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闇牡鹿、跳ねる!後編

 母屋の北は、ちょっとした野戦病院と化していた。

 最も、設備の無い商家での事、血止めと気付け以外に、何ができるというものでもない。

 それでもさわがいるという事で、比較的速やかに、処置は完了しつつあった。

 折れた腕に添え木をあてながら、さわは周囲を見渡す。

「怪我人は、これだけで?」

「はいっ」

 樋池の部下の一人・大石が、緊張した面持ちで、さわに元気な応えを投げた。

「随分と、少ない気がしますが……」

「相手が手練でした。相手をしてしまったものは……」

 言いかけて、ちらりと扉の方を見る。

 板間の奥で、溺れた若い捕方が、仲間に支えられながら、水を吐いていた。

 その様子を見て頷いたさわは、土間に颯と降り立つ。

 引き戸を開けると、筵が四つ、地面に並べられていた。

「四人も……」

「いえ、四人で済みました。もし樋池様が、囲みを解く指示を出さなかったら、今頃は何人、ああなっていた事か……」

 歯を喰い縛った大石が、声を詰まらせた。

 僅かに瞑目したさわは、そのまま表に歩み出た。

 風が渦を巻いて、篝火に舞う火の粉を散らす。

 足を折って呻く捕り方が、戸板に乗せられ、運び出された。

 それを静かに見守るさわの脳裏に、兄達の、あの言葉が蘇った。

『お前は医師に向かぬ』

『口の軽さや嘘の吐けない性格もあるが、何よりも、苦しむ者に対する愛が薄い』

『苦しみに共に寄り添い、共に乗り越えようとする気概が、お前には足りない』

 その言葉に、さわは怒りよりも、同意の安堵を感じていた。

 慈愛に満ちた、それ故の、厳しい指摘だったせいもある。

 しかしその愛が、気概が、医師の原動力たらしめるなら、確かに私は、医師には向かないのだろうと納得した、その事を覚えている。

 しかし同時に、姉達の言った事が、今のさわの在り様を決めた。

『でもその性格、きっと、学術に向いているわ』

 以後、さわは医術よりも医学に、気を向ける様になっていった。

 たればこそ、今回の誤診が許せない。

 真実を見抜けず、間抜けに踊った己の未熟が呪わしい。

 その一念を雪ぐために、樋池の話に乗ったのだ。

 が、しかし。

「先生っ」

 ふと呼び掛けられて、さわは背後を振り向いた。

 溺れて水を大量に飲み、また吐き出して、へろへろになった捕方が、仲間に担がれ、母屋を出ていた。

 その相方が、さわに声をかけ、しっかりと頭を下げる。

「先生のお陰で、こいつの命が助かりました。かたじけない」

「直ぐに、動ける様にはなるでしょう。しかし、油断は禁物。二、三日は絶対に、安静にしていないと駄目です……暫くしてから、死んだ例もある」

 相方の眼差しが、驚愕に瞬いた。

 恐らく〈死んだ〉という言葉に、反応したのだろう。

 言い過ぎた——さわの美眉に、焦りが奔った刹那。

 大きくうなずいた相方が、もう一度深々と、頭を下げた。

「判り申した、こやつにもしっかりと言い聞かせ、拙者も肝に銘じましょう。誠にかたじけのうございました」

「え、ええ……早く、休ませてあげて下さい」

 背中で呻く捕方を、叱咤激励しながら、表戸に向かう。

 安堵の息を吐きながら、さわは、捕り方達の背中を見送った。

 かたじけない、か。

 ほんの少し、その場の苦痛を減じただけなのに。

 ほんのりと心に灯った温かさは、しかし同時に、焦燥も掻き立てる。

 さわは闇に向かって、苛々と叫んだ。

「抜け荷は、どうなってるんです? まだ、発見できないのですか!」

 と、突然。

 闇の中から、犬が吠え応えた。

 振り向くと、小さな犬——シバを従え、甚五郎がこちらに歩み寄っていた。

「親分!」

「さわ先生っ……」

「抜け荷は?」

「そ、それが……」

 甚五郎が、うつむく。

 さわは、ぎくりと固まった。

「ひょっとして……」

「面目ねえ。舟荷の全てを確かめたのですが……」

 その場にいた捕方達が、ざわめいた。

「荷が……ない?」

「そんな、嘘の情報だったのか?」

 違う——さわは一人、首を左右に打ち振った。

 おきんのあの死に様に、〈鰐〉中毒以外の要因は無い。

 そしてああもなってしまうには、かなりの量の、想像を絶する量の〈鰐〉が、必要なのだ。

 ふとシバに目をやると、そのざわめきを感じてか、しょげて俯いている——ように見える。

 さわはシバに近づくと、しゃがみ込んで呟いた。

「ねえ、シバ……本当に、舟の中に、〈鰐〉は無かったのかい?」

 ぷし、と一つ鼻を鳴らし、シバは小首を傾げる。

 事前に〈鰐〉の匂いを覚えたシバが、不覚を取ったとも思えない。

 さわは、立ち上がった。

「……樋池様は?」

「はっ……」

「樋池様は、どこに?」

「は、じ、実は、残党を追っているトサを追い、緑青林へ……」

「ひ、一人で?」

「我らも御供しようとしたのですが、夜の林に慣れない我らは、返って危険だからと……この後、充分火を用意して、林の探索に参る予定でした」

 と、突然。

 捕方の一人が、青くなって言い挙げた。

「そ、そういえば……ここのおはるという少女が、養生院の雑用係が、林の光を追って行ったと……」

「何ですって! 何故もっと早く……」

「何を仰いますか! 樋池様に報告こそすれ、町医者たるさわ先生の御耳に入れる事ではありませんっ!」

「っと、そ、そうでした」

 身をすくませたが、一つ咳払ったさわは、改めて宣言した。

「と、とにかく、樋池様を追います。〈鰐〉はきっと、奴等が持って逃げたのでしょう」

「しかしどうやって……林は真っ暗で、先生が一人でうろつける状態ではございません」

 さわのためらいの呻きよりも早く、甚五郎が、二人の前に進み出る。

「あっしらに、御任せくだせぇ」

「甚五郎?」

「大石様、樋池様の手回り品……羽織か何か、御借りできませんでしょうか」

「そ、そうか……急げ、樋池様の羽織と……松明を持ってこい!」

「はっ!」

 大石の号令に、傍らにいた数人の捕り方が、一髪の間にかけ去った。

 目を瞬かせたさわを挟んで、会話が飛び交う。

「甚五郎、林に疎い我らが同行すれば、遅れは免れまい。先行して樋池様を追え。手数はいるか?」

「いえ、返ってシバが迷いましょう。あっしとシバ、さわ先生の三人で。あっしの手下に、後を固めさせやす」

「よし、無茶はするな。我らは火を沢山用意して、少しずつ、お前達の後を追おう」

「あ、そ、そうか……」

 シバの鼻なら、闇を気にせず、樋池の後を追えるだろう。

 しかし幾ら狭いとはいえ、月星の光も無い夜の緑青林に、踏み込まねばならない?

