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闇牡鹿、跳ねる!前編

____________________

GA文庫大賞・投稿Q&Aより________


Q:同人誌で発表した作品を応募しても良いですか? ホームページで公開している作品を応募しても良いですか?


商業誌、あるいは商用ページに掲載された作品でなければ、基本的に問題ないのだゾ!

ぜひぜひ応募してくださいね〜。


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


 ……という事でしたので、応募作『闇牡鹿、跳ねる!』、こちらでも発表してみようと思います。(^^;)

 仕様は【行頭一字空け・空改行無し・句読点『。』で改行】。

【空改行有り・サブタイトル無し】仕様のものは、『ふられぼ喫茶 The lucky13!http://www1.bbiq.jp/furarebo_13/』にて掲載しておりますので、見易い方でご覧頂ければと思います。


★応募作品故、万が一の非常事態の際には、投稿を削除させて頂く可能性があります事、僭越ではありますが、何卒御了承くださいませ。

★★『クリエイター応援サイト for Writer』にこの作品の原型である『闇牡鹿、挑ねる! 錯のあざない』が掲載されております。今はまだ掲載しておりませんが、後々こちらの『闇牡鹿、挑ねる!』も、改訂版として掲載するかもしれません。

 江戸大川の五番支流を南に下ると、やがてその名が苔川に変わる。

 そしてその周囲には、裏葉柳と呼ばれる街が広がっている。

 南町方面への流通の核たる街に相応しく、その風俗は二番堺と称されるほど賑やかで、潤いの絶える事は無かった。

 が、同時に。

 素性の知れない輩が集い、巻き起こす面倒事も、それなりにある。

 裏葉柳とは、そういう油断のならない街でもあった。




 遅い朝、薄雲越しの陽射しの中。

 苔川に架かる水柿橋は、人と物とでごった返していた。

 橋の上ばかりではない。

 川面の方でも、荷舟の群が順を競い、往来を成している。

 人のざわめき、踏み締められる橋板の響き、舟縁を叩く櫓竿の響き——かの鳴響が聞こえてきたのは、そんな中での事だった。

「ぴうっ……!」

 まるで、湿気た山河に響く、鹿鳴。

 それは忙しく行き交う物人の間を吹き抜け、欄干の側で立ち話す、二人の男の耳にも届く。

 その片割れたる小柄な老侍は、思わず周囲を見回した。

「鹿鳴?」

 見た目にそぐわぬ高めの声音に、対した旅装の男は、深く被った編み笠の縁を持ち上げる。

「鹿鳴、ですか……確かに、そうとも聞こえますな」

 何事か、思い出したのだろうか。

 涼し気に応えた男は、日に焼けた、浅黒い頬をほころばせた。

 途端に、それを見留めた人々の眼差しが、すれ違い様、こちらをちらほら見返してくる。

 舌打ちを漏らし、老侍は、面を伏せた。

 旅装の男は、特に人を意識して、笑みを浮かべた訳ではない。

 なのに何故か、この界隈の俗人共は、男の一挙手一投足——いや、顔色一つに飛びついてきて、べったり絡み付こうとする。

 あまり目立ちたくない老侍にとって、男のそんな性質は、厄介以外のなにものでもなかった。

 とばっちりで、こちらの顔を覚えられたりしたら、冗談では済まされない。

 伏せた面の下の、そんな思いを知ってか知らずか、男は訥々と言い継いだ。

「橋の向こうの桑染に、養生院という医院がありまして。そこに雇われている、不思議な小僧が発しているものです」

「小僧?」

「この地に馴染みのない秋津様は、ご存知あるまいが……」

 何処かで、喧嘩でも始まったのか。

 遠くに聞こえる怒声と嬌声を聞き流しつつ、男は僅かに首を傾げた。

「この裏葉柳では、結構知れた小僧でして。医師の侍従や使いっ走りをしているらしく、私も御店で、幾度か言葉を交わした事がありました」

「ほほう」

「……そういえば、少し前。ついに御店の誰ぞが、養生院に足を運んだとか。ひょっとしたらそれ絡みで、出向いてきたのかもしれません」

「……うぬは未だ、銀洲とつながっているのかえ?」

 秋津と呼ばれた老侍は、男を仰ぎ見た。

 その身の丈では、誰と話をしていても、自然とそうなってしまいがちだが、六尺余もある身ノ丈が相手だと、正しく仰ぎ見る形になってしまう。

 男は、苦笑を浮かべた。

「いやいや、単なる風聞にございます。あの御店、今はもう……」

 と、言いかけて、そのままふつりと声を切る。

 今、男の懐には、三つの大事が収まっていた。

 一つは、今までの仕事全てを清算して得た、莫大な富。

 そしてもう一つ、目前の秋津達を〈使って〉得た、これまた膨大な富。

 そして最後に、これはちょっとした博打だったが、目前の秋津達を〈売って〉得た、御上直筆の交通手形。

 この極秘に得た三つ目の大事に免じて、最後に知った事くらいは、話してやってもいいかもしれぬ——

「あの御店に……何かあったのかえ?」

 秋津の声に、男の呼吸が、僅かに詰まった。

 慌てて焦点を呼び戻すと、鉄針の如き秋津の眼差しが、自分を凝っと見据えている。

 男の総身が、一髪の間に粟立った。

「いやいや」

 沸き上がる怖気を、強いてなだめつけた男は、再び苦笑を浮かべてみせる。

 人が絵空事だ、馬鹿を言うなと笑って断じる微かな可能性を、事実と捉えて厳密に計算できる——その働きが、身ノ内でこう囁いた。

 この老侍共が、御上に売られた事を悟る頃には、きっと全てが終わっていよう。

 とはいえ、誰か一人でも御上の網をかいくぐり、生き残ってしまった際は、相当面倒な事になる。

 所詮は世間知らずの田舎侍、しかし単純に侮るには、その牙はあまりに鋭い——

「どけ! どけどけぃっ!」

 橋の向こう側から、警邏の下っ端達が、喚きながら走りきた。

 途切れる事のないざわめきと、小さな悲鳴を掻き分けながら、瞬く間に駆け去っていく。

 男はそれを見送りながら、笑みを絶やさず言い挙げた。

「先も言いましたが、単なる風聞を聞いたまでで。まあ仮にあの小僧が、御店に用があってきたとしても、此度の件には、些かの影響もありますまい」

「だとよいが……」

「これはこれは、筑摩武者の総代とは思えぬ御言葉……」

 男が突然、子供の様に笑いだした。

 からからと笑う男を睨みつつも、秋津は再び、舌打ちを漏らす。

 立国の基礎を成す人心の堕落によって、江戸の勢いを削ぎ落とすと同時に、筑摩ノ国の歳費を裏から補強する——この目的で始められた、秘薬〈鰐〉の密売。

 主君の密命を直々に受け、大江戸南方面への販売網を探る中、自ら名乗り出てきたこの男を仲介して始められた計画は、ついこの間まで、順調に機能していた。

 しかし、先日。

 あれだけ慎重に進めていた計画が、どういう訳か、御上の知る処となった。

 こちらの気付きが一足早かったのが救いだが、お陰で男は長年勤め、自らに合うよう作り替えてきた大店を捨てる羽目に陥り、自分達も、今回の取引を最後として、祖国に引き揚げねばならない。

