第十八話 そこから、それは出てきた
そこには、何もなかった。
空間も時間も、それ(・・)以外の何も、いや、それ自身すらも存在していなかった。
そこにはただ可能性のみが点在し、充満し、集合しては離散していた。
そして、それらはやはり意味のないものだった。
ある時、それは気付いた。
遠くに聞こえる声。
優しく辺りを包むような声音で、でも、確かに目標を持った声。
それは、なにもないそこに声が響いた事に驚き、驚きを覚えた事に、また驚愕した。
その時、それはそれになった。
刺激が感情の連鎖を産んだ。
生まれた感情が次の感情を呼び、それ自身が戸惑うほどの早さで自我を生み、成長していった。
大きくなる自我に合わせて、それは形をとりはじめた。
いくらか迷った末、それは一番収まりの良い形ーー球状を選んだ。
形を決めると、様々な彩りの感情が区別なく混ざり合い、やがてそれは真っ黒な闇の色になる。
黒い球体になったそれは、そこで初めて世界を感じた。
それの中に響いている声は、形を得てからますます大きく強くなっていくようだった。
聞いている内にそれはその声に更に応えたくなった。
膨らんでいく欲求はそれを変化させていく。
より適した姿に、より相応しい体に。
幸い、サンプルはあった。
声に応じて、一つになった物が、良い手本になった。
知識を得れば、あとは簡単だった。
取り込んだサンプルを基に、声が求める形にファインチューニングしていく。
しばらくして闇に浮かんだその姿は、人間そのものだった。
四人の間を渇いた空気が流れていく。
「あれ何?……って今日何回目でしょうこの台詞」
最初に口を開いたのは、尻餅をついて、猫のように後ろ襟を摘まれた少女だった。
ざっくりと大胆に短く刈り込まれた髪型と、発育が決して良いとは言えない体型のせいで、一見して少女と判じる事は難しい。
脇の甘いタンクトップにハーフ丈のカーゴバンツ、左の足首には細い銀のアンクレットが巻かれていて、小さなチャームが微かに揺れている。
素振りや喋り方に男っぽい特徴があったが、よくよく見ると、顔立ちや体の線には、僅かに女性らしいまろやかさがあった。
ただ、タンクトップを後ろから引っ張られ、可愛らしいへそが顕になっても少しも動揺を示さない態度を考えれば、実際精緻な観察が必要だろう。
「あれが何かより、あれが何をするのかの方が俺は気になるな」
出題された脳トレクイズをさらりと無視して、少年の声で応えがあった。
あれ、とは、つい先程から宙に浮かび、命令によって人間にも敵意を向けて襲ってくる、黒い魔法の玉の事だ。
何やら白くて長い手のようなものが左右対称に飛び出しており、今現在は小さな星に生える二本の世界樹といった感じだった。
本物の世界樹がわきわき動くかどうかはともかくとしても、神秘性だけなら良い勝負になりそうだ。
その関係者、というか、ほとんど張本人である少年が、特定の返事を求めて声を向ける。
「駒野の、じゃないですよね、あれ」
そう言って、黒い星with世界樹に温度のない視線を投げた。
ジーパンのポケットに手を突っ込み、反対の手で足元の少女の襟首を摘む様は、渦中にあって、まるで、傍観者のようである。
やる気のないその様子は、顔立ちの良さもあって、酷くアンニュイなものに感じられた。
「もう少し日に焼けてたと思うなぁ」
少年に輪をかけて、やる気のなさそうな声が返ってくる。
返事をした女は、他薦と胸にプリントされたTシャツで軽く手の汚れを拭いながら、傍らの同輩に目を向けた。
「あれは、ユウの腕じゃない、というか女の腕だろうあれ」
若干一名を除き、あんたがそういうなら、と、納得する二人。
一人意味の分からない少女は、目をパチクリとしばたたく。
ーーがしゃんと音がしたのは、そんな時だ。
三度鳴った硝子が割れるような破砕音に、四人はそれぞれ身構える。
今度玉から出てきたのは、二本の足だった。
これまたスラリと長く、処女雪のように白い足が、玉の丁度真下から伸びて、ゆっくりと着地を果たした。
飛び出した足には小さなリボンのついたローファーがはかれていて、地面と当たってコツと音を立てる。
「足…」
「足だ…」
「足だな…」
「足だねぇ…」
異口同音。
本格的にバレーボールのマスコットになりつつある黒い球への、暢気な四人の感想とは別に、黒球には決定的な破局が訪れようとしていた。
球体全体に広がっていたヒビが今の衝撃で深刻化し、静かに自壊を始めた。
鈴のような澄んだ音色を響かせながら、花びらが落ちるように黒いカケラが散っていく。
不思議な光景だった。
夕闇迫る空の下、夏の陽の長さによってまだ明るい地上に、一人の少女が顕れていく。
一枚カケラが落ちるごと、入れ替わるように少女の輪郭がハッキリとしていった。
見た目小柄な体型だったが、とてもあの球の中に入れるサイズではない。
それでも何故か違和感を感じさせない現象は、普段魔法に馴染みのなかった二人に、奇妙な錯覚を覚えさせた。
だまし絵のような変化はしばらく続き、徐々に少女の正体を明らかにしていく。
およそ、九割方姿を現した頃、スカートに残ったカケラを手で払いながら、少女は一堂を見回した。
体温を感じない観察者の目で、順々に目線を動かして行く。
やがて、目当ての人物を見出だし、一転して華やいだ笑顔を見せた。
スカートの裾を摘み淑女らしい礼をして見せ、笑顔のままの口元から涼やかな落ち着いた声が流れた。
「お呼びに従い参りました。はじめまして、ご主人様」
エプロンドレスに身を包んだ少女は、そう言って、コクりと首を傾けた。
ようやく最初の話に目処が…。
長かった……。