第五話 ベアトリーチェ 2
学長室を出ると、あたしは中庭に向って歩き始めた。
流石に寝なおす気にはなれなかったが、息苦しかった話に、体がささやかな気分転換を求めていた。
レイナート王立大学のあるラーズウッド市は、常春の気候に恵まれた住みやすい土地だ。
春の都とも呼ばれ、街を渡る風は常に暖かい。
夏の激しさも、冬の厳しさも経験した事のない街の人達は、温厚で誰もがどこかのんびりしている。
地方から出てきた学生達は、まずここに住む人々のユルさに驚くそうだ。
次いで、そんな彼らの事を好きになり、最後に、感化され街の光景の一部になる。
多少の人口増大なら許容する肥沃な土地に、大学を出た後もここを終の棲家と選ぶ者も多い。
そんなこの街の性格を、あたしは気に入っていた。
気に入っていたと思っていたし、今でもその思いに変わりはない。
だから、嫌々とは言え、学長の言葉に首肯したあたしは、不思議でならなかった。
仮に放校になったとして、自分はこの街でのんびり暮らすことになるだろう、と、ぼんやり思っていたからだ。
薬学に関する資格を幾つか持っていたから、将来はこの街のお薬屋さんになるのも悪くないなと夢想した事もある。
中庭にある温室の前で、あたしは足を止めた。
ガラス張りの温室の中には、この土地では実を結ぶことのない植物などがある。
あたしはガラス戸を開け、温室の中に入る。
刹那、鼻をついてくる甘ったるい匂いは、バナン百合の香りだ。
バナン百合は、ここから南にあるバナンという暑い地方に咲く花で、百合といいながら実はナス科というよく分からない植物だった。
控えめな百合の花弁に良く似た黄色い花をつけ、のっぺりした赤く大ぶりの実は、炭火で焼くと、とても美味らしい。
秋バナン百合の実は嫁に食わすな、という格言まであるくらいだ。
しかし、どうやら、こいつを在学中食べる機会はなさそうだ。
「せんぱい!」
まだ赤くすらなっていない実を未練がましく撫でていると、突然、頭の天辺から出しているような声が聞こえてきて、あたしは思わず「げっ」っと唸ってしまった。
がさがさと目の前の葉が揺れたかと思えば、何かが背後から飛び出してきて、あたしにぶつかる。
――どうして背後から?
「フェイントです!」
「……あ、そう」
明るく言い放ち、腰にぐるぐる纏わり付いてくるこの子の名前は、アンネローゼという。
今年魔法薬学科に入った一年生で、ファーストネームしか知らないが、何故かあたしをとても慕ってくれている。
背は小さく、赤毛のショートカットと、青い瞳の似合う可愛らしい女の子だ。
そのくせ、バナン百合の実のような中々立派な果実が二つ……そのアンバランスさが、彼女に危うい魅力を加えていた。
ただ、性格の面で、ちょっと……大分……いや、かなり思い込みが激しく、また、直情的で直線的な面があって、ぐいぐい押してくる彼女があたしは少々苦手だった。
「それより聞きました」
「なにを?」
腰の辺りから睨んでくるアンネに、あたしは問い返した。
がっちりしがみ付かれているから、たじろぐ事すらままならない。
「先輩、解界するそうですね?」
「あれ、どうしてその事……?」
「私、先輩の事盗聴してますから!」
「すぐやめてね」
……少なくとも、胸張って放言することじゃないと思う。
あ〜、背中が寒いな〜。
「愛あったればこそです!」
「あの、愛ってそんなにきな臭いものだったっけ?」
「もう! なんで解界なんかしちゃうんですか? 外の世界なんかきっと面白くないですよ!」
全然聞いてない感じで、アンネがぎゅっと抱きついてくる。
いや、抱きつくの関係ないよね?
「でも、盗聴してたなら分かるでしょ? 行ったら卒業させてくれるんだってさ」
いまいち自分でも首を捻ってしまう理由だったが、あたしはそう言ってみた。
「先輩、卒業と私とどっちが大切なんですか?」
潤んだ瞳であたしを見上げてくるアンネ。
どうしよう……どうやったら、どっちもそんなに大切じゃないって、傷付けずに伝えられるだろう。
大学入学後一番くらいの難問にあたしが頭を悩ませていると、アンネがボソリと呟いた。
「それに、解界って本当は違法じゃないですか……」
「うん、まあ……」
世界を解くと書いて、解界。
それ一つで完結している世界を、無理矢理解いて別の世界へ繋ごうというのだから、そのリスクは中々大きい。
専門の技術者が、手順を追って慎重にやりさえすれば、そう怖がるものではないが、知識の足りないものや素人などが迂闊に手を出すと、一気に世界規模の大問題になりかねない。
そこで、これを禁法と定め、破ったものは厳罰に処する、と言うのが法律上の建て前だった。
しかし、建て前は所詮建て前。
実態は、旅行感覚で異世界へ渡るハイソな方々もいらっしゃるようで、今回の場合だけ違法と言われても、今更な気がしないではない。
だからと言って、法律を積極的に破りたいとは思わないし、だからこその密会であり選抜なのだろうが。
――まあ、漏れまくってるわけだけど……。
「…………建て前、か……」
そこまで考えて、何かが引っかかった。
「先輩?」
アンネが不思議そうにあたしを見上げている。
あたしは、自分でも形になっていない物を、彼女にぶつけてみることにした。
「なあ、アンネリーゼ。どうしてあたしは選ばれたのかな?」
「素敵だからです!」
嬉しいが、まさかそんな理由ではあるまい。
間髪いれず答えてくれたアンネの頭を撫でてやりながら、学長の言っていた言葉を思い出す。
「理由は二つある。一つは、その対象として、卒業の単位の危うい者を選抜し、上手くいった暁には、これを免除しようと」
……破格の温情だ。
これまでの大学の体質を考えると、異常とさえ言っていい。
そもそも、選抜対象が卒業が危うい生徒、というのもいまいち納得がいかない。
それに、もう一つの理由。
「つまり、本年度の成績最優良者、しかも我が大学きっての天才。ベアトリーチェ、理由は君自身じゃよ」
どうしてあたしなのだろうか?
成績最優良といえば聞こえはいいが、実際は変わり者扱いされているサボタージュ常連者だ。
自分で言うのもなんだが、無難に試験を済ませたいなら、こんなムラっ気のある奴を参加させるだろうか。
もし。
もし仮に、この試験自体が、“何かの建て前だったとしたら”。
「先輩ってば」
「え、なに?」
「も〜、全然聞いてないんだから〜。……本当に行っちゃうんですか?」
寂しそうな声で、真っ直ぐ見つめてくるアンネにあたしは頷いた。
「うん」
「え〜、どうしてです?」
もしかしたら、考えすぎなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
新しい厄介払いの形なのかも、と、結構本気で思わないでもないが、少なくとも、疑問の一つは解けた。
「気になる事が出来た、から」
それが、あたしがあの時学長に向って頷いた理由、のような気がしないでもないでもない。
「アンネリーゼのおかげだね」
「気になる事が出来たのが、私のおかげ?? ですか???」
意味が分からないという表情のアンネの赤毛を、あたしはしばらく撫で続けた。
赤毛といえば、アンって事で……。
名前ホントに募集してます!