第一話 ゆずる 1
例えば。
家の電話が鳴って、母ちゃんにせっつかれながら受話器を取るとする。
すると、受話器の向こう、男の声でそいつは言う。
「今回のワールドカップ、君の力が是非とも必要だ。我々の十番としてピッチに立ってくれ」
突然そう言われた時の気持ちに似てると思う。
受話器を取った俺は一介の中学生に過ぎず、サッカー経験者でもない。
サッカーをフットボールって言う日本人は信用できないし、白、黒、でクロス検索すると、ボールより先にシャチかオレオが出て来る。
俺はそういう人間だ。
てか、そもそも未だにサッカーボールを白黒で認識してるあたりで、サッカーに対する知識は察してくれていいと思う。
で。
でね。
でだね。
その姉ちゃんは、まず、まっすぐ俺を見ながらこう言ったわけだ。
「やっと見つけた。君は選ばれた者だ。さあ、あたしと一緒に世界と闘おう」
寺の境内、腹を空かせた賽銭箱の前で、銀色のキラッキラした目で。
長い黒髪をかき上げて、煙草を口の端に咥えながら、俺の両肩に手を置いてさ。
これまで見たことのないような美人さんが、ぼさっとした中学生を捕まえて、一緒に世界と闘おうとキタもんだ。
「はい?」
聞き返したね。
はい、聞き返しましたとも。
今思えば、徹底的に目線を逸らして即ダッシュ、が正解だって分かるんだけど、何しろその日は暑かったし。
ほら、夏って皆何かを求める季節じゃん。
切欠とか変化とかを求める、そんな青春発情期じゃん。
だから、多分そういうのが面白い感じに作用して、俺は逃げもせずに、まじまじとその女を見返した。
「何、簡単な話だ」
女は馴れ馴れしく俺の肩に手を回すと、どこからか桃色の本を取り出し、それを俺につかませた。
つるつるした指ざわりの本には、金字の、どこの国の言葉だか分からない文字で、なにやらタイトルのようなモノが書かれていた。
それを指差しながら、内緒話をするように女は顔を寄せてきた。
「ここだけの話、そいつは魔法の本ってやつだ。それもあたしが魔力を込めた一級品。も、超強力。これさえあれば世界は君の思うがまま。あー、よかったね、オメデトー」
「……はい?」
……聞き返した。
もう一回、聞き返した。
耳に入った単語が、あまりにも聞きなれない。
鼓膜が、今聴いた単語の脳への進入を拒否するバリアみたいになってる。
にやけ面で拍手を浴びせてくる女に対して、ここに来てようやっと危機感が生まれた。
遅すぎる。
こんな判断力じゃ、とてもじゃないけど代表の十番なんて背負えない。
やっぱり辞退させてもらおう。
「あの、そ、そういうの間に合ってるんで」
夏の悪戯みたいな女を刺激しないように、俺はゆっくりと肩に置かれた手を外して、後ずさる。
「あ、そう」
しかし、女は外された手をちらっと見た後、意外なほどあっさり引き下がった。
二十度ほど首を右へ動かして、視線を止める。
女の目線を追って行って、夏木立の中にその姿を認めたとき、俺は思わず、あッ、と声を出した。
そこに見つけたのは十年来の付き合いになる、幼馴染の姿だった。
(あ、あの子ったら、あんな所でぼーっとして)
慌てて、手を振って逃げるように無言の忠告をするが…………あ、手、振り返してきやがった。
(だから逃げろって! そのねーちゃんやばいから! にーげーろー!)
下の道に降りる石段のほうに大きく両手を振りながら、口パクで叫ぶ俺に、楽しそうな分からず屋から、同じく口パクで言葉が返される。
(……キーケーロー?)
それは古代ローマ帝国の政治家だ。
ちなみにこのキケロって人、多才と話術の巧みさで政界に地歩を占めたが、カエサルの部将だったアントニウスと対立し、第二次三頭政治樹立後に、追放、殺害されている。
また、哲学者としても………………って、今関係ね!
大体、俺はお前の言ってる事理解してるのに、なんでお前はわかんないんだよ!
幼馴染がキョトンとしてる内に、女はその手を伸ばして、彼の肩に、世界一綺麗なはんぺんみたいな手を置いた。
「君は選ばれた。あたしと一緒に世界と……」
「いや、誰でも良かったんかい!!!」
真っ直ぐな目で嘘をつく女に、俺はツッコミを入れた。
――いや、別にね、信じてたわけじゃないよ。
いや、ホントに…………ほ、ホントだよ。
じゃなくて単純にさあ、綺麗なねーちゃんに選んでもらえた、って言うのは男としてちょっと嬉しいじゃん。…黙れ、嬉しいんだよ。
それを、実は誰でも良かったんですみたいに言われれば、面白くないのが正直な所だ。
例え、相手が魔法とか魔力とか、痛ワード口走しちゃうような女であってもですよ。
そんな俺のプライドはともかくとして、幼馴染が少しだけ真剣な表情になった。
見つめる銀色の瞳に、ヤツ自身の瞳が写る。
この顔をされると俺は、どうにも居心地が悪くなる。
この、一見のんびりした幼馴染は、非常に出来が良い事で有名だった。
有名で、それから事実だった。
勉強させれば学内のトップ10には名前が出て来るし、運動させれば部活で本職の奴等が顔色を変えるほど上手かった。
絵も作文も達者で、そのどちらもで県から賞を貰った事もある。
その上、行儀も性格も人当たりも良くて、オマケに顔まで良いと来れば、何も思うなと言うのが無理な話だ。
あー、無理だとも!!
醜い嫉妬バリバリだとも!!!!
小さい頃から、なにかと比べられてきた所為で、俺を構成するコンプレックスの八割くらいは、こいつに対してのものだ。
先生の自慢、町の自慢、友達の自慢……そんで、俺の自慢。
そんな風に思ってる自分が、もう、どうしようもなく悔しい。
嫉妬とかみっともないし、言ってる事おかしいけど、そこは別腹だ。
だって、ホントに凄いんだもんこいつ。
いつも、平気な顔をして、俺が出来ないような事をやってのける。
「……良いですよ」
こんな風に。
頷いた幼馴染を見て、俺は慌てて駆け寄った。
「こ、こら、良く考えて発言しなさいっていつも言ってるでしょ! えーと、あの、良い意味で、あくまで良い意味でですからね、お姉さん。……この姉ちゃん絶対頭おかしいだろ!!」
自称マジカル姉ちゃんを指差しながら叫ぶ。
一応念のために注釈入れといたけど、効果の程はよくわからない。
陽の光が内臓まで届きそうな白い顔には、こちらからは読み取れないような表情が浮かんでいた。
楽しそうでもあり、怒ってるようでもあり。
この瞬間は、ぶっちゃけどっちでも良かった。
それ程、動揺してたんだと思う。
「でも、面白そうだろ」
一人あたふたする俺を、宥めるような声で、聞き分けのない子供に言い聞かせるように、幼馴染は言った。
女に向けていた顔を俺に戻して、いつもの表情になる。
――こんなの何でも無い。
そう思ってるだけじゃなくて、周りにもそう思わせる表情。
余裕たっぷりの……俺の、苦手な顔だった。