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この文章は、あまりにも主観的・偏った見方だったので封印しようと思っていましたが、アカシック・テンプレートさんなんかが自分のわたモテ論をちゃんと読んでいただいているようで、出した方がいいかなと思いました。


作者は書いてしまうと、もうどうでも良くなって発表しなくてもいいという気分に陥るのですが、こういうものでも必要としている人がいるのかもしれない…と思ったので外に出します。


「わたモテ論」としては偏っています。

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 「わたモテ」は女子高生の自意識ぼっち系漫画としてスタートした。主人公の「もこっち」はオタクで、学校ではぼっちで、ろくに話す友人もいない。もこっちは、なんとか「リア充」になろうとするが、いつも滑稽で恥ずかしい目になってしまい、うまくいかない。その様をギャグとして描いていた。この場合、エピソードの落とし所は基本的には決まっていて、主人公が他者に馬鹿にされるか、自分で自分を馬鹿にするというものだった。


 それが八巻ぐらいから変化してきて、地獄の修学旅行篇を経て、もこっちに友人ができた。そこから、もこっちを中心とする百合ハーレム路線に変更した。これは、自己意識を中心とするもこっちにも「他者」が現れたという事だが、この他者は普通の他者ではない。これは後述する。


 元々、もこっちのような精神の持ち主というのは、一つの特性がある。まずそれを指摘しておきたい。それはこの手の人物は必ずと言っていいほどに「自分VS世界」で物事を考えるという事だ。


 例えば、もこっち的精神において、誰かが優しくしてくれたとしたら、それは「世界が私を受け入れてくれた」という形而上的響きを持つ。逆に、誰かにひどい仕打ちを受けたら「世界が私を拒絶した」という捉え方がなされる。普通の人はおそらくこんな捉え方はしない。「いい人だな」「嫌な人だな」で終わる。


 「私」が常に「世界」との対立物として現れるという精神現象の源は、おそらくは子供時代における近親者との関係によって決定されると思うが、ここでは精神分析に入り込む気はないので、それは置いておく。

 

 例えば、秋葉原事件の犯人は無差別殺人を行ったのだが、彼にとっての原因は「自分が世界に拒まれた」と感じたためであって、元々、彼は虐待された子供時代だったので(中島岳志の本を参照)最初から、「世界から拒絶されていた」という経験があったわけだ。彼の殺人は「世界に対する復讐」という意図があったと思う。これは、彼が個々の人間を自分と同じ水準で見る事が不可能であって、常に人が「人々」「世界」という風にしか捉えられなかった事、そういう事が原因にあったと思っている。


 今言っているのは精神の構造の問題についてなので、こういう物の見方を悪とか善とか決める気はない。例えば、こういう物の見方はドストエフスキー「地下室の手記」の主人公にはっきり見られる。「地下室の手記」の主人公は世界に対して、自分を見せつけようとする。バフチンの指摘を使えば、彼は世界に対して、「世界などいらない」という姿勢を見せつけようとしている。「他者などいらない・必要ない」という姿勢を「他者」に見せつけようとする。ここに矛盾した関係がある。


 もこっちも、リア充を羨んだり、恨んだり、見下したり、見上げたりしていた。場合によれば、見下しているオタク男子グループに対しても、仲間に入れてもらおうとした。しかし、その場合もまた「自分がオタサーの姫になれるかもしれない」という不純な動機で、あくまでも「見下している連中から持ち上げられる」事を目標としている。相手を過剰に見上げたり、見下げたりするという精神は、仲間・友人を作る事が原理的に不可能だ。ゆうちゃんが唯一の友達だったのは、ゆうちゃんが天使(ちょっとオツム弱い)だったからで、根底的な問題は何も解決していなかった。


 しかし、もこっちに変化が訪れる。修学旅行で、自分から、ヤンキー吉田、コミ障田村に歩み寄る事によって、関係が生まれた。


 ただ、自分が決定的だと感じたのは、自販機の小銭入れをもこっちが漁る場面である。もこっちは田村、吉田と三人で歩いているのだが、ついいつもの癖で自販機の小銭入れに手を突っ込んで、小銭がないか確かめてしまう。これは非常に恥ずかしい事で、もこっちは普段はそういう自分は他人に隠しておきたかったのだが、それを見て田村ゆりは次のように言う。


 「ああー 別にもう黒木さんのことわかってるし 

  別にそうだとしても変に思わないけどね」


 これに対して吉田も「ああ まあな」と返す。田村ゆりはそれほど意識してこの発言をしたわけではなかっただろうが、この一言は特にもこっちにとって決定的なものだった。これは非常に重要な事だ。