 そんな意図はないと判ってはいるが、総代として筑摩側の全てを仕切ってきた秋津には、その高笑いが、自分を嘲笑う声に聞こえた。

「まあ、いつも慎重な秋津様らしいといえば、そう思えぬ事もない」

 流石に気が引けたのか、男はくく、と笑い納め、小さく咳払う。

「この街の輩は、信用できぬでな」

 ゆっくりと目を閉じて、秋津はぼそりと呟いた。

「どいつもこいつも、己の事しか考えておらぬからの。己の都合の良いように、話の一部を隠してみたり、尾ひれを付けたり、筋をこっそり組み替えてみたり……」

「何の、それは裏葉柳に限った事ではありますまい。筑摩ノ国とて、人が増えて豊かになれば、いずれこうなって参りましょう」

「そしてうぬのような我欲の権化を、人望厚き旦那様、と崇め奉るようになるのかえ? 長生きは、するものではないのぉ」

 皮肉が嗅ぎ取れなかった訳ではあるまい。

 しかし男は、一際優しく微笑むと、秋津を見下ろし、ゆっくりと頭を下げた。

「では秋津様、私はこれにて……秋津様方の御尽力は、終生忘れませぬ。再び筑摩で相見えるまで、是非ともお健やかに」

「今宵の取引に、抜かりはなかろうな。万が一にも、殿の御威光に傷が付こうものなら、地の果てまで追いつめて、そっ首たたき落としてくれようぞ?」

「ご安心くださいまし。私が唯一信頼する者が、急ぎの正規医薬品として、手配を引き継いでおりまする」

「うむ。ひとまず今は、それが何よりの大事」

 秋津は一つ、咳払った。

「色々申したが、邦介。うぬがおらねば、事は今少し、難しくなっていたであろう。我が殿に代わって礼を言う……大儀、御苦労」

「恐れ入りましてございます。では」

 再び、鹿鳴が響く。

 それが当然の事なのか、物人の流れは、たゆたう気配すら見せない。

 踵を返した旅装の男——邦介は、その流れにするりと没し、二つも瞬きをした時には、何処にも見えなくなっていた。

 人々のざわめきは、途切れる事を知らない。

 雨気混じりの温風に吹かれ、秋津はやっと、肩の力を抜いた。

 ずいぶんと長い間、立ち尽くしていたような気がする。

 認め難い事だが、あの邦介のせいに違いなかった。

 御上というものは、愚かだが、決して馬鹿ではない。

 だから、事が御上に知れたと判った時からつい先程まで、秋津は邦介を始末しようと、常にその機を伺っていた。

 しかし、できなかった。

 今この時勢に、一人百斬を必修とする筑摩武者の総代たる自分より、邦介の方が、武技に長けていた訳ではない。

 それだけは、断言できる。

 が、その技を繰り出す機会を、丁寧に削ぎ落としていく事で、あの男はまんまと逃げ仰せてしまったのだ。

 実に腹立たしい事ではあるが、認めぬ訳にはいかなかった。

 あの男なら、途中の関所も巧くすり抜け、筑摩に辿り着けるだろう。

 筑摩の領域に入ってしまえば、我が筑摩藩主の御威光が、御上から邦介を守る。

 後は今日の取引を無事に成し遂げ、筑摩に引き揚げてから、ゆっくりと始末の機会を伺えばよい——秋津は、欄干を離れた。

 騒ぎ駆ける子供達を避け、ゆらゆらと行く見世屋台に道を譲る。

 割を行き交う若衆は皆、首に色とりどりの薄布を巻き付け、娘達は押し並べて、白く点々と光る髪を、これ見よがしに結い上げている。

 今は慣れたが、主君の密命を帯び、この地に初めて赴いた時は、肝がつぶれるかと思った。

 この地の若衆は、皆して風邪を引き、娘はしらみが光って見えるまで、髪を洗わぬものなのか、と。

 幸い恥をかく前に、邦介から、身を飾る小技の一つと説明してもらい、納得する事はできた。

 しかし何が嬉しくて、髪に白砂を混ぜてまで、光らせなければならぬのか。

 それは今もって判らない。

 やれやれ、やれやれ——この時ばかりは見た目そのまま、小舅の心持ちで歩く秋津の背後から、荷車の音が聞こえてきた。

「はい、ごめんよごめんよっ!」

 景気良さ気な怒鳴り声と、走り去った荷車の轍を、人の群が埋め戻す。

 と、三度、あの鹿鳴が響いた。

「ぴうっ……!」

 随分と、近い。

『橋の向こうの桑染に、養生院という医院がありまして。そこに雇われている、不思議な小僧が発しているものです——』

 ふと思い出された邦介の言葉に、秋津は周囲を仰ぎ見た。

 混ぜ返された人々の声音を突き上げるように、舟具の打ち合う鈍い音が、足下に響く。

 と、突然。

 履いていた草履を鳴らし、秋津は鋭く振り返った。

「そこの小僧、待て」

 甲高いが、控え目だった秋津の制止は、雑踏に紛れ、大きくは響かない。

 しかし、只一人。

 少年が、踏み出しかけていた足を止めた。

 小首を傾げると、秋津の方に向き直る。

「お声に覚えがないのですが……旦那、どちら様で?」

 見目にそぐわぬ、落ち着いた受け応え。

 まだ十代の初めだろうか、小柄な五体を、鳶茶の筒袖、木綿の股引きに包み、素足にわら草履を履いている。

 髷の無い総髪頭を、鳶茶の薄布でしっかりと覆っている以外に、取り立てて代わった処はない。

 しかし、秋津の眼差しは唯一点、その少年のつら面だけに注がれていた。

 そう、それを最初に見た時は、よくできた冗談だと思った。

 流石は裏葉柳、芸人の類まで、隙の無い真似をする——などと。

 しかし、少年の閉じられた双眸は、今ここに至っても、ぴくりとも動かない。

 果たして、いつから目を閉じていた?

 目を閉じたまま、ここまで歩いて来たのか?

 頼る人も、杖も持たず、徒手のままで?

 そしてこの人ごみの中、何故自分が呼ばれたと、正しく判じる事ができた?

 一体、どのようにして——そんな秋津の思惟の尻尾を掴むように、少年は再び、口を開いた。

「旦那?」

 応える様に、秋津の手が動いた。

 袂を探り、取り出した小銭を指に挟むと、軽くたわめて弾き飛ばす。

 その気で弾けば、燭台の炎を叩き消し、戸板を穿つ事もできたが、銭は突っ立ったままの少年の胸を、パタリと叩いて落ちただけだった。

「ん?」

 呟いた少年は、ここで初めて、胸——銭の中った辺りを、目を閉じたままで探り始める。

 秋津の喉が、感嘆を呑み下した。

 その目が生きているのなら、流石にもう、開かれているだろう。

 そしてこの奇妙な間合いを見回して、何する気かと問い掛ける。

 見た目に反して好戦的な性格なら、殴り掛かってきてもいいのだ。

 最早、間違いない。

 こやつは本当に、目が使えないのだ。

 と、突然。

 少年の面に、苦笑がふっと浮かび上がった。

「旦那……オレに何か、御用でも?」

 釣られて苦笑を浮かべた秋津は、問いに応えようとして——しかしそのまま、ぎくりと震えた。

 少年はただ、苦笑を浮かべて立っている。

 誰もが、そう見るだろう。

 なのに秋津の左の手指は、いつの間にか、腰の小太刀に添っていた。

 そんな意志など全く無いのに、今にも刃を切り放とうと、体がするする動いていく。

 そうなって初めて、秋津はこの少年から、あの感触を嗅ぎあてた。

 覚悟の抜刀を果たした武者の、相手の肝を突ん抜く眼差し。

 そして闘理を忘れた果てにたゆたう、無想の暴虐。

 しかし何故そんなものが、こんな見えずの少年から?

 橋がぐらりと揺れた気がして、秋津は慌てて、両の足を踏ん張った。

 そして渾身の力をもって、念じる。

 見えずの子供相手に負けるなど、髪一筋も思わない。

 しかし今は、戦ってよい時ではない!

「用がないなら、行きますよ?」

 声音が、秋津の肢体を突ん抜けた。

 そしてこの時初めて、二人の周りで、物人の流れが澱んでいる事に気づく。

 一騒動への好奇と期待が、細波のように押し寄せて、秋津は些か狼狽えた。

 町人如きの囲みなど、破って逃げるに僅かな苦労も無い。

 しかし後の大事を思えば、ここで目立つような真似は、極力控えておきたかった。

 小太刀に添った左手を、右手で強く制する。

 そして辛うじて、声を絞った。

「不躾ながら、尋ねる。おぬし、その目は……」

「見えませんよ。もうちょっと子供の時分に、大怪我しましてね」

 きっと何時も、聞かれる事なのだろう。

 古傷だらけの太い指が、薄布越しの額を突ついた。

 その仕草に促されて、秋津は言い継いだ。

「あ、足をくじいて、動けなくての。今、誤って飛ばしてしまった銭を、拾ってもらおうと思ったのじゃが……」

「ああ、そいつは難儀な事で。御無礼を致しました」

 我ながら、苦しい——と思ったが、少年はそれで、納得できたらしい。

 その唇から、見事な鹿鳴が迸った。

「おお……」

 秋津と、周囲を取り巻く群衆から、どよめきが漏れる。

 少年はそのまま欄干の根元に歩むと、そこに転がっていた銭を取り上げた。

「はい、どうぞ」

 秋津の立ち位置や、銭の位置をどうやって知ったかは、判らない。

 しかし少年は、拾った銭を秋津目掛けて真っ直ぐ差し出して微笑む。

 小銭を受け取った秋津は、溜息混じりに言い挙げた。

「助かった……かたじけない」

 呼ばれたような温い風が、物人の合間を吹き抜けた。

 ざわめきが甦り、熱く沸いた好奇と期待が、人垣と共に解け崩れていく。

 少年は、何度目かの苦笑を浮かべ、首を傾げた。

「旦那、筑摩の方ですね? 足の具合は如何ですか? 知り合いに、医師がいますが……」

「いや、少々休めば……そ、それより何故、拙者を筑摩者と?」

「ほんの少しですが、御言葉に筑摩の訛が少々……いや、オレの働く場所にですね、筑摩の出がいて……だから、判ったんですけど」

「普段は……いや、仕事は何を?」

「桑染にある養生院の、しがない使いっ走りで。この界隈に散らばる医師仲間の、つなぎを取って回ったり、お供をしたりしてますが」

 遙かな未来にあってこそ、連絡のやり取りは簡単な事だが、今はそれにも人手がいる。

 無論、生業とするには端事だが、それでも只の見えずの者が、徒手でやれる事ではない。

 少年が、呟いた。

「あの……」

「あ、いや、すまぬが後一つ」

「はあ」

「おぬし、名は?」

「名……ですか。名は、鹿郎といいますが」

「……判った。かたじけない……」

 大きな舟でも通ったものか、足下の流れと泡立ちが、渦を巻いて音を散らす。

 秋津の答えに刹那、眉を寄せた少年——鹿郎は、それでも小さく、頭を下げた。

 そして違える事無く、裏葉柳の方に向かい、物人の流れに紛れていく。

 一人残った秋津の耳に、また、あの鹿鳴がたゆたった。




 水柿橋の終わりには、火避け場と呼ばれる更地が広がっている。

 大火の飛び火を防いだり、災害時の避難場所にもなる広場だが、今のような平時には、大小の見世屋台が、所狭しと並ぶのだ。

「冷たい水は、如何かね……」

「押し込みだ、うつぶし明神下で、押し込みがあったよお……」

「美味しい練り飴、いらんかえ……」

 賑々しい商い声に迎えられ、橋一筋に集った人気が、四方にほぐれて散っていく。

 そのざわめきの真ん中で、立ち止まった鹿郎は、今来たばかりの橋の方を振り返った。

 さっきの爺は、一体何だったんだろう?

