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闇牡鹿、跳ねる!中編

「いいんですよ、説明なぞできなくて」

 一擲。

 さわの腕を掴んだ鹿郎の足が、突き貫かんばかりに畳を蹴った。

 部屋の隅に、さわの体を頑と押し込め、ふたするように、背を押し付ける。

 激しく揺れた風端に、あのちょっと変わった鬢付けの香が聞こえた。

「樋池か?」

 身のこなしとは裏腹の、落ち着き払った鹿郎の誰何に、樋池は溜息で応えた。

 どこからどう現れたものか、畳の真中にきちんと座り、扇子をひらひら動かしている。

「やはり人間、忙しすぎると判断を誤るな。余計な詮索をするなって条件を、付け加えるのを忘れていた」

 怒気を漲らせた鹿郎が、立ち上がろうとした時だった。

 背後から伸びた腕が、その首根を掴み締め、真横にひょいと振り払った。

「うきゃ!」

 思わぬ方向から突き押され、鹿郎の体は、あっけなく畳を転がる。

 目を瞬かせた樋池の面前に、さわが仁王立ちに立ちふさがった。

 美眉に籠った怒りの鬱気が、樋池に居住まいを正させる。

 さわが、ぽつりと言い挙げた。

「樋池様」

「せ、先生、先ずはおちつ」

「約束が違う」

 続きかけた声を斬り捨て、さわはくっきりと言い放った。

 気色すら消え去った底無しの眼差しが、座る樋池を凝っと見下ろす。

 樋池は一つ、咳払った。

「さわ先生と、養生院の皆様には、本当にご迷惑を……」

「建前は聞いていない」

 転がった鹿郎が、唸り声と共に、身を起こした。

 さわは、淡々と言い継ぐ。

「何故つなぎが、一つもついていないのです。私はお願いしたはずです。むやみに動かず、ここでじっとしている代わりに、養生院に必ず一報を入れてくれと……原因までは言わずともいい、ただ、私が暫く戻れない事だけでいいから、伝えて欲しいとお願いしたはずです」

「きちんと、覚えております」

 被せる様に、樋池が言い挙げた。

 そして空模様でも話すかの如く、話の続きを引き取って語る。

「先生からその旨を聞いてすぐ、私は養生院につなぎを取ろうと手配しました。ですがその直後、奉公人の一人が、不審な動きを見せまして……そ奴は今、別所に監禁しておりますが、味方の信用が、一気に崩れ去ってしまいまして」

「ひょっとしてそのために、御店の人間を全て入れ替える、なんて真似をしたのか」

 鹿郎が、割り込む。

 そちらをちらりと見やりながら、樋池は肩をすくめた。

「おはるちゃんに相談した処、ちょうど人足の総入れ替えを計画していたそうで。それを利用し、比較的簡単に、入れ替え自体は成功しました。ただ……」

 大窓からの温い風が、さわの深削ぎ髪を揺らして過ぎる。

 扇子を静かに畳みながら、樋池は続けた。

「外部からの監視が続いている、その可能性が、どうしても否定できなかった。なので止む無く、普段の状況で取られる御店のつなぎ以外は全て切り、徹底的に平常を演出し続ける事に決めたのです」

「馘を切られた奴らが、適当な事を言いふらしたら、どうするつもりだったんだ? 中には、内通者らしい奴までいたんだろう」

 不機嫌を眉間に溜めて、鹿郎が、再び畳の上に戻る。

 それを見た樋池は、にやりと笑った。

「鹿郎もさわ先生も、最近は、裏葉柳に来られてないでしょう?」

「それがどうした」

「もしこちらに足を運んでいたなら、噂で聞いていたはずです。この御店、既に御上に没収されたとか、陸路事業に打って出るとか、医薬の扱いを取り止める用意をしてるとか」

「……わざと滅茶苦茶な嘘を、個人個別に吹き込んで、その上で馘を切ったか」

「この御店の奉公人は、もともと利潤のみに強いつながりを持っている。今の時点で内通していなくとも、多少の金子で掌を返す事が、容易に想像できた……どうせ誰も信用できないならばいっそ、という事です」

「やっぱりお前、最悪だな」

「褒め言葉だろうな、当然」

 苦笑する鹿郎を、苦笑で見やった樋池は、折り目正しく、さわの方へと向き直った。

「以上の理由で、つなぎを取る事はできなくなった。しかしこの事をさわ先生に話すと、先生を今以上、危険な立場に引きずり込む事になりかねなかった。なので、事が全て収まるまで、放置を決めた次第です。誠に……誠に、申し訳ありませんでした」

 畳に手をついた氷川が、深々と頭を下げた。

 底無しの虚無だったさわの眉間に、ようやく不機嫌の色が差した。

 短く息を吐くと同時に、いかった肩から力が抜けて、なだらかに落ちていく。

「……理由は、判りました。でも……」

「やはり御納得は、いきかねますか。困りました……」

 頭を下げたまま、ふう、と、樋池が息を吐く。

 と、突然。

 横に控えていた鹿郎が、二人の間に、真正面から割り込んだ。

 さわが、ぽつりと言い挙げる。

「鹿郎?」

「いいからさわ、お前はもう、黙ってな」

「しかし」

「おい、樋池。何でお前は、困ってるんだ?」

 何も答えずに、樋池はゆっくりと頭をあげる。

 その眼差しが、鹿郎をヒタとねめつけた。

「決まってるだろう、さわ先生のご機嫌が……」

「オレに口先の嘘は、利かねぇよ」

 戸惑ったさわが、鹿郎と樋池を見比べる。

 その事を知ってか知らずか、鹿郎は、慎重に言い継いだ。

「さわを、危険な立場に引きずり込みたくなかった。なるほどそいつは、ホントの事だろう。さわに一筋でも傷がつけば、養生院を筆頭に、この裏葉柳の医術使い全てを、敵に回す事になる。特にお前みたいな、派手な立ち回りと縁の切れない仕事をしている奴にとっちゃ、それは即、本音建前両面での、致命傷となるからな」

「そこまで判っているなら……」

「お前はオレ達に、明日の夕刻まで、ここにじっとしていて欲しい、と言ったな。恐らくその頃合いに、この御店絡みでヤバい何かが起こるんだろう。それはいいんだが、なら何故今、さわの機嫌を取りにきた? こいつの口は……まあそのナンだ、比較的にだ、堅い方かもしれないから、こいつがオレに何かを話す事は無い、と、お前達は思ってる……お前達は、な」

 鹿郎が、むせて咳き込む。

 さわの眼差しが、刹那に色を失って、宙を泳ぐ。

 突然色濃くなった奇妙っ気に、樋池は眉をひそめた。

「鹿郎?」

「あ、いや、まあ、そう思っているだろ?」

 もう一度咳払い、鹿郎は言い継いだ。

「そしてオレだって、詳しい事なぞ、何一つ判っちゃいなかった。明日の夕刻まで完全に放っといた方が、さわも安全なままだったし、オレだって動き様が無かったんだ。何故今、わざわざ自分の手の内や不始末をあげつらって、詫びを入れているんだよ」

「そ、それは……」

 言いかけたさわを、掌で制した鹿郎は、僅かに首を傾げると、その場に腰を落ち着けた。

「なあ、樋池。こういう時、お前みたいな奴は大抵、腹ん中に別件を抱え込んでいるもんだ。違うかい? 早く白状しないと、刻はどんどん過ぎちまうぜ?」

 それをじっと見ていた樋池は、大きな溜息を吐いた。

「何故、私が新しい依頼を持ってきたと?」

「ほーら、やっぱりな。お前はそういう奴だからだよ」

「その名推理に免じて、何とか一つ、御助力頂けないものか」

「オレの仕事は、仲間達の間でつなぎを取って回る事、だけじゃない。貴重で優秀な養生院の人材を、妙な荒事から守って遠ざける事も任されている……お前がどう言い繕おうと、さわがこれ以上この件に深入りをする事は、このオレが許さねぇよ」

