第二十一話 ベルナデット・クロンカイト
大昔、世界は崩壊の危機に晒されていた。
大地が割れ、海は荒れ、山々は噴火し、おまけに空模様まで降ったり降らなかったりと、予報士泣かせのぐずついたお天気。
幾つも国が無くなり、数えきれない程生き物が死に、来たる終焉に誰もが絶望を抱いていた。
そんな中、四人の英雄が立ち上がる。
彼らは自分達の身の危険も省みず困難へと立ち向い、最後には、自らを世界を支える石柱へと変じて、この世を救ったと言われている。
その内の一つがクロンカイトにある。
台形の大陸に四本、テーブルを逆さにひっくり返したような配置で、北東の足がそれだ。
巨大すぎる程巨大な石柱は、街の中心に聳え立ち、剣先は遥か雲の上まで続いて果てが知れない。
この石柱は、水の女王と呼ばれるティリアネスが変じたものとされていて、故にここは聖地の一つであった。
大陸の東端、アマルシアの最奥に位置するクロンカイトは、気候に緩やかな変化があり、牧歌的な風景に囲まれて平和で暮らしやすい。
しかし、王都からは遥かに東、中央からの連絡が悪く、街道の整備も滞っていたため、熱心な巡礼者以外には、意外に訪れる者の少ない場所だった。
と言うか、もっと有り体に言えば、ほったらかしにされていたのである。
中央の慌ただしさに比べると、ここは地味で長閑過ぎた。
今忙しいから、と後回しにされている内に、いつしか本気で忘れられかけている。
もし、当のティリアネスがその事を知れば、表情では冷静に、身の内に火傷するほど熱い冷気を吹雪かせながら、自慢の羽扇を振るって、王都を攻め落としにかかる位の事はしたかもしれない。
面白くない−−とか、そんな感じのを理由に、相手が王様だろうと国家だろうと、狂犬のように噛み付いていくのが彼女だ。
ティリアネスは無視されたりとか、軽んじられる事が大嫌いだった。
全ての人類に対して、足の小指の爪の先まで尊敬されなければ、我慢できない女なのである。
極めて迷惑この上ない性格だが、ただ幸いなるかな、ティリアネスは千年以上も前に英雄としてこの世を去っていた。
今では神話世界の末席に招じられ、地上人達の心の平穏に一役買っている。
話をクロンカイトに戻す。
ここの領主はアーベントと言って、領主としては四代目になる貴族だった。
信心深く人並みに善良で、敬虔なクルノア教徒として厚く教会を庇護していた。
元々、彼の曾祖父が戦争の功績によって守護を任じられた土地ではあったが、領主としての暮らしが四代も続くと、最早外様と嫌われるような事もない。
仕事は先代の父の跡を引き継いでやれば良かったし、教会に偏向の見られるアーベントの執政は、熱心な信者の多いこの土地ではむしろ好まれた。
権力に対しての欲求は薄く、野心を抱こうにも王都は少し遠すぎる上、今更という気分でもある。
土地の雰囲気に中毒てられている気がしないでもないが、そもそもそんな才覚が自分に備わっているとも思えない。
という訳で、特に目立った功績もなく、代わりに失点もないまま、アーベントは妻と二人の娘と共に、日々を悠々と暮らしていた。
そんな彼が、最近悩ましげに頭を抱えている。
以前より教会に通う回数が増えて、ふとした時に溜息をつく事が多くなった。
侍女達が話し掛けてもどこか上の空で、時折そのままぼーっと空を見上げたりする。
領主の奇妙な変化に周りの人間は不気味がったが、彼の奥方は冷静だった。
彼の悩みがプライベートのものであると知っていたからだ。
その日も、彼の私室にノックの音が響いた。
入室を認めると、いかにも人の親らしい悩みの種の一つが、静かに顔を覗かせた。
「父上、僕の進学の件、考えていただけたでしょうか?」
入ってくるなり、彼女はそう言った。
アーベントの娘で、次女のベルナデットだった。
今年十五になったばかりの筈だが、自分に似ない自信に満ちた声に、どうやら日に日に男ぶりは上がっているようだ。
田舎の雰囲気に似つかわしくないその洗練された男らしさに、少女たちの中には、声をかけられただけで卒倒するものまでいる始末。
本人もその事を自覚しているようで、振る舞いに油断がなく、貴族の子息のような服装には一分の隙もない。
ただ、ただ一つ、父親として、一個だけ言わせてもらえるなら−−−−お前娘じゃん。
その言葉をグッと飲み込んで、彼は首を横に振った。
いや、彼女に罪はない、この事で彼女を責めるのは筋違いと言うものだろう。