 こっちを見えずと侮った物盗りにしては、後を尾けてくる気配もないし、単なるからかいにしては、何だか妙に真剣だった。

 銭を落としたとか言っていけど、それにしては随分と——と、小首を傾げた時だった。

「だーんなーっ!」

 喜色一杯の甲高い声音が、鹿郎の耳朶をつんざいた。

 嫌な予感と覚悟より早く、背後から首元に、小さいけれども重たい何かが、どんとぶつかり、しがみつく。

 頭は何とか庇ったが、もんどりうって転がり倒れた鹿郎を、周囲を行き交う人々のどよめきが受け止めた。

「あいたたた……お、お前、おはるか! おはるだな!」

「離さないっ。もう絶対に、離しませんからねええええ!」

「ぬああああ、離せ離せはーなーせーっ!」

 薄っ黄色い砂神楽の中から響く、暢気な嬌声と必死の絶叫。

 心配そうに取り巻いていた人々は、首を傾げ、互いに顔を見合わせ始めた。

「はぁーなぁーれぇーろおおおおっ!」

「いぃーやぁーでぇーすううううっ!」

 ようやく、砂神楽が鎮まり始めた。

 その中から、鳥肌塗れの鹿郎と、その首根っこにしがみついた子猿——ではない、少女の姿が現れる。

 固唾をのんでいた取り巻きが、一斉に吹き出し、呆れ、笑い始めた。

「何じゃそりゃっ!」

「痴話喧嘩……?」

「物好き……」

 好き放題のつぶやきを残し、集った倍の早さで、人垣が解ける。

 にやりと笑った少女・おはるは、ここぞとばかりに鹿郎の首にしがみつき、ねっとりと頬ずりした。

「んもう、鹿の旦那ってば、ほんにお久しぶりだことっ! 用事がなけりゃ、何時まで経っても音沙汰無しなんだから……うん、憎いひ、とっ」

「ぬあーっ!」

 跳ね立った鹿郎は、おはるの体を力の限りに引き剥がした。

「おはるっ! いきなり飛びつくのは危ないから止めろって、何度も何度も何度も言ってるだろっ! 普通に名前を呼べば……」

「立ち止まってくれたとでも? 嫌だわ、旦那の大嘘吐きっ」

「その話し方も、百年早い!」

「しょうがないわねぇ、それじゃあ……」

 と、おはるは一つ、咳払った。

 くりくりとした愛らしさが、潮のように退いていく。

 入れ代わりに浮かび上がった女猫の目色で、おはるは鹿郎をねめ上げた。

「鹿郎こそ、ここに何をしにきたのさ。あたしに構って欲しかったの?」

「何でそうなる。仕事だ仕事っ!」

「だったら、あたしと同じだね。あたしは掛け売りの集金帰りっ」

「お前こそ、嘘吐くなっ! なんでお前みたいな子供が、集金なんか任されるんだよ。手代さんや番頭さんが……」

「あ、ソレ無理。昨日の夜、急に大型商談が飛び込んできてさ。皆、その準備に大忙しなのよ」

「だからって、お前みたいな子供に……」

「でしょでしょ? そう思うでしょ?」

 飛びつかんばかりに詰め寄られ、鹿郎は思わず仰け反ってしまう。

 くるりと華麗に踵を返し、肩をすくめたおはるは、溜息混じりに言い募った。

「全く、こんだけ働けるっていうのに、扱いはその辺の大人と大して変わんないんだから、嫌んなっちゃう。あたしも早く大人になって、その辺のが米粒に見えるような、おっきな御店を仕切ってみたいわー」

 止めとばかりに、高笑いが、からからと響く。

 さっきの意味不明な爺といい、今日は仏滅だったっけ? ——溜息と共に、鹿郎はがっくりとひざまずいた。

 このおはるの変わり様、要は〈猫っ被りの掌返し〉という奴だが、よほど親しい仲間以外に、こういう態度を取る事は無い。

 運悪く、目撃してしまった大抵の大人は、ここら辺で己の目を擦り、耳を疑う。

 しかし、今は裏葉柳でも屈指の大店・銀洲を仕切る夫婦から、『欠点は、子供である事のみ』と言わしめた少女の、これが偽り無い本性なのだ。

 鹿郎は、空を仰いだ。

 ようやく落ち着いた耳鼻に、雑踏の響香が甦ってくる。

 頭を軽く振り払うと、したり顔で喋り続けるおはるを押し退け、立ち上がって膝を払った。

 砂に汚れた袖も払う。

 すかさず、おはるが手を出してきたが、今度はひょいと避けきった。

「なんで避けるのよぅ。砂を払ってあげようと思ったのに」

「いらねぇよ。自分でできる」

「……やっぱり鹿郎ってさぁ、ちゃーんと見えてるでしょ。見えないフリしてるだけなんじゃない? 違う?」

「あっちに行けっ!」

「そうはいかない。倒れた見えずを放っといたとあっちゃあ、このあたしの名が廃るのよ」

「誰のせいで倒れたと……」

「ほらほらっ、見えてないから判んないでしょ。こことかこことか、砂塗れですよっ」

 小さな掌が、腰や膝をぱたぱたと叩く。

 それを無視して、鹿郎は歩き始めた。

 当たり前のように、おはるの足音がついてくる。

 走って逃げてもいいのだが、それも妙に悔しい気がして、鹿郎は少しだけ、足を速めた。

「ちょいと、あたしより大人のくせして、簡単にすねないでよっ。あたしに逢いにきたんじゃないなら、一体何しにきたってーのさっ」

「さっきも言ったろ、仕事だって。お前なんかに、構ってる暇はねぇよ」

「つまんないわねぇ……で、何を何処に持ってくの? それとも、単なるお使い?」

「人探しだよ」

「人探し?」

 踵を返した鹿郎は、おはるの方に向き直った。

「五日程前、銀洲からうちに、今吉って手代さんがきたんだ」

「今吉っつぁんが、養生院に?」

「ああ。どうしたのか聞いたんだが、医師以外には他言できないって、言い張ってね」

 空から降り掛かる小鳥同士のさざめきと、野菜売りの群れが、往来に立つ二人の側を行き過ぎる。

 鹿郎は、小首を傾げた。

「たまたま手の空いていた、さわが応じたんだけど……そのまま往診に出ていって、それっきりなんだよ」

「さわ先生が?」

 おはるの声から、愉色が消えた。

 数年前、筑摩ノ国の医師一家から、養女として養生院にきた女医師、さわ。

 流行の紅より新薬の匙加減を、常に気にしているような処がある。

 そんな性格と嗜好のせいだろうか、正直、医師としてはどうかと思われる処が多い割に、腕はまあまあ使える感じで、おはるはもとより、裏葉柳の人達からも大層慕われ、尊敬されていた。

 流石のおはるといえど、少々真面目に返るのも、無理は無い。

 が、しかし。

 そのおはるの真剣な声音は、鹿郎の耳朶に引っ掛かった。

 正体こそ不明だが、嫌なうず気が鎌首をもたげ、ちりちりと背筋を炙る。

 こういう時に油断すると、ろくな事にならない——経験則上、それを知っていた鹿郎は、増してゆっくり口を開いた。

「お前も知ってるだろ、養生院に勤める者は誰であれ、予定以上に医院を空ける時は、必ずつなぎを寄越さなきゃならないって取り決めがある。けどさわの奴、今朝になっても音沙汰一つ無くってね。だから様子を見に、銀洲に行く途中だったんだ」

