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1. Free Sleep Beside You

 彼女が男と出会ったのは、今から1ヶ月ほど前のこと。

 彼女はふらふらと小さなワンルームに戻ってきた。

 最も愛していた人に見捨てられた。

 大切な友達と絶交状態になった。

 仕事で大きな失敗をした。

 彼女は考えていた。

 どこに行こうか。

 何をしようか。

 歓楽街に行って、この体売ってしまおうか。

 そうやって稼いだ金で旅にでも出ようか。

 旅先でのたれ死んでしまおうか。

 そんなことを思っては自嘲していた。

 壊れている。

 壊れている、自分。

 おかしい。

 現実に立っているはずなのに現実味のない毎日。

 人生の長さにめまいがする。

 あとどのくらい傷付けば人生は終わるんだろう。

 あとどのくらい掻き乱されたら人生は終わるんだろう。

 どうしてこんなにも人生は長いのだろうか。

 どうしてこんなにも生きなきゃいけないんだろうか。

 目の前に広がる真っ暗な見通しの悪い将来にめまいがする。

 怖くなる。

 あとどのくらい歩いていけばいいんだろう。

 ゴールはいったいどこなんだろう。

 途中の道には一体何が待ち構えているんだろう。

 もうつかれた。

 楽になりたい。

 彼女は瀬戸際だった。

 郵便受けを開けると、たまっていた郵便物の中から、紙切れがひらりと落ちた。

 拾い上げて見ると、薄いミントグリーンの二つ折りのカードに、小さな文字で"Free Sleep Beside You"とある。

 彼女はいくらか英語の知識があった。

「無料であなたと寝ます・・・?」

 中を開くと、次のように書いてあった。


"こんばんは。

 最近はよく眠れていますか?

 こちらはFree Sleepです。

 添い寝屋とでも言いましょうか。

 あなたがぐっすり眠れるよう、お手伝いします。

 あなたが眠るまで傍にいます。

 ご希望なら一緒にベッドに入ることもできます。

 ただしそれ以上は何もしません。

 何しろ添い寝屋ですから。

 眠るあなたの傍らにいる、それがFree Sleepです。

 興味を持たれましたら、以下の番号にお電話ください。

 Free Sleep Beside You 宮本"


 そのとき彼女はそれを大して気にも留めず、大量のダイレクトメールといくつかの文書と一緒にごちゃ混ぜにして、部屋に持って入った。

 その後も彼女の瀬戸際の生活は続いた。

 眠れなかった夜だろうと、嫌な夢を見た日だろうと関係なく、朝は決まった時間にやってきて、毎日腫れぼったい目を冷たい水でこじ開けた。

 かさかさの妙に赤らんだ肌に無理矢理ファンデーションを乗っけて、仕事へと向かう。

 そして、仕事後、彼女は小さなワンルームに戻るのが怖かった。

 夜、ひとりになると、頭の中でぐるぐる音がする。

 大音量の静寂という音。

 同時にたくさんのことばが襲ってくる。

 それが毎晩彼女の気を狂わせて、彼女は怖かった。

 大好きだった人の声が聞こえてくる。

 誰かわからない声が聞こえてくる。

 たくさんの声が聞こえてくる。

 自分の声が聞こえなくなる。

 孤独感、疎外感、喪失感、無力感、虚無感、不安感、焦燥感、混乱、絶望、発狂、混沌、そして崩壊。

 彼女はペン立てから細い小さなカッターナイフを取り、自分の腕に突きつけた。

 まるでバイオリンを弾くように軽いタッチで、すっと一筋動かすと、じわりと赤い線が浮き出る。

 それを何度か繰り返したあと、彼女は何か口の中でもごもご言いながら、カッターナイフを壁に投げつけた。

 そのまま床にごろんと倒れた。額をごつんと打ち付けた。

 そのはずみで、テーブルの上に積まれていた郵便物がばさばさと落ちた。

 目の前に、薄い緑色のカードがはらりと舞った。

 彼女はそれを手に取って起き上がった。

 カードの一番下には、電話番号が書いてある。

 どうせセクシャルなものだろう、彼女は思った。

 だけどどうだってよかった。

 どうせ歓楽街に行って売るくらいなら。

 彼女は携帯電話を手に取った。



 