 緑青林に眼差しを送ると、夜の闇のせいか、林が大きく見えてくる。

 ざわざわと鳴り響く葉擦れの響きに、背筋がぞくりと粟が立った。

 と同時に、亡骸が、目端に映る。

 覆い被さるような巨大な闇から目をもぎ離し、横たわる亡骸に目を向ける。

 ここで退く事もできる。

 しかし大きく息を吸い込みながら、さわは首を横に打ち振った。

 あの四つの死には、意味があったのだ。

 この裏葉柳を、麻薬の汚染から守るという重大な意味が。

 それを見つけねばならない。

 私が見つけてやらねば、その意味は誰にも気づかれず、あの闇に呑まれて忘却されてしまうだろう。

 そんな悲しい事が、まかり通っていいはずがない。

 つま先を、何かにそっとつつかれた。

 見下ろすと、さわのつま先に、肉球を置いたをシバの眼差しがあった。

 しゃがみ込み、その頭を撫でつつ、独りごちる。

「大丈夫、だよね……皆が、ついててくれるんだから……」

 胸を張って、シバはひゃん、と吠え応えた。




 圧倒的な闇中に、草木が鳴りさざめく。

 陽射しの下では貧相なだけの緑青林も、闇夜となれば、話はまた別だった。

 銀洲の裏手で、捕縛の囲みを突破した五影は、緑青林の真っただ中を、北へ北へと急いでいる。

 しかし、その歩みは遅い。

 五影はそれぞれ、がんどうを持っていたが、年増顔負けに絡み、のしかかってくる闇は、その光すらも吸い尽くさんと、重くしつこく付きまとう。

 突然、何かの悲鳴が爆ぜた。

 叩き付けるような羽音が、五影の頭上をかすめゆく。

 と、一つの影の足が止まり、えずきざまにしゃがみ込んだ。

「小野!」

 残り四影の足が止まり、二つの影が、がんどうをかざして駆け寄る。

 小野と呼ばれた影は、覆面をむしり取った。

 まだ幼げな面立ちは、汗にまみれて震えていたが、瞳には、充分な気力が満ちている。

「大丈夫です、まだ……まだ、平気です」

 額を拭い、小野は呟く。

 幸い少し拓けた場所だったから、そこで二影が小野を診る間に、残る二影が立ち上がり、今来たばかりの道に、がんどうを差し向けた。

 確かだが貧弱な光は、重闇に喰われてしまい、数手先しか見渡せない。

 しかし追ってくるような光も音も、見えないし、聞こえなかった。

 先に立った二影の一方が、面を周囲に巡らせる。

「追ってこない、か」

 隣の一際大きな一影が、嘲りを隠そうともせず呟いた。

「あの同心め、かなりやると見たのだが」

「とんだ腰抜けだったな」

 目顔を合わせ、二つの影がくく、と笑う。

 その合間に、小野を診ていた一際小柄な一影は、傍らの影をちらりと見やった。

「……久慈、残りは?」

 しわがれた、しかし妙に高い声音に、筒袋を背負った一影——久慈が応えた。

「拙者、松田、中沢、小野、そして……」

 目顔で指され、小柄な影は頷いた。

「五人、残ったか。笠原は……」

「あの東犬めに、討たれました。筑摩武士の恥さらしめ」

 大きな影の応えを聞き、久慈が囁いた。

「秋津様。これから如何しましょう?」

 鉄紺の覆面頭巾を取り払いつつ、秋津は奥歯を噛み締める。

 闇の彼方で風鳴りが響き、波のように地面を奔る温い風が、秋津の短躯に絡み付く。

 殿よりこのお役目を賜った瞬間から、このような展開も、常に考えには入れていた。

 しかしまさか、蝶華の贅のみにしか生きられぬと侮っていた東武士に、討ち取られる者まで出るとは!

『なんの、それは裏葉柳の事だけではございますまい。筑摩ノ国とて、人々が豊かになれば、いずれこうなって参りましょう』——

 これでは、相手を笑えぬわえ。

 突然、脳裏に響いた言葉を振り払った秋津は、肩で息する小野を見やると、とみに優しく語りかけた。

「歩けるか?」

「は……」

「苦しかろうが、今は何をおいても、御留守居役とつなぎを取らねばならぬ。色々と探られる前に、殺られた笠原の骸を回収せねばならぬでな……歩けないなら、松田に背負って」

「いや、もう大丈夫です」

 しゃがみ込んでいた小野は、勢いよく立ち上がった。

 黙って見ている久慈を見やり、同じ返事を繰り返す。

「かたじけない……もう大丈夫です、急ぎましょう」

 立ち上がり、その腰を叩いた秋津は、穏やかに言い挙げた。

「何、走るには及ぶまいよ。あの東犬め、今頃舟を押さえて大威張りだろうしなぁ」

 先に立ったニ影の間から、再び笑いが漏れる。

 静かに立った久慈だけが、冷たい声で言い挙げた。

「しかし秋津さん、あの者は……」

「このような時に備えての、殿の深慮よ。それにこの闇路、全ては我らに味方しておる……松田、道は?」

 秋津の問いに、大きな影が首を傾げる。

「もう少し北に行けば、街道沿いの原っぱに出られよう」

「宜しい。では、早足で行こう」

 それだけ言い挙げた秋津は、がんどうを構え直した。

 松田の隣に立つ影——中沢が、初めて小野に歩み寄る。

「全く、この程度でこの様か。殿が聞いたら、呆れられるぞ?」

 小野がむっと息を呑み、言い返そうと、口を開いた時だった。

 つんざくような鹿鳴が、何処か遠くで鳴り響いた。

「今のは……鹿鳴?」

「警戒の鳴き声……野鹿かと」

 小野が目を剥き、中沢を見た。

「の、野鹿? こんな小さな林に?」

「銀鼠山の方から、迷い降りてきたのかもな」

 中沢の応えを擁するように、二度目の鹿鳴が響く。

 と、闇に面を巡らせていた久慈が、突然背中に手をやった。

 流れる手つきで、筒袋の口を解く。

「久慈さん?」

「近づいてくる」

 瞬時に草を踏み締め、五影は背を中に、円陣を組んだ。

 三度目の鹿鳴が、耳を圧して鳴り響く。

 間違いない。

 五影の心音が、一息に早まる。

 しんと静まる闇中に、己の胸の鼓動だけが、ずしん、ずしんと聞こえていた。

 それに絡み、迫ってくるモノ。

 それは風が木々を揺らす音か、何モノかの『足音』か——と、突然。

 何処か暢気な男の声が、闇の奥から響いてきた。

「先行く方々。道はここで、合ってるのかい?」

 秋津の短躯を、衝撃が突ん抜ける。

 反射的にがんどうを投げ捨て、腰の大刀を抜き放った。

「秋津さん?」

 突然の二刀。

 手加減無しの体制に、慌てた中沢の声が奔る。

 灯火を弾く銀刃の光が見えないものか、遠くに野鳥の悲鳴を従え、声はのんびりとたゆたった。

「何処に行く気かは知らないが、山に用が無いのは確かだろう? 一間手前の獣道を左に曲がらないと、ここから先は、銀鼠山に一直線だぜ?」

 血脂に曇り抜いた切っ先達が、片手に持ったがんどうの光に揺れ動く。

「何者か! 姿を現せ!」

 松田の一喝に応えるように、どっと地を打つ音が響いた。

「む!」

 中沢が、がんどうを振り向ける。

 闇を穿つ火影の中に、先程から注意していたはずの、今きたばかりの道を塞ぎ、影塊一つが、じっとうずくまっていた。

 容赦ない闇に、面体は判別できぬ。

 頭部を巻き締めているらしい、鳶茶色の薄布だけが、辛うじて識別できた。

「い、いつの間に……」

「暗がりを急ぎ過ぎて、道を間違えなすったね?」

 鳶茶の影身の声に、薄笑いが混じっていた。

 松田が、ずいと進み出る。

「何者だ?」

「只のしがない使いっ走りさ」

「あの東犬の、てし……」

「やめてくれ。知り合いだけど、手下扱いは不愉快だ」

 断固とねじ伏せられた問いに、刹那、場が鼻白む。

 それに気付いたのか、鳶茶の影身は、小さく咳払った。

「失礼。オレは誰の手下でもないよ。だから本当は、お前さん達がどうなろうと、知った事じゃない。でも今回は、ちょっと事情があってね……こちらの都合で恐縮なんだが、大人しく、縛についてくれないかい?」