「判った判った」

 樋池は、懐に手を差し込んだ。

「こういう意地悪な手段は、あまり使いたくなかったのだが」

 と、言い淀みつつ、大ぶりな帳面と、細身の小筒を取り出す。

「……樋池様?」

 さわが、呟いた。

 樋池は黙ったまま、帳面を畳上に置き、小筒の尻を小さく捻る。

 かちりと小さな音が噛み合い、墨を含んだ小さな筆が、二つ転がり出た。

 鎮息の墨香が、宙一杯に広まる。

 鹿郎は、首を傾げた。

「樋池……お前、何をしてる?」

「何、私とさわ先生の準備をね……内緒話の」

 突然、樋池の手が帳面を取り上げ、鹿郎の踵が、その場を強く踏みにじった。

 イ草の千切れる音が、ぶつりと響く。

 息を呑むさわを尻目に、鹿郎と樋池は、面を頑と突き合わせた。

「貴様の耳は、お飾りか? それとも、話が難しかったか?」

「もとより、お前の話なぞ知った事じゃない。私はさわ先生と、話をしなきゃいけないんだ」

「いい度胸だ。養生院を敵に回すとどうなるか……」

 一擲。

 鹿郎を睨みつけたまま、樋池が叫んだ。

「おきんの死因!」

 ほんの僅か、鹿郎が鼻白む。

 噛み合ぬ応えに、しかし一番早く目を見開いたのは、蚊帳の外に置き去られていたさわだった。

「ちょっと待て!」

 犬猫ですら二の足を踏みそうな、鹿郎と樋池の合間に、敢然と割り入ってくる。

「さわは口出しふぐむっ……」

 悪態を吐こうとした鹿郎の口を、さわの腕が、真っ直ぐに掴み塞いだ。

 鉄針の眼差しを、真っ直ぐ樋池に叩き付ける。

「死因、とは?」

 震える問いを聞いた樋池は、背筋を伸ばして言い挙げた。

「聞かれた通り……ここで死んだ、おきんの死の原因です」

 鹿郎が、さわの腕を振り解く。

「死因だと? じゃあ、ここの奥方さんは……」

「死んだ。直接の死因は心ノ臓の発作だけど、特定の薬物を、長期に渡って摂取していたらしい……私がここに着いた時には、もう息がなかった」

 声音の端を彷徨わせながら、さわはぼんやり呟いた。

 脳裏の記憶が、激しく瞬く。

 数日前、今吉と共に銀洲に着いたさわは、母屋の地下に設えられた、座敷の一角に案内された。

 冷ややかな室内で、静かに横たわっていたおきんの側には、世話係の下女が一人。

 彼女が言うには、さわが到着する少し前まで、おきんは息をしていたらしい。

 そして初めの異変は、数年前に遡る、と話し始めた。

 ある時から、邦介の介添えを得ても、真っ直ぐ歩けなくなったおきんは、やがて酷い倦怠を訴える様になった。

 心配した邦介は、自身が疲れている時に服用するという薬を勧め、おきんも服用し始める。

 そして数年後、強度のせん妄が始まり、商いに支障が出始めた。

 初めは気づく事さえ無かった吐血と下血も、じわじわと深刻さを増し、おきんの体力を削ってゆく。

 こうなってくるまでは、おきんの不調は全て邦介が付きっきりで、誰の目にも触れさせず、手厚い看病を続けていた。

 しかしせん妄の悪化が、止まる事は無かった。

 離す言葉の意味が不明となり、薬の服用こそ止める事は無かったが、やがておきんは、邦介自身までをも忌避し始めた。

 そして屋敷中を這いずりながら、奇声を張り上げ、物に構わず噛み付き、歯を立てる様になりだした時。

 このままでは、商いに支障が出るとの判断で、邦介は、屋敷の地下に秘密の座敷を造り、そこに暴れるおきんを移した。

 そしてまた暫く時が過ぎ、一月程前。

 邦介自身が謎の失踪を果たし、薬の供給が途絶えた時から、おきんの苦悶が酷くなった。

 業苦の中、やっと絶息を得られた日に、さわは到着した事になる。

 この話を聞き終えた時点で、さわはおきんの死因を既存の病ではなく、何かの中毒をこじらせた挙句の死と断定した。

 絶える事の無かった下血は、確かに致死率の高い疫病を疑わせたが、防疫対策の無いまま、長く面倒を見ていた女中や奉公人達には、何の異変も見当たらない。

 既存の疫病では、全くあり得ない事だった。

 では、中毒の元となった薬品は何か。

 一番怪しいのは、邦介が与えていた薬だが、邦介が失踪した今、薬自体の分析は不可能。

 鑑定と検死のため、おきんの遺体を養生院に運ぶ、その手配を御店の者に頼もうとするさわの前に、樋池が現れたのがちょうど六日前の事となる。

 額に、薄く汗が浮かび始めた。

 幾度か息を詰まらせながら、さわは声を絞り出した。

「樋池様……それは一体、どういう意味なのでしょうか……?」

 遠くからぼんやりと、樋池の声が聞こえてくる。

 歯を喰い縛り、さわは必死に、耳を凝らした。

「実は、さわ先生がこちらに来られる以前から、我々はおきんの病理に、ある程度の目処を付けておりました」

「じゃあ私が、遺体の検分をしていた時も?」

「何度かさわ先生に、その事を御伝えしようかと考えました。ですが話せば自ずと、さわ先生を我らの計画に引きずり込む事になってしまう。ですから今までは、お話しできなかった次第です」

 鹿郎の口を塞いでいたさわの手が、落ちる様に離れた。

「お、おい、さわっ……」

 咳き込む様に、鹿郎は、さわを呼んだ。

 しかし、応えが無い。

 まるで目の前から、立ち消えてしまったように……そんな虚ろが、鹿郎の総身を粟立たせた。

 話を聞く限り、悪意から成された事ではない。

 それは判る。

 樋池は基本、嫌な奴だが、己よりも弱い者に対しては、できうる限り献身的だ。

 さわに事実を告げなかった理由も、それはきっと嘘ではない。

 が、しかし。

 ここまで足蹴にされた事を笑って済ませられるほど、この女の求道の志は、お安いものではないはずだった。

 鹿郎の指がミキリと鳴って、堅い拳を作り上げた。

「樋池」

 樋池の眼差しが、針のように細まる。

「何だ」

「大体の言い分は、判った」

「有り難い事だ」

「だから一発、殴らせろ」

 応えは、無い。

 構わず、鹿郎が畳を踏み締めた時だった。

「待て、鹿郎」

「さわ?」

「いいから、待てと言っている」

 うわずった声が、厳として鹿郎を押し止める。

 殴打に変わり、さわの眼差しが、樋池を真っ直ぐに見据えた。

「樋池様……樋池様は最初、内緒話と仰った。その内緒話とは……」

「おきんの死因も含まれますが、実はそれには、もう一つの内緒事が、大きく関わっているのです。ですから、この話を聞くのであれば、先生は自動的に、今回の件の関係者とならざるを得なくなる」

「何故、そんな大事を今、私に話そうと?」

「鹿郎の鎖を解いた後、まだ状況が変化しまして」

 一髪の間に、眉を寄せた樋池は、指で唇をなぞり始めた。

「どうあっても、さわ先生の更なる御助力が必要となったのです。ですから、そのお願いに上がりました」

「だったら何故、その事を最初に言わないっ!」

 苛立ちもあらわに、鹿郎が叫ぶ。

 樋池の頬に、苦笑が浮かんだ。

「話そうとしたさ。さわ先生だけにね」

「さわに、だけ?」

「最初から、この件を話すのは、さわ先生にのみと決めていた」

「お前なあっ、そんな勝手が……」

 再びさわの腕が持ち上がり、憤る鹿郎の口を、掴み塞いだ。

 どこの力加減が効いたものか、鹿郎は、そのままストンと座り込む。

 何事も無かった様に、しかし真っ青な顔色のまま、さわは樋池の方へと向き直った。

「そのお話、何故鹿郎に聞かせられないのですか? 私だって、この男の言う事を丸ごと無視して、何かあった場合……只で済むはずがありません」

「身の守りに、側に置くと?」

「その方が、全て丸く収まる。そう思いませんか?」

「今回の件は最終的に、お二人が思うよりも、多くの人数が動きます。そんな中に、鹿郎みたいな見えずを放り込んだら、どうなるか……いる気遣いと、いらぬ気遣いが入り交じり、混乱が起きましょう」

 息を吐いた樋池は、同心羽織の黒を揺らして、腕組みした。

「ここまで仕上げたお膳立てが、万が一にも失敗となった場合。御上につく傷は、相当なものとなる。脅す訳ではありませんが、詰め腹だって、私一つのみじゃあ、到底収まらない……だから万全を期すためにも、鹿郎は使わないと決めました」

 解かれた樋池の両手が、一つ大きく打ち鳴らされた。

 小気味よい破裂音が、凝り固まった風端と、二人の心身を振るわせる。

「この状況でお話しできるのは、残念ながらここまでです。後は……」

 投げ出された帳面が、畳をパサリと小さく叩いた。

 それを暫し見つめたさわは、小さく頷き、鹿郎の面を放す。

 口元を拭い、鹿郎は呟いた。

「……で?」

 既に答えは判っていても、確かめずにはいられない。

「決まっている」

 陰鬱極まったさわの声は、それでも真っ直ぐ、揺らぎなかった。

 途切れてしまった筋を、つなぎ通す機会が再び訪れたのだ。

 筑摩ノ国の医師一家、その末娘として生まれ、医学書を枕に育ったさわに、取るべき道は一つしか無い。

「おきんさんの死因が、内緒話の中に隠れているというなら、私は話を聞かなきゃいけない。そうしなきゃ、どのみち私は、養生院には帰れない」

「養生院に追わざる者、不要……何時も院長が、言ってる事だもんな」

 膝を軽く打ち払い、鹿郎は立ち上がった。

 座る樋池に面を向けて、にやりと笑う。

「巧くやったじゃねーか」

「できなかったら、切腹だからな」

「何をする気か知らんが、せいぜい気をつけろよ。その女医先生は、見た目よりも遥かに軟弱だ。どんな傷でも付いたが最後、裏葉柳じゃ、まともな医者にはかかれなくなるぜ?」

