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もこっちが他のキャラクターを惹き付けるのは、もこっちが深淵をくぐり抜けた事を糧に成長した為であって、その為に、他のキャラクターもこっちに注目し始めた。
例えば、田村ゆりは、基本コミュ障で、友達はまこぐらいしかいないのだが、もこっちと関わる事によって、自分を変えようとしている。…いや、田村は「自分を変えよう」というほどの意識も持っていないが、それでも、これまでの自分を壊そうとしている兆候はある。田村がネモと若干近づく描写があって、これから田村とネモが仲良くなる可能性はあるが、この二人はそもそも住む領域が全く違うのであって、この二人があのように接近するというのは、やはりもこっちの力が大きいのである。
そのほかにも、優等生を脱しようとする加藤さんもそうだし、ネモももこっちを契機に、隠していた声優志望を打ち明けて、大きく成長した。ここで注意したいのは、ネモにとって親友の岡田も、ネモを変える力はなかったという事である。とはいえ、岡田がネモの親友なのは間違いない。その友情も嘘ではない。にも関わらず、ネモが自分を変えようとした時、力になるのは、岡田ではなくもこっちである。秘められた自己意識と外面の二重性を自分なりにくぐり抜けてきたもこっちでなければどうしても駄目なのだ。
そうした事柄と関係するのだが、「わたモテ」という作品の人間関係は、表皮的なものを越えて「本質」で共鳴する部分がある。ヤンキー吉田と、生徒会長の今江先輩の二人は、表面的にはヤンキーと生徒会長なので、真逆もいい所だが、二人は相手の秘められた内面を洞察して、そっと手助けしてやるという「聖人」の属性を負っている。この隠された本性によって二人は共鳴し、独特の関係を持つ至る。
これと比べれば、現実の人間関係は、それぞれにこじんまりとしたサークルを作って閉じている。つまり、ネモは相変わらずリア充グループから抜け出さず、田村はまことしか喋らず、吉田はヤンキーキャラで満足する。現実であれば、そういう世界がリアルであるが、「わたモテ」は成長の物語であるから、それぞれが自分のいるグループ・性格付け・キャラクター性といったものを乗り越えて、本質の部分で他者と交流しようとする。そうして、その中核にいるのが、もこっちであり、これはもこっちでなければならない。
バタイユは文学の事を「霊的交通」と呼んだのだが、これは様々な差異を乗り越えるものだろう。表面的には人々は、それぞれの同一者性の中に凝り固まり、そこで自分のアイデンティティを発見し、閉じこもり、そこから動かない。ここから、疎外された人間、そこに入り込めなかった人間は排除される。
しかしながら、この同一者間の壁を壊すのは、疎外された人間である。彼が疎外されても尚、自分というものが存在し、存在しうるという事を発見し、人々の奥にあるものを呼び覚ます事によって、彼は「霊的交通」の中心となる。
「わたモテ」のもこっちは、それぞれのキャラクターの奥に秘められたものを呼び覚ます役割を背負っているが、それは彼女自身が世界から疎外され続けてきた事、それに耐えてきた過去を糧にして成長したからだった。そんな場所でも自分というものはありうると知って、それを、人々の境界線上に打ち立てる事によって、他者からの興味を引いたのだった。