 突然、がんどうを捨てた中沢と松田が、鳶茶の影身目掛けて馳せた。

 影身の体躯がツッと沈み、鈍い打音二つと共に、二刃の合間を跳ね抜ける。

「うおおっ!」

「がはっ!」

 顔と喉を押さえ、松田と中沢が怯んだ。

 そのまま、草を踏み抜く音も鋭く、鳶茶の影身の踵が返る。

 がんどうを投げ捨て、一手遅れて襲い掛かった小野の、突き一閃。

 それを髪一筋に躱した影身は、その勢いを借りたまま、裸足の踵を空いた胴に叩き込んだ。

「ぐほっ!」

 自身の突進の力が加わり、小野の体が、もんどりうって飛ばされる。

 二刀を大きく構えたまま、秋津が影身の前に進み出た。

「秋津さん!」

「わしが止める。久慈、後は頼むぞえ」

 秋津の声が響くと同時に、影身が激しく振り返った。

 下段八字に構えた秋津を前に、首を傾げているようにも見える。

「あんた……」

「また会えたのう……鹿郎」

「ぐぉ、のれええっ!」

 地鳴りのような怒声が、その場の全てを激震させた。

 喉を押さえてうずくまる中沢の傍らで、怒りに我を忘れた松田が、覆面をむしり取る。

 その鼻からは、大量の血が迸っていた。

「松田っ、止せ、退け!」

「うおおおおっ!」

 久慈の制止が聞こえなかったか、松田は刀を大上段に振りかぶった。

 鳶茶の影身が、するりと動く。

 それを牽制するように、秋津が一歩を踏み出した。

「下郎おっ!」

 この闇中に、秋津の一歩が判ったものか。

 動きを止めた鳶茶の影身目掛け、松田が大地を蹴った。

 その一閃を難なく躱し、影身は横ざまに跳ね飛ぶ。

 刹那。

 弦が弓弭を擦る響きが、闇一杯に鳴り響いた。

 逃げる影身に、追いすがった白木の三矢が、一髪の間に喰らい付く。

「何っ!」

 松田の呻きに、低く跳ねた影身は、奥の薮中に跳び込んでいく。

 躊躇無く、大刀を捨てた秋津が、追って藪中に飛び込んだ。

 激しい薮鳴りを尻目に、振り向いた松田の眼差しの先には、半弓を構えた久慈がいる。

「く、久慈っ、貴様!」

 鈍く曇った白刃を引っさげたまま、松田は久慈に詰め寄った。

 憤怒と鼻からの鮮血が、松田の形相を、鬼のそれに仕立てている。

「貴様、横から闇討ちなど……どういう了見だ!」

「お前こそ、どういう了見だ?」

「何を!」

 弓を下ろした久慈は、傍らに置いたがんどうを拾い上げた。

「何をもって、そうできたのかは判らんが……折角、秋津さんが動きを封じてくれていたというのに、お前が飛び出し、射線を塞いでくれたおかげで、急所を外さざるを得なかった」

「奴は俺が……」

「殿の直命を忘れたのか?」

 言に横面を張られて、松田が大きく息を呑んだ。

 冷ややかな久慈の眼差しが、さらに追い打つ。

「あの男、恐らく士族でも捕方でもあるまい。殿の直命を帯びながら、それを忘れて何処の馬の骨とも知れぬ奴と一騎打ち? 貴様、それでも筑摩武士か!」

 松田の奥歯が、ギリギリと食い縛られた。

「既に、笠原がやられている。一刻も早く屋敷に戻り、この事態を御留守居役に報告せねば、如何な殿とて無傷では済まん」

「し、しかしあの男、只者ではないぞ。あの捕物の事を知っているような口ぶりや、この闇中で我らを探し当て、追いすがる力。生かしておいては……」

「だから秋津さんが追った。仕留めるには及ばなかったが、俺の三矢は、確かに奴を射た。ならば、秋津さんの敵ではない」

 腹を押さえて動かぬ小野にがんどうを向け、久慈は松田に言い捨てた。

「……小野を」

「ふんっ!」

 大きく吐き捨て、踵を返した松田は、それでも刃を鞘に納めた。

 がんどうを拾い上げ、小野の元に向かう。

 久慈は、中沢を探した。

「中沢」

「く、久慈さん……」

 しわがれ声が闇に響き、火の光が揺れ動く。

 駆け寄ると、中沢は大刀を杖に、自力で立ち上がっていた。

「喉か」

「ま、誠に不覚……ですが……」

「品は?」

 中沢が、口中に指を突っ込んだ。

 目を瞑り、探ると頷く。

「よし。歩けるか?」

 激しく咳き込んだが、中沢は、頷いた。

 と、その時。

「ぐあっ、あ、がはっ……」

「小野? どうした小野っ!」

 久慈と中沢が、悲鳴の方に、がんどうを振り向けた。

「どうした!」

 火影に浮かんだ小野の体は、松田の肩にすがって震えていた。

 いや、震えなどという生易しいものではない。

 口から血を噴き、痙攣を始めた小野は、腕に筋を漲らせ、松田に抱きつき、そのままずるずると倒れ伏した。

「どうした!」

「解らん、突然……しっかりしろ、小野!」

「もしや!」

 叫んだ中沢が、二人の側に寄ろうとした瞬間。

 闇に籠った肉の相打つ響きと共に、甲高い絶叫が、その場の四影を貫いた。

 濡れた何かが地を打ち、呻きとえずきが尾を引いて、ふつりと絶える。

「い、今のは……」

「秋津さんが、殺られた?」

 久慈と中沢が、思わず目を見合わせた。

 筑摩武者総代の中でも一、二を争い、風水をも斬り断つ術を駆使する秋津が、何者とも知れぬ影身に討たれた?

