第十二話 佑 2
うわ~、まずいよこれ、どうしよう。
佐藤の前に現れた謎の真っ黒な球を見ながら、ボクは手にした本を握り締めた。
三日前に預けられたばかりのその本は、冷や汗の浮かんだボクの手に不思議なほど馴染んでいる。
魔道書。
格式ばった言い方をすると、そういうモノになるんだと思う。
別に黒魔術とかそんな風に呼ばれるものにそれほど詳しいわけじゃないけど、想像した以上に、この本は気安いものだった。
表紙に人の皮が使われたりもしてないし、特別あくの強い人格とかが宿っているわけでもない。
記されている文字にさえ気が付かなければ、どこにでもありそうなハードカバーの本。
一般人――魔法を使えない人が、簡単に魔法を使うための道具。
どこまでも冷めた視点で、これは商品なんだそうだ。
初めてベルと会った日……ボクが彼女を拾った日に、説明を求めるボクらの前で彼女はそんなふうに語りだした。
「魔道書を完成させる――魔法使いの実技試験って所か」
お客用の椅子まで埋まった、夕食時のダイニングキッチンのテーブル。
意外でもなんでもなく、最初にベルの言葉を受け入れたのは父さんだった。
父さんは絵本作家をしている。
大人も楽しめる、とか、風刺っぽい皮肉の利いた作品――なんて物は書いていなくて、水彩絵の具を使った、どこまでも甘くてフワフワしたやさしい作品を世に送り出している。
よく言えば夢一杯、悪く言われれば偽善的とか子供だましとか。
それでも、綿菓子とチョコレートで出来たような世界観は、幼い子を持ったお母さん方には人気があるそうだ。
そんな父さんだから、結局夕食後まで待てずに話がそんな所まで広がった。
「そういう事になるな。まあ、僕くらいの魔術師になると、こんな試験あっという間に終るだろうが」
すっかり箸を止めてしまった父さんの前で、ふふん、と、男物のパジャマに身を包んだベルが胸を張る。
さっきまではゴテゴテ装飾の付いた服を着てたから良かったけど、あんな薄手のパジャマで胸を張られると目のやり場に困ってしまう。
……意外と着やせするタイプみたいだ。
逃げるように視線を逸らした先で、天が箸を咥えたまま怪訝そうな顔で訊ねた。
「それってモニターってこと?」
「モニ……モ? モ、なに?」
「だからぁ、モニター。実際に誰かにモノを使ってもらって、改善点とかを探そうっていう試みの事」
その日の夕食のメニューはお鍋だった。
母さんお得意の鳥のツミレ鍋で、団子には歯ごたえと香りを足す為、ゆずの皮を削ったのと軟骨が混ぜられてる。
良い具合に火が通って白くなったそれを、自分の口に移しながらベルが頷いた。
「うん、ほう、ほにはー。へなへれば、わざわざへはいまでして世界を渡っはりなどひない……ムグムグ」
「それってどういう意味?」
行儀悪く口を動かしながら喋るベルに、ボクは質問を向ける。
ごくんとツミレを嚥下すると、次の獲物を探りつつ答えた。
「此方の世界には、マナ自体が殆ど存在しない」
マナって言うのは、ベルの言う所によると、"次の存在の素"となるものらしい。
大雑把に父さんが翻訳してくれて、ボクの中では、完成すると本物になる粘土のようなもの、と言う認識になっている。
「こっちの世界に無いって……でも、マナってゲームとかで結構聞くよね?」
そう言う天の言葉には父さんが答えた。
「マナと言う言葉は確かに此方の世界にもあるな。例えば旧約聖書の出エジプト記に出て来るmanna――マナまたはマンナ。昔、イスラエル民族が荒野の旅の途中で神様から奇蹟的に与えられた食べ物と言われてる。他には太平洋諸島などで広く見られる超自然的な力の観念で此方のスペルはmana。彼女の言うマナの印象と近いのはmanaの方だな……他にも音だけで判断するなら、日本では真名――本当の名前と言う意味で……」
「お父さん」
「……あ、うん、すまん」
興奮して椅子から身を乗り出さんばかりの父さんを、母さんが静かに嗜める。
黙々と鍋の中身を整えていたはずなのに、やっぱり一番発言権があるのは母さんらしい。
嘘のように大人しくなった父さんに多少戸惑いながらも、天が躊躇いがちに口を開いた。
「えと、で? 結局どういう事?」
「つまり世界の在り様が違うのだ」
白菜に伸ばしかけていた箸を、まだ早いと母さんに止められて、渋々此方を向くベル。
「僕のいる世界と違って、此方ではマナが必要ないんだろう」
お互いの世界に相違点がある事を知ると、そう考えても間違いはないんだろう。
そもそも、魔法がある時点で、あちらと此方の世界はかけ離れて違っている。
「もにたーで魔道書を使用する人間に、魔術を使える者がいては元も子もないからな」
「それで世界を移動するって、随分徹底してるんだね」