「お前に言われずとも、承知している。それより鹿郎、お前……」

「判ってるって。逃げも暴れもしねぇよ。内緒話が終わるまで……そうだな、一階で、昼寝でもしてくるか」

「結構」

 鹿郎の踵が、くるりと返った。

「鹿郎……」

 不安そうなさわの声が、背に聞こえる。

「ま、頑張れ」

 小さな鹿鳴を放った鹿郎の背が、そのまま階段に向かってゆく。

 途端にこみ上げる焦燥に、さわはふと、立ち上がりかけた。

 と、突然。

「さわ先生」

 短く呼ばれ、そのままヒョイと腕を引かれる。

 ストンと腰を落とした一髪の間に、掌に小筆があてがわれ、畳上の帳面を差し向けられた。

「どうぞ、ご確認下さい」

「あの、樋池様? 鹿郎は下に行きましたから、その……もう普通に話しても」

「こればかりは、先生もお判りにはならない……いや、私とて、一度似た目に遭ったからこそ、判るようになったのですが」

 笑った樋池は、小筆の尻で、己の瞼の傷跡を突ついた。

「あ奴の耳鼻は、利かない目を補って余りある働きをします。油断は一切、なりません」

「でも」

「ご面倒は承知ですが、今は曲げて、御願い致します。私のためと、思って下されば……さ、どうぞ」

 樋池の笑顔に、薄ら寒い何かが宿った。

 物腰こそ柔らかいが、強行手段を取る事に、尻込みするような男ではない。

 大きく息を呑んださわは、恐る恐る、畳上の帳面を取り上げた。

 樋池らしく、正確かつ簡便な〈内緒話〉を読み進めていく。

 開け放たれた大窓から、烏の声が、細く小さく聞こえてきた。

「あのぅ……」

 小さく囁くさわの視線が、帳面から上げられる。

 面を左右に振った樋池は、顎を使って、帳面を指す。

 最早、是非も無し。

 大きく息を吸ったさわは、小筆を持つ手を、帳面に伸ばした。

 小さく震える墨痕が、紙面に残った樋池の問いに応じていく——




 灰白色の雲が、空をみっしりと埋め尽くしている。

 昼は何とか持ち堪えたが、夜半になれば、雨が降ってくるだろう。

 こんな日は、昼も夜も、刻の区別が付け難い。

 それでも、大小の商家群を両に抱えた月白表通りには、帰路を急ぐ雑踏と、本日〆の掃除に勤しむ小僧達が、右に左に働いていた。

 その大きさが一際目立つ銀洲も、店頭の積み荷は今や綺麗に引き揚げられ、あちこちうろついていた人足達も、各々のねぐらへと帰っている。

 何処かで、猫が鳴いた。

 もうすぐ、一日が終わる。

 銀洲の大暖簾が翻ったのは、そんな最中での事だった。

「それじゃあ、おはるちゃん。次回取引の件、頼みましたよ」

「はい、承りましてございます。毎度ありがとう存じます」

 自ら暖簾を避け、客と思しき男を通したおはるは、子猿の愛嬌たっぷりに、深く頭を下げてみせた。

 客はにこりと微笑んで、雑踏の中に消えていく。

 そして空っぽの籠を下げた、行商娘の一群が、さざめきと共に行き過ぎた時。

 おはるはようやく、面を上げた。

 能天気にさえ見えた笑みが、綺麗に拭い落とされている。

「可哀想にねぇ」

 せめて、取引の締結が明日だったら——おはるは大きな溜息を吐いた。

 今、銀洲では、内部で進む計画が人伝に漏れ、敵に知られる事を恐れた樋池から、平常を装う様、強く命じられている。

 だから、いつも結んでいる契約を断るとなると、それなりの説明をせねばならない。

 しかし相手も、この裏葉柳で商売をしている商人だ。

 不自然な言い訳をして、不審を抱かれてはならないという事で、結局、商人としては最悪の嘘を吐くしかなかったのだから、胸が痛まぬはずが無い。

 まあ直に嘘を吐いたのは、商人に化けた樋池の部下だし、どんなに胸が痛んだとしても、所詮は御用の上での都合だから、お互い泣き寝入りをするしかないのだが。

 けど、あの男が背負う御店。

 今回の取引が駄目になった後、代理の店に足元を見られ、鬼のような急場手当を請求されるに違いないわな——おはるが再び、溜息を吐いた時だった。

「だからって、情けは無用だぜ、おはる」

「甚五郎親分っ」

 暖簾の影から、甚五郎がするりと姿を現した。

 おはると半歩離れて立ち、固いなりにも、にこやかな笑顔を作る。

 今、世間に見せるのは、御店の奉公人同士が、夕方の息抜きをしている姿であって、それ以外のものであってはならないのだ。

「あの商人とおめぇが話し込んでいた時は、ちょいと肝が縮んだぜ? 余計な事を言っちまうんじゃないかってな」

「そりゃあ心外だわね。まあでも、あのお客様と自然に話せるのは、今や私くらいなもんだし」

 おはるは、ぷんと面を振った。

 道歩く人と目が合い、にこりと笑って目礼する。

 その笑顔のまま、おはるはシャキシャキと言い継いだ。

「何せあのお客様、いつも小僧や手代相手に、借り入れ金利やら、米の相場価格について、話を吹っかけてくるんだから」

「かりいれ……きんり?」

「その応え様で、御店の教育具合が判るって事らしい。以前、寅松っつあんが巧く応えられずに、奥様にこっぴどく叱られて。旦那様が……」

 と、甚五郎の目が、きらりと光った。

 慌てて声を呑んだおはるは、人差し指で口を封じる。

 甚五郎は、苦笑した。

「……大した餓鬼だよ、おめぇは。末恐ろしいぜ」

「で、どうかしたの? 奥で何か、判んない事が……」

「いや、違う。片付けが全て終わったんでな。知らせとこうと思ってよ。おめぇが銀洲最後の奉公人……いや、商人となったって事だ」

 おはるが、甚五郎を見上げた。

 その小さな手が、拳を作る。

「じゃあ、とうとう」

「ああ。さっき、今吉の奴が戻ってきてな。奉行所の方の準備も、全て整ったそうだ」

「そっか」

 おはるは、ぽつりと呟いた。

 今吉はこの後、上戸の北にある大黒商屋に誘われ、手代として勤めると言っていた。

 どん底から這い上がり、裏葉柳に君臨した希代の名店は、かつての轍を忠実に辿りつつ、衰退してゆく。

 在りし日のおきんも、こんな気持ちで、立ち去る者の背を眺めていたのかな——胸に過った寂しさを込めて、おはるは大きく言い放った。

「いよいよだねぇ!」

「ああ、いよいよだ。今頃、あっちこっちに潜り込んでた奴らが、手はず通りに結集してきているぜ」

「樋池様、大丈夫かなあ」

「大丈夫に決まってる。随分と……いや、うむ、相当変わった性格の御人だが、切れ具合に関しちゃ、先代様に勝るとも劣らねぇ。今回の捕物だって、大成功間違いなしだ」

「そうよね。何てったって、このあたしが手助けしてんだもの。大成功間違いなし!」

 うむ、と拳を握ったおはるは、いそいそと、踵を返した。

 大戸の脇に設えられた物入れから、箒とちりとりを掴み出す。

「お、おい、おはる」

 甚五郎は、手を伸ばした。

 これから先、この御店が客を入れる事は、もうない。

 そんな定めにある店先の掃除などより、さっさと表戸を締めてしまいたかった。

 そうすれば、おはるが樋池から請け負った役目——世間の目を欺くため、御店に潜入した自分達、商いの素人を、玄人らしく装う手助け——それも終わる事になる。

 確かにおはるは、その辺にたむろする一山幾らの若造より、数倍の事を巧くこなす。

 しかしどんなに使えようとも、甚五郎の目にはどこまでも、おしゃまな小娘でしかなかった。

 が、しかし。

 己に向かって伸ばされた手を見たおはるは、鳴らんばかりに、目を瞬かせた。

「駄目よ、親分。樋池様から言われてるでしょ、何処で誰が見ているか判らないから、必ず最後まで、いつも通りに振る舞う様にって」

「し、しかしだなあ……」

「心配しなくても、これが終わったら、すぐに土蔵に行ってさ。鹿郎と二人で、高見の見物としゃれ込むからさ」

「しゃ、しゃれ込むって、おめぇ……」

「ほらほら、親分も手伝って。こんな時間にこんな場所でぼーっとしている商人なんか、この裏葉柳にゃ一人もいないんだから!」

 手にした箒とちりとりを、おはるはキュッと突き出してくる。

 目を瞬かせた甚五郎は、ぷふっと吹き出し、道具達を受け取った。

「ったく、おめぇには敵わねぇよ」

「おほほほほ……要の甚五郎に、表を清めてもらえるんだもの、この御店だって本望でしょ」

 熊の如き体躯の甚五郎と、子猿のようなおはるの二人が、雑水桶の水を打ち、埃を静め、塵を掃き集めていく。

 手早く最後の塵を集め、おはるに託した甚五郎は、ううん、と腰を引き伸ばした。

「っしゃ、綺麗になった!」

「うん、これで奥方様も、満足できるでしょ!」

 ちらりと、甚五郎は、おはるを見た。

「そう言えば、ここの奥方さんだがよ」

「はいな?」

「御上と、御官医様の許可が下りてな。上本寺の無縁仏達と一緒になった」

 目を瞬かせたおはるは、甚五郎を仰ぎ見た。

「随分と、嫌がられたんじゃない? 本当に本気で、寄進も御布施も、なーんにもしなかった御人だったから」

「まあな。しかし仏になっちまえば、不問にするしかなかろうよ……おいおはる、大丈夫なのか?」

「何がさ」

「何がって……随分じゃねえか。俺より高ぇ賃金で、お前をここに雇い入れた御人だろうに」

「死に顔を、拝んでないせいかもねぇ。最期の頃になると、皆『子供がする事じゃない』って言って、あたし、お世話させて貰えなかったのよ」

「そうか。ここにいるのは、金の亡者ばかりと思っていたが……まともな判断ができる奴も、勤めていたんだな」

「だからねぇ、奥方様は買い付けのために、遠く旅にお出かけになられた……そんな感じかな。それに……」

「それに?」

「泣いて惜しむにゃあ、随分と面倒な御人だったからねぇ」

「おいおい、仏さん相手にそんな事、言ってやるなよ。冷てぇなあ」

 おはるの眼差しが、ツと半眼に伏せられた。

 小さな顎をしゃくるように持ち上げて、ふふん、と勝ち気な息を吐く。

「ま、男連中が判る類の苦労じゃなし……あ、旦那様は、違ったけど」

「おはる……」

 自分の言葉に、気づいたのだろう。

 きょとんと甚五郎を見上げていたおはるが、次の刹那、目を瞬かせて苦笑した。

「……おかしいよね。詳しい事が、一切合財明るみに出たっていうのに、未だに旦那様の……邦介様の事が、心のどっかで心配なんだ」

 甚五郎の大きな掌が、おはるの背中をそっと叩いた。

「安心しな。そう言ってるのは、おめぇだけじゃねぇ。ここの御店の奴ら全員、樋池様と俺を前に、同じ事を宣いやがった」

「そっか……皆、そうだったんだ……」

 何も言わぬ代りに、甚五郎の掌が、背中を優しく叩いてくる。

 普段なら、子供扱いするなと断固喚く処だが、今のそれは、とてつもなく暖かく、ありがたく感じられた。

 甚五郎の言いたい事は、大体判っている。

 大人の都合で、子供らしからぬ綱渡りをしているあたしを、心から案じてくれているに違いない。

 まるで初めて出会った時の、旦那様みたいに——おはるは、深く息を吐いた。

 以前に勤めていた御店から、引き抜かれた直後の事。

 まだ色々と慣れぬばかりにしくじった事を、おきんに激しくなじられた事がある。

 その時、巧みに話に割り込み、矛先を逸らして助けてくれたのが、邦介だった。

 その後、銀洲の流儀に慣れてからも、度々、理不尽な叱責を受けた。

 が、その度に、影でそっと謝ったり、気晴らしの小遣いを、弾んだりしてくれる。

 勿論それは、おはる以外の奉公人に対しても同じだった。

 一度、どう考えてもあり得ぬ理由で、手厳しく叱責された手代の一人が、堪えかねて出刃包丁を持ち出した事がある。

 その時も、邦介はその手代の前で、地に両手を付けて詫び、おきんの身の上話を聞かせ、見事に事態を収めてしまった。

 おきんは元々、神経質な性格で、多感な頃に人の薄情を肌身で知ったせいもあり、かなり扱い難い人間だった。

 が、邦介の才を見抜き、風前の灯火だった御店の命を吹き返させた手腕を見るに、商人としては決して無能ではなく、むしろ人を見る目は、誰よりも抜きん出ていたと言ってよかった。

 しかし所詮御店も、人が営むものであり、才覚のみで維持できる程、お固く清いものではない。

 様々な理不尽を繰り返す内、おきんと奉公人達の軋轢は、日を追う毎に強まって、最後は皆、銀洲の主おきんのため、というより、何処の誰でもない、邦介のためにと、益々勤めに精を出す始末となっていった。

 邦介も、そんな奉公人達の心を酌み、以前に増して、手厚い心配りを絶やさない。

 おきんの行動が、性格以前に人格として問題になってからも、邦介は徹底的に、おきんと皆のために尽くした。

 夜も更ける頃、意味も無く叩き起こされ、呼び出された挙句に殴られた手代には、翌朝きちんと頭を下げて詫び、部屋一面に塗りたくられた汚物を片す女中達には、そっと手間賃を弾んでやる。