 あまりの出来事に、寸時、脳裏が真っ白になる。

 松田に支えられた小野の足が、傍らに落ちたがんどうを蹴る。

 くるくると惑う火影の中、久慈の鋭い目が、松田の背後の藪を捉えた。

「松田っ、油断すなっ!」

「!」

 しかし、間に合わなかった。

 平常の松田なら、即座にかわしたであろう奇襲だったが、小野にすがりつかれ、飛び退く事ができなかった。

 鉄が肉を打ち、ひしゃげる音が響き渡る。

「うおっ……」

 松田のおめきと、蝋と布地の焦げ付く臭気が、闇間に発止と飛び散った。

 壊れきったがんどうが、がちゃりと地に打ち捨てられ、蝋の油とそれを伝った小さな火舌が、松田をめらりと舐め上げる。

「うわ、ああ、あ、あーっ!」

「ま、松田っ……」

「松田さんっ!」

 久慈も中沢も、陽射しの下にあれば、即座に助けただろう。

 しかし闇中に慣れた久慈達の目は、突然溢れた炎の光に眩みきり、先ずした事は、目を押さえ、数歩を退る事だった。

 火が炎と成り、松田の体躯を抱き締める。

 小野を投げ出し、引き攣った悲鳴を上げた松田は、そのまま数歩を踊り歩いた。

「わあ、あ、あっ……」

「くそっ!」

 涙目を無理に開いた中沢が、火柱に手を差し伸べる。

 と、突然。

 捩れ踊った火柱が、ぎくりと身を振るわせると、そのままどうと倒れ込んだ。

 背中に突き立った白い矢柄が、真っ黒に焼けてゆく。

「うっ……」

 久慈は、こみ上げてくる呻きを呑んだ。

 松田を喰い尽くさんとする炎の向こうに、今なお二矢を喰ったまま立つ、鳶茶の影身を見たのだ。

 今は松田の背を穿つ一矢が、影身の額をかすめたのか。

 巻き締めていた鳶茶の布が、切れ破れて解けかけている。

 そしてその下に見えたは、縦に大きく抉れた、肉色の一眼。

 その真中に据わった骨色の瞳が、ただ立ち尽くす久慈達を、きろりと見た。

「お、おのれっ……」

 中沢が、呻いた。

 弾かれた様に、久慈が弓を構える。

 と、捻れるように影身が動き、己の肩を貫く一矢を、力任せに引き抜いた。

 息を呑む間に、足を穿つ一矢も引き抜く。

 むせるような赤い香りが闇間を奔り、強靭な矢柄二本が、枯れ木のようにへし折られた。

 刹那。

 燃える松田を飛び越えて、中沢が影身に詰め寄った。

「いぇあっ!」

 肉色の一眼を目掛け、銀の弧線が颪の如くに撃ち下ろされる。

 しかし影身は、刃風を寸でで躱しつつ、肘を真っ直ぐ突き伸べた。

「あっ!」

 炎の光を煌かせながら、砕けた刃が闇に散る。

 この刹那に、脇差を半ばまで抜く事ができたのは、中沢が単なる算盤侍ではなかった事に尽きよう。

 しかし襲いくる第二撃を、防ぐには至らなかった。

 戦慄を誘う、ぬるりと湿った肉撃つ響き。

 今度こそ喉を潰され、血泡を噴いた中沢は、朽木のように倒れ伏した。

「く……」

 呻いた久慈の全身に、冷たい汗が噴き出す。

 松田、貴様の言う通りだったな——苗床となった松田を喰い尽くし、弱り始めた火影を見やった久慈は、顔を被った頭巾を取り払った。

 携えた半弓を地に置くと、濃紺の羽織も脱ぎ、残り火の中に投げ入れる。

 ふらりと揺れた緋色の光が、じっと動かぬ影身とその一帯を、再び赤黒く照らし出した。

 久慈の切れ長の目に、火影の照りが揺れ動く。

「異国には、獅子すら突き殺す野鹿がいるというが……」

 まるで昼日中の、空模様を語るように。

 弦巻に残った弦を襷に使い、久慈は、再び得物を取り上げた。

 迷う事無く一矢を番え、流れる仕草で弦を引く。

 弦が弓弭を鳴らすと同時に、半歩退った影身の体躯が、きりきりとたわみ始めた。

 知らずに出くわした獣であろうか、藪中に潜む何かが、慌てて枝葉を踏み鳴らし、闇の奥へと逃げていく。

 久慈が、ぽつりと言い挙げた。

「御名、承る」

「…………」

「筑摩真改流弓術。久慈 勘之介」

 一つ大きな吸気を得て、影身が跳ねた。

 久慈は静かに足を捌き、得意の間合いを作りあげる。

 二つの影身が絡んだ瞬間、最後の火勢がぼうっと膨れ、ぱちんと弾けて霧散した。




 闇の中に、雨の匂いが強まっている。

 その香りに背を押される様に、樋池は小さながんどう一つだけを持ち、緑青林の中を進んでいた。

 勿論、無茶な事との自覚はある。

 せめて月星の明かりがあれば話は別だが、今はそれも見込めない。

 この状況では、同心仲間のほとんどが、林に一歩、踏み入る事すらできないだろう。

 しかし樋池は、古傷の都合で闇慣れしていたし、緑青林の事自体を、充分に知っていた。

 犬達の遊び場として、気楽に行き来していた事が、幸いした形になる。

 流石に全速力とはいかないが、手元の小さな灯りだけで、歩を進める事ができていた。

 他の頼りは、時折吹き鳴らす犬笛に応える、トサの遠吠え。

 その音に耳を凝らし、記憶の道筋を辿りながら、樋池はひたすら進み続けた。

 舟の事が、気にならない訳ではない。

 しかし、沢山の部下とシバとさわが、必ず抜け荷の品を、見つけてくれる。

 いや、これで見つからないとなれば、元の抜け荷情報自体が、偽物だったに違いない。

 樋池は安堵すら覚えつつ、くわえた犬笛を吹き鳴らした。

 そして、耳を澄ます。

 トサの声が、思ったより近い。

〈ボタ薮〉と呼ばれている辺りだろうか。

 位置を修正するために、もう一度犬笛を吹き鳴らそうとした刹那。

『どうしてお前が、ここにいる?』

 闇からぶくりと浮き立つ様に、低く沈んだ声音が響いた。

 ぎくりと震えた樋池の口角から、犬笛が落ちる。

 思わず周囲を見回すが、がんどうの光だけでは、到底満足に見渡せない。

『どうした? 怖いのか?』

 再び響く、声音。

 もはや、幻聴や聞き間違いではあり得なかった。

 自分の識別がつく程の場所に、鹿郎が潜んでいる。

 そして、こんな声で喋る時は、尋常の鹿郎ではない。

 何故こんな処に、あの餓鬼が? ——溢れそうな呻きを必死に噛み殺しながら、樋池は、ゆっくりと息を吸った。

「鹿郎か? お前、どこに……」

『そんな事は、どうでもいい。どうして、ここにいる?』

 元々、歳の割には老けた処が多い餓鬼だが、それでも人が変わった重たい声が、闇間に重苦しく響く。

 四方に気を配りつつ、樋池は応えた。

「何、ちょっと人探しをしていただけだ」

 総毛立つ様な忍び笑いが、響き渡った。

『人探しかよ。そいつはご苦労なこったな。わざわざ囲みを解いて、逃がした奴等を追っている、か……』

「何故、そんな事を知っている?」

『馬鹿にするなよ。オレにだって、色々考えはある』

「ほほう。それは失礼したな」

 何が可笑しいのか、くつくつと笑う声は、徐々に大きくなっていく。

『ま、ちょうどいい。直ぐそこの拓けた場所に、お前が追ってる仏が五つ、転がっている……よーく調べてみるこった』

「私が追っている……仏、だと?」

『そいつら、只の雇われ浪人じゃない……この闇中で、オレに矢を中てた奴もいた』

 背筋に、衝撃が走った。

 やはりあの時、部下達を深追いさせなかったのは、正解だったのだ。

 無理に囲みを続けていれば、今頃、とんでもない死体の山ができていたに違いない。

 温い風が、全身の冷や汗を浮かび上がらせる。

 忍び笑う声が、続けた。

『ふふ……中々、凄かったよ。ちょっと危なかった』