「あの真面目なさわ先生が、決まり事を無視して失踪? まさか!」

「真面目っていうより、小心なだけって気がするが……まあでも実際、いなくなっちまったんだからな」

「五日前、五日前……そう言えば今吉っつぁん、確かに姿が見えなかったな」

「何だ? お前、さわを見てないのか?」

「うん。でも裏口から隠し部屋に通されたら、流石にあたしも判んないし……あ、ひょっとしたら!」

「ん?」

「二人で駆け落ちしたとか! 先生美人だし、今吉っつあんが強引に迫ったりしちゃったりして、断り切れずに……」

 音を立てて、鹿郎の踵が返る。

 無言で歩き出した鹿郎の袖に、おはるは慌てて縋り付いた。

 それを無視して引きずり、鹿郎は進む。

 すれ違った幾人かが、苦笑と共に見返りをうつが、それでもおはるは、逃がさじとばかりに喋り続けた。

「ちょっとちょっと、待ってよ、鹿郎っ! 冗談、冗談だってば! やだもう、これしきの事で、怒んないでよう!」

「怒ってないっ。怒ってないから、オレの邪魔をするなっ!」

「いやぁん、嘘吐きっ。怒ってるじゃない……ねえってばぁ、その用件って、どーしても今、調べなきゃ駄目なのお?」

「当たり前だろっ! そうでなきゃ、わざわざ裏葉柳くんだりまで……」

 と、袖にぶら下がっていたおはるの体が、ひょいとばかりに、鹿郎の行く手を遮った。

 つんのめりかけた鹿郎が、寸での処で踏み留まる。

 覆い被さらんばかりに、鹿郎はおはるに詰め寄った。

「おはる……そういう真似も止めろって、いつも言ってるだろ。蹴っ飛ばすぞ!」

「まあまあ、そう邪見にせず、ちょっと考えてみなって。もし今、鹿郎一人で御店に出向いたって、きっとだーれも、話なんか聞いちゃくれないよ?」

「何でだよっ。こっちは養生院の、正式な使いで行くんだぞっ」

「ふっ、人の話は、きちんと聞いた方がいいわねっ」

「何だとう!」

「さっき言ったじゃない。大型の飛び込み商談が入ったって」

 僅かに、鹿郎は声を呑む。

 ここぞとばかりに、おはるは滔々と喋り始めた。

「あたしの見たとこ、あの商談、きっとこっちの言い値で急場手当を弾むわよ? それに比べりゃ、例え養生院からの正式な使いだとしても、話を聞くのは明日の夜遅く……いや、もうちょっと、掛かるかな?」

 そうだった——派手な舌打ちで応えた鹿郎は、苛々と歯噛みした。

 主に船荷を扱う大店・銀洲の主であるおきんは、無駄や損を何より嫌い抜いている。

 それらの中には、一見無駄に見えるが、長い目で見れば、決してそうとは言い切れないものまで含まれており、御布施や寄進の類まで、全て物乞いと同じにくくってしまう。

 そんな主の元で働き続ける訳だから、御店の奉公人達も、即時利益にならぬものには、相当厳しい態度を取った。

 店頭に置かれた荷数を忘れぬ様、呟き歩いて戻った手代が、給金をさっ引かれたとか、契約通りの日付に着いた荷物に難癖をつけ、更なる運賃割引を請求したとか。

 そんな武勇伝?を数多く持つ奴輩が、巨大な利潤を釣り上げようと躍起になる中、今は一銭の得にもならない人探しの話をせねばならない。

 只でさえ、見えずの、しかも子供という事で扱いが悪いのに、一体どんな仕打ちが待ってる事やら——鹿郎は、頭を抱え込んだ。

「ねえねえっ、鹿郎?」

 探るようなおはるの声が、耳に滑り込んできた。

 つくつくと引っ張られる袖口を振り払い、鹿郎は、苛立ち紛れに言い放った。

「……何だよっ、もうっ!」

「さっきも聞いたけど。その調べってさ、明日まで待てないの?」

「このまま手ぶらで、養生院に戻れってか? 院長先生に、何て言えばいいんだよっ」

「それもそっか。じゃあ……」

 と、おはるの指が、鹿郎の袖を掴み締める。

 鹿郎は身を固くしたが、おはるは淡々と言い継いだ。

「悪い事言わないからさあ。あたしに協力させてくんない? あたし、あんたを御店まで連れてって、直ぐに今吉っつぁんと話ができる様に、口利きしてあげる」

「はあ?」

「色々とからかったけどさ。よく考えたら、あんたをこのまま養生院に帰しちまったら、さわ先生自身も、後で院長先生から怒られるんでしょ?」

「そりゃあ、そうなるだろうな。何か理由でも無い限り……」

「院長先生も、随分としっかりした方だからねえ。うちの奥様程じゃないけど」

「むぅ」

 今の一言を院長が聞いたら、何て言うだろう?

 ちらりとそんな事を考えながらも、鹿郎は呻いた。

 確かに、今までの話からしたら、この子猿を連れていった方が、話は格段に早く進む。

 しかし、しかし——掴まれた袖を振り払った鹿郎は、おはるの肩を掴み直した。

 おお? と目を瞬かせるおはるに呟く。

「お前……何か企んでないか?」

「企む? 何を?」

「何をって……」

「あたし、あんた自身がどーなろうが、ちっとも何とも思わないけど、さわ先生に不都合があるのは嫌なのよ。ただでさえ繊細な方なんだから、面倒事とは極力、距離を置いて欲しいし」

「繊細ねえ……」

「何よ、嫌な言い方して。とにかくあんたのためじゃなくて、さわ先生のために、口利きしてあげるのよ。どう? これで納得できた?」

 おはるはふふん、と鼻で笑う。

 明らかに、こちらの迷いを見透かされた形だが、しかしそれは今は、どうでもよい事だった。

 話のつじつまは合っているし、この状態では願ったり叶ったり、といってもいい。

 なのに何故オレは、こんなに承諾をためらっているんだろうか?

 苦悩する鹿郎を慰める様、温い風が吹き過ぎる。

 それに混じる強い雨気は、おはるの肌にも、降雨の予感を覚えさせた。

「あ……こりゃあ、夜は雨かな?」

 何気なく、おはるは呟く。

 しかし鹿郎は、その風端に別のモノを聞きつけて、少なからずうろたえた。

 風端に混じっていたもの。

 それは、群をなして鳴く、烏の声。

 今はまだ、遠くに響いた程度だったが、刻は確実に、日没に向かって進んでいる。

 鹿郎は、面を上げた。

「……おいっ、おはる」

「はいよ」

「判ったよ。お前、オレを銀洲まで連れて行け。口利きも、してくれるんだな?」

「……どーいう風の吹き回し?」

「刻が惜しい。お前の言う通り、早くさわを探し出さないと、色々と面倒な事になる。せめて日が暮れるまでには、その今吉っつぁんから、話を聞いておきたい」

「判ったわよ。でも……」

 おはるは、空を振り仰いだ。

 相変わらずの空模様だが、空には雀が元気に飛び回っているし、街中の人通りも、少しも変わった様子がない。

 この一髪の間も絶える事無い、昼の街の賑わいの中、この見えずはどうやって、刻の移ろいを知ったんだろう?