むしろ、この咎は彼女の姉にこそ相応しい。
そう思った時、バカーンと扉を蹴り開いて、新たに一人の美しい娘が現れた。
ノックもせず部屋に入ってくるなり、キョロキョロと視線を廻らせると、直ぐにアーベントの前に立つベルナデットを見つけて、ウルウルと瞳を潤ませる。
そうして、呆然と見つめている彼の目前で、飛びつくように彼女の腰にしがみついた。
「行かないでぇぇぇ」
彼の悩みの種その二、こと、長女のリーナ・クロンカイトであった。
彼女はベルナデットの腰にしがみついたまま、美しい面にはらはらと涙を落としはじめる。
「お願い、考えなおして、ベル。私、貴女にここを出ていかれたら、ああ、三日ともたずに死んでしまうわ」
艶を含んだ声でそんな哀願をすると、彼女の持つ美貌と相まって、身震いするほど色気が匂った。
父親でさえドキリとしてしまうリーナの姿に、至近距離で直撃を受けたベルナデットは痛切な表情で首を振る。
「分かって下さい姉上。今は魔術隆盛の時代、これからの事を考えれば、ラーズウッドの魔術学校へ行くのが最良の選択なのです」
「いやよ!!」
ベルナデットの言葉を打ち消すように、リーナは大声で遮った。
「そんなの許さない!どうしても行くというのなら、私も連れていって!」
「な、分からない事を言わないで下さい。そんな事出来るわけないでしょう」
激しく言い募るリーナに対して、ベルナデットはむしろ疲れたような調子だ。
これまで何度も繰り返し同じ事を言い合ったお陰で、少しばかりウンザリした様子でもある。
それでも、慰めるようにリーナを抱きよせ、優しく彼女の頭を撫でた。
「泣かないで、可愛い人。どこにいようと、何をしていようと、僕の心はいつも姉上と共にありますから」
「嫌な子…………そうやって平気で心にもないことを言うのね」
「僕は姉上に嘘は付きませんよ」
そう言って見つめ合う二人。
…………えーと。
姉妹同士の会話とも思えないやり取りを繰り広げる娘二人を前に、呆然と立ち尽くすアーベント。
一瞬窓の外に視線をやって、ここから空へ飛び出して今すぐ遠くへ行きたい、とか、いい大人が、未来のお友達でないと叶えてくれそうにない事を思う。
この姉妹、多分に姉の方に問題がある気もするのだが、それを言った所で、世の中には治る病と治らない病がある。
しかも、これは病気の一症状であって、その本質ではないのだ。
「姉上の事をいつも想っていると誓いますから、どうか許してください」
腕の中で大人しくなったリーナに、ベルナデットは微笑みかけた。
その優しい笑顔を見て、一瞬納得しかけたようなリーナの表情が、再びくしゃっと歪む。
「ぃやっぱ無理ぃぃぃぃ」
「姉上!」
叱るような激しい声音にも、リーナは怯まない。
「だって!」
と言うなり、乙女の秘密が一杯つまった胸の谷間から、一枚の布切れを取り出す。
なんて所に、と思ったが、取り出したものを見て、アーベントは頭が痛くなった。
「だって、ベルがいなくなったら、誰がこの半ズボンを履いてくれるというの!?」
そう言って、妹の目の前に、バン! と自慢の半ズボンを広げた。
この人物、街を歩けば誰もが振り返るような美人でありながら、心に重い半ズボン愛を患っていた。
彼女にとって、人類とは半ズボンを履くために生まれてくるもので、それ以外の事象は全てが塵芥の如く些事に過ぎない。
どこで見つけて来たのか、二人の同好の士と共に、「三枚の半ズボン同盟」なる頭の悪い協定まで結んでいたが、こちらは完全に趣味の団体である。
その世界観は半ズボンが似合うか似合わないかの二つに一つ、合言葉は「半ズボンよ永遠に短くあれ!」。
そりゃ幼い頃からこんな姉と接していれば、ベルナデットに男裝の気くらいあってもしょうがなかった。
頭痛を堪えるように眉間を抑えるアーベントの耳に、遠慮なくアホの子達の会話が入ってくる。
「そんなの姉上なら幾らでも見つけられるでしょう」
「無理よ!貴方以上に半ズボンの似合う子なんて見つかるわけないわ!!」
「そ、それは、た、確かに」
姉の言葉に、妹がなにやら納得を見せる。
一瞬怯みかけるが、何しろ彼女だって真剣だ。
まさか、半ズボンが似合うってだけで人生を棒に振るわけにも行かない。
「ですが、将来を期待出来るものはいるはず、侍女長の息子のナシェット君などは、中々見栄えの良い少年ではありませんか」
そう必死で反撃を試みるも、リーナは悲しげに首を振るばかり。
−−…あの子は手足が細すぎるのよ!
