9 馬鹿皇子の戯言
「……んっ」
ぱちゃんと水音がした。
いつの間にか湯船で眠っていたらしい。
よりによって恋を自覚した、あの時を夢に見るとは。
ハンク兄様と別れた後、私は真っ先に浴室に駆け込んだ。
一刻も早くイヴァンに触れられた所を洗い流したかったのだ。
最後までされた訳ではないし、首や耳以外は素肌ではなくドレスやドロワーズ越しに触られた。
それでも一刻も早く体を洗い流して触られた感触を消してしまいたかった。
浴室の鏡を見て、なぜハンク兄様が顔色を変えたのか分かった。
首にはいくつも虫に食われたような薄紅の痣があった。
……お母様の首に何度も見た痕と同じだ。
あの記憶と同じで、それを見る度に胸が痛くなったものだ。
相手がお父様でないだけで、いつかキスマークを付けられる覚悟はしていたが……まさか初めてのキスマークがこれとは。
いつも以上に泡を多くつけた海綿で体を強く擦った。それでも触れられた感触は消えず、あの時の彼の目を思い出して、湯船の中でぐしぐし泣いてしまった。
抵抗できず、ただ震えて泣いていた自分が情けなかったのだ。
泣いているうちに眠ってしまったようだ。
《脳筋国家》の王女だろうと私は女で彼は男だ。
いざという時、力では敵わない。
分かっていても、それを見せつけられると、ただ怖かった。
お父様とお母様が愛し合う姿は、とても綺麗だった。
思い出す度に胸に痛みが走っても、美しく崇高な記憶だ。
けれど――。
イヴァンが私にした事は、お父様がお母様にしたのと同じ事のはずだのに。
「……あんなの、ちっとも綺麗じゃない」
一方的な行為だったからか?
ハンク兄様に言ったように、相手が彼でなくても結婚する以上しなくてはいけない事だ。
……私に耐えられる?
イヴァンならいいと思った。
お父様に外見特徴が似た、どこか懐かしさを覚える彼となら馬鹿皇子などよりも良い夫婦になれると思った。
けれど――。
私は湯船の中で体を抱きしめた。
彼は、おそらく――だ。
お父様の事を抜きにしても、今回の事を抜きにしても、私は彼を夫とは思えないだろう。
けれど、私がどう思おうと政略で決められた結婚だ。私に拒否権はない。
浴室を出てバスローブを纏った私は濡れた髪を侍女に拭ってもらっていた。
前世もそれなりに裕福な家だったが基本、自分の事は自分でやっていた。その影響で幼児期を脱すると自分一人で身支度を整え始めたのだが侍女達から「仕事がなくなります!」と泣きつかれてしまった。
王侯貴族の女性が侍女達にお世話されているのも生まれた時から傅かれて何もできないからというのもあるだろうが侍女達に仕事を与えるためでもあるのだろう。
入浴だけは断固として手伝いを拒否したが、それ以外はやってもらうようになった。侍女達に王女の世話という仕事を与えるのも王女として生まれた私の義務だと諦めたのだ。
「ぎゃあ――っ!」
後は寝間着に着替えて寝るだけという時に、聞き覚えがある男の悲鳴が聞こえた。
「……今の馬鹿皇子……皇子殿下の声よね?」
ほぼ廃嫡が決定されているとはいえ今は皇子だ。ここには祖国から王女付き従ってくれた侍女もいるが皇帝から派遣された帝国の侍女もいる。さすがに「馬鹿皇子」呼ばわりはまずいだろう。
「見て参りましょう」
「いいえ。私が行くわ」
侍女の一人が言ってくれるが、私は簡素なドレスに大急ぎで着替えマントを羽織ると部屋を出た。
「王女様! 私も行きます!」
祖国から私に付き従ってくれた侍女の一人、ケイトが慌てて私の後を追いかけてきた。
ケイトは今年十六歳。小柄で華奢な肢体。栗色の髪に淡い緑の瞳の可愛らしい少女だ。
しばらく行くと人だかりができていた。
大半は衛兵らしき男達だが、身形や雰囲気で貴人なのが明らかな二人の男性がいた。
「ハンク兄様……イヴァン、様」
彼らの足元には、明らかに手足が変な方向に曲がった馬鹿皇子が転がり呻いていた。
「来たのか。ベス」
来なくていいのにと言いたげなハンク兄様に私は眉をひそめた。
「もう部屋に戻られたと思っていましたわ」
「ベスと別れた後、こいつと遭遇したんだ」
ハンク兄様は形のいい顎で転がっている馬鹿皇子を示した。
「……もしかして、馬鹿皇子の腕や足の骨を折ったのは、ハンク兄様?」
手足が変な方向に曲がっているのは、誰かが、というか十中八九、ハンク兄様が折ったからだろう。
骨を折られれば大抵の人間は悲鳴を上げる。
「ああ。俺の機嫌がこの上なく悪い時に、よりによってベスに会いに行こうとしていたからな」
ハンク兄様の「機嫌がこの上なく悪い」のは、私がイヴァンにされた事や先程の私とのやり取りのせいだろう。
「……今更私に会って何を話そうというのかしら?」
「……べ、ベス」
骨を折られた痛みで呻いていた馬鹿皇子は、ようやく傍にいる私に気づいたようだ。
「見苦しいモノを見せて悪かったな。すぐに回収する」
イヴァンは衛兵に命じて手足を折られた馬鹿皇子を連れて行くように命じた。
「今度は、ここに来れないように地下牢に放り込んでおけ」
イヴァンの命令に衛兵達は反論一つせずに馬鹿皇子を抱えて連れて行った。
「触るな! ベス! 俺は君を愛しているんだ! 君の気を引きたくて叔父上の言う通りに婚約破棄宣言しただけだ! 本気じゃなかった!」
連れて行かれながら馬鹿皇子は必死な形相で私に向かって喚いている。
「愛している、ね」
馬鹿皇子の姿が見えなくてなってから私は鼻で笑った。
「唆されたにせよ、公衆の面前で婚約破棄宣言した男がよくも言う」
公衆の面前で婚約破棄されるのが王侯貴族の女性にとってどれだけ恥辱で瑕になるか、考えれば分かりそうなものだ。
馬鹿皇子は、それすら分からないのだろう。
ただ単に、素っ気ない婚約者の気を引きたかった。それだけなのだろう。
それに、馬鹿皇子が愛しているのは本当の私じゃない。私は一度として素の私として馬鹿皇子と向き合った事はなかったのだから。
まして、公衆の面前で鉄扇で十発ぶん殴られても「愛している」と言えるとは、マゾなのだろうか?