「おいっ!」

「あ、はいはい」

 強く呼ばれ、我に返る。

 おはるは、いつの間にか差し出されていた、鹿郎の袖を取った。

 まあ、いい。

 後はこのまま真っ直ぐ、御店まで連れて行ければ、上出来だろう。

 思わず歪みかける口角を、空いた手でつねったおはるは、わざと大きな溜息を吐いた。

「んもうっ、鹿郎ってば、素直じゃないんだから……もっとさっさとお願いすれば、刻を無駄にする事もなかったのよっ」

「言っとくけどな。今のオレは、院長から直々に、さわを探せって言いつかってるんだ。つまり今、オレに何かあった場合は……」

「養生院に楯つくのと同じって、言いたいんでしょ? 最初っから判ってるわよ、そんな事。だからわざわざ、あたしの方から申し出てあげたんじゃない。大体鹿郎は……」

 澱みなく流れ始めた文句と共に、袖口が引っ張られる。

 小さなおはるの歩調に合わせ、鹿郎はぎくしゃくと歩き出した。

 嫌なうず気は、消えるどころか色濃さを増し、胸の中で渦を巻く。

 やっぱり、止めときゃ良かったかな——鹿郎は、肩を落とした。

 不条理がもたらす重たい疲労が、くくったはずの腹の上からのしかかる。

「ちょっと鹿郎っ、聞いてんの?」

「はいはい、もたもたしたオレが悪ぅございましたっ。全く、申し訳ないこって」

 投げやりな詫び言が、張り無くだらりと零れ出た。




 山振通りを西に下り、月白小堀に架かる橋を踏み越える。

 袖を引くおはるの歩みが、些か早まった。

「もう直ぐ、御店だからね」

「ああ」

 流石にここまで来ると、投げ出すような商い声は影を潜め、折り目正しい商人同士の挨拶が、そこかしこから聞こえてくる。

 実際、道端に居並ぶ屋台の類は姿を消し、いわゆる暖簾を掲げた御店の類が、鹿郎とおはるを迎えていた。

 打ち水の匂いに紛れ、木々を叩く槌の音と、真新しい檜の香が聞こえてくる。

 鹿郎は、小首を傾げた。

「おい、おはる。どっかに、新しい建物が建ってないか?」

「ん? ああ、よく判ったね。ほら、橋のたもとから四番目の……」

「確か花紺青だったっけ? 山茶花の古木があった」

「そうそう。でもねぇ、その御店、こないだ潰れちゃってさ。乾鮭屋が跡を土地ごと買い上げたんだけど、古木の方はついこないだ、ばっさりやられちゃった」

 やれやれ——淡々と響く木槌の音を聞きながら、鹿郎は溜息を吐いた。

 橋の袂や古い家屋もそうだが、街中に立つ古木の類は、鹿郎のような者にとって、道行く際の貴重な印となる。

 建物や御店の位置も、印にならない事は無いが、浮沈の激しい裏葉柳では、覚えた途端に暖簾が変わってしまったりして、中々信用できないのだ。

「やりにくくなった?」

 探る様に、おはるが呟く。

 鹿郎は、苦笑した。

「そう言えば、銀洲にもあったんだろ? 古い桜の木」

「あー、話は聞いた事あるねぇ。随分と立派な古木だったみたい。あたしは見た事無いけど」

「ふーん」

 往来の彼方、空の何処かで、鳶が鳴いている。

 気のない返事を返しつつ、鹿郎は頭上を振り仰いだ。

 全ては又聞きの話に過ぎないが、そもそも昔の銀洲だって、これといった儲けは無いが、潰れてしまう程でもない、そんな程度の御店だったらしい。

 当時の店主と奥方は、随分と欲の少ない人達で、庭の桜の古木を標に、組合の片隅で、ゆったり暖簾を守っていたと言われている。

 しかしある時、江戸に流行った病の煽りで、まだ幼かった一人娘のおきんを残し、一族郎党、皆が死に絶えてしまった。

 そんな御店の成長を見限った、当時の番頭や手代達は、櫛の歯が抜けゆく様に、おきんと銀洲の元から去っていった。

 縁のあった利権者達は、残った財を漁ろうと、御店の行方を虎視眈々と監視する。

 それを見た裏葉柳の人々は、『いつ銀洲が潰れるか』を、日々の挨拶代わりに話す様になった。

 しかし暫くして、事態は世間の期待を、大きく裏切った。

 親の喪が明けて直ぐ、おきんは邦介という青年を、新たな番頭として御店に入れ、己の後見とする事を、大々的に披露した。

 邦介という青年が、どうやっておきんと知り合ったのか。

 そして銀洲に入る以前の経歴は、どんなものだったのか。

 それらは今も、不明のままになっている。

 しかし、六尺余もある身ノ丈を持つ偉丈夫で、大らかで気持ち優しく、役者の如き艶やかさまでも併せ持った邦介という存在に、神経質なおきんの心が随分と慰められた事は、誰の目にも明らかだった。

 それからのおきんは、商いの先頭に進んで立ち、見事に邦介を使いこなし、また邦介もそれに応え、見る間に業績を回復させていく。

 やがておきんが成人を迎えると、邦介は入り婿という形で御店に残った。

 後見として番頭職に入った頃より、その仲睦まじさは有名だったが、この婿入りを機に、二人はさらに互いを思い合いながら、御店をもう一段、盛り立てる事に成功する。

 この成り行きは、当時、とかく味気のない顛末に慣れきっていた裏葉柳の人々に、喝采をもって迎えられた。

 すると、その噂を聞きつけたものだろう。

 以前に御店を見限り、去った者達が、復帰を願い出てくるようになった。

 彼らは邦介に、おきんへの取りなしを懇願したらしい。

 が、邦介からその話を聞いたおきんは、全ての願いを撥ねつけた挙句、一つの決断を下した。

『情という非合理に染め抜かれた古い因習を、跡形無く排する事で、銀洲の暖簾を、未来永劫守り抜く』

 そんな方針を新しく掲げ、己を見限った商人達はおろか、組合を構成していた長老達の意見までをも、非合理的だと、一斉に排し始めたのだ。

 流石にそれは、と意見した者達は、不遇の時を共に過ごした者でさえ、あっさりと放逐されてしまう。

 噂では、そんなおきんの心を解そうと、邦介は随分、苦労をしたらしい。

 が、入り婿という立場の邦介には、なす術に限界があった。

 やがて、扱いの増えた荷物を収めるため、つつましやかな小庭に生きた桜の古木と、草樹を全て取り除き、その跡地一杯に、土蔵——後に〈銀洲土蔵〉と呼ばれる事になる、巨大な土蔵を設えた頃。

 銀洲と、その主・おきんは、組合座長の地位を占めるまでに、成り上がっていたのである。




「鹿郎っ!」

 突然、腕を後ろに引っ張られた。

 不意打ちに仰け反った耳鼻に、賑々しい街の響きが流れ込んでくる。

 腕を引かれていた上に、考え事をしていたから、無意識の歩測すら怠っていた——よろけた体幹を立て直した鹿郎は、面を左右に振り向けた。

 重たい何かがドスン、ドスン、と地を叩いている。

 その地拍子に、荷数を数える人足達の掛け声が、朗々と響いていた。

 周囲にさざめく荷馬のいななきや、それをなだめるだみ声と、朗らかな挨拶。

 時折弾ける笑い声に、妙な安堵を覚えながら、鹿郎は、袖引くおはるに面を向けた。

「何処だ、ここは?」

「銀洲よ。着いたんだってば」

「は?」

「どうする? 御店の中で、今吉っつぁんを待つ? それとも裏手で……」

 てきぱきと話すおはるの声を聞き流しつつ、鹿郎は、首を大きく巡らせた。

 なるほど、確かに一方には、御店らしき大きな建物がある。

 周囲の物人の流れも、あっちこっちに入り乱れ、今までのそれより、もう一段気忙しい。

 大暖簾の類だろう、大布が風をはらみ、その響きを遮って、車軸の軋みが我が物顔に過ぎていく。

 しかし、それらの合間を縫って伝わってくる饒舌や、朗らかな笑い声。

 ここが、銀洲?

 たゆたう湿気の中、何処か陽気を匂わせる風情に、鹿郎は大きく首を傾げた。

「ちょいと鹿郎っ。人の話を聞いてるかい?」

 聞こえてないと思われたのか、おはるの声音が高まった。

 我知らず退りながら、鹿郎は言い挙げた。

「おい、おはる。ここは本当に……銀洲なのか?」

「は?」

「水柿橋でお前がしていた話と、全然違うじゃないか。あの時はもっとこう、欲丸出しで殺伐としてて、人と物の区別がついてないみたいな……」

「……何言ってんの?」

 その通り——おはるの一蹴に、鹿郎は続く言葉を呑み込んだ。

 銀洲を訪れるのは、勿論初めてではない。

 何時もの不愉快な応対と、水柿橋でのおはるの話がごちゃ混ぜになって、印象が歪んだだけなのかもしれない。

 でもこれは、幾らなんでも変わり過ぎだ!

 呑み込んだ罵倒を笑うように、何処かで響く猫の鳴き声。

 近くの堀に荷舟が着いたか、人足達の荷運び歌と、水に濡れた重縄の匂いが、風端に聞こえてくる。

 袖口を掴むおはるの手を振り払い、鹿郎は、建物の方を指差した。

「よ、要はだな。もしここが本当に銀洲だとしたら、何て言うか……そうだな、御店の中身が丸ごと入れ替わっちまったような……」

「やっぱり、見えないって不便だねえ」

 おはるが、ぷつんと言い放つ。

 普段であれば、百も言い返さねば収まらない処だが、正直今は、それ処ではなかった。

 一体、ここはどこなんだ?

