話は夕食の後でも良いだろう。当人も今いないことだし」


 父さんが、扉越しに浴室の方に顔を向けた。

 ベルナデットは今お風呂に入っていた。

 廊下の向こうから、微かにお湯をかけ流しているような音が聞こえて来る。

 ……猫は喜んでくれたかな?


「天も、お母さんを手伝ってきなさい」

「うっ……は〜い」


 まだ何か言いたそうにしながらも、天は頷いて台所へと向った。

 ボクはホッと息をついて、ソファの背もたれに体を預けた。

 父さんも立ち上がって、向かいのソファでボクと対座した。

 テーブルに置かれた灰皿を引き寄せ、煙草に火をつける。


「……佑のこれは、一体なんなんだろうな?」


 ふ〜っと大して美味しくもなさそうに煙を吐くと、ボクに柔らかい笑みを向ける。


「わかんない」


 ……心当たりはあるけど。

 ただ、それを父さんに言うのは妙に恥ずかしい気がして、ボクは黙って首を振った。

 父さんが苦笑する。


「他の人の痛みを、共感したり想像したりできる事は、決して悪いことじゃないけどね。そういう意味じゃ、俺より母さんに似てるよ佑は」

「え、うそ、だって……」


 ボクは台所に目を向けた。

 天が何か言って、母さんが口元に手を当てて笑う。

 その間も、料理の手を休めずに、おなべの火を見たりしていた。

 母さんは不合理を嫌う人だ。

 ぽちを飼うことにも、最後まで反対していたのは母さんだった。


「感情と実際のやりようとは別だよ。表に出て来ることだけが、事実の全てじゃない」

「それはそうだけど……」

「……佑はもう少しお母さんを見習いなさい」


 煙草の先を灰皿に押し付けると、父さんは立ち上がってボクの頭をくしゃりと撫でた。

 丁度その時、リビングの扉が開いて、くだんの人がホコホコしながら入ってきた。

 父さんのパジャマを身に着け、満足そうな白い顔に、淡く桃色が施されている。

 バスタオルでガシガシやっているライトブラウンの短い髪が、温い水気を含んでしっとりと輝いていた。


「……いい匂い」


 ふと手を止めて。

 出し抜けにそう言ったかと思うと、ベルナデットのお腹がぐ〜っと鳴った。

 サンドイッチを食べたお陰で、さっきよりは大分控えめな音。

 自分のお腹を見て、気まずそうにボクらの顔を見ると、彼女は顎に手を当てる。


「あ〜、猫が、だな……」


 なんだか、この人はずっと欲望に忠実だ。

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