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ネットのレビューを見ると「あのもこっちにも友達が出来て良かった…」という善意と愛情で溢れた回答があったが、本質はそういう事ではないと自分は思っている。いや、これに関しては強調しておきたい。というのは、この漫画を「ぼっちのもこっちにも友達ができた話」と理解すると、何かまるで違うものになってしまうからだ。誰だって友達はいて、彼氏がいたり、彼女がいたりするのかもしれない。前述の加藤容疑者は、「ブサイクだから彼女ができない」という風に悩んでいたが、根源的に悩むべきなのはそこではない。この点に関する認識の浅さは、善意でも悪意でも同じように浮かんでいる。自分はどちらも拒否したい。
「わたモテ」という漫画は、ぼっちのもこっちが頑張って努力して、友達が出来たり、彼氏ができたりするような話ではない。そうではなく、ぼっちのもこっちが、ぼっちの経験を元にして、そういう事(友達とか彼氏とか)を一般規範としている人々を「越えていく」物語なのだと思う。
これに関しては、誤読であっても構わない。というか、この点が誤っていたら自分の責任であるが、ここは、どちらかと言うと、自分自身の為に言っている。
自分は常々疑問だったが、上記のレビューのような人というのは、もちろん善意と愛情に溢れた「良き人」であろう。彼らは何かしら、台の上のような場所にいて、「もこっち」が泥土から這い上がってきたら、良かったね、と褒め称えたりはしてくれるかもしれない。
しかしながら、もこっちが「なめんな!」と心の中で叫んだ相手は正にそういう人達なのではないだろうか。彼らが、いつも「空気読んで」生きているリア充であったとしても、それは今のもこっちにとってもはや目的ではない。空気を読んで生きている人は、空気が読めなくなったり、空気がなくなったら、死んでしまう。
僕は、こうした善意と、良識と、秩序に溢れた家庭の人と話した事があるが、彼らは「何か」を恐れている。それは、彼らが台からころげ落ちる可能性だ。彼らは努力して幸福を、幸福と呼ばれるものを作り上げた。が…それは常に、いつ、そこから転げ落ちるかわからないものだ。だから、僕のようなひねくれた人間があえて、世界の底にある深淵について口にすると、彼らはそっとそれを回避する。汚物はそっとゴミと共に出してしまう。深淵はシステムによって回収されると信じる事、それが彼らの神だ。
話が逸れるが、自分にとって、キルケゴールやカフカの問題は重要なものとしてあった。彼らは共に、婚約者と婚約解消している。キルケゴールはその後、神に向かったが、カフカは逡巡し続けた。
僕の目には、カフカやキルケゴールは失敗したというか、遂に「他者」との間にうまい紐帯を気づけなかった人に思える。あるいはルソーも太宰治も、ニーチェも、みなそうかもしれない。が、彼らは一般の人より劣っていたのだろうか?
一般人の論理というものに、僕は屈する事ができない。「普通の生き方が一番いいよね」と言えば「普通の人」が一番多いのだから、受け入れられやすい理屈なのは間違いないだろう。そうすると、彼らにとって理解不可能なのは、彼らを越えていく存在と彼らより劣っている存在の二つである。一般的な論理が、これを平板に真ん中に引き寄せているのを見ると、嫌な思いになるが、彼らはそうする事によって精神衛生を保つ。
再三言うが、もこっちはただ単に友達ができた、普通の生活ができるようになった、のではない。外面的にはそうでも、それは「普通」とは全く異なっているものだ。「普通」が一番良いという時、「普通より劣っている者」は「普通」になる為に頑張ればいいし、「天才」は「普通」とは違う、なんだかよくわからない才能に恵まれた人という事になる。どっちにしろ、「普通」以外は理解できないし、理解する気もないと言明しているようなものだろう。
もこっちは、己が他人と違うと証明する為に、「他人達がそれを失ったら終わりであると信じられている紐帯を捨てても生きていける」と身をもって示したのだった。人にとってこの紐帯は「自然」である。彼らは楽園で生きているように、そこに自然に溶け込んでいる。彼らは、世界から疎外された経験がない為に、自らを自覚する事はない。