 夜は眠らず、怒り狂って暴れるおきんをなだめ続け、それでいて客の前では、疲れたそぶりなど、僅かも見せぬ。

 一度、その身を案じた番頭が、おきんを医師に診せるように勧めたが、邦介は涙を流し、断固として反対した。

 が、昼間の商談中に、おきんの奇声が響くようになっては、最早限界。

 銀洲の奉公人達は、渋る邦介を説得し、半ば強引に、おきんの身柄を地下の座敷牢へと閉じ込めた。

 これで邦介も、少しは心身を休められるはず。

 堅固な格子越しに、おきんを見つめる邦介を見ながら、皆が安堵の息を吐いた直後。

 今度は突然、邦介自身が姿を消し、同時に、おきんが御店を担保に、莫大な額の借り入れを行っている事が発覚した。

 相手は、銀洲の取引先の一つで、筑摩ノ国の回船問屋。

 気づいた時には、御店の利権は実質的な価値よりも、五倍の値で流されてしまっていた。

 銀洲は、混乱の極みに陥った。

 ここ数日のおきんに、御店を担保に借入金を作るような正気が残っていない事は、小僧までもが知り抜いている。

 とすれば、可能性は一つだった。

 御店の権利書や証書の類に、皆に黙って触れる事ができる者など、幾人もいない。

 この時、この只一つの可能性を追求していれば、銀洲は、まだ何とかなったかも知れなかった。

 しかし、それは成されなかった。

 成されぬどころか、証書の入っていた文箱は、空のまま、蓋をされて戻された。

 かつて邦介がそうしていたように、絹の袱紗に包み込まれ、恭しく、元の場所へ。

 そうしておけば、邦介が証書を持って帰ってきた際、直ぐに収め戻す事ができる。

 何故、皆に黙ってこんな事をしたのか、理由は後から聞けばいい。

 いや、きっと邦介自ら、話してくれるに違いない。

 何時もの様に、爽やかに。

 日に焼けた浅黒い頬を、ほころばせながら——

 と、突然。

 ふくらはぎに、何かがにょろりと巻き付いて、おはるは芯から跳び上がった。

「うきゃっ!」

「ちょ、う、うわっ!」

 おはるに突然飛びつかれ、慌てた甚五郎は、その足元を見下ろした。

 その眼差しを、碧の糸目が受け止める。

 見事な毛並みを備えた黒猫が、にゃーん、と甘えた声を上げた。

 甚五郎の首根にしがみつくおはるの体が、ぎくりと固まり、慌てた声を挙げる。

「お、親分っ、刻は大丈夫?」

「なにっ?」

「この子、夕刻になると、餌を貰いにくるのよ!」

「む、こりゃいかん!」

 慌てた甚五郎は、おはるを下ろすと、大暖簾を外す引っ掛け棒を手に取った。

 これまた慌てたおはるが、甚五郎の袖を引いてたしなめる。

「ちょ、親分! そんな事より、早く戻って支度しないと!」

「なーに、この程度なら……」

「だめだめ! 樋池様の一番配下が余裕を持たなきゃ、誰が余裕を持つってぇのさ!」

 引っ掛け棒を取り上げられて、甚五郎は、目を瞬かせた。

「おめぇ、今のそれ、俺の女房にそっくりだぞ?」

「そりゃ誠に光栄だけど、今はそんなコト言ってる場合じゃ……」

「お、おう、判った判った……じゃあ最期の戸締まり、確かに頼んだぜ?」

「はいよっ、お任しっ!」

 悪戯な子猿の愛嬌たっぷりに、おはるはにっこり微笑んだ。

 最後に景気良く、おはるの背をどやした甚五郎は、慌てて奥に引っ込んでいく。

 黒猫と供にその背を見送り、ゆっくり三つを数える頃。

 奇麗さっぱりと愛嬌の拭われたおはるの面を、引きつった苦笑が彩った。

「大丈夫かなあ……」

 にゃあ、と短く、猫が応える。

 おはるはふと、黒猫を見下ろした。

 何時も決まった時刻に現れ、残り物をねだっていた黒猫は、この時も、おはるの顔をじっと見上げている。

 おはるは、ぽつりと呟いた。

「ごめんね。もうご飯、あげらんないの。あたしも明日からは、野良になっちゃうんだ」

 長い尾が、ゆらりと揺れる。

 暫しおはるを見上げていた猫は、ツッと踵を返すと、優雅に歩み去っていった。

 烏の声が、遠く風に乗って聞こえくる。

 頬を軽く叩いたおはるは、手早く道具を片づけると、大暖簾を外し始めた。

 砂埃を払い落とし、背が足りないから踏み台と、引っ掛け棒を手に取って、掛け止めの金具を外していく。

 そして丁寧に畳んだ大暖簾を抱き抱えると、重い湿気を切り断つよう、大戸を閉め切り、潜り戸と共に鍵をかけた。

 振り向いた店内には、もう、誰もいない。

 何時もなら、残務でまだまだ騒がしかった刻なのに。

 上がり口に上がったおはるは、踏み台を使って、畳んだ暖簾を神棚に置いた。

 これ以降、この大暖簾が表にはためく事は、もう二度と無い。

 しかしおはるは、かつて邦介がしていたように、柏手を打ち、深々と頭を下げた。

 離別の涙を流すには、色々とあり過ぎた大暖簾。

 けれども商人の端くれとして、如何なる暖簾をも、粗末に扱いたくはなかった。

 庭の方から、鹿鳴が聞こえてくる。

 面を上げたおはるは、手早く踏み台を片付けた。

 そんな気配は少しも見せないが、樋池や甚五郎、そしてその手下達は、既に最後の準備を終え、御店のあちこちで、刻を待っている事だろう。

 今の処は、何とか順調——このまま素直に、全てのけりが着く事を願いながら、おはるは土蔵の方へと向かった。

 抜け殻と化した板張りの上がり口から、最後の人気が去っていく。

 銀洲という御店の、欲塵に翻弄された命運が、つらりと揺れて立ち消えた。




 人がいない。

 薄曇りの夕暮れに、ぽつりと建った裏庭の土蔵は、ただそれだけで、淘汰の悲哀を放っていた。

 遅い昼頃、樋池達ともめにもめた、一階の板間。

 そろそろ閉じられてしかるべき、明かり取りの小窓は、未だに開いたまま、夕映えの色を取り込んでいる。

 群れをなして飛ぶ、烏達の鳴き声が、そこからすぅと吹き込む。

 が、それを聞き取っているべき者——鹿郎の姿は、何処にも見当たらなかった。

 数刻前、樋池とさわの〈内緒話〉が始まると同時に、鹿郎は、土蔵の一階へと降り立った。

 そして程無く、さわと、薬箱を携えた樋池が、黙ったまま、土蔵を出てゆく。

 それを無言で聞き送った鹿郎は、扉が音を立てて閉まると同時に、土蔵の壁や床を叩き始めた。

 一階の周囲を手始めに、二階、三階、その床と四方の壁。

 そして今は、三階部分の壁を、丹念に叩いてまわっている。

 命じられた通りにじっとしていれば、誰かが解放してくれる。

 自分の馘首を阻止するために、誰かが養生院に事情を説明し、取りなしをしてくれる。

 事程左様に人を信じて、じっと動かずにいられる程、恵まれてきた訳ではなかった。

 とにもかくにも、他人の気配が一切ない、その事が味方になる。

 鹿郎はたった一人、一心不乱に叩いてまわった。

 傷に鎧われた固い指で、隙のない様、叩いていく。

 見える者にとっては睡魔を呼ぶ、単調な繰り返しの音。

 しかしその響きは、鹿郎の脳裏に、この土蔵の寸分違わぬ立体を、密に構築していった。

 よじ登ってきた外壁にも負けぬ、分厚い壁と、頑丈な梁。

 窓の類も、造りはとても丁寧で、床板にも軋みは無く、火事や風雨から、荷を守る備えとして、寸分の手抜きもない。

 やがて最後の部分を叩き終え、暫しじっとしていた鹿郎は、ついに大きく立ち上がった。

 これで、土蔵全ての壁や床を、まんべんなく叩き終えた事になる。

 見える者が見ていたならば、想像を絶する奇行と捉えただろう。

 しかしこれで、壁や床に仕掛けの無い事が『聞き通せた』——耳朶をカシカシと掻き毟った鹿郎は、体を大きく引き伸ばすと、そのままごろんと寝転んだ。

 砂が神楽を成す様に、宙を奔る音の一塵一塵が、そこにあるものを撫でてゆく。

 その撫で具合を聞く事で、骸を掴み芯を伺う。

 中々難しいのだが、音塵の様相を聞き分ける——と言えば、きっと間違いないだろう。

 目が見えなくなって程なく、鹿郎は、身ノ内に潜んだこの感覚に気がついた。

 無数の怪我を背負い込みながらも、それらを磨き覚えていく内に、今度は鼻の力に気付く。

 次は肌身にそれを覚え、風に混じった気配の味で、モノの区別がつきだす様になった頃。

 見えずとなった己を哀れむ世間はさておき、見える見えぬの理は、鹿郎にとって、些細なものとなっていた。

「ぴうっ……」

 がらんどうに、響く鹿鳴。

 何度目かの鹿鳴が、健やかなままに吹き抜けていく。

 巨大な商家の土蔵には、階と階の間や、壁と壁の間などに、秘密の隠し部屋のようなものを造る事が、ままあると聞く。

 しかしここの土蔵、地上に建つ部分に関しては、正味の三階建てに違いなかった。

 この蔵はだだっ広いだけで、何も無い。

 本当に、何も無いのだ。

「気に喰わん……」

 わざと声に出して、鹿郎は呟く。

 と、突然。

 一階の方で、重たい鉄擦れの音が響いた。

 ゆっくり身を起こす内に、大扉の閉じる鈍い響きと、トタトタと板を踏む、軽い響きが近寄ってくる。

 程無く、階段口から小さな気配が、ひょいと面を突き出した。

「ありゃ鹿郎、まだいたんだ」

「おはるか」

 お気楽な足音を響かせながら、おはるは鹿郎の側に寄ってゆく。

 黙ったままの鹿郎に、おはるは一人で喋り続けた。

「まさか鹿郎が、樋池様の言う事聞いて、今までじっとしているなんてねぇ。とうの昔に抜け出して、どっかでいらぬちょっかいを出してるんじゃないかって……」

「ちょうどいいや。無駄だろうけど、聞いてみっか」

「……はい?」

 おはるは、目を瞬かせた。

 大窓から入る暮色が影を落とし、鹿郎の面差しが、よく見えない。

 瞼を擦るその向こうで、鹿郎が、小さく首を傾げた。

「今日は一日、ずーっと人を探してる気がするけど……ここの旦那さんは、どこ行ったんだ?」

 おはるの頬から、刹那に笑みが拭われる。

 しかし何とか、声音だけはそのままに、からりと応じてみせた。

「何さ、それって。どういう事だい?」

「どうもこうもねぇよ。言葉通りだ。確か……邦介さん、だったかな? かのお方は、どこに消えちまったんだい?」

「商いに決まってるでしょ? 」

「嘘吐け」

 短く斬り払われて、おはるは声を呑み込んだ。

 立ち上がった鹿郎は、畳の置かれた場所の反対側、板間の隅に、歩み寄る。

 そのままそこにしゃがみ込むと、掌で、床をザッと撫で擦った。

 大窓からの夕映えを受け、乾いた埃が、神楽を舞う。

「実際に御店を仕切っていた奥方さんが、不審な死を遂げた。その後、御上の手下を御店に招き入れ、そいつらのなすがまま、奉公人全てをズブのド素人と入れ替えして、倉の中を空っぽにして、商いしている上っ面だけ整えて、その上で、新しい商いの買い付けに出たってか? 無茶言うなよ」

 鹿郎の舌先が、掌を舐める。

 鋭く唾棄し、両手を派手に打ち鳴らして、鹿郎は、立ち上がった。

「一日二日の埃じゃねぇぞ? 即時決済貸し売り倍算、吝嗇上等の銀洲さんが、こんなになるまで倉ン中を空っぽにして……もしホントに買い付けに出てるなら、一体、どんな商いを始めるつもりだったんだ?」