母さんの顔色を窺いながら、今度こそ白菜を手に入れることに成功したベルは機嫌よさ気に頷いていた。
ちなみに、さっきから妙に、皆が状況を受け入れているように見えるかもしれないけど、ボク達は夕飯前に彼女が魔法使いである証拠を見せてもらっていた。
証拠と言うのも単純な話で、ベルに簡単な魔法を使ってもらったのだ。
リビングに突然現れたでかい氷の壁を見て、父さんはもちろん、頑なに疑っていた天まであんぐりと口を開いて驚いていた。
母さんまでが驚いて絶句していたのが、見ててちょっと可笑しかった。
食事を終えると、ベルが一瞬で氷の壁を出して消して見せたリビングに集まって、家族会議の続きとなった。
取りあえず、ベルの事情と、ボクの要求は聞いてもらったから、彼女の処遇は、あとは保護者達の判断次第という事になる。
二人がけのソファにボクとベル、足の短いテーブルを挟んで父さんと母さん、それから天。
変則的なお嬢さんを下さいフォーメーション。
内実は大分違うけど、当人達の緊張感は似てるかも。
ソファに黙って座っていた父さんが、おもむろに口を開いた。
「……うん、取りあえず留学の間、一部屋提供しよう。幸い物置になってる部屋もあるし」
父さんの言葉にボクとベルは顔を見合わせた。
「本当?」
「ただし――一週間。一週間以内に何か仕事を見つけなさい。バイトでも何でもいいから、部屋代はともかく、食費くらいは払ってもらうよ」
その言葉に、ベルが力強く頷いた。
立ち上がり、胸を張る。
「そのくらい僕にかかればお茶の子さいさいだ。労働と言うのはやったことがないが、明日からでもここにフルコースが並べられるくらいの金銭を稼いで来て見せよう!」
ドン! と頼もしく胸を叩きながら、自信満々に前髪を払うベル。
呆れたような視線を向けながら、天が母さんに小声で顔を寄せた。
「……お母さん、良いの?」
「お父さんが決めた事よ。母さんにはそこまで強く反対する理由もないし――佑?」
此方に視線を向けられる。
「ベルナデットさんの面倒は貴方が見ること。それから、彼女の仕事が見つかるまで、食費は貴方のお小遣いから引いておくからね」
「うん」
さっきから、微妙にペット扱いのベル。
それでも、その時のボクは、もうただ嬉しくて、そう言って頷いた。
そんなボクを心底呆れたように見つめる天。
「ダメだこりゃ」
気障ったらしく肩をすくめると、立ち上がって部屋を出て行ってしまう。
「大船に乗ったつもりでいるんだ! 良し! 明日からバリバリ働くぞユウ!」
「うん」
うわーはっはっはっはっと、あんまり貴族らしくない笑い声を上げながら、ベルは何時までも偉そうにしていた。
……って、こんな事思い出してる場合じゃないんだ。
結局、期限の一週間まで後四日しかないのに、職探しもあんまりうまく行ってない。
魔道書のモニターの方は、なし崩し的にボクに決まっていた。
職探しが上手く行っていない代わりと言うか、ここ数日で、本の使い方は少しずつでも慣れてきてはいた。
ぽちの散歩中に偶々ベルの仇敵なんて存在に会わなければもっと良かったんだけど。
魔道書の成長にはやっぱり実戦が一番効果的らしい。
外からの魔力の刺激を受ける事が出来れば、勝ち負けは度外視でいいはずなんだけど、ベルの拘りようを見てるとそうも言えなくなってくる。
詳しくどういう関係かを知らないとはいえ、不意打ちまでしたんだから勝ってあげたいんだけど。
そうは思うものの、あんまりいい状況とは言えそうに無かった。
いかにも慣れていないふうでボクの攻撃を避けていた佐藤だったけど、なんか急に出てきた、南の異常に献身的な働きの所為で、魔法は完成してしまっている。
さっきまでの馬鹿みたいに大きな魔力の流れは感じないけど、あの黒い球には不気味な存在感があった。
夕陽になりかかっている太陽の日差しを受けて、闇色の光沢が輝く。
「捉えろ」
囁くように佐藤がそう言った。
その瞬間キラリと球の表面が鈍く光る。
蛇に睨まれた様な悪寒が背筋に走った。
考えるより先に、足が動いていた。
「蹴り上げろ!」
走り出したボクを追うように、音も無く此方に近寄ってくる黒い球に向って魔法を放つ。
黒い球は滑る様に空中を移動し、地面の砂を巻き上げながら突進してくる。
魔力の操作は積み木を積み上げる感覚に似ていた。
魔道書から渡される魔力を、一つずつ丁寧に積み上げて行って、目的の形に整える。
右手を振るうと、想像したとおりの氷の塊が黒球に向って飛んでいった。
うぞり――と気味の悪い気配がした。
黒い球が一瞬上下左右に細かく震えたかと思うと、次の瞬間縮こまって、無数に分裂した。
……な、なにあれ? 触手?