 「地下室の手記」の話をもう一度持ち出すと、「手記」の主人公ももこっち同様、自意識の闇に入り込んでいる。彼は、他人を見下すか見上げるかしている。他人など必要ない、出て行け、お前らなどどうでもいい、という事を言っているのだが、それを「他人」には聞いてもらいたいのである。


 この関係において、そのままなら、自意識は自身の煉獄を無限に歩いていくはめになるが、ドストエフスキーは「リーザ」という娼婦の女をヒロインとして置いた。これは今言った「もう黒木さんのことわかってるし」と言った田村ゆり的な性格、つまり「受け止める他者」の像を背負ってできた。


 「地下室」の主人公はリーザと部屋に二人でいて、リーザに呪詛の言葉を散々ぶつける。それは相手が憎いからではなく、自分が憎いから発した言葉である。彼は世界に侮辱されたと考えており、いつも「世界」と空想上の格闘をしている。そうした格闘は、外面的には、「相手」への呪いの言葉と現れる。


 リーザはここで愛という名の知性を持ち出す。彼女は愛でもって、主人公が「不幸な人」だと認識する。つまり、自分に向けられた呪いの言葉の奥にあるもうひとつの言葉を、「愛」で持って掴まえる。


 リーザという女性は、主人公のようなインテリではないのに、相手の「存在」をしっかり捉える。ここにおいて言い訳は無用となる。相手は「不幸な人」であり、その為に、絶えず自身と戦うべく義務付けられている。それが他者との戦いとして外面的には現れざるをえないと「理解」する。主人公が絶えず世界に対して向ける呪詛を、彼女はその根源にさかのぼって受け止める。何故、そんな呪詛をしなければならないのかという根っこの部分を、「彼は不幸なのだ」という定義によって、愛という知によって掴まえる。


 もこっちに戻ろう。もこっちは「地下室」の主人公ほど強い自意識ではないが、近い部分はある。もこっちは、自販機の小銭入れを漁った言い訳しようとする。そんなつもりではなかったと、見せかけの自分を相変わらず作ろうとする。この時、もこっちは未だに、人間関係とは「取り繕う」ものだという意識を持っていた。もこっちが取り繕おうとするその奥にある「しょうもないもこっち」に田村ゆりは気づく。だが、「しょうもない」と思っても、引いてしまうわけではない。「別にそうだとしても変に思わないけどね」となる。


 ここで、「わたモテ」という作品は、グラリと転回した。もちろん、この転回は、もこっちが修学旅行で自分から一歩踏み出した為に準備されていたものだ。もこっちの自意識は、他者に自分を認めさせる事、したがって他人を見下しつつ、なおかつ他人を必要とする矛盾したものだったが、それでも、田村ゆりも吉田も「ただ変な奴」と思うだけで、友達であるのをやめるわけではない。


 もこっちは他人には良い格好を見せようとしていたが、それはそうでなければ人間関係は成り立たないと考えていたためだ。しかし、自販機の小銭入れを漁っている姿を見られても、「そういう奴」と田村はただ捉えるだけだった。もこっちは、外面的に、他者に向かい合う姿と自分自身に向かい合う姿が分裂していたが、その分裂を田村が捉えて(もこっちの奥のもこっちを捉え)、それでも田村はもこっちから離れていったりしないのだった。


 ここに変化が起こる。作中の描き方においても、身内の弟を除けば、各キャラクターは、もこっちの目にはみんなのっぺりした「他人」であった。リア充が羨ましくても、死ねと思ったりしても、どっちにしても平板な人達で、その中で楽しくやっている人達だった。だが、田村始めとした「他者」がもこっちの外面的な装いの奥にある、もう一人の自分を掴まえてから、もこっちの運命は変化した。この変化は修学旅行のもこっちからの働きかけが生んだものだから、ご都合展開ではない。


 今は深入りしないが、もこっちを捉えるやり方をもっと鮮烈に体現しているのが今江先輩である。今江先輩は、「聖者」の資格を持って、生活の奥にあるもこっちの姿に気付いて、彼女を抱きしめる。今江先輩の、内心を掴む能力は作品の中でも随一である。ヤンキー吉田は、生徒会長の今江先輩とは表面的なキャラとしては全然違うが、今江先輩の能力を部分的に受け継いでいる。


 (吉田は今江先輩と何度か絡む。この二人は外面的にはまるで違うのに、似通った部分を持っている)


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