 ふっと茶々を入れかけて、おはるは慌てて、口を塞いだ。

 今、声を出せば、きっとそこから、色々と読まれてしまう。

 目前の見えずを睨みながら、おはるは必死で、つけ込む機会を読もうとした。

 そんなおはるの躊躇を知ってか知らずか。

 大きく首を巡らせながら、鹿郎は、訥々と言い継ぐ。

「恐らく、これから明日の朝方までに、何か荒事が起きる。まあ、捕物の類だとは思うけど……とにかく、大きな荒事が起こる。しかしそれにしちゃあ、綿密に練られた計画の末の事とは思えない。全てに泥縄の匂いがして、しょうがない。そんな捕物が、本当に巧くいくのかどうか……正直、オレは信じていない」

「…………」

「だから担保をもう一つ、取っとこうと思ってね」

「担保?」

 おはるが、呟く。

 鹿郎は、続けた。

「この荒事が、樋池の目論見通りに運ばなかった場合。恐らくあいつは、詰め腹斬らされちまうだろう。そうなった時に、オレとさわの扱いを説明して保証してくれる、周囲の手下どもより一段上の当事者が必要なんだ。そしてここの奥方さんが死んじまった以上……」

「ち、ちょっと待った!」

 突然、鹿郎の声を遮り、おはるが叫んだ。

 言い淀んだ鹿郎に、一息に詰め寄る。

「御上はともかく、奥方様が死んじまったとか、手下とか……あんた一体、誰に聞いたのさ!」

 滅多に聞けない、おはるの本気の驚愕に、鹿郎はぬたりと微笑んだ。

「決まってるじゃねぇか。さわが教えてくれたんだよ」

「嘘っ! さわ先生が、まさかっ!」

「ふふん」

 絶句のおはるにここぞとばかり、鹿郎は突っかかった。

「口外するなって、念押しでもしたか? 無駄だって、いつも言ってるだろ? あいつは腹に秘密を留めておけるような奴じゃ……」

「悪い事、しちゃったな……」

「えっ?」

 いつもは無縁——というか、目前の人物が何者なのかを疑いたくなる様な、真剣な躊躇いと後悔。

 そんな声音も出せるのかと、からかう事すらためらわれた響きの色に、鹿郎は思わず息を呑んだ。

 そんな鹿郎の様子にも気づかぬものか、今度はおはるが、懺悔の如くに喋り続ける。

「こんな異常事態の中、たった一人で刻を待つのは不安だろうと思って……ほんの幾つか、さわ先生にホントの事を打ち明けたんだけど……返っていけなかったか。黙ってるべきだった!」

「いや、それはそうなんだが」

「うーん、あたしとした事が……只でさえ繊細な方なのに、いらぬ心労をお掛けしちゃったよ……」

 どうやら、本気で言っているようだ。

 一体見えてる奴らは云々——いつもの惑いにくらくらしている鹿郎の袖を、おはるはぎゅっと掴み締めた。

「ねえ鹿郎。悪いけど、後で一緒に謝ってくれる? あたし、本当に悪気は無くて……ただ先生が、不安な思いをしないようにって……」

「その繊細なさわ先生の御為にも、だ! ここの旦那の口上が、必要なんだよっ!」

 掴まれた袖を振り払い、鹿郎は、憤然と立ち上がった。

「お前もよく考えろ、指揮者はあの『犬同心』だぞ! 都合が悪くなれば、降りかかる罰が少ない事を見越して、さわに全責任を引っ被せかねない。そんな事、させてたまるか!」

 目を瞬かせたおはるは、半ば反射で声を上げた。

「あんたこそ、馬鹿じゃないの? その辺の三文同心とはモノが違うんだから、樋池様がそんな事、する訳ないじゃない!」

「判るもんか! 同心なんざ、同じ様な事、言ったりやったりしてる割には、きちんと腹斬った話なんて聞いた事ないし!」

「その辺のゴロならともかく、樋池様は失敗した事無いだもん。当たり前でしょ!」

「……それもそうだ」

 世の同心達が聞いたら、何とするであろうか。

 しかし、忌憚のない怒鳴り合いを続けたせいか、澱みが僅かに緩んだ気がする。

 互いに肩で息をしながら、二人は同時に、冷たい板間に腰を下ろした。

 おはるが、ぽつりと呟く。

「きっと樋池様、今頃、くしゃみされてるわね……」

「いい気味さ」

 ふう、と大きく息を吐き、鹿郎はきっぱりと言い挙げた。

「とにかく、あいつがそれなりだって言うのは、認めよう。でもお前が信用している程に、オレはあの犬同心めを信用していない。お前はオレ達とおんなじ町人の出だろ、ちったぁこっちの事だって考えてくれよ。お前だって、オレと同じ立場だったら、もっとすげぇ事やってたと思うぞ」

「……悔しいけど、言い返せないわね」

「改めて言っとくが、樋池の邪魔をするつもりは、これっぽっちもねぇよ? けど今のままならもう一つか二つ、保険をかけておかなきゃならんのだ。そしてここの奥方さんが死んじまった以上、旦那さん以外に適役はいない。旦那は……邦介さんは、どこに行ったんだ?」

 やっぱり、棺桶に突っ込んどくべきだった——必死に舌打ちを堪えながら、おはるは拳を握り締めた。

 鎖で簀巻きにされていた頃なら、何とでも言えたろう。

 が、この期に及んでしまっては、嘘も理屈も、事態を悪化させるだけかもしれない。

 後もう少しで、樋池達の仕掛けが動き出す時刻。

 なのにここでふらふらと出歩かれ、万が一にも、敵に仕掛けがばれるような事になったら——頭をぶんぶんと打ち振ったおはるは、大きく息を吸い込んだ。

「旦那様は、ここにはいないよ」

 鹿郎の肩が、ぴくりと動く。

「へえ……お前、知ってるのか?」

「さあね。鹿郎は、どう思う?」

「……知らぬは、我が身ばかりなりけり、ってか」

「恨みがましく言わないでよね。どのみち明日の夕方には、鹿郎にも本当の事が……」

「判った、もういい」

 淡々と言い捨てた鹿郎は、再びひょいと立ち上がった。

 踵を返し、階段口目掛けて歩み出す。

「ろ、鹿郎!」

「心配すんなって。樋池達の側には、なるべく近寄らない様にするからさ。あくまで、ここの旦那さんを探し出して、事情を……」

「待って、鹿郎っ!」

 一擲。

 おはるの渾身の諸手突きが、鹿郎の膝裏に襲い掛かった。

 刹那、大きく泳いだ鹿郎の体は、盛大な騒音と共に、階段を奈落落ちに転げ落ちてゆく。

 肉が板撃つ掛け値無しの打撃音と、合間に響く微かな悲鳴に、流石のおはるが硬直した。

 ひしゃげて潰れた鹿郎の側に、慌てて駆け下りてゆく。

「ひっ……ろ、鹿郎っ! しっかりして、大丈夫?」

「こ……この、クソ餓鬼ゃ……」

「ごめん、やり過ぎた……鹿郎ってば、いっつもするーって避けちゃうからさ……」

「オレのせいだとでも言う気かあっ!」

「ち、違う! 今のはあたしが悪かったっ!」

 既に濃紺のみを映す、明かり取りの小窓。

 目端にそれを見留めたおはるは、僅かな逡巡を振り払い、呻く鹿郎に手を差し伸べた。

「判ったよ、鹿郎」

 流石にまだ、混乱しているのだろう。

 差し伸べられたおはるの手に、素直にすがった鹿郎は、面をおはるに振り向けた。

「何がだよっ……」

「あんたの読み通り、確かにあたしは、旦那様の行方を知ってる。あんたの気持も、理解した。でも幾らあんたでも、今更かぎ回った処で、旦那様の行方が判る前に、企み全てが終わっちまうよ?」

「でも……」

「だから代わりに、あたしが知ってるホントの事を、全部話したげる。ちょっと長くなるけど、きっと変に動き回るよりかは、早く助けになるはずさ」

 脂汗が浮かぶ鹿郎の眉間に、一筋の迷いが走った。

 掴んだ! ——素早くそれを認めたおはるは、改心の笑みを噛み締めた。




 鹿郎とおはるが、土蔵の中で、くだくだしく言い合っていた頃。

 母屋の北にある土間の方でも、ちょっとした騒ぎが持ち上がっていた。

「鑑定薬が……使えない?」

 突然さわに呼び出され、板間に正座した樋池が、片膝を着いて身を乗り出した。

 滅多に見られぬ樋池の驚愕だったが、さわにも、それを楽しむ余裕は無い。

 悽愴を通り越し、色を無くした面でうなずいたさわに、樋池はにじりよった。

「ちょっとお待ちください。詳しい事はお話しできませんが、今回用意された鑑定薬は、私共が得た抜け荷の情報に従い、長春先生が自ら調合してくれたものですよ? それが使えないとは、一体……」

「その〈情報〉とやらが、どんなものだったかを知りたい処ですが、ひとまずは……」

 さわは、傍らに置かれた書き付けの束、硝子の小瓶、二つずつを取り上げる。

 言葉を無くしたままの樋池に、先ずは硝子の小瓶一つを渡し、慎重に言い挙げた。

「そちらが、おきんさんの心ノ臓の発作を誘発した薬物……通称〈鰐〉と呼ばれる薬品です。基本的な作用は阿片等と同じですが、主たる成分は、様々な石粉……それを硫黄や重油のように、地面から湧き出た液体に溶かし、調合して作る鎮静剤の一種です」

「石を、溶かす?」

 小瓶を見つめる樋池の眉根に、戸惑いの色が差した。

 さわがうなずき、別の小瓶を取り上げた。

「現在主流の中毒性の高い麻薬は、植物由来です。でもその〈鰐〉の主成分は、石粉や油……長春先生が調合された、この鑑定薬に反応する成分を、含んでいません」

 手にした小瓶を、樋池はゆっくり、板間に置いた。

 その仕草に、ちりちりと金属の音が混じるのは、きっと羽織の下に身につけた、帷子や手甲のせいだろう。

〈準備〉は、確実に進んでいる——さわは、静かに目を伏せた。

 しかしこのままでは、肝心要の部分が抜け落ちたまま、命を懸けた〈大舞台〉に挑まねばならない。

 ぽつりと、樋池が呟いた。

「さわ先生は……何故、ご存知だったのですが?」

「その薬も私も、筑摩ノ国の出だったからです」

 もう一つの書き付けを取り上げたさわは、それをめくり始めた。

 古びてボロボロになった紙面に、様々な男文字や女文字が、びっしりと書き込められている。

「今現在、天下で初めて〈鰐〉の調合に成功したのは、筑摩ノ国となっています。そしてこれは筑摩で医師を勤める兄姉と、交換している手紙なのですが……ここに〈鰐〉の使用に関しての記述がありました」

 開いた紙片を板間に置き、指で指し示す。

「この記述と、私がここでおきんさんに見いだした症状……全て一致しておりました。これからは、私の推測ですが……きっとおきんさんは、随分と長きに渡って〈鰐〉を摂取し続けたものと思われます。そのせいで、五臓六腑を〈鰐〉に喰い荒らされ、あのような死に様を呈した」