綺麗な真円を描いていた球が、黒い表面を蠢かせながら、数え切れないほどの触手を伸ばしてきた。
触手の先は、小さな、赤ん坊くらいの掌の形をしていて、何かを掴もうとするように短い指を伸ばしてこちらに向かってくる。
しかも、その黒い手には指が四本しか存在してなくて、悪夢のような光景に更に拍車をかけていた。
「うわ、うわわ」
あまりの気持ちの悪さに、口から勝手に悲鳴が漏れる。
「け、蹴り上げろ!」
立て続けにもう一発。
何か考えてというわけじゃなく、恐怖から身を守るために呪文を唱えた。
合計二発の氷塊が、黒い球めがけて飛んでいく。
先を争うように延びてきていた触手の先端に、氷塊が直撃した。
先頭のヤツが痛がる素振りで、手を引っ込める。
それを皮切りに、次々に触手を蹴散らしながら本体に迫る氷塊。
やった……と息をつけたのは一瞬の事。
瞬きの間に、状況が一変する。
無抵抗に弾き飛ばされていた触手たちが、明らかな意思を持って氷塊に殺到しだした。
向ってくるエネルギーのわき腹を付くように、横合いから氷を貫いていく。
硬いモノが擦れ合うような嫌な音が響いた。
氷塊は、あっという間に、欠片もなくなった。
そこからは、溶けた水滴も落ちない。
二発目のほうは、最初の混乱すら起きなかった。
触手が放射状に広がったかと思うと、グローブでボールを捕球するような、事務的とすらいえる手際で綺麗に処理される。
「あ、あら~」
そんな光景を唖然と見つめていると、触手がこちら――ボクのほうを向いた。
睨まれた様な感覚と言うのは正確ではないかもしれないけど、次のターゲットにされたのは分かる。
「う、うわわぁ~」
額に浮かんでくる冷や汗を拭う時間も惜しく、ボクは背中を向けて駆け出した。
「ひゃん! ひゃん!」
呆然としているベルの傍で、ぽちが黒い球に向かって懸命に吼えていた。
明らかに腰が引けてる彼女に、助けを求めるのは酷だと思った。
応援だけをありがたく受け取って、かなり本気で逃げる。
「小鳥さんたちが……」
声の方を振り向くと、佐藤が魔道書を開いていた。
「う、うあ~、クラスメイトに向ってそこまでするんだ?」
怖いくらい無表情で、呪文を朗読している佐藤。
朗々と読み上げる様は、まごうことなき優等生。
それでも、どことなく嗜虐的な光がその瞳に見えるのは、ボクの気のせいでしょうか。
思わず佐藤の足元に転がった南の姿を見てしまう。
や~、あんな目にあうのは嫌だなぁ。
足を止めて南を見てしまっていたボクに、佐藤がにやりと口の端を持ち上げて見せる。
しまった、と思ったときにはもう遅い。
パタンと魔道書を閉じる佐藤の姿を最後に、振り返ると、四本指の小さな掌が目の前まで迫ってきていた。
それも、数えるのも馬鹿馬鹿しくなるくらい沢山。
諦念の広がる気持ちを奮い立たせて、無理矢理体を左に倒す。
重力に逆らわず体を傾けていく。
が、やはり間に合わなかった。
右手の先を何かが通っていく感覚が襲う。
強く腕を引っ張られたように、更にバランスを崩されて、地面に倒れこんだ。
「あいててて」
ボクは、砂利の上に着地した。
打った腰を擦りつつ、手を突いて立ち上がろうとして、それが出来ない。
接地した右手に違和感を感じて、何気なく視線を向けた。
「って、あ、う、うわああああああああああああああぁぁぁ!」
ボクの口から望まない悲鳴が上がった。
視線の先で、右手が、なくなっていた。
丁度、手首から上が綺麗サッパリと消失している。
混乱してるからか、不思議と痛みは感じなかったけど、断面には真っ黒いモヤみたいなのがこびりついていた。
「い、痛くないのが逆に怖い……」
心臓の音がやけに大きく聞こえた。
遠くで、ベルが何か言っていたようだけど、その音に邪魔されて何を言っているかは分からない。
そうだ、ベル。
助けを求めて、混乱する頭でベルの方を向いた。
彼女の足元で、ぽちが激しく吠え立ててる。
何故か、ベルも吼えていた。
スローモーションのようにゆっくりと口が動いて、
よ・け・ろ。
「……けろ! 避けろ!」
唐突に音が戻ってくる。
視界に影がかかって、はっとして上を振り仰ぐ。
そこには、黒い球の本体がボクの事を見下ろすように静かに漂っていた。
獲物を見つめる蛇の眼。
表面が波打って、太陽のフレアのように触手がのたうつ。
獲物をいたぶるように、ゆっくりとそれが降りてきて……。
突然、身動きが取れないままのボクに向って、雨が落ちる速度でそれが降って来た。
「……っ……」
悲鳴を上げる間もなく、視界が黒一色に染まった。
話が進まない進まない。