 電話をした20分後、チャイムが鳴った。

 ドアアイ越しには、大きな瞳をした、まだ少年のようなあどけなさの残る男が立っている。

 ドアを開けると、男はにこりと笑って、

「こんばんは」

 と言った。

 目の前で見ると、少年のようでもあり、すらりと背が高くて一人前の男性にも見える。Tシャツにジーンズと、ラフな格好をしている。

 彼女は男を部屋にあがらせた。

 ふたりはテーブルを挟んで床に座った。

「本日は、Free Sleepをご利用いただきありがとうございます」

 彼女は何も言わず、男の顔をぼんやりと見つめた。

 男は屈託の無い笑顔で話を続ける。

「先ほど電話でも言いましたが、Free Sleepというのは、本当にただ、一緒に眠る。というか、あなたが眠るまで傍にいる。そして添い寝なしでも眠れるようになるまで、あなたのところに通う。それだけが活動です」

 彼女は聞いているのかいないのか、理解しているのかいないのか、ぼんやりとしている。

「僕のこと、そこのベッドの枕元にあるぬいぐるみだと思ってもらえたらいいです」

「ぬいぐるみと同じ・・・なんですか?」

「そうです。ぬいぐるみは、されるがままに抱っこされたり、寝返りで押しつぶされたり、よだれまみれにされたり。それでお客様がぐっすり眠れるなら、その役割を果たしたことになりますから」

「妙なことは絶対しないって、ことですか?」

「そういうことです。あなたから要望がありさえすれば、ハグまでなら引き受けますけど、それ以上は絶対にしません。もし僕が何かしたら、会社に高額の罰金を支払わなければならない上に告発されますから。そう規定されてるんです」

 男は終始笑顔でそう話した。

 にわかには信じ難かった。

 というか、彼女にとってはどちらでもよかった。

 妙なことをされようがされまいが。

 ただ、ひとりでいるのが怖かった。

 これ以上ひとりでいたら、本当に、いつか自分ががらがらと崩れ落ちて消えてなくなってしまいそうだったから。

「それで、その、Free Sleepは、いくらかかるんですか?」

 彼女は聞いた。

 男はにっこりと笑って、

「我が社は成果主義です。ですからお代は、あなたがFree Sleepを必要としなくなったときに、あなたの満足度に応じていただくことになります」

 胡散臭い。彼女はそう思った。

 きっと高額を請求されるのだろう。

「それで、あなたは最近眠れてますか?」

 男は話題を変えるようにすかさず言った。

「最近は・・・毎日2時間くらい寝てます」

「それじゃあ睡眠不足でしょう。確かに、目に隈がある」

 男は彼女の顔を覗き込んだ。彼女はとっさに目を逸らした。いつも鏡越しに見る、自分でも誰なのかわからないこの目をそんなに見てほしくない。

「もう夜遅いですし、寝ますか」

 彼女は状況をきちんと把握できていなかった。

 見ず知らずの男を部屋にあげているのだ。何もないわけがない。

 Free Sleepだなんて、体のいい言い訳でしかない。

 しかし彼女はどうでもよかった。

 正常な判断ができる状態ではなかった。

 ひとりじゃなければそれでいい。

 彼女は電気を消して、布団にもぐりこんだ。

 男はベッドの横に座った。

 彼女は男に背を向けて、横になった。布団の中で自分の腕に触れてみた。血管のようにぷっくりと膨れ上がった線が走っている。

 枕元には、ぬいぐるみがいくつか置いてある。子どもの頃から一緒に寝ているくたくたになったテディベア。豆電球のオレンジの暗がりで、テディベアの目はきらりと光って見えた。まるで生きているように。