「という事は鹿郎、お前、今、怪我をして……」

『筑摩武士の恥さらし、とも言ってたな。でも一人、たった一打ちで死んだ奴がいたよ……そいつがきっと、何か隠している……』

「よし、判った。これ以降は私に任せて、姿を現せ」

『やなこった。これ以上、お前なんかと関わり合いたくな』

 と、突然。

 女の鋭い叱声が、闇を撃って奔り抜けた。

「馬鹿者が! ぐだぐだ言わず、とっとと出てこいっ!」

 がさりと、背後の藪が揺れる。

 声より早く、身を翻した樋池の腕から、風切る音が放たれた。

「うぎゃっ!」

「捕った!」

 叫ぶと同時に草地を抉り、跳ばした捕り縄をたぐりつつ、樋池が藪に飛び込む。

 激しい組み打ちの総毛立つ響きが、闇を騒然と震わせた。

 それを照らしだす松明の灯りと、けたたましい犬の吠え声。

 甚五郎が掲げる松明の光が、それらを明るく照らし出す。

「樋池様! 甚五郎にございます、どちらで!」

「こ、こっち、こっちだ!」

 一際激しく藪が揺れ、ぐったりとした鹿郎と、それを捕らえた樋池が飛び出してきた。

 刹那、さわが短い悲鳴を上げる。

 火影の中の樋池は、体のあちこちを、赤黒く染めていた。

「樋池様っ、その血は!」

「まさか鹿郎に!」

「ああ、いやいや。私は一つも、怪我などしていません。全て返り血ですよ」

 肩で息をしながら、樋池は鹿郎を地に置いた。

 捕り縄に両手を縛られ、うずくまった鹿郎が、さらに小さく身を縮める。

 我に返ったさわが、その傍らに駆け寄った。

「鹿郎っ!」

「さわ、か……」

「何をしてる。怪我したのか!」

「大した事は……」

「ないわけ無いでしょう。誰か、明かり……」

 甚五郎が、素早く松明を差し出した。

 逃げようともがく体を樋池が押さえつけ、さわの両手が鹿郎の頭を掴む。

 もがいていた鹿郎が、悲鳴を上げて硬直した。

 その眉間からほぼ頭頂部まで、ざっくりと割れたまま、固まってしまった古傷が、炎の灯りを受け止める。

 骨の白が瞳のように、対するさわを凝と見た。

 何故今、生きていられるのかが、判らない。

 大抵の怪我を体験してきた二人の男が、直視できずに目を背けた。

 ひいひいと喘ぐ鹿郎が、ぽろぽろと泣き始める。

 顔を染めて乾いた血が、溶ける様に薄れていった。

「痛いよぅ……ねぇ、痛いってば……」

「馬鹿だな、落ち着け。まだ何もしていないぞ?」

 真っ直ぐに伸びたさわの腕が、樋池の腕から、震える鹿郎を奪い取った。

 膝の上に抱き上げて、被さる様に抱き締める。

 ひな鳥のような泣き声が、くぐもって響き始めた。

「うぐ……ひっ、ぐ……えぐっ……」

「馬鹿者。物事を舐めて無茶を重ねるから、まとめてこんなに怖い目に遭う。いい薬だ、馬鹿者が……」

「う……ぐすっ……」

 鹿郎を抱き締めていたさわの手が、その背中を擦り始めた。

 そのままゆっくり、話し始める。

「よく聞きなさい、鹿郎。お前、運がいい。古傷の方に、変化は何もない。いじる必要もないし、誰にもいじらせはしない。大丈夫」

「で、でも……」

「古傷より少し横の処、眉の上辺りに、小さいけど傷がある。これが痛んでいるのだな」

「ううっ……」

 鹿郎を膝に乗せたまま、さわは懐から刀子と布を取り出し、それを引き裂くと、鹿郎の額を覆い始めた。

「いてててて!」

「止血が終わったら、ここから直ぐに退きなさい。養生院まで戻っていては間に合わない、銀洲の母屋に戻ったら、おはるちゃんに頼んで、駕篭で長春先生の医庵に……」

「嫌だっ!」

「黙りなさいっ!」

 強い叱咤に、鹿郎が、首をすくめる。

 その隙に、残り二つの傷を縛ったさわは、樋池の方を振り返った。

「樋池様、こいつを医庵に運ばないと……」

「甚五郎!」

「へいっ、母屋から、おはると一緒に長春先生の医庵でござんすね?」

「但し!」

 さわの声に、甚五郎の動きが止まった。

「おはるちゃんと、手当を担当する方々に、必ずお伝えください。新古に関わらず、頭部の傷には、いずれも手出し無用と……血は出ていますが、巧く骨に当たったようで、深くはありません。私が、手当しますので」

「へぇ、しかし……」

「必ず……必ず、御願いしますよ。そして申し訳ないんですが、私が行くまで、鹿郎の側に付いていてあげて下さい。見えずに怖がって、暴れるかもしれません。おはるちゃん一人じゃ、ちょっと荷が重過ぎる」

「へ、へいっ」

 甚五郎は、頷いた。

「さ、さわ……オレ……オレ……」

 ガタガタと震えだした鹿郎を、さわは再び抱きしめた。

 耳元に口を寄せ、優しく囁く。

「聞いただろう? 大丈夫。ここが終わったら、私も一番に向かうから……」

 一擲。

 短く呻いた鹿郎が、肩を使ってさわを突き飛ばした。

「ひっ!」

「うわっ……」

 虚を突かれた甚五郎の脇をすり抜け、脱兎の如く、藪に向かって跳ねる。

 と、両手を縛った捕り縄が、音を立てて張りつめた。

「っあ……」

 鹿郎の体が、地に横ざまに、叩きつけられる。

 生臭い、赤い臭いが発止と弾け、捕り縄の端を守った樋池が、大きく息を吐いた。

「化け物か、こいつ……」

「鹿郎っ……樋池様!」

「大丈夫、逃がしませんよ」

 捕り縄を捌いた樋池は、鹿郎の足にも縄を回す。

 鉄鎖も千切ろうとした体躯は、低く呻くのが、精一杯だった。

「これで、暫くは動けまい。だが、少しの間にすぎんぞ?」

「なぁに、充分でさ」

 逞しく言い放った甚五郎は、太い腕で鹿郎の頭を抱き、耳をしっかりと塞いだ。

 そして下げていた呼子をくわえると、力一杯吹き鳴らす。

 耳を澄ますと、応えの呼子が響いた。

 意外と、近い。

「あっしの手下どもが、直にこっちにくるでしょう。それまで申し訳ないが、そちらの灯りで御辛抱下せえ。では、御先に失礼いたしやす」

「頼む。さわ先生の言伝、忘れるな」

「合点で!」

 ぐにゃぐにゃと揺れる鹿郎を、器用に背負った甚五郎は、松明を片手にかざすと、見る間に闇中に駆け去った。

 シバの吠える甲高い声音が、闇をぴりぴりと震わせる。

 その体を優しく抱き上げ、がんどうを拾った樋池は、さわの側に歩み寄った。

「さわ先生?」

「あ、はい」

 がんどうを差し向けると、顔をしかめたさわが見えた。

「甚五郎はともかく、どうして先生がこんな処へ? 薬の鑑定を、お願いしていたはずですが……」

 さわが、うっ、と息を呑んだ。

 闇中でも充分伝わる、その落胆。

 露骨なまでのその仕草に、樋池の肌身が粟立った。

「先生、まさか……」

「その、まさかです……捕方の方々も、シバも、舟に抜け荷の〈鰐〉は無い、と……」

「…………」

 樋池の目が、鳴らんばかりに瞬いた。

 砂が流れ落ちる様に、膝から力が抜けてゆく。

 上体すらも、刹那にぐらりと揺れかけて、樋池は慌てて踏ん張った。

「抜け荷が……出なかっ、た?」

 シバが樋池の腕から飛び降り、さわの背後に駆け込んだ。

 ついぞお目にかかった事の無い、想像を超えた自失ぶりに、さわは慌てて言い継ぐ。

「いやその、拿捕したあの舟が、密抜け荷を扱う密輸舟というのは、きっと間違いじゃないんです。おきんさんの死相に至らしめるなら、非常識な量の〈鰐〉を、長期にわたって盛る必要がある。でもシバの鼻を信じるなら、舟に薬はない。なら出てくる結論は、一つしかない」