 突然、樋池が苦笑した。

 目を瞬かせるさわに、溜息混じりに言い挙げる。

「結局御一人で、死因を探り当ててしまわれましたね」

「長春先生や、樋池様のご助力のおかげです……」

 これは掛け値無しの、本音だった。

 あのままおきんを調べ続けても、この書き付けの内容を思い出せたかどうか。

 いや、きっと思い出せなかった。

 いつも脳裏に響く兄の言葉が、さわに語りかけてくる。

『お前は医者には向いていない』

 患者への愛でなく、知識欲に振り回されて動き、自分絡みの瑣末時にしか全力を尽くせない。

 この時だって、樋池が強引にこの場に引き込んでくれなければ、きっと書き付けの事は、思い出せなかったろう。

 そしてまた、真実を夢見ながら、日々の業務に紛れて忘れてゆく……

 そんな事でいっぱいだった耳朶に、とんでもない声音が響いた。

「判りました、では先生にも、現場に出て頂く」

「へ?」

「ここにはもう、長春先生はいらっしゃらない。信用できない鑑定薬を使う訳にはいかない。なれば実際に触れた事のある、さわ先生の経験を信じましょう」

「でも……」

 まじめな顔で、樋池は言った。

「御聞きします、さわ先生。〈鰐〉の正体と、先生の見立て……これに間違いの可能性は?」

「それはない」

 即座に、さわは言い放った。

 激し過ぎた体温の低下と、肌に浮かんだ赤緑の斑紋群。

 左右の瞳の収膨差は、強い灯りを得ずとも判じられたし、丸坊主に近い頭髪の残り様や、指で圧迫しただけで、脆く抜け崩れた歯爪の様子。

 そして真っ黒に壊死した口内。

 今もまざまざと、思い返せる。

「私は薬学は、苦手にしています。ですが死因が〈鰐〉である事と、長春先生の薬は使えない……その事だけは、確実に判ります」

「では、そのように」

「あ、あの……」

 あっさりと認められた事と、降り掛かってくる突然の責任に、さわは慌てて言い淀んだ。

「どうかなさいましたか?」

「いや、その……今までこういう事を話すと、酷く機嫌を損ねてしまわれるのが、普通でしたから……ちょっと、驚いただけで」

 樋池は笑った。

「話を聞く限り、さわ先生は、充分やって下さいました。いや、そもそも先生が引き受けて下さらなければ、不安定な鑑定薬に頼った隙を突かれ、抜けにを企んだ下手人共に、逃げられてしまう可能性があった。これは思いもかけぬ幸運です」

「恐縮、です……」

「さらに、その不安を隠さず、正直に仰って下さった。これ以上は、現段階では望めません」

「ですが……」

「実はですね。シバも、呼んであるのです。今まではシバも気休めと思っていましたが、今は、先生の手になるコレがある」

 樋池が、〈鰐〉の入った小瓶を持ち上げる。

 さわの目が、瞬いた。

「シバ……ああ、あの子! じゃあ……」

 樋池が、しっかりとうなずいた。

「だから大丈夫。これで二段の構えが取れました、上出来ですよ」

 と、突然。

 樋池が、クシュンとくしゃみをした。

 一髪の間を置いて、二人同時に苦笑する。

「……だ、大丈夫ですか? 樋池様」

「ええ、大丈夫ですとも。どうせあの馬鹿野郎が、私の悪口を言っているに違いありません。失礼」

 懐紙を取り出し、鼻をかむ。

 それを袂に戻した樋池は、居住まいを正した。

「では、改めて。さわ先生のご準備は、よろしいですね?」

「……はいっ」

「この後、我らは一旦、姿を消します。暫くした後、塀の外で、多少の騒動がありましょう。ですがここにいれば、さわ先生に危害が及ぶ心配はございません。騒ぎが鎮まり次第、部下がこちらに参ります。怪我人の処置は、先生の御判断に一任致しますが、それ以外は我らの指示に従い、〈鰐〉発見のための検分を、御願い致します」

「判りました」

 返事をしたさわの声音が、いささか軽くなっていた。

 報告しておいて、よかった。

 心なしか、頬も暖かい。

 樋池は、にこりと微笑んだ。

 改めて、板間に両手を差しつけると、深く深く頭を下げる。

「樋池様……?」

「我らの不手際により生じた数々の無礼を顧みず、御協力下さったさわ先生の御志。誠にかたじけなく、申し訳なく……万が一、〈鰐〉が出なくば、この仕掛けに関わった私は、生き続けてはおれますまい。しかしどんな結果になろうとも、私は後悔も御恨みも致しません」

 さわの身が、ぎしりと固まる。

 俯き加減に頭を上げた樋池は、そのまま颯と立ち上がった。

「我が命。お預け致しますれば……」

 密やかに、しかし凛と響く声を残し、入ってきた時と同じ様に、樋池は退出していく。

 ぱたりと戸障子の閉まる音で、さわは初めて、己の呼吸が止まっていた事に気がついた。

 何故だろう、〈自滅〉の二文字が、脳裏でけたたましい哄笑を挙げている。

 目眩のせいか、揺れる視界に、硝子の小瓶が迫って映る。

 もし、結果が出なかったら。

 いや、それならまだしも、やりようをしくじっていたせいで、間違った判断をしてしまったら?