 だけど子どもの頃から、どんなに抱きしめても、ぬいぐるみは何も反応しない。

 ただそこにあるだけ。

 ふわふわであたたかくて、冷たい。

 寝返りをうって、仰向けになった。男が横にいる。

 逆光でよく見えないが、穏やかに笑っている。人畜無害、まさにそんな感じだ。

「寝れそうです」

 彼女は言った。

 男はにこっと笑って、

「それはよかった」

 彼女は目を閉じた。

 ほどなくして、彼女は眠りに落ちた。




















 まっすぐな道で さびしい


 どうしようもないわたしが歩いている


 捨てきれない荷物の重さ まえうしろ


 

 なんだっけこれ、なんのことばだっけ。

 やだな、また声がきこえてくる。

 ことばが襲ってくる。

 嫌だ、やめてよ、

 うるさい、

 


 家を持たない秋が深うなるばかり


 分け入っても分け入っても青い山









 お前と付き合わなければよかった


 もう今までみたいに愛せない


 俺だって悩んだんだよ


 お前といるとストレスなんだよ






 自嘲。

 混乱。

 こわれる。

 まただ。

 また朝が来るのか。

 また目を覚まさなきゃいけないのか。

 まだ道は続くのか。

 もういいよ、もう、

 もう来なくていい、明日なんて。

 誰もいない明日なんて。
















 

 何かに驚いたかのようにばちりと目を開いた。

 動悸がしている。

 頭の中で何かがぐゎんと鳴いている。

 午前3時22分。

 起き上がって、汗をかいている自分に気が付く。

 目が、覚めてしまった。

 何だか夢を見た気がするけれど、思い出せない。

 嫌な興奮状態で、心臓だけ妙にばくばくと動いている。

 ベッドから降りると、何かが足に当たった。

 暗がりの中で、男が床に転がって寝ていた。

「ん、あ、・・・起きちゃいました?」

 男はむくりと起き上がった。

 彼女は男の顔を見ると、ほうとひとつため息をついた。

「怖い夢でも見たんですか?」

「・・・・・・ううん・・・」

 男はベッドに腰掛けて、彼女の横に並んだ。

「大丈夫ですか?」

 彼女はうなだれて、呼吸を整えている。

 男は横に座っているだけで、何もしてこない。

 手を差し伸べることも、何も。

 確かに、ぬいぐるみと同じだ。

「・・・あの」

「はい」

 ただ、違うところは、ことばを解するということ。

 話したら、反応があるということ。

「頭、・・・撫でてもらってもいいですか」

 彼女はうなだれたまま言った。

 男はそっと彼女の頭に手を置いた。

 大きな、あたたかい手。

 ぽんぽん、と軽く叩いたり、髪を優しく撫でたり、まるで小さな子どもをあやすように、男は彼女の頭を撫でてやった。

「今度はちゃんと寝れそうですか?」

 彼女は無意識で腕を掻いた。

 時々、かゆいのだ。

「寝れないなら、寝れるまでここにいますよ」

「今日はもう、寝れなさそう・・・よくあるんです、こういうこと」

「別にいいです、それはそれで。一緒に起きてますから」

「・・・いいです、今日は、もう」

 彼女は頭の上の男の手を払うようにどかした。

「ありがとうございました・・・」

 彼女はうつむいたまま言った。

「今日は、もう、帰っていいです。ありがとうございます」

「・・・そうですか」

 男は立ち上がった。

 彼女は相変わらず下を向いている。

「・・・また明日、」

 彼女はぼそりと言った。

「また明日、呼んでもいいですか」

「いいですよ」

 男はしゃがんで、彼女と目の高さを合わせた。彼女は顔を上げた。

「じゃあ、おやすみなさい」

 男は子どものように邪気のない笑顔をして、去っていった。

 彼女はそのまま、入り口のドアをぼんやりと見つめていた。

「・・・おやすみなさい」

 彼女は枕元にあったテディベアを、ひしゃげるくらい強く抱きしめた。

 冷たかった。 


 



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