「あ奴らが、〈鰐〉を隠し持っている……」

 最早樋池の全身は温い汗に塗れていたが、この闇中で、さわが気付くはずも無い。

 ここぞとばかりに、さわは一生懸命、言い募った。

「樋池様が、あ奴らを追われていたのは、幸運でした。やっぱり仕事というものは、手を抜いたら駄目なのですね」

「……まあ、今はそういう事にしておきましょう……」

 と、突然。

 さわの背に隠れていたシバが、闇に向かってひゃんひゃんと吠え始めた。

「シバ?」

 面を巡らせると、闇の向こうに炎の赤が蠢いている。

「あれは……」

 さわの声が、頼もし気に響いた。

「甚五郎親分の、手下の方達です……本当に早い、これは助かった!」




 甚五郎の手下達と合流して直ぐ、今度は捕方達が追い付いた。

 お陰で今や緑青林は、篝火と松明、提灯などが入り乱れ、昼さながらに明るい。

 そしてその、揺れる炎の灯りの下では、遺品の検分が行われていた。

 捕方達の手で、躯から回収され、並べられた遺品群には、その着衣までが混じっている。

 その傍らに立った樋池は、乾いた唇の皮をむしりながら、犬達の働きを、微動だにせず見守っていた。

 傍らに控えたトサも、主の面を見上げるばかりだ。

 この中の何処かに、〈鰐〉が隠されているはずなのだ。

 時折、雨気の混じった温い風が、ゆったりと場を横切っていく。

 いつもは諦念しか呼び起さない温風も、今のこの場に限っては、明確極まる不幸の兆しととられている。

 もし今、雨が降ってきたら。

 大事な証拠を、洗い流してしまうかもしれない。

 そしてもし、抜け荷の証拠である、〈鰐〉が発見できなかったら。

 小さなシバが、遺品の周りをうろつきながら、丹念に嗅ぎまわる。

 証拠を発見できなかった時の事を、努めて考えぬようにしているのだろう。

 妙に高ぶった緊張間の元で、捕方達は、犬の一挙手一投足を、力を込めて見つめいてた。

 と、樋池が、そっと踵を返した。

 捕方達の囲みを抜けて、少し離れた躯の安置場所を見やる。

 そこには、犬と同じ勢いで、五つの遺体をじっと見つめるさわがいた。

「さわ先生」

 突然の呼びかけに、さわは振り返る。

 血に汚れた卯ノ花無地の筒袖が、炎の灯りに照り映える。

 それを見て初めて、樋池は己も返り血を浴びていた事を思い出した。

 日差しの下であれば、最早滑稽ですらあろう状況だが、笑いは一筋も浮かんでこない。

「樋池様?」

 さわが、言い挙げた。

〈鰐〉が、出たので? ——そう、声音が訪ねている。

 樋池は、静かに首を振った。

「そうですか……」

「そろそろ、覚悟を決めねばならない頃合いなのかもしれません、ね」

「大丈夫です」

「しかし……」

「鹿郎が、何かあると言った。だったらきっと何かがある。私達が、見落としているだけで……」

 と、突然。

 捕方達のどよめきに、樋池とさわが、振り向いた。

 大勢の人垣を裂いて、シバがうろうろと、こちらを目指してやってくる。

「し、シバ?」

 踏み出そうとする樋池を、さわが素早く遮った。

 通った鼻筋を、宙にひくひくと蠢かせ、こちらに向かってくるシバはそのまま、遺体に被せた筵の端を、くんくんと嗅ぎ始めた。

「な……」

 樋池は、言葉を失った。

 今この時まで、シバとトサが、自分の命を無視した事など、ただの一度も無かったのだから。

 踏み出そうとした一歩を、しかし再び強引に、さわが遮る。

「さわ先生?」

 呟いた樋池の替わりに、さわが、一歩を踏み出した。

 躯に掛けられた筵を撥ね上げ、舐めんばかりに見つめ始める。

「さわ先生!」

 思わず叫んだ樋池を無視して、さわは躯から目を離さず、続いて触診を始めた。

「さわ先生、一体何を……」

「検分ですよ。〈鰐〉を見つけなきゃ」

 筵を払われた躯の喉は、元の形を留めぬ程に、ひしゃげ果てて潰れている。

 さわが、ぽつりと呟いた。

「……これじゃないな」

「さ、さわ先生。これは、先生のお仕事では……」

 さわに頼んだ仕事は、薬品の検出であって、骸を調べる事ではない。

 が、樋池の言が聞こえないのか、さわは隣の筵に近づいた。

 樋池が慌てて後を追う。

「さわ先生、これはもう……」

 説破詰まった樋池の問いには応えず、さわは筵を跳ねた。

 胸下の大穴に黒血をたたえ、一杯に見開かれた切れ長の目が、さわを迎える。

「これも、違う」

 さわがまた、隣に移った。

 筵を跳ねると、今度の躯には損壊が無い。

 しかし、まだ幼げな顔立ちに激苦の様をくっきりと残していて、樋池は刹那、眉をしかめた。

 さわが、ぽつりと呟く。

「樋池様」

「何か?」

「他の遺体は、どのような……?」

 樋池が口を挟む前に、躯を警護していた捕方の一人が言い挙げた。

「薮の中に、腹を突き抜かれた仏と、焼け死んだ仏が……側に焼け焦げたがんどうがあったので、何らかの理由で、がんどうの火が衣類に回ったものかと」

「じゃあ、これだ」

 さわは身を起こすと、躯の傍をうろうろしているシバに声を投げた。

「シバ、シバ……コレはどうかい? コレだよ、コレコレ」

 それをじっと見つめたシバは、ぷし、と鼻を鳴らし、トコトコと寄ってきた。

 さわが指さす遺体を、ふんふんと嗅ぎまわる。

 いつの間にか、捕方達が周囲を取り巻いていた。

 そして、突然。

 シバが尻尾を振り立てながら、ひゃんひゃんと鳴き始めた。

 低いどよめきとざわめきが、その場一面にさざめく。

 樋池の目が、鳴らんばかりに瞬いた。

 当たり前といえば、当たり前だろう。

 躯は既に下帯だけで、丸裸の状態なのだ。

 何も隠していないのは、一目了然。

 しかしさわは、躯の側に這いつくばった。

 周囲の全てが見えないかの如く、舐めるように、体をじっと見つめていく。

 樋池が、呻くように呟いた。

「さわ先生、もう……これ以上は、さわ先生がやる事では……」

「樋池様、そこをどいてください。影になって、よく見えない」

 樋池は、数歩を退る。

 傷の類はなかったが、腹部分に黒い痣のようなものがある。

 きっとこれが、鹿郎の一打の後だろう。

「さわ先生?」

 動揺を隠さず、樋池は辛うじて、声を絞った。

 応えぬまま、さわは躯の瞼を、指でこじ開ける。

「暗い……すみません、もっと明かりを」

「し、しかし……」

 突然身を起こしたさわは、近くに立つ捕方の手から、松明を奪い取った。

 呆気にとられる捕方をそのままに、躯の方に向き直る。

 そしてそれを焼き潰す気なのか、さわは躯の剥き出しの眼に、熱い火影を近づけた。

 数名の捕方が、堪えきれずに目を背ける。

 最早、誰の声もない。

 と、突然。

 瞼から手を退いたさわは、懐から刀子を取り出し、硬く食いしばられた歯と歯の間に突き立てた。

 鋼が石質を削る深い響きが、やり場のない衝撃をかき立てる。

 やがて躯の口角が、裂けんばかりにこじ開けられた。

 幼さを残した面がぐらりと揺れて、炙られた瞳から、溜まった水気が引き落ちる。

 その刹那。

「先生っ!」

 激昂した樋池が、躯の面から、さわの手を払い除けた。

「何をするんです」

「もうお止めください! これ以上は、仏に対して……」

 舌打ちが、響いた。

 真っ直ぐ伸ばしたさわの指が、躯の面を指し付ける。

「これは、単なる人の骸だ! 断じて仏なんかじゃない……仏やら神やらいうものは、目に見えるもんじゃないでしょう!」

 その場の全てが、置き去られた。

 半夢のような静けさの中、さわはさっさと、こじ開けられた口中を覗く。

「……あった」

 温い風と人の声が、火影にざわっと鳴り沸いた。

 さわの指が、奈落のような躯の口に突き込まれ、ゆっくりと持ち上がる。

 幾つもの視線と、呻きと、えずきに塗れて持ち上がったその指には、太く長く、真白な糸が揺れていた。

 小さな尻尾を千切れんばかりに振り立てて、シバが猛然と吠えだした。




 銀洲を舞台にした捕物騒ぎから、八日が経つ。

 裏葉柳には、雨間に陽射しを見るような、空模様が続いていた。

 今日も朝から小雨が降り続き、川面はおろか、大通りにも人気は少ない。

 桑染の養生院に続く、緩やかな余命坂も、雨泥の匂いに満ち満ちていた。

 脇に控える緑の木々も、心なしか、項垂れているような——そんな景色を見下ろしながら、おはると樋池は、養生院の母屋と崖下の離れをつなぐ、渡り廊下を歩いていた。