とかなんとか、悔しそうに呟いている。
見ているだけで胸を締め付けられるような切なげな顔色でも、頭の中は半ズボンの事で一杯だ。
順調に婚期も遅れている。
「ベルナデット、貴方何も分かっていないのね……。見栄えの良い少年だからと言って半ズボンが似合うとは限らないのよ」
その視線には、高尚な世界を理解出来ない者に対する憐れみすら感じられた。
そう、自分はあくまで半ズボン好きであって、少年愛好家では無いのだ。
当人は、プライドを持ってそう思っているが、この辺りが単純にこの人物をややこしくしていた。
素直に少年愛好家やってりゃまだ分かりやすかったのに……。
「ち、父上はどう思われますか!」
形勢不利と見てか、ベルナデットが急に矛先をこちらに向けてきた。
向けられた所で、貫かれる以外の術をアーベントは知らなかったが。
領主として領民の平穏を保ち、父親として娘の婚期と進路に頭を悩ませるのに精一杯の無力な男に、半ズボンについて一考する余裕などない。
「お父様からもベルに言ってやってちょうだい」
「あ、あたす?」
動揺から、ちょけた志村ファンみたいな答え方をしたきり、何も言えない。
そのまま何の返事もない父親に業を煮やしたのか、二人はぷいっと顔を逸らしてそれぞれギャーギャー言い始めてしまう。
再び自分の手を離れた問題に騒がしい私室で、疲れた双眸を窓の外に向けてみる。
そこには、今のアーベントが知らない世界が広がっていた。
緩やかに景色を変える空を、爽やかに歌い上げながら泳ぐ小鳥たち。
その行く末を追って、アーベントは雲の上の世界を夢想する。
−−どこまでも遠くに飛びたいなぁ。
−−はい♪ タケ○プター♪
逃避したさきに、だみ声の青ダヌキを見つけたが、現実の彼の心に平穏が訪れる事はなかった。
最終的に、事態を収めたのは彼の奥方だった。
至極常識的な見方から、ベルナデットの進学を認め、リーナの趣味を窘めた。
発言力の無い父親を叱った上に、進学の手続きなどの時間稼ぎとして、リーナの見合い相手を用意していたのだから、舌を巻くほどの手回しの良さである。
そしていよいよ出発の日。
母親は言った。
「ベルナデット、貴方の思う通りに生きなさい。それをする力が貴方にあると私は信じています……それから、リーナ、貴方は少し思う通りに生きるのを控えなさい」
そうして、隣で泣き暮れるリーナに釘を刺すことも忘れない。
リーナの見合いは、全て惨敗だった。
理想のタイプが「半ズボンの似合う太ももを持った少年、乃至少女」と言うのだから、成功する方がおかしい。
しかし、その傷心を微塵も見せずに、リーナはベルナデットに縋り付いた。
「行ってしまうのね…」
「はい…」
沈痛な姉の声にベルナデットの表情が少し曇る。
「これ私だと思って……」
そう言って、何かを手渡された。
滑るような手触りの短い布切れ。
確認するまでもなく半ズボンだろう。
瞼の母ならぬ、ボトムスの姉。
なんだか装甲騎兵を駆ってそうな響きだ。
「姉上……分かりました」
真剣な表情でそれを受け取る下の娘を見て、どこまで本気なんだろう? と不安になるアーベント。
そんな父親をよそに、リーナの頭を小突く母親。
頭を抑え、割と本気で痛がるリーナ。
「ほら、いつまでも出発出来ませんよ」
「あ〜う〜」
首根っこ引っつかまれて、ズルズル引き離されていく。
「ベル忘れないで!貴方以上に半ズボンの似合う人はいないんだから!」
「うるさい」
リーナの上に再びゲンコツが落とされる。
今度は声もない。
「姉上…」
グッタリと死体のように引きずられていく姉の姿を見つめながら、ベルナデットは手にした半ズボンごとグッと拳を握りこんだ。
どこまでも本気なのだった。
時は流れ、所は移ろい、一月後、ベルナデットの姿はラーズウッドにある。
彼女は入学試験を無事パスし、レイナート大の一年生となっていた。
あと二つで一話終了。
なんでこうなったか皆目見当もつきませんな。