 おきんさんの、時のように——急に笑い出したくなって、さわは慌てて立ち上がった。

 決して悪意があった訳ではなかろうが、何とも余計な一言を、聞いてしまったものである。

 ふらふらと、土間の水瓶に寄ったさわは、柄杓に汲んだ冷たい水を、一息に呑み下した。




 月白小堀に浮かぶ舟は、何も荷舟ばかりではない。

 日のある内は商い舟が主体だが、日が暮れたこの頃には、色んな素性の屋形舟が、川面をゆらゆらと流れくる。

 しかし星が一つも無い、湿った夜空を嫌ったのか。

 今宵の小堀に、灯火の光は少なげだった。

 深く広やかな闇間に、川のせせらぎと虫達の声が、満ち満ちている。

 と、突然。

 鳴きさざめく虫達の声が、切れ込むように立ち消えた。

 闇間をふらりと掻き分けて、白提灯が現れる。

 その小さな火影は、それを掲げる者と、背後に控える荷車、人足らしい一群の影を、ぼんやり浮かび上がらせた。

 提灯を持つ者は、濃紺の覆面頭巾に同色の単衣。

 ともすれば闇に同化しがちだが、その者は左右に提灯を振り動かすと、慎重に歩を進め始めた。

 草々と地を踏む音が、やがて木板の軋みに変わる。

 どうやらこの近辺は、舟を寄せられるように、できているらしい。

 せせらぎの真中で、濃紺の人影は、微動だにしなくなった。

 しかし、暗い。

 降雨の前兆が加わったせいか、闇はいつもより水臭く、五体を締めあげるような、重みをもって渦巻いている。

 温い風がもっさりと吹き抜け、虫の声音が一つ、凛と響いた時だった。

 本流の真ん中から、ゆらりとはぐれた火影の一つが、こちらに身を寄せてきたのだ。

 舳先の大きな提灯が、川面に光を投げかけている。

 その光の淵に立った人影も、柿渋の覆面頭巾に同色の単衣を付けていた。

 が、よく見ると、羽織袴をきちんと身に着け、腰に二本を差している。

 柿渋の人影が、振り返って何かを叫んだ。

 竿をさばいたものだろう、大きく水面を砕く音を立て、屋形船は、切れ込むように減速した。

「白粉を肴に、酔い覚ましか?」

 柿渋の影が、声を放った。

「それには些か、酔いが足りのうございます」

 濃紺の影が、頭を垂れる。

 それを確かめた柿渋の影が、再び背後に何かを叫んだ。

 舟の戸障子が開かれ、火の入ったがんどうを携えた六つの影が、新たに姿を現す。

 濃紺の影が提灯を掲げると、火影の淵が重なり合い、小振りながらも堅牢な船着き場が、その姿を現した。

 吸い付くように、橋場に横付けされた船から、七つの影が跳び移る。

 それに守られるように、船縁を小走りに来た初老の船頭が、続いて跳び来、手早く舟を舫った。

 濃紺の影が、懐から木札を取り出し、柿渋の影に差し出す。

 それを受け取った柿渋の影は、袂から似たような木札を取り出し、二つをぴたりと噛み合わせた。

「……よし。何時もより早いが、荷を渡そう。人足共をこちらに寄こせ」

 再び、深々と頭を下げた濃紺の影が、踵を返したその時。

「待った!」

 突然の烈声が、その場を震わせた。

 振り向くと、烈声の主——舫綱を握った船頭が、濃紺の影をねめつけている。

「あんた、ちょいと妙な歩き方するじゃねぇか」

 濃紺の影は、応えない。

 頭巾の奥の片眸が、火影を受けて、川面のように揺らめいている。

「何ぃ?」

 柿渋の影の声には応えず、船頭は言い挙げた。

「間違いない。あんたは普段、お腰に二本差していなさるお人だね? 銀洲の青瓢箪どもとは、まるで動きが違いやがる」

 刹那。

 一歩退った濃紺の影から、呼子の響きが迸った。

 闇をつんざく響きに応え、土手の向こう一列に、御用提灯が立ち並ぶ。

 川面に映る灯火も一斉、御用の二文字を照らし出した。

「おお……」

「しまった!」

 浮き足立った七つの影は、それでも橋場の口に集った。

 光を弾く白銀の刃が、無音のまま、真闇の中に翻る。

 濃紺の男が、覆面を毟り取り、まとった単衣を払い落とした。

 松明の炎に染め抜かれ、現れたのは、額金、襷に脚絆姿の樋池。

 銜えた呼子を噴き落とし、流れるように抜いた十手を、七つの影群に突きつける。

「公儀御用の筋である、神妙にせよっ!」

 雷の如き一喝と共に、その背後に控えた人影達も、大八車に隠し積まれた長得物を振りかざした。

 鯨波の声が、橋場の光と闇を押し囲む。

「くそっ!」

「逃がせ!」

 船に移った船頭が棹を掴むや、翻った一影が、舫綱を切り払った。

 舟は荷を乗せたまま、みるみる橋場を離れていく。

「待て!」

 踏み込んだ樋池を狙い、二つの影身が距離を詰めた。

 川面に揺れる光の滑らかさそのままに、銀刃が奔る。

 刹那、鋼と鋼が厳しく噛み合い、樋池の十手に囚われた銀刃が、よじれるような悲鳴を上げた。

「おおっ……」

「ぬうっ!」

 絞るような声と同時に、銀刃が折れ飛ぶ。

 一髪の間もなく、逆手のままに抜かれた樋池の脇差しが、同じく脇差しを抜きかけた柿渋の影目掛け、電光の如く突き込まれた。

 狙い過たず、心ノ臓を一突き——血染めの脇差しを引き抜いた樋池は、大きく面を巡らせた。

 そのさらに右の死角から、もう一つの影が迫る。

 たったあれだけの接触の内に、この影身は、樋池の弱みを見抜いていた。

 覆面の奥の右眼に、火影がほとんど揺れていなかった事。

 それはこの影身が推察した通り、樋池の右目が、ほとんど機能していない事を示している。

 確実を期すため、もう一歩、死角の奥より駆け込みながら、影身は銀刃を構えなおした。

 刺突の構えを取って迫る。

 と、突然。

 雷撃に似た大音声が折り重なり、闇中を跳ねた巨大な肉塊が、影身に手酷くぶち当たった。

 真白な牙が、そのまま銀刃を構える下腕に突き刺さる。

 その重みと顎の力が、みきりと腕に喰い込んだ。

「うわああああっ!」

 思いも寄らぬ、闇中からの奇襲。

 突然の激痛に大きく体制を崩し、よろめきながらも、影身は脇差を抜き撃った。

 しかし肉塊は、それらをするりと避け、跳ねて地に降り立つと、再び大音声で吠えたてる。

「トサ!」

 樋池が叫んだ。

 松明の強い光が届き、子牛程もあろうかと思える巨大な犬を照らし出す。

 それは太やかな四肢に力を漲らせ、主の右の死角を補うように、牙を剥き、唸り声を上げていた。

「お、おのれっ……」

 影身が叫んだ。

 折れかけた腕に握った大刀を、僅かの躊躇もなく捨てると、無事な腕を使い、脇差を構えなおす。

 そこに樋池の十手が、猛然と襲いかかった。

 闇に火花が跳ね散って、鋼同士がギリギリと競り合う。

 犬の吠声を背に、歯を喰い縛った樋池から、切れ切れの問いが漏れた。

「私に討たれて、野たれ死ぬか……それとも武士として、腹を斬るか!」

「片腹痛し!」

 渾身の一手。

 十手ごと樋池をいなした影身が、泳ぐと見えたその横腹を、真っ直ぐに突く。

 しかし、それをすくい上げるよう、樋池の片足が跳ね上がった。

 今時の組み討ちでは、ほぼ見られなくなった、対象真下からの蹴撃。

 骨折の乾いた音が、闇に響いた。

 腕を蹴り砕いた勢いを得て、弧を描いた樋池の脇差が、揺らいだ影身を袈裟がけに斬り降ろす。

 血の飛沫く乾いた音と供に、影身がどぅと倒れ込んだ。

 トサが一息に、樋池の傍に駆け寄る。

 片膝をついた樋池は、腕を伸ばし、その首を掻き抱いた。

「よしよし……よくやってくれたな。ありがとう」

 ふんふんと鼻を鳴らし、犬は、樋池のなすがままになっている。

 返り血の臭いよりも何よりも、主の無事が、嬉しいのかもしれない。

 ちぎれそうなほどに尻尾を振るトサの、首に面を埋めたのも僅か、樋池は素早く立ち上がった。

 小堀に立ち籠めていた重闇は、大量の怒声と光に押し込まれ、今や彼方へと追いやられている。

 その最中、川面の方では、巧く橋場を離れた舟が、待ち受けていた御用舟に囲まれていた。

 何とか追手をまこうと、船頭は、巧みに竿を差し回す。

 沸き立つような水音を従え、するすると動いた船が、行く手を塞ぐ御用舟にぶち当たった。

 派手な水飛沫を上げて、御用舟がひっくり返る。

「あっ……」

 思わず、樋池は声を上げた。

 しかしその一撃で、船は大きく速度を落とし、残った御用舟が舳先を揃え、逃がさじとばかりに並び寄った。

 進路を塞がれ、次第に行き場を無くす舟に、捕方達が幾重にも飛び移る。

 よし! ——と、内心で喝采を叫んだ刹那。

 今度は左手側から、激しい悲鳴が折り重なって響き渡った。

 駆け寄ると、橋場の入り口から逃げた五影が円陣を組み、捕方達を牽制している。

 その足下には、強引に迫ろうとしたのだろう、三人の捕方が、倒れ伏して動かない。

 地を蹴った樋池が、囲みを掻きわけ、五影の前に進み出ると、五影は再び動き出した。

 攻めあぐねた捕方達が、すがるように樋池を見る。

「ひ、樋池様っ……かなりの手練です!」

「樋池様!」

 いつの間にか、右に控えたトサが、敵を理解して唸り声をあげる。

 樋池が、叫んだ。

「捕り縄!」

 その一喝に、すかさず尾を引いて跳びくる捕り縄の雨を、五影が次々と斬り払う。

 空いた脇を狙い、突棒を突き入れた捕方は、柄の中頃を切り割られ、手繰られた挙句、袈裟懸けに斬り払われた。

「お、おのれっ、小癪な……」

「に、逃がすな!」

 囲む捕方達の声に、明らかな怯えが混じり始める。

 樋池は僅かに瞑目すると、捕方達を一喝した。

「退けっ! 囲みを解け!」

「なっ……」

「樋池様! 一体……」

「命のいらぬ者のみ、相手をしてやるがいい」

 一際大きな一影が、ぐつぐつ笑って言い放つ。

「……犬の挙句に、腰抜けか」

 捕方達が色めき立ったが、樋池は、苦笑を浮かべただけだった。

「そこにいるのがお前だけなら、何とか頑張ってみるのですがね」

 一歩踏み出した大きな一影を、別の影が止めた。

 影の憤怒と樋池の苦笑が、闇中に火花を散らす。

 周囲を囲む捕方達が、すがるように樋池を見やる。

「樋池様……」

「怪我人を収容しろ。必ず、構うな!」

 ついに、囲みが解けた。

 目顔で合図を送り合った五影は、そこから闇間に溶け込んでいく。

 樋池の左に控えたトサが、猛然と吠えた。

 後を追おうと、その恐れ知らずの一歩を踏み出した刹那。

「トサ!」

 樋池の叱声と伸ばした指が、骨をも砕く牙を剥きだし、猛る大型犬を差す。

 途端に、トサは樋池の右に舞い戻った。

 樋池は改めて地に膝を付き、トサの頭を力を込めて撫でさすり、五影が消えた闇を指さす。

 樋池がその眼を覗き込むと、トサの眼は、火影を弾いて煌めいていた。

「……よし、行けっ!」

 わふっ、と低く応えたトサが、発止と闇に飛び込んだ。

 茫然と事態を見ていた若い捕方が、ぽつりと呟く。

「凄い……本当に、『犬同心』だったんだ……」

 慄然とした周囲が、一髪の間もおかず、若い捕方をぼこぼこと殴り出した。

 苦笑した樋池が立ち上がると、伝令役の捕方が、息を切らせて駆けつける。

「樋池様!」

「どうした!」

「舟の完全拿捕に成功しました! 船頭は、自ら川に飛び込み行方知れず、只今、捜索をしております」

「船頭の方は、放っておけ。船荷はどうした」

「はっ、甚五郎がシバを使い、片端から改めておりまする」

「よし」

「私達も、船荷の改めに合流する。ご苦労だが、皆、もう少し頑張ってくれ。怪我人は、母屋の方に。さわ先生の応急処置が終わったら、籠を呼んで、長春先生の医庵に運び込むといい。あ、まだ殴っている奴。もう、その辺で勘弁しといてやれよ。『犬同心』、大変結構。私は少しも気にしてはいない」




「はい、最後は肩でーす」

「何だ? そんなトコまで打ちつけてたのか」

 灯火の焦れる音と匂い。

 そしておはるが持ち出してきた、打ち身に良く効く膏薬とやらの冷たい香が、風端にふらりと揺れる。

 おはるの仕業で、階段を転げ落ちた鹿郎は、再び土蔵の三階、座敷牢跡にいた。

 幸い、頭は完璧に守れたし、骨の方にも異常は無い。

〈とっておき〉と言うだけあって、膏薬も、打ち身の熱を確実に吸ってゆく。

 貼られた膏薬を、指で突ついている鹿郎を、おはるは横目にちらり見た。

 ずっと以前の話だが、同じ階段を使い、倉に荷を運び込んでいた人足が、足を踏み外して転げ落ちた事がある。

 まあ、体重や荷物の有無といった条件が違っていたとはいえ、その人足は、肋と脛の骨を折る、大怪我を負ったものだ。

 なのに目前のこの男は、酷い打ち身と痣だけ。

 体幹の方など、尻に一つ、痣を作っただけで済ましている。

 おはるは、溜息と共に、呆れた様に呟いた。

「……まあ、私が言うのもなんだけど。随分と頑丈な男よねぇ、あんたって」

「おうともよ。人の背後で気配を消して、突然首根っこドヤす奴や、騙し討ちで階段から突き落としてくれるような奴が、お友達にいるからな」

「だから悪かったってば。とっておきのお薬出したんだから、勘弁してよ……はい、貼りまーす」

「ふん……んおおっ、冷てぇー……」

 仕上げに布で巻いて、膏薬を固定する。

 おはるが、晴れやかに言い挙げた。

「はいっ、おしまい! 具合はいかが?」

「おう、中々いいぜ。ま、コレはコレで、よしとしてやろう」

「やぁね、偉そうにっ」

 手足を動かし、具合を確かめる鹿郎を見て、おはるは安堵混じりの声を投げた。

 そのまま手早く、薬袋や油紙を片付けてゆく。

 あまり期待はしていなかったが、思ったよりもしっかりした手当に、鹿郎は、満足の息を吐いた。

「で、もう一つ……邦介さんの話だが」

 刹那、陶器の打ち合う鋭い音が、宙を奔る。

 面倒くさそうなおはるの声音が、探る様に応えた。

「何よ、まだ何か隠してると思われてるわけ? 今まで話したので全部だってば。これ以外は何も知らないし、聞いてもいないよ?」

「確かにつじつまは合ってるっぽいがなあ、何かあんまり無茶苦茶過ぎて、現実味が無いんだよなあ」

「あんたみたいに非常識な見えずがいる事に比べりゃ、随分現実的だと思うけど?」

「オレの事ぁ、どーだっていい!」

「ま、確かにまだ、あたし達の知らない事が、どっかに隠れてるかもしれないさ。でもあたしだって、所詮は銀洲の奉公人。本来ならば、六日前に御店の外に追い出されてた立場にいたんだよ? 便宜上、最後に残っただけなんだから、そんなあたしに樋池様が、何もかもを正直に話したって考えるのは、ちょっと無理があるんじゃない?」

「むむむ……」

「とにかく、旦那様の事に関しては、今まで話した事が全てだね。御店の恥をこういう風に漏らすのは、本当は商人として、失格なんだけどさ……」

 ふん、と一つ鼻を鳴らし、鹿郎は、畳に大きく寝転んだ。

 芝居の筋書き屋が好む話で、そういうのがあると聞いた事はある。

 しかしまさか現実に、しかも体験する羽目になるとは、夢にも思っていなかった。

「銀洲乗っ取り、か……」

「そういう言い方は……」

 と言いかけ、おはるはむうっと、口をつぐむ。

「な、何だよ?」

「…………」

「……納得して、いないのか?」

「当然よ」

「当然って……お前今、オレにそう話したじゃないか」

「あたしが言ったのは、旦那様が権利書を持って、失踪しちゃったってだけよ」

「でもその権利書、流されちゃってたんだろ? 奥方さんがまともだったら、取り戻せる様になってたとか、流した金が、奥方さんの治療に使われていた形跡とか……そんなのが、あったのか?」