「さ、樋池様、こちらへどーぞ」

「そうやっていると、随分と以前から、ここで働いているようですね」

「とんでもない。お給金が少ない上に、商家と色々流儀が違うから、毎日大変なのよねー」

 座布団を抱えたおはるは、ヒラヒラと手を振った。

 至極元気に見えるけれども、まだ、あの高笑いは無い。

 好き勝手に騒ぎ立てる世間に、銀洲御上召し上げの正式なお触れが出た、その事に、気分が沈みがちなのだろう。

 しかし樋池は、楽観していた。

 御店が封印された後、頼る身内もなく、『ひとまずは……』と引き取った時。

 その時に比べれば、見違えるほど元気になったと安堵していた甚五郎の、嬉色は今でも忘れ得ない。

 養生院の総務を司っていた、お汐という老女が亡くなり、院長が困っていたのを思い出せた事も良かった。

 打ち込んで働く内に、忘れてゆく寂しさというものも、きっとあるはず。

 やがて養生院の総務として、立派にやっていくだろう。

 一揺れした雨模様が、薄くたゆたい、ふつりと消えた。

 屋根はあれども、所々濡れてしまった板張りの階段を降りて、左に曲がる。

 と、鹿郎が住まう、小さな離れが現れた。

「鹿郎っ、樋池様ですよっ」

 おはるが、崖に密接して建てられた——というより、洞穴に木造りの戸口を建て付けたような、不思議な離れの引き戸を叩く。

「……おう」

 中から眠たげな、不機嫌そうな声が応えた。

 モソモソと、動き回っている気配がする。

「私が中に入った方が、いいのでは?」

「院長から、甘やかすなって言われてるし。少し、陽射しの下に出た方がいいし」

「陽射しも何も、雨ばっかじゃないか」

 文句と一緒に、引き戸がからりと開かれた。

 鬱蒼とした面を取り繕うともせず、鹿郎が、ノソノソと出てくる。

 包帯だらけの体躯に紺の単衣を引っかけ、丁寧に繕われた座布団らしきものを持ち、これまた丁寧に繕われたはんてんを、重たげに肩に掛けていた。

 白い包帯に巻かれた額が、妙に浮いて見える。

 ふむ、と小さく息を吐いて、樋池は軽くうなずいた。

「それなりに、元気なようだな」

「……嫌みか、それは。熱が出て、大変だったんだぞ」

 面を巡らせた鹿郎は、鹿鳴を一つ、響かせた。

 そのまま、渡り廊下の柱を背に、座布団を放り投げ、その上にうずくまる。

 すかさず、おはるがその隣に、手にした座布団を設えた。

「どうぞ、樋池様。後でお茶をお持ちしますね」

「ありがとう、おはるちゃん。でもおかまいなく……甚五郎と、ここで落ち合う予定ですので」

「あら、そうなんですか」

 鹿郎が、首を傾げた。

「おい、おはる。さわはどうした? つなぎはどうなっている」

「さわ先生なら回診よ。もう少ししたら、戻ってくるんじゃない? つなぎの方は、口入れ屋から若いの一人、臨時に雇って回してる」

「…………」

「んもぅ、拗ねちゃって。その怪我じゃ、しょうがないじゃない。馘になんなかっただけ、有り難いと……」

「あっち行けっ」

「ふふふ……では樋池様、ごゆっくりどうぞ」

「はい、色々とありがとう」

 きちんと頭を下げたおはるは、軽やかに踵を返した。

 軽やかな足音が、遠退いてゆく。

 樋池はちらりと鹿郎を見、そのまま瞑目した。

「それでもまあ、一応やつれたな、それなりに」

「結構堪えたぜ、今回は。おまけに、お汐ばあさん以上にこうるさいのが、一匹まとわりついてきちまったし……」

「残念だ。あのまま素直にくたばってれば、これ以上、私が面倒事を味わう事はなかったのにな」

「うるせぇよ。あん時は、おめぇやさわが、オレを強引に助けたんだろっ」

「おや、助かりたくなかったのか。だったらあのまま、放っときゃよかった。余計な事をして、悪かったよ」

「……オレが生きててお前が困るんなら、それもまたいいもんだな」

 樋池は、せせら笑った。

「で?」

 不機嫌なまま、鹿郎は呟く。

「先日は甚五郎親分が、お見舞いにきてくれたけど……お前は一体、何しにきたんだ?」

「院長に、改めてご挨拶とお詫びをね……後、御上の御沙汰を、持ってきた」

「ふーん。それって、どんなの?」

 首を伸ばし、こちらに面を差し付けてくる。

 その気安さに、樋池は呆れて息を吐いた。

「……怖くないのか? お前が殺したのは、七十万の石高を誇る筑摩藩の士族五人……訴えられれば、楽に死ねる目は無いぞ?」

「ないない、それはない」

「何故、そう言い切れる?」

「筑摩がオレをしょっぴきたけりゃ、〈鰐〉の抜け荷で散々儲けた事と、武勇に聞こえた筑摩武士が、東育ちの見えずの町人に、徒手で返り討ちにされた事実を認めにゃならんのだぜ? ありえねぇよ」

 気怠げに、鹿郎は、鼻で笑った。

 樋池の眉間に、渋味が差す。

 南の列強国の中でも、一、二を争う大国・筑摩ノ国を舐めきった態度は気になるが、しかし確かに、鹿郎の言う通りでもあった。

 恐らくいざという時、抜け荷の〈鰐〉だけは死守すべく、練られたであろう妙案。

 これが筑摩にとっては、最悪の仇となってしまった。

 先ずは〈鰐〉を、蝋で覆った布袋に小分けする。

 そして同じく、蝋で覆った長く太い糸で、口を厳重に縛る。

 これを船荷の何処かに隠して運んでもいいのだが、上前を跳ねようとする輩が心配だったり、万が一の手入れの際に、直ぐに没収されてしまう。

 そこで忠誠厚く、頑強な筑摩武者の中でも、特に使える者を選び、その者の胃ノ腑を使って、運ぶ事を思いついた。

 但し、単純に呑み込むだけだと、胃ノ腑に揉まれて薬が溶け出したり、腸に運ばれてしまったりするので、糸の端を、奥歯にしっかり結わえておく。

 この仕掛けを暴いたのは、さわがおきんの骸に観ていた〈鰐〉の急性中毒症状と、筑摩武者達の口中に残った、白い糸の切れ端だった。

 手始めの、軽い一撃で死んだ武者が呑み込んでいた〈鰐〉は、袋が破れ、溶け消えてしまっていたが、他の遺体の胃ノ腑からは、綺麗に残った〈鰐〉入りの蝋袋が、人数分だけ発見されのである。

 樋池は直ぐさま、以上の事実を調書にまとめ、上司である与力の根岸源一郎に提出した。

 勿論、根岸も時をおかず、御上の権限を持って、筑摩藩の留守居役を問い詰めている。

 しかし返事はお決まりの、当藩与り知らぬ事——結局御上も、筑摩藩士を気取った身元不明の武士五人と、おきんに全てを負い被せ、闇に葬るしかなかった。

「腰抜けめ」

 唾棄した鹿郎の言い草に、樋池の肩が、大きく揺れる。

 しかし小さく息を吐き、鬢を優しく撫で付けた樋池は、夢見るように呟いた。

「まあ、御上の権限にも、限りがあるのでね」

「死人に口無しってか?」

「それが一番、簡単な処置だろう」

 遠間に、雷の音が轟く。

 たゆたう風に、強まり始めた雨の香りが、樋池の鼻にも理解できた。

 と、突然。

「一つ、聞きたいんだが」

 小首を傾げた鹿郎が、面を樋池に振り向けた。

 声尻に、好奇の色が混ざっている。

 嫌気を込めた眼差しで、樋池は鹿郎を見据えた。

「何だ?」

「邦介さんの行方は、判ったのかい?」

 落ちてきた水滴が、床板を叩く。

 再び、屋根。

 三たび、崖岩。

 続いて折り重なった雨粒は、やがて無数の白糸となり、ざあと音を奏で始めた。

 小さく咳払った樋池は、鹿郎を見据えて言い挙げた。

「何故、そんな事を聞く?」

「オレ、ずーっと不思議に思ってたんだ。何故この件に、旦那さんが顔を出さないんだろうって。でも、あっちこっちの話を聞く内、何となーく、一筋仕上がった気がしてさ」

「どんな?」

 鹿郎の身がむくりと起き上がった。

 樋池に面を差し付けながら、小首を傾げて囁く。

「オレ、思ったんだけど……銀洲の抜け荷を密告したのって……実は、邦介じゃないのか?」

 見えていれば、問いは重ねられなかっただろう。

 無邪気な問いに、樋池は僅かにうつむいた。

「……何故、そう思う?」

「そう考えれば、大体の事が、しっくりくる」

「…………」

「噂じゃ随分な人格者だったようだが、本当にそうだったのかね?」

「何故、疑う?」

「もし邦介が、本当に噂されてる様な奴だったら……どうしておかしくなってゆくおきんを、医師に診せなかったのか。自分が渡す薬が無ければ、もっと苦しむ事を知ってて、何故、失踪しちゃったのか」

