2. まっすぐな道
それから彼女は、毎晩のように男を呼んだ。
男は約束通り、彼女に手を出してくることはしなかった。
彼女が頼めば、手を握ったり頭を撫でたりすることはあったが、頼まない限りは何も行動に移そうとしなかった。
眠るまでの間、ふたりはテーブルを挟んで、様々な話をした。
「そういえば、名前、なんていうんですか」
「んー、宮本、武蔵です」
「・・・嘘。今、考えたでしょう」
「ほんとです、ほんと。あなたは?」
「森です」
「知ってますよ、上の名前は。下の名前です」
「・・・ゆうき」
「勇ましい名前ですね」
「よく言われます・・・宮本さん、おいくつですか?」
「歳ですか?21です」
「嘘、わたしとあんまり変わらない。わたし20だから」
「あ、そうなんですか」
「敬語じゃなくていいのに」
「いやいや、お客様ですから」
「学生なんですか?これバイトか何かですか?」
「内緒です。企業秘密」
男はへらへらと笑った。
飄々としていて、つかみどころがない。日々何を考えて生きてるのかわからない、小さな子どもみたいだ。
彼女はあくびをひとつした。
「眠くなってきました?寝ます?」
「・・・そうします」
彼女は電気を消して、布団に入った。
男もいつもと同じように、ベッドの横に座る。
「今日は、特にお疲れみたいですね」
「・・・どうしてそう思うの?」
「なんとなく」
「・・・・・・・・・」
彼女は布団からそっと手を出した。
男は何もしてこない。
「お願いしないと、手握ってくれないんですね」
「じゃあお願いしてください」
「・・・あのね、」
「はい」
彼女は起き上がって、男の顔を見つめた。
弟のようであり、兄のようであり、父親のようもある。
恋人でもない、友達ですらない、ただの他人なのに、家族のような絶対的な安心感を備えている。不思議な男だ。
「・・・・・・抱きしめて、ください」
男は立ち上がり、彼女の横に座った。
薄暗い豆電球のオレンジ色の下で、男の腕が彼女の肩に伸びてきた。
彼女は下を向いて、身体を強張らせた。
「大丈夫」
男の声がすぐ頭の上から聞こえてきた。
「大丈夫ですよ、ゆうきさん。眠れます」
背中をさすってもらって、肩をぽんぽんと叩かれて、まるで子ども扱いされているようだった。
だけど、彼女はそれが嬉しかった。恋人としての抱擁ではなく、純粋に、泣き止まない子どもをあやすように、抱きしめてくれること。
それがいちばん欲しかった。
彼女は震えていた。
泣いていた。
声を殺して、ぐずぐずと鼻をすする音だけが響いた。
「・・・いい子だって、」
彼女は泣きながら、つぶやいた。
「いい子だって、言ってよ」
「いい子ですよ、ゆうきさん」
「わたし、わたし、がんばったもん、がんばったのに、いい子だって、」
「うん」
「言ってよ・・・」
「うん」
「助けてよ・・・」
彼女は両手をだらんと垂らして、男の抱擁に応えない。
しばらく嗚咽していた。
「なんで・・・」
力の無い、疲れきった声だった。
「なんで、みんないなくなっちゃうの・・・?」
彼女は男の服の裾をきゅっとつかんだ。
「わたし、がんばったのに、なんで、みんな、離れてっちゃうの・・・なんで、誰もいなくなっちゃうの・・・?」
男は無表情で、彼女の頭を優しく撫で続けていた。
「もういいよ・・・誰もいないなら、」
男は、すがるように自分の服を強く引っ張る彼女の腕を見た。
赤い線がいくつか走っている。
男はそれが何を意味するのか知っていた。
「死にたい」
そう言うと、彼女は声をあげて泣き始めた。
幼い子どものように、大声で泣きじゃくった。
「死なないで」
男は小さな声でそう言ったが、彼女の泣き声にかき消された。
子どもに戻ったかのように泣き喚く彼女を、男はずっと抱きしめていた。
どのくらい時間が経ったのか、彼女のすすり泣く声も鼻をすする音も聞こえなくなった。
「ゆうきさん、」
男が声をかけても、返答しない。
「ゆうきさん?寝ちゃった?」
かがんで覗き込むと、男の胸元に顔を押し当てて小さく寝息を立てている。
男は彼女をベッドに寝かせた。
「・・・死なないで、ね」
男は彼女の頬の涙の跡をなぞるようにぬぐった。
自分の服を固くつかんでいた彼女の腕を取って、疲れ切った寝顔の横にそっと置いた。
腕に走る無数の赤い線に、恐る恐る、優しく、触れてみた。
「・・・・・・・・・・・・ゆみ、」
痛々しい、赤い傷。
目には見えない心の傷を、彼女はこうやって視覚化しているのだ。
そうやって、自分の痛みを認識している。
そうやって、周囲がその痛みに気が付いてくれることを、本当は望んでいる。
僕は、気が付かなければ、いけなかったのだ。
男は立ち上がって、部屋をあとにした。
「おやすみなさい」
このマンションはオートロックだということを男は知っていた。
彼女の部屋を出て、隣の部屋へと入っていった。
表札には、「佐々木」とあった。
まっすぐな道で さびしい
どうしようもないわたしが 歩いている