 棒を呑んだ様に立つ鹿郎を見て、おはるは大きく息を吐いた。

「しょーがないなあ。そんなに御店に入りたくなきゃ、そこで待っててよ」

「えっ?」

「あたし、ちょいと戻って、今吉っつぁんを連れてくるからさ」

「ちょっと待て。そうじゃないってば、オレが言いたいのは……」

「ったく、乳飲み子じゃないんだからね。いいこと、そこでじーっと待ってなさいよっ!」

「人の話を聞けってぇの!」

 跳ねるようなおはるの足音が、けたたましい車軸音と、入れ替わりに交差する。

 鹿郎は思わず手を伸ばしたが、止まってくれたのは、車軸の軋みの方だった。

「何か用かい?」

 車を引く人足のものだろう、投げつけるようなだみ声に、思わず手を引っ込める。

 車軸はギシリと音を立てたが、後はじっと黙ったままだ。

 こうなったなら、仕方が無い。

 舌打ちを呑んだ鹿郎の面に、人懐こい笑みが差した。

「ちょいと、すみませんが……」

「おうよ」

「こちらの大店は、あの銀洲さん……ですかね?」

「何でぇ坊主、お前、あのでっけぇ暖簾が見えねぇのかい?」

「残念ながら、子供時分に大怪我しちまいましてね」

 苦笑して、額の布を突ついてみせる。

 縫い針のような視線が、全身をぐるりと撫でつけた。

「その割にゃあ、判ってるじゃねぇか。お前の言う通り、ここは銀洲だよ」

「本当に?」

「嘘吐いて、どうすんでぇ」

「嘘とは思ってないんだけど……その、でも、何だかいつもの銀洲とは全然違う感じがして……知らない御店じゃなかったし」

 車軸が一つ、大きく軋んだ。

「んー……」

 人足が、今度は御店の方を見やっているのが、手に取るように判る。

 さて、どうか——無邪気な笑みの下で、鹿郎は、騒ぐ心をなだめつけた。

 一擲。

「そう言やあ、変だなあ」

 人足は、不思議そうに呟いた。

「大暖簾の真ん前で、手代さんが客と話し込んでやがる。っと、あーあ、大声で笑って……きっと新入りだろうなあ。気の毒に」

 思わず噴き出し、鹿郎は言った。

「本当に……その新入りさん、きっと今晩にでも、馘になっちゃうね」

「だなあ。何せここは、けちの権現様だしよ。仕事中に歩いていると、給金さっ引かれるって話だぜ? 知ってるかい?」

「ああ。凄まじい話だよね」

「ま、そうでもしなきゃ、このご時世を生き残るってぇのも、難しいのかもしんねぇけどな」

 溜息混じりの言葉に頷いた鹿郎は、一つ小さく頭を下げた。

「御陰様で、よく判りました。御親切に、ありがとう」

「おう。お前も気ぃつけていけよ、坊主」

 騒々しい車軸の軋みが、鹿郎の傍らを、のんびり通り過ぎていく。

 温い風が、軋みの余韻を跡形も無く吹き払った。

 と、突然。

「ちっ」

 派手な舌打ちを漏らした鹿郎は、御店の方へと向き直った。

 さっきまでの優しい笑みが、拭われた様に消えている。

 絶える事無く揺れていたうず気は、今や明瞭な不審と焦燥に成り変わり、鹿郎の沈思を急き立てた。

 一体、何があったんだ?

 高鳴る胸を撫でつけて、鹿郎は、大きく息を吸った。

 この御店が銀洲であるという事は、最早間違い無い。

 しかし、この様相自体は好ましくとも、この御店にとって、平常とは思えなかった。

 利潤のみを信奉してきた御店の根幹を、変質せしめる一大事。

 そんな何かが起こり、さらにそれを、ひた隠しにせざるを得ない。

 そしてそんな状態の御店の何処かに、さわがいる。

 と、ここまで考えて、鹿郎は、はたと気づいた。

『その調べってさ、明日まで待てないの?』

 確かおはるは、最初、オレを退けようとしていた。

 きっと御店の様子を聞き通される事を、恐れたに違いない。

 なのに途中から、案内するとまで言い出して、ここまで強引に引っ張ってきて——

 鹿郎の、面が上がった。

「あのクソ餓鬼!」

 きっと今頃、おはるは御店の下っ端達に、オレを捕える様に言っている。

 そんな事をして、何の得になるかは知らないが、思った程の、猶予は無い。

 脳裏に残るおはるの声音に、悪態を吐いた鹿郎の唇から、あの鹿鳴が迸った。

 ピンと弾けた鳴響が、無軌道に入り乱れる物人の、一髪の間を奔り抜ける。

 僅かに面を巡らせて、鹿郎の踵が跳ねた。

 屈強な人足達が、たちまちに積み上げてゆく重荷の小山。

 何を思い出したのか、不意に踵を返す人の背後。

 よそ見をしながら飛び出してくる、荷車の横。

 温い風と共に、それらの合間を抜け切った鹿郎は、とうとう誰にも咎められずに、御店の脇の小道に入った。

 陽射しの温みはたちまちに掻き消え、周囲に満ちていた雑踏が、背後にすぅと置き去られる。

 かまわず奥へと押し進むと、ヒヤリと重い漆喰の香が、被さる様に迫ってきた。

「……ふん」

 鼻を鳴らした鹿郎は、武骨な手指をそっと伸ばすと、香りの元を撫でさすった。

 そして固い指先で、コツコツと叩く。

 それが終わると、懐から手拭いを取り出し、その一端を投げ掛けた。

 ふわりと広がった手拭いは、思ったよりも高い処で、ほんの僅か引っ掛かり、するりと手元に戻ってくる。

 ここで、鹿郎はうなずいた。

 この面前一杯に広がり抜いたでかぶつが、漆喰で造られた堅固な土塀である事に、間違いは無い。

 しかし、その高さと厚みを頼りにしたのだろう、手入れの手間と経費のかかる、物騒な泥棒避けの類は、仕込まれていない様だった。

 造りはおおよそ、身ノ丈三つ程度の高さと、掌一つ分くらいの厚み。

 にやりと笑った鹿郎は、草履を脱ぐと、土を払って懐に収めた。

 腕の良い左官が、心を込めて仕上げたのだろう、塗り跡すら無い滑らかな壁面に、右の足指を押し付ける。

 そして一擲。

 左の踵が地面を穿り、その蹴り込む力を真上に逃がした鹿郎の総身が、ヒョッと真上に跳ね上がった。

 鹿の跳躍というよりは、樹木を駆け上る大猿。

 安穏とした小鳥達の鳴き声と、淡い陽射しの再びの出迎えを受け、塀の上端、正しく掌一つの幅にうずくまった鹿郎は、塀の内に耳鼻を凝らした。

 鹿郎の位置より、遥かに高くそびえ立つのは、この界隈でも有名な、あの〈銀洲土蔵〉の一面だろう。

 御店の位置を検討づけて、数歩、上端を伝い歩く。

 数歩も行かぬ内に、御店に併設された建物——母屋だろう、それが気配を現した。

「ふむ」

 巨大な〈壁〉に吹きかけるよう、鹿郎は息を吐いた。

 この土蔵が建った時は、母屋を潰して蔵を建てたとか、恵比寿様に母屋を捧げて繁盛を得たとか、色々言われていたらしい。

 確かに、この庭の広さにこの大きさだと、最低でも庭を余さず使わないと、建てる事はできなかっただろう。

 全ての商家を見てきた訳ではないが、ここまで活きる場をないがしろにして、利潤を追った造りの商家は珍しい。

 これは、覚悟の証なのだろうか?

 遠巻きには冗舌の種となろうが、身近で知るには嫌らしさだけの感嘆を経て、嫌なうず気が再び、鹿郎を炙り始めた。

 ここは裏葉柳でも三指に入る大店で、表の方では、今も商いの——おはるの声音を借りるなら、〈こっちの言い値で急場手当を設定できる、大型飛び込み商談〉の真っ最中のはず。

 なのに足下の先には、何の音も、匂いも無い。

 倉庫と御店の表を行き交う、大量の人手と荷物は?

 母屋にあるはずの、掃除洗濯の人手の息吹は?

 もし足下にあるものが、墓場だったというなら、納得できたに違いない。

 そこには活きた息吹と情熱が欠落した、虚ろな静けさが満ち満ちている。

 鹿郎の頬に、嘲笑が差した。

 この世間は、見える事を前提にして作られている。

 だから見えない不便は確かにあるし、それは酷く辛い事の方が多い。

 しかし見えている事で、こんな変事が判らなくなっているとしたなら、見えた処で何があるか。

 足下の小道に、幾つかの人の息吹が迫ってきた。

 鹿郎はためらう事無く、塀の内に跳び降りる。

 壁に張り付き耳を凝らすと、どうやら数人の男達が、壁の向こうでうろうろしいていた。

 今はまだ、見つかりたくない——その場を離れようとした鹿郎の耳に、微かな鉄擦れの音が届く。

 そして同時にたゆたう、微かな薬香。

 即座に鹿鳴を発した鹿郎は、無音のまま駆け始めた。




 遠い空の高みに、鳥のさえずりが遊んでいる。

 御店の表の方からか、何処か虚ろな談笑が、細く流れて聞こえてくる。

 僅かながら、草木のあった昔と違い、そこは酷く息苦しい場となっていた。

 元々広さは無かった所に、巨大な土蔵を設えたのだ。

 当然、地に陽射しなど望むべくも無く、薄暗く湿気た風が、何時も鬱々とたゆたっている。

 重い鉄擦れは、そんな最中に響き渡った。

 少し遅れて、重たい大扉に付設された潜り戸が、音を引きずり動き出す。

 やがて開け放たれた戸口から、一人の女が姿を見せた。

 卯ノ花無地の筒袖と、道場袴の出で立ちに、太めの美眉と強い眼差し。

 肩でそろえた、見事な艶持つ深削ぎ髪を揺らし、面を左右に巡らせる。

 何時も聞く馴染みの音が、何度か聞こえた気がしたのだ。

 だから一言断った上で、こうして面を出してみたが、何処にも変わった様子は無い。

 雰囲気も様相も、ここに来た時のままだ。

 女は首を傾げると、再び扉に手を掛けた。

 と、突然。

 背後から伸びた腕に、強く口を塞がれた。

 そのまま体を絡め取られ、土蔵の内へと引きずり込まれる。

「んぐー!」

 やっともがき始めた女を、一際強く抱き竦めた小さな影は、一気に隅の暗がりまで後退した。

 周囲の気配に耳鼻を凝らすが、気付かれた感じも、人の気配も無い。

 息を吐いた小さな影——鹿郎は、女の耳元で囁いた。

「よーし、やっと見つけたぞ。オレだ、さわ。鹿郎だよ!」

 さわと呼ばれた女は、少し大人しくなった。

 腕を緩めてやると、跳ねるように逃げ離れる。

「ああ、びっくりした! 何なのよ、一体!」

「そりゃあ、こっちの台詞だな」

 両手を打ち払い、鹿郎は立ち上がった。

「何時まで待っても、お前からのつなぎはこないし、探しにきてみりゃ、おはるは半端な嘘吐くし、挙句、出先の御店は妙な異変の真っ最中……何なんだよ、これは。説明しろっ!」