「狂ったおきんを人目に晒すのが、堪え難かったんだろう。ずっと世話をしてきたおきんの苦悶を見る内に、耐えられなくなり、失踪したとしたら? そんなに不思議に事ではないと思うが」

「お前も、そんな事を言うのかぁ」

 不満を眉間に陰らせて、鹿郎は、小さく首を傾げた。

 その面が、何かを思い出す様に、宙をフラフラと彷徨う。

 樋池は思わず、言い挙げた。

「違うと思っているのか?」

「だって、さわみたいな奴だって、オレが痛いって言うと、ぎゅーって抱っこしてくれて、しつこいくらいに色々面倒見てくれるんだぜ? 腐れ縁でもそうなんだ、大事な人が苦しんでるんなら、なおさら……どんな醜態を晒してでも、楽にさせてあげようとするのが、一番最初にする事なんじゃないかなあ?」

 樋池の胸に、ちょっとした感動と驚きが奔った。

 この杳として底知れぬ、化け物じみたクソ餓鬼でも、そんな事を考えるのか。

 あの暗闇の中、ガタガタと震えて泣き出す鹿郎を、返り血を浴びながら抱き締めた、さわの姿が脳裏を過る。

 空が、がらがらっ、と爆ぜた。

 爆音の轟きは、無限に広がる空一杯に、奔り抜けて散っていく。

 樋池が、呟いた。

「……もう止めよう。当たっているかもしれないし、外れているかもしれない。けど今となっては、全て不毛だ」

「……知っているのに、教えてくれないのかよ。けち」

「けちじゃない」

 樋池の鋭い舌打ちに、鹿郎は小首を傾げる。

 厳しさのこもった声音で、樋池はてきぱきと言い挙げた。

「筑摩藩と御上を敵に回し、たった一人で戦えるなら、何時でも教えてやる」

「それは……」

「密告者の名を知る者達が、姿を隠さず、のほほんとしていられるのは、奉行所の……御上の力があるからだ。この度の件には、あの筑摩藩が大きく関与している。しかし筑摩藩といえど、今のところ、御上に表立って楯突く事はできない。だからこそ、こんなにのんびりしていられるんだよ。そうでなくば私など、とうに筑摩藩の者に殺されている」

 流石の鹿郎が、鼻白んだ。

 僅かに息を吐き、樋池は続けた。

「そして御上は、お前が指摘した通り、全てを死人に押し被せ、無かった事にするとした。今、この密告者の名を知る事は、それを覆す可能性のある者が生まれるという事。そんな者の存在を、御上が許すと思うか?」

 不機嫌に頬を膨らませた鹿郎は、ぷいとそっぽを向いてしまった。

 しかしそのまま、静かに呟く。

「……ま、いっか。オレの仕事は、何とか無事に終える事ができたんだから……」

 樋池は再び、溜息を吐いた。

「それが一番いい。そこで納得しておいて、後はさっさと忘れてしまえ。一番大事なものは、守れたはずだろう」

「ああ。さわももう、忘れちまってるようだしな」

「さわ先生には、話すぞ?」

「……はあ?」

「さわ先生の名は、報告書にも検分書にも書かれている。この時点でさわ先生は、立派な御上の関係者だ」

「という事は……今の話、全部話す気か?」

「ああ」

「密告者の名も?」

「報告義務は、果たさねば」

 突然、鹿郎が立ち上がった。

 息を呑む樋池の前に、折り目正しく座り直す。

 僅かに身を退く樋池に、己が膝を掴んだ鹿郎は言った。

「止めてくれ。いや、止めておけ」

「鹿郎、これはずるいとかずるくないとかいう問題では……」

「判ってる。けど、それはまずい。絶対に、まずい」

「……どういう意味だ?」

「いいから止めとけ。互いの……そうだなぁ、友人として言う。止めておいた方がいい」

 刹那、樋池は総毛立ったが、鹿郎は至って、真面目な顔を崩さない。

 咳払いと共に、樋池は辛うじて声を絞った。

「理由は?」

 鹿郎が、口を開いた時だった。

 再び雷光が空に踊り、割れんばかりの轟音が、太やかな雨音を薙ぎ払う。

「言ったって、きっと信じないよ」

 鹿郎は、溜め息混じりに呟いた。

 樋池の眉間に、惑いが差す。

 それが判るはずもないだろうに、鹿郎が、ふと微笑んだ。

 澄んだ蛙声がふつりと絶えて、遠間から、軽やかな足音が近づいてくる。

「おはるちゃん?」

 樋池が振り向くと同時に、角を曲がった、おはるの姿が現れた。

 こちらを見ていた樋池を見て、生温く微笑む。

「……樋池様。今、鹿郎みたいな事、しましたね?」

「い、いや、偶然ですよ、偶然」

 慌てた樋池は、思わず正座し直した。

 小さく咳払う。

「で……ひょっとして、甚五郎が?」

「はいな。今、土間の方で、トサとシバと遊んでらっしゃいます」

「はいはい、判りました」

 傍らの大刀を取り上げ、片膝を立てる。

 併せて立ち上がった鹿郎が、止めとばかりに言い放った。

「言うんじゃないぞ」

「そこまで言われて、言う者がいると?」

 きょとんとした鹿郎は、ぶうっ、と派手に吹き出した。

「うん、うん……いるかもなぁ。以外と身近に、さ」

 身をよじって笑う鹿郎を見下ろし、樋池は暫し、目を閉じた。

 同い年と比べて苦労はしてはいるが、鹿郎は、まだ子供だ。

 自分が戸惑いを感じ、取り立てて迷うような事ではないはずだった。

 そのままさわに、全てを報告するのが、正しい筋に違いないのだ。

 が、樋池はじろりと鹿郎を睨むと、大きな溜息を吐いた。

 刹那、自らが負け墜ちたような目眩を堪え、わざとぷつんと言い捨てる。

「……判った。さわ先生には、この件、評定所召し上げになったとのみ……残りは全て、伏せておく」

 樋池を見上げるおはるの目が、鳴らんばかりに瞬く。

 口元を拭いながら、鹿郎は、背筋を伸ばした。

「やっぱり、お前は賢いよ」

「ったく……」

「樋池様?」

「あ、はいはい、只今」

 樋池がにこりと微笑した。

 こちらも、にこりと笑って応えたおはるは、鹿郎の方に向き直った。

「鹿郎は、どうする? 床に戻る?」

「いや、もう少しここにいるよ。思ったより、気持ちがいい」

「うん、少しそうした方が良いって。風が冷たくなってきたら、戻るんだよ」

「はいはい」

「じゃあな、鹿郎」

「ああ」

 安らかな溜め息をついた鹿郎は、座布団に座り込むと、はんてんの襟に首を埋める。

 おはるが、首を傾げる樋池の先を歩き始めた。

「あと樋池様、院長先生が、お話があるって。樋池様のお話ついでに、甚五郎親分と一緒に、聞いて欲しいって仰ってましたよ」

「お話ですか? 何なんでしょうね……」

 雨模様が風に揺れ、紗のようにたゆたう。

 振り返る代わりに、樋池は耳を澄ましたが、鹿鳴はついに聞こえなかった。

 再びの、浅い眠りについたのだろう。


 (了)

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