2
2
さて、今までは、もこっちが他者に受け入れられる過程を辿ってきた。これは、他者との間での馴れ合いとは全く違い、自分と世界との差異を感じつつも、その差異を消去しなくても普通に生きられる、友だちもできると「気づく」事であった。もこっちの中に巣食っていた、世界に認められその中でうまくやりたいという方向性と、世界などどうにでもなれ、一人で生きていこうとする方向性が矛盾なく整合されるという事だった。世界などどうにでもなれ、と思っていても人は生きられる。そんな人を好きになる奇特な人もいるわけだ。というか、世界は「世界」という単一な概念ではない。世には様々な人がいる。そして自分もその一人なのだ。
もこっちの変化と共に、作品も進展した。「わたモテ」を最初から読んできた人は、八~十巻のあたりで広い台地に出たような感覚を味わうだろう。もこっちは他人の存在を認め、また同時に他人ももこっちを認めた。それと共に、他人が単なるモブキャラではなくなった。ここには、作者谷川ニコの成長もある。それまで、作品はもこっちと「それ以外」というスタイルだった。僕の言い方では「一人称」だ。これが「三人称」になったのだが、この変化はただの技術ではない。主体=もこっちが他者を認め、他者ももこっちを認めたからこそ現れる場所であって、そもそも、人が思うほど、芸術とは手先の技術でどうにかなるものではない。必然的に作者の人生観や哲学が反映されてしまうものなのだ。
ここで、憶測を一つ入れさせて頂きたい。本当に憶測なので、外れているという前提で言うのだが、それは、谷川ニコはどうしてこんなに急激に進歩したのか?という点だ。
(実際は画と原作で別れているのだが、面倒なので、「谷川ニコ」という一人格として扱う)
谷川ニコを、理念的な発展として捉えると、インタビューなどで、自分は学生時代ぼっちだった、漫画以上にひどい経験をしてきたとほのめかしている。これは事実と思うが、そうは言っても、谷川ニコは「そういう経験」を元にして、「わたモテ」という漫画を描いたわけだ。
ここで何が起こっているか? 『神聖かまってちゃん』とも絡む話だが、「世界に拒絶された経験」を作品という形に結晶して、世界に差し出した時、それが世界に受け入れられた。ここでは「世界に拒絶された」という個人的経験が一周して、世界に受け入れられてしまったのであって、そうとすると、この作品形態そのものは、矛盾した環境の中に浮かんでいると言えるのではないか? それ自体、「世界に受け入れられない」のがテーマなのに、それをテーマとした作品は世界に、そのまま受け入れられてしまっている。
実際、今の『神聖かまってちゃん』はそういう矛盾に苦しんでいる。マイノリティの衝動を歌ったものがいつの間にか、メジャーアーティストというマジョリティになってしまっている。だから、ここで作品そのものの形式が、外部の環境によって危機に晒されている。
谷川ニコは「わたモテ」という作品を、世の中にうまく適応できなかった経験から出立して綴った。そこから一人称的な、笑えるけどちょっと悲しい自虐的な漫画を作った。それが成功して、アニメ化もした。職業漫画家にもなった。アニメは大して売れなかっただが、それでも「わたモテ」は続いた。僕はアニメは見たのだが、その後「わたモテ」がどうなったかは全然知らなかった。
ここで、そのまま少しずつなんとなく沈んでいくというのが普通だったろうが、ある時から変化が起こってきた。それがもこっちの成長、他者の存在、関係の発生であり、谷川ニコ自身の成長だ。
どうしてこんな変化が起こったのか? 僕はこれを次のように考える。谷川ニコは「うまく世の中に受け入れられなかった経験」を元に、漫画を描いて、漫画家としてもある程度成功した。そういうスタイルの漫画(「わたモテ」)がしばらく続いて、アニメも終わり、読者もそれなりに落ち着いた。この時に、ふと谷川ニコが気づくという事にしよう。自分は過去のマイノリティ経験を元に漫画を描いているが、その経験を元にした漫画は世に受け入れられている。自分は孤独だったとしても、孤独の経験を元にした作品を通じた交流は決して孤独ではないのである。
この事に谷川ニコが気付いて、その事を「もこっち」も気付いたらどうなるか。後述するが、もこっちが孤独でなくなったのは、他者を求めたというのが原因だが、それ以上に、百合ハーレムの中心にいられるような、そんな魅力を放っているのは、もこっちが孤独を恐れていない為である。
ここには共鳴する関係があると考えたい。作者が、「わたモテ」という作品によって、孤独を癒やした事と、もこっちが自身の孤独を、恥ずかしい己を他者に臆面もなく晒す事が可能になったが為に、孤独ではなくなった、むしろ、他人から魅力あると思われたという事。この二つが共鳴して、「わたモテ」の作品世界は出来上がっている。