「せ、説明って言われても……」

 さわは、慌てて目を擦った。

 突然暗がりに引きずり込まれたものだから、目の中で、光がぎらぎら瞬いている。

 その戸惑いが、鹿郎の配慮を得る事は無い。

 舌打ちした鹿郎は、踵を返して、扉の側に馳せ戻った。

 再び気配を探った上で、ゆっくりと閉じてゆく。

 微かな軋みと共に、扉がずん、と閉じられた。

「よーし、コレでいいだろ」

 手を打ち払いながら、さわの方へと面を向けた鹿郎は、腕を組みつつ宣言した。

「勿論、きっちり筋道立てて話せ、なんて無茶は言わねぇよ。お前が理解しているだけでいい。とっとと話せ!」

「…………」

「さわ?」

「いや、その……ちょっと話せない」

「だから、扉は閉めてやっただろ?」

「いや、そうじゃなくてだねぇ……うん、話せないんだよ、今は特に」

 思いも寄らない応えに、鹿郎は鼻白んだ。

 もじもじと言いよどむさわの前に、仁王立ちに立ちはだかる。

「お前な、ふざけるなよ。総務のお汐ばあさんが死んで、只でさえ手が足りてないんだ。お前が診るはずの患者だって、院長先生が代わりに診てるんだぞ!」

「それは判ってる。けど……」

「けど、何だよ」

「だから話せない! よく聞け、私は話せないと言っている!」

 さわの大声に、頭の隅で何かが瞬いた。

 元々、嘘が下手——というか、嘘が吐けない女だ。

 話せない、だと?

 鹿郎の背筋が、ツッと伸びた。

「……何を隠してる」

「だから何度も……私でなく、別の人に聞いたがいい」

「別の?」

「お前の後ろにいる人とか」

 総毛立った鹿郎の首筋に、重たい衝撃が奔る。

 鹿郎の意識は、そこでプツンと途切れてしまった。




 強きが正しく弱きを助け、弱きもまた、正しく強きを補う事ができるなら、この世は極楽と言えるだろう。

 しかし当世にそんな余裕がある訳も無く、何々だからと遠慮をしてくれる事もない。

 従って、鹿郎の目覚めは、最悪なものとなった。

「うっ……」

 うねうねとよじれる意識が、徐々にまとまり、総身に張りつめてゆく。

 初めに意識できたのは、頭の後ろに触れていた、冷たい板の感触だった。

 どうやら自分は、板間に倒れているようだった。

 少しだけ、首が痛む。

 手をやろうとしたら、何かが頑と、それを拒んだ。

 反対の手も、足も、体すらも動かせない。

 何かで簀巻きにでも、されているのだろうか。

 耳鼻を凝らして、周囲を探る。

 が、今まで捉えていた響香は、一欠片も聞こえない。

 ここは一体、何処なんだろう。

 静けさの中、暫くもぞもぞしていた鹿郎は、やがて大きな溜息を吐いた。

 本来ならば、もっと焦るべきだろう。

 が、心は案外、落ち着いている。

 自分の索敵を完全にかわし、不意を突いて気を失わせ、ここまでの戒めを施した。

 そんな事ができる奴自体、該当者は限られるが、この上、さわやおはるをたぶらかし、操れる者など、この裏葉柳に幾人もいない。

 その事が判っていたから、落ち着いていられた。

 黒幕が奴ならば、次に何かあるまでに、必ず姿を見せる。

 その時まで待てば——と、ここまで考えた時。

 鹿郎の背筋が、ツッと伸びた。

 オレはどのくらい、気を失っていたんだろう?

 一擲。

 鹿郎の全力が爆発した。

 戒めが、耳障りな鉄擦れを響かせる。

 やはり、何処かで頭でも打っていたのだろうか。

 のんびり待ってなど、いられる訳がない。

 せめて今日の日が暮れる前に、何とかこの出来事を、養生院に知らせなければ!

 肩の辺の戒めから、ミキリ、と異様な音が漏れた。

 が、しかし。

「ぐはっ!」

 喰い縛った奥歯がばらりと解け、同時に四肢から、力が抜けた。

 重しか何かがつながれているのか、鉄塊が板打つ音が喧しい。

 これだけかまして、軋み一つか。

 どうやら鉄の鎖か何かで、簀巻きにされているらしい。

 流石に、手強い——咳き込みながら、頭に上った血の熱さに、くらくらしていた時だった。

「あっ、鹿郎、気がついてる!」

 うんざりする喜声が、頭の方から浴びせられた。

「お前は……おはるだな?」

 絞る様な鹿郎の問いに、喜声の主が、ふふっと笑う。

 しかしそれ以上は応えずに、何処か別の方に向かって、大きな声が響き渡った。

「おーい、樋池様ーっ。鹿郎、気がつきましたよーっ」

「……やれやれ、もう気がつきましたか。御苦労様、おはるちゃん」

 待つ事も無く、もう一つの新たな気配が、おはるの隣に現れた。

 枝垂柳のような喋りに、ちょっと変わった鬢付けの香。

 鹿郎を縛る鉄鎖が、再びミキリと、音を立てた。

「樋池ぇ……やっぱりお前かっ」

「ご名答」

 樋池と呼ばれた男は、さらりと応えた。

 侍に対する物言いとしては、即時無礼討ちとされても、おかしくはない。

 しかし、にやりと笑った樋池はそのまま、鹿郎の側に歩み寄った。

「首の具合はどうだ? 一応、手加減はしたんだが」

「気になるなら、確かめてみりゃいいじゃねぇかっ、この犬同心め!」

「冗談じゃない。伸ばした腕を、喰い千切られちまう」

 渾身の力を込め、じりじりと呻きながら、鹿郎は身を捩った。

 鎖に繋がれた舟の碇が、音を立てて床板を掻く。

 樋池が、感嘆の口笛を吹いた。

「ほほう、頑張る頑張る」

「だから言ったでしょ、樋池様」

 明かり取りの小窓を開けながら、おはるは得意気に言い挙げた。

 一条の緩い光が、がらんどうの板間と三者を照らし出す。

「その辺の一山幾らならともかく、相手は鹿郎ですよ? 本気でやるなら、このまま棺桶に突っ込んで、釘でも打っちゃうくらいでないと」

「またそんな、極端な事を」

 急な光を手で遮りつつ、樋池は苦笑した。

 鉄紺の単に、お固い黒の同心羽織を羽織った姿は、特に変わったところもない。

 しかしその五体の厚さと、右瞼の刀傷。

 その下の、僅かに退色した瞳が、妙に人心を威圧する。

 樋池の側に寄ったおはるは、にやりと笑って囁いた。

「ははーん……樋池様、鹿郎の後ろ盾に、逆らいたくないんだぁ」

「まあ、そんなとこです。既に養生院には、さわ先生の件で、ご迷惑を掛けてますから……」

 言葉尻を泳がせながら、樋池は指で、己の顎を撫で付けた。

「……よし、鹿郎」

「何だよっ!」

 尻を持ち上げるだけで、息があがる。

 のんびりと話しかけられた鹿郎は、尺取り虫よろしく、尻を上げたまま怒鳴り返した。

「だから、そう怒るな。お前を大人と見込んで、取引したい」

「取引ぃ?」

「ここは、銀洲の庭にある土蔵の一階。お前が、さわ先生を捕らえた処だ。判るか?」

「……それがどうしたっ」

「お前はさわ先生を探して、ここまで来たんだろう? 実はな、さわ先生は今、ここの三階にある座敷牢跡に、逗留してもらってるんだ」

「逗留ね。監禁の間違いじゃねぇの?」

「そう言えるかもしれん。が、人聞きが悪いので、逗留って事で」

「けっ!」

 鹿郎を簀巻きに絡める鉄鎖が、一際激しく板間を打った。

 おはるが、呆れたように息を吐く。

 樋池は慎重に距離を取りつつ、鹿郎の側にしゃがみ込んだ。

「いいか鹿郎。今から明日の巳ノ刻、四ツ半頃まで、お前もさわ先生と一緒に、ここの三階でじっとしていて欲しい。刻限がきたら、二人とも解放されるよう、段取りをつける」

「悪いが断る。今夜までに、養生院に戻らないと……」

「今の仕事を馘になっちまう、って事だろ? 判ってるさ」

「嘘吐けっ、この野郎!」

 爆発の如き勢いで、鹿郎は上半身を持ち上げた。

 重しががらがらと、板間を派手に傷付ける。

 しかし即座に均衡を崩し、鹿郎は、再び倒れて這いつくばった。

「判ったような口をきくなっ! いいか、オレの代わりは幾らでもいる。代わりどころか、もっと働けて、色んな事をこなせる奴が、その辺をごまんとうろついてるんだ。明日の昼にはそんな奴が、オレの代わりに裏葉柳を歩き回ってるに決まってる! 今、何とかしないと駄目なんだよっ!」

