2 焚きつけられた婚約破棄
暴力シーンがあります。
「きゅーう」
大広間には私が鉄扇で皇子の顔をバシッと打つ音と私が数を数える声しか聞こえていない。
誰もが強張った顔で私が皇子に振るう暴力を見守っている。この場から逃げ出そうという考えもないようだ。
私は帝国が敵に回したくないテューダ王国の王女だ。しかも、皇子が卒業パーティーで婚約破棄宣言したら私が皇子に何をしてもお咎めなしという皇帝からの許可もある。皇子派の人間ですら止めようとはしてこなかった。
皇子の顔は血まみれで腫れ上がり前歯も折れ原型を留めていなかった。
「じゅーうっと!」
バシッ!
宣言通り馬鹿皇子を鉄扇で十発殴った私は、最高に機嫌のいい笑顔で皇子の血が飛び散ったスカートの裾を摘まみ上げると周囲に向かって完璧な一礼をしてみせた。
「皆様、お騒がせしました。卒業パーティーをお楽しみください」
そのまま出入り口に向かおうとした私に声をかける人がいた。
「ベス王女」
超絶美形な容姿に相応しい耳に心地よい低音の美声。
初めて会った五歳の時、皇子の婚約者として彼の身内との顔合わせで「ベスとお呼びください」と言ったので、それ以来、彼と皇帝は私を「ベス王女」と呼んでいる。
淡い色の髪と瞳が多い帝国では珍しい黒髪黒目。白皙の肌。均整の取れた長身から放たれるカリスマ性。
ラズドゥノフ帝国の現皇帝ピョートルの異母弟イヴァンだ。来月で二十六になる(奇しくも彼も私と同じく四月八日が誕生日だ)。
「陛下とあなたのご家族がお待ちだ。迎えに来た」
卒業式の来賓として一週間前から皇宮に泊まっている私の家族(両親と兄二人だ)だが、パーティーにはいなかった。こうなると分かっていたからだろう。
「はい。皇弟殿下」
そのまま私を伴って出口に向かおうとしたイヴァンに、顔を血塗れにし息も絶え絶えで床に倒れている皇子が最後の力を振り絞ったのだろう大声を上げた。
「どういう事ですか!? 叔父上! 公衆の面前で婚約破棄宣言すれば、ベスも反省し泣きついてくると言ったではありませんか! どうして俺がこんな目に遭う破目になるんですか!?」
……どうやら皇子がこんな馬鹿な真似をしたのは、イヴァンに焚きつけられたかららしい。
馬鹿な甥を追い落とし(シャレではない)自分が皇帝になるためだろう。
テューダ王国の王女である私に対して公衆の面前で婚約破棄宣言したのだ。まず間違いなく皇子は廃嫡になる。
そうなれば、次期皇帝になるのはイヴァンだ。
イヴァンに利用される事になってしまったが別に腹は立たない。
私が彼の立場ならそうするし、馬鹿皇子とこのまま結婚してしまってもいいのか悩んでもいたからだ。
婚約者とはいえ一年前まで離れて暮らしていたので互いの誕生日会で会う時だけ相手をすれば済んだ。けれど、この一年傍にいる事になり、こいつのお守りは本当に大変だった。
前世から庶民の女性が最高の地位(女王とか宰相とか王妃とか)に上り詰める話が大好きだった。
今生で王女として生まれたと気づいた時は下剋上できないのだと分かって嘆いた。……その日生きるのも大変な立場の人間が聞けば怒り心頭だと気づいて即反省したけど。
王女として生まれたお陰で国王や皇帝など統治者となる男性と簡単に結婚できる。夫となる国王や皇帝となる男が馬鹿ならば、そいつを傀儡にして私が陰の支配者になればいいのだと思いついた。前世からやりたかった下剋上とは違うけど最終目的である国の頂点に立つのは変わらないのだ。それに気づいてからは嫌いな勉強も頑張った。
私の曾祖父ハインリッヒ王がラズドゥノフ帝国に戦争を仕掛ける一歩手前までいったせいか(結局ハインリッヒ王は何者かに暗殺されたので戦争は回避されたけど)帝国はずっとテューダ王国を警戒している。
お祖父様、リチャード王は武人としての側面が強い人だが、即位して以来、他国に戦争を仕掛けた事はない。それでも警戒心を解けない帝国はテューダ王国の王女である私と自国の皇子の婚約を申し出てきた。
王女として生まれた以上、政略の駒として扱われるのは覚悟していたし……何より、愛するあの人とは絶対に結婚できない。
だから、結婚に愛など求めない。
私にとって幸いな事に、婚約者となった皇子は馬鹿で私の目的を果たせると思った。
けれど、いくら傀儡にするには馬鹿がいいとはいえ限度があるのだと分かった。
こちらの想定内に動いてくれる馬鹿と、人の話を自分の都合のいいように解釈して思いがけない方向に動いて事態をまずくする馬鹿がいるのだ。
こいつは後者だった。
陰の支配者になりたいが、こいつを思い通りに動かしながらでは無理だと悟った。
私の手には負えない馬鹿だ。
だから、こちらに非のない形で婚約破棄してくれたのは、本当にありがたい。
こいつではなく私の思い通りに動いてくれる新たな婚約者を見繕えるからだ。
だのに、婚約破棄を了承し出て行こうとした私を呼び止め、ありもしない事で責め、挙句「妾妃にはしてやろう」などと宣ったのだ。
私でなくても切れるに決まっている。
「後で皇帝陛下から、お話があるだろう。それまで自室で待機していろ」
イヴァンは皇子の質問には答えず、衛兵に合図を送り皇子をパーティー会場から連れ出した。