 明かりに誘われてきたものか、羽音がぶぅん、と横切っていく。

 鹿郎は、首を傾げた。

「……ないんだな?」

「ないともさ」

「じゃあ、なんで……その辺の木っ端役人の調べならともかく、旦那さんが御店の権利書と一緒に、どっか行っちまった事は、樋池が指揮して調べた結果なんだろ?」

「けどやっぱり、旦那様じゃないよ。死んだ仏さんを悪く言うのは何だけど、きっと奥様が、何か企んでいて……」

「でもよ、その頃には、おきんさんは……」

「何か仕掛けがあったのよ。奥様が、旦那さんに罪を被せるため、とかさ……その前に、自分が死んじゃっただけで」

 もそもそと、おはるが呟く。

 鹿郎は起き上がった。

「おいおい、お前らしくないなあ。言ってて自分で、おかしいなあって感じないか?」

「やけに奥様の肩をもつじゃない」

「そうきやがったか」

 子供のくせに、こういう所は、もう女だ。

 と、鹿郎は、ふと思い至った。

 脳裏に、邦介の記憶を探す。

 おはるだけではない、皆がなんとは無しにかばい立てしている、この邦介という男。

 六尺余もある身ノ丈を持つ偉丈夫で、日に焼けた浅黒い頬には爽やかな笑顔、大らかで気持ち優しく——しかしその記憶は、全て誰かの又聞きで、己で得たモノがない。

 鹿郎は首を傾げた。

 思えば、不思議な事だった。

 立場上、直接口をきく事は少なかったが、それでも何度か、声を交わした事がある。

 なのに声音も匂いも、何も浮かび上がってこない。

 そもそも、この邦介という人物。

 おきんの後見として、名を知られた頃から、全く謎の人物だった。

 印象を辿ってみると、何故か人の噂ばかりがその影を彩って、芯の部分が判らない。

 まるで美辞麗句を書き込めた半紙を貼り固めた、人形。

 その芯は、どんなものだったんだろう。

 おはるが薬を片付ける、その響きが聞こえる。

 鹿郎はふと、おはるが語った『邦介が与える健康薬』の声音を思い出した。

 おきんの死因は、『特定薬物を長期に渡って摂取していた』事。

 そんな人間が、御店の権利書と共に失踪した。

 鹿郎の背が、ツと伸びた。

 人の心の隙に付け込み、そいつの大事なものを簒奪するのはよくある筋立てだ。

 しかし、そのつけ込む手段に毒を用い、生かさず殺さず長らえさせた挙句、己に危機が迫れば、弱った体に残されたものを身ぐるみ剥ぎ取り、残りは始末も付けずに逃げる。

 そんな無茶をしてのけた男が、この少女だけでない、この御店に勤めた全ての者の心に、深く根ざして惑わせている。

 日に焼けた浅黒い頬に、爽やかな笑顔を満たして。

 鹿郎は、激しく頭を振り払った。

 よじれるような悪寒に憑かれ、ふらりと立ち上がった、その刹那。

 開け放った大窓の向こう、闇をつんざき飛び込んできた呼子の音が、鹿郎の耳を突き刺した。

 思わず、耳を押さえて倒れ込む。

 耳腔に鉄針を突っ込まれた様な衝撃に、鹿郎はそのまま、畳の上でのたうった。

「っ……! っ……!」

 何も、聞こえない。

 えずき、よじれ、頭を何度も振り払いつつ、窓辺とおぼしき方に向かい、鹿郎は必死に這いずった。

「……ろくろ……くろうっ……!」

 遠く微かに、おはるの声が滲み始める。

 おはるに助けられ、窓辺にすがって身を起こした頃、やっと周りが判り始めた。

「おい……」

「何さ」

「おいっ……」

「何よっ?」

「今のは……呼子か?」

「そうよ。他の何だっていうのよ」

 窓辺からずり落ちる鹿郎を尻目に、おはるは身を乗り出した。

 眼下に広がる、底無しにくすみきった闇の中、無数の光群が沸き上がり、尾を引き、入り乱れている。

 ごうと鳴った風と共に、鋼の打ち合う音が響き、男達の怒声と悲鳴が爆ぜ飛んだ。

「うわ、綺麗ー!」

「お前……何で、捕物は直ぐに始まるって、言わなかった?」

「だって、聞かれなかったもん」

「わざと黙ってたな?」

「だってさぁ。下手に話して、気に喰わない事があったら、鹿郎は直ぐにでもすっとんでって、樋池様に文句を言うでしょ?」

 足下で呻く鹿郎に、おはるが応えた瞬間。

 光を写した川面が乱れ、ごつりと木々の打ち合う音が響き渡った。

 一瞬の悲鳴を、派手な水音が呑み込んでいく。

 おはるは力任せに、鹿郎の襟首を掴み締め、窓枠に引きずり上げた。

「鹿郎鹿郎っ、伸びてる場合じゃないって! ほらっ、舟がひっくり返された!」

「いでで……判った、判ったから、引っ張るな!」

 頭に触れかけたおはるの手を打ち払い、鹿郎は再び、窓辺にすがった。

 耳は大分元通りになりつつあるが、下から突き上げ、沸き上がってくる声は、混沌の具合を増している。

「近いな、随分……塀のすぐ向こう側辺りか」

「あれっ?」

「どうした?」

「ち、ちょっと待って、暗くてよく見えない……ややや?」

「ええい、勿体付けるな、早く言えっ!」

「勿体じゃなくて、あ……光が、光が分かれた! 小さな光が五つ、緑青林へ……」

 鹿郎には判らぬ事だが、おはるの目には、光群をじりじりと離れた光五つが、緑青林に飛び込んでいくのが、はっきりと見えた。

 木々の茂りの影間毎に、光がちらちらと揺れていく。

 おはるの声音が、脳裏の『邦介が与える健康薬』を思い出させ、鹿郎は、舌打ちした。

「樋池の奴、囲みを抜かれたのか……」

「あれれっ? 追いかけない!」

「何ぃ?」

 鹿郎が、怒鳴る。

 しかし、おはるは冷静だった。

「きっと樋池様の作戦だよ。御用提灯が囲みを解いて……橋場の方に向かってる」

「何でそんな事を……」

「多分、舟の方を確実に押さえたいんじゃないかな。抜け荷の品さえ押さえられればって、樋池様、何度も言っていたもの」

「だからって、逃げる奴らを切り捨ててどうする! もし逃げた奴らが、抜け荷を持って逃げていたら……」

「うーん、どうだろう……抜け荷の品によると思うけど」

「そこを聞かなきゃ、意味ないだろう。使えないなぁ」

「あのねえ、鹿郎。能力はともかく、私はこ・ど・も。一体何処まで求める気?」

「都合のいい時だけ、餓鬼面すんじゃねーよっ!」

 むくれたおはるを、軽くいなした鹿郎は、窓枠に手をかけた。

 もし、樋池達の言う抜け荷の中身が薬品の類いなら、荷物に紛れさせなくたって、充分持ち運べる。

 窓枠を掴んだ鹿郎は、精一杯、その上半身を乗り出した。

 鹿郎には判らぬ事だが、その足下では、織り乱れた光群が、川岸の方に集結しつつある。

 と、突然。

 鹿郎の唇から、鹿鳴が響き渡った。

 重厚な夜気に駆け踊った音は、あっと言う間に剣戟の響きに紛れ、怒声と喧噪の合間にもみ消されたように聞こえる。

 が、鹿郎の頬に浮かんだ笑みに、傍らのおはるは胃ノ腑の辺りを、ぎゅうと掴まれたような気がした。

「ろ、鹿郎っ?」

「他に散った光は無いな?」

「うん……けど、何する気?」

「別に。自分の務めを果たすだけさ」

「まさか……」

 尋ねた言葉に応えるよう、にやりと笑った鹿郎は、小さなおはるを見下ろした。

「何時も何度も言ってるじゃねーか。オレの役目は、養生院のつなぎを取って回る事だけじゃない。貴重で優秀な養生院の人材を、荒事から守って遠ざける事も、任されているって。この捕物が失敗したら、参加しちまったさわにまで、咎が及びかねん。それだけは、避けたいからな」

 おはるは、窓の外を見やった。

 緑青林の五つの光群は、忙しく輝滅を繰り返しながら、遠く小さくなっていく。

 一方、川面の一点に集った光は、ゆっくりと、しかし確実に、橋場の方に寄っていた。

 やがて川岸の形に輝く光群に抱き込まれ、一つに溶けて混ざり合う。

 聞こえてくる怒声からは、既に怒気が失せかけていた。

 きっと舟を押さえる事に、成功したに違いない。

 おはるは、宙に面を彷徨わせている鹿郎を見上げた。

「でも、もう遅いよ? どうやら舟は拿捕されちゃったみたいだし、いくらあんたの足が早くても、ここから林に行き着く頃には、きっと皆、逃げきってるさ」

「試してみるか?」

「へ?」

「もし今から、あの緑青林の五つの光に追いつけたら……お前、どうする?」

「どうするって、あり得ないよ」

 即座に否定したが、おはるの胃ノ腑は、再びぎゅうっと縮み上がった。

 突き動かされて、おはるは鹿郎の袖に手を伸べる。

 と、鹿郎の爪先が、畳をひょいと蹴りつけた。

 乾いた響きと共に、鹿郎の身は、窓枠に乗り立っている。

 一揺れした五体が、キリキリとたわんだ。

「鹿郎……?」

「判ってるだろうが……くれぐれも、真似をするなよ?」

 その気安さが、おはるの制止を突き放した。

 爪先が、窓枠を蹴る。

「ひっ……」

 おはるの小さな悲鳴と共に、鹿郎は、三階の大窓から跳ねた。

 光群渦巻く闇中に、鳶茶の背中がすぅと小さくなってゆく。

 と、その体躯が、宙にかくんと静止した。

「う……ろく、ろ……???」

 偶然に横切った大きな光が、鹿郎の足下の、白壁の塀の姿を浮かび上がらせる。

 その突端に立ち上がった鹿郎は、こちらに向かって手を振った。

「緑青林の辺りなら、お前だって、よく知った場所だろう。来たけりゃ用心して来いよ、明かりと階段を使って……ゆっくりとな!」

 膝から力が失せ果てて、おはるは窓枠にしがみついた。

 鹿鳴一閃、再び跳ねた鹿郎の姿が、今度こそ、重闇の中に消えてゆく。

「た、大変だ……」

 窓枠から離れたおはるは、直ちに階段の方に向かった。

 が、暗くて段が見えない。

 慌てて取って返したおはるは、一つ大きく息を吐き、燭台を取り上げた。

 火影を大事に守りながら、急いで階段を駆け下りていく。

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