 樋池の眼差しが、針の様に細まった。

 眉間にうっすら、嫌悪が差す。

「……何時まで経っても卑屈だな、鹿郎」

 鹿郎を縛る鎖の何処かが、グキリと鳴った時。

「駄目っ、鹿郎っ!」

 叱咤一閃、おはるが小さな体ごと、鹿郎の背に飛びついた。

 骨肉が板打つ鈍い音が、板間一杯に鳴り響く。

 荷車に礫き潰された蛙の様に、前のめりにひしゃげた鹿郎の肩首にまたがったおはるは、そのままじろりと樋池を睨んだ。

「樋池様、今のは鹿郎の言う通りさ。お侍さんと違って、あたしら町人の明日なんて、来るも来ないも、ホントに紙一重のトコにあるんだ。そこを見切って、物を言わないとね?」

「やれやれ。こんな子供に諭されるとは……同僚には見せられないな」

 それでも、樋池はぷいと、そっぽを向く。

 にやりと笑ったおはるは、鹿郎の頭を突っついた。

「ほらほら、鹿郎も、機嫌直して。お侍相手に喧嘩したって、勝てる訳ないじゃない」

「……先ずは降りやがれ。話はそれからだ……」

「はいはい」

 素直に降りたおはるは、鹿郎が座り込むのを手伝った。

 手拭いを取り出し、派手に打ち付けられた、鹿郎の顎を拭う。

「鹿郎は判んなくて当然だけど、樋池様が今言った条件は、充分信じていいものさ。一枚も二枚も噛んでるあたしが、太鼓判押したげる」

「……何時から噛んでやがった?」

「初っ端からよ」

 華やかに微笑みながら、おはるは嬉々と言い継いだ。

「集金を終えて帰る最中、水柿橋の方が、妙に騒がしいじゃない? 寄ってみたら、鹿郎と知らないおじいちゃんがいてさ。こっそり見てたら、急に養生院のつなぎの規則を思い出して」

 樋池の忍び笑いが、割り込む。

「おはるちゃんがお前を連れてきた時は、驚いたよ。何時も余裕のおはるちゃんが青くなって、さわ先生を探すお前を連れてきた、どうしよう、なんて言い出すものだから……」

「だ、だって樋池様が、絶対に誰にも悟られちゃ駄目っていうから!」

「ええ、判ってますよ、おはるちゃん……で、鹿郎。お前はどうするね?」

 樋池の声が、切れ込む様に引き締まる。

 鹿郎は、鼻をすすった。

 どうやら、全て本気らしい。

 否と言ったが最後、明日までこのまま——いや本当に、棺桶に突っ込まれかねない。

 こっちだって腹を括れば、一晩程度の我慢など、容易い事だ。

 が、しかし——鹿郎は、一つ大きく息を吐いた。

「樋池……お前さっき、さわと一緒に、って言ったな。いいのか?」

「何か不満でも?」

「オレに不満はねぇよ? ねぇけど、さわがここに監禁されて……」

「逗留」

「どっちでも同じ……」

「逗留」

「ったく、逗留してるって事は、だ! さわは明日まで、誰にも漏らしちゃいけない何かを、見知ってるって事だろう?」

 樋池に代わり、おはるの小さな指が、鹿郎の頬を突っついた。

「どう話を持っていきたいのか、知んないけどさ。さわ先生ともあろう者が、そんな大事を他人にベラベラ喋っちゃうとでも?」

「ふーん。そこは信用って事か」

「さわ先生は謙遜するが、その辺りは、誰よりも信頼している。むしろ、目立つお前がチョロチョロ動き回る方が、遥かに厄介事なんだ」

 淡々と、樋池は断じる。

「ふーん」

 思わずにやりと笑いかけ、鹿郎は、慌てて眉をしかめた。

 いつもの事だが、こいつらはさわに限って、うかつな話は漏らすまいと思っている。

 わざとたっぷりためらいながら、鹿郎は大きく体を捩った。

 ギシギシと、鉄鎖が軋む。

「これ、鎖だよな。外してもらえるのか?」

「外した途端、暴れて逃げ出さないという保証は?」

「保証、っつったって……無いよ、そんなもん。けどこのまま逃げ出した処で、院長先生に何て言っていいか、判んないしな」

「なるほど」

 うなずいた樋池は、おはるの方を見やった。

「おはるちゃん、鹿郎の鎖を、解いてあげて下さい」

「はいよ、お任しっ!」

 どこからともなく、取り出した鍵束をがちゃつかせ、おはるは、鹿郎の側に座り込んだ。

「いいか、鹿郎。これは取引。勝手にここから逃げ出した時は……」

 樋池のしつこい念押しと共に、おはるがあちこち跳ね回り、全ての錠を解いていく。

 やがて、鹿郎を戒めていた鎖の最後の一巻きが、がらりと板間に解け落ちた。

「はいっ、これでお仕舞いっ!」

「ふう」

 本当はそうでもないのだろうが、随分と長い間、捕われていた気がする。

 大きく体を伸ばした鹿郎は、立ち上がって、鎖の山をまたぎ越した。

「じゃあ、私とおはるちゃんは、仕事に戻る」

「何だよ、案内してくれるんじゃ……」

「ここの三階よ? あたしも樋池様も、忙しいんだから。甘えちゃ、だ、め」

 床を踏みならして威嚇する鹿郎に、おはるは、ケラケラと笑って応える。

 声を殺して、樋池も笑った。

「じゃあな、鹿郎。私達がまた迎えにくるまで、大人しくしていろよ」

「あ、言っとくけど、一階の扉は全部、鍵をかけちゃうからね。じゃ、どうぞごゆっくり」

 遠退く声とともに、重い扉を引きずる音が、ずしんと鳴り響いて止まる。

 微かにガチャガチャいっているのは、きっと鍵をかけているのだろう。

 あいつら、本当にオレを閉じ込めやがった。

 沸き立つ怒りを押し込める様、鹿郎は、大きく息を吐いた。

 まあいい。

 疑問は増えるばかりだけど、一番大事な疑問が一つ、解決する目処が立った。

「ぴうっ……」

 流す様に、鹿鳴を放つ。

 と、突然。

 斜め上の頭上から、一筋の薬香が漂った。

 これが匂うという事は、近くに医師がいるという事。

 そしてこの場合、考えられるのは、只一人。

「話は終わった?」

 愛想の薄い声音が響く。

 大きく息を吐いた鹿郎は、首を傾げて耳を凝らした。

「さわ、だな?」

「ああ」

 恐らく階段だろう、軽やかな足音が、応えと共に降りてくる。

 思わぬ安堵に少し意地を張りながらも、鹿郎は、足音の方へと歩みだした。




 空の薄雲が、灰色の度を増している。

 おはると共に土蔵を出た樋池は、空を仰いで舌打ちした。

 こんな大事な時に限って、あまり有り難くない出来事が、次々と起こる。

 さわや鹿郎の件は、何とか巧く封じ込めたが、雨中の立ち回りは危険の度合いが高まるし、うつぶし明神での押し込みの件は、昨夜からの気がかりだった。

 少ない人手をやりくりして、やっとの思いで整えた布陣。

 今更邪魔など入られた日には、たまったものではない。

「あんまり、いい空心地じゃないねぇ」

 鍵束をじゃらつかせ、おはるは空を見上げている。

 苦笑した樋池は、大仰な溜息を吐いた。

「空模様だけじゃ、ありませんよ。今回の件は、全てがあまりに泥縄過ぎる」

「んー、確かに樋池様の指揮でなきゃ、ここまで仕上がらなかったろうし」

 と、突然。

「樋池様」

 母屋の方から、番頭風の男——名を、甚五郎という——が現れ、樋池にそつなく頭を下げた。

 おはるがひょいと、割り込んでくる。

「甚五郎親分、驚いた! すっかり商人になっちゃって!」

 甚五郎の鋭い眼差しが、おはるをジロリと睨みつける。

 一擲、甚五郎の大きな両手が、にんまり笑うおはるの頬を挟み込むと、むにゃむにゃと揉み始めた。

「ええぃ、何言ってやがる。おめぇの血も涙もねぇ、手ほどきの賜物だろうが」

「にゅふふ……だって親分さん達、商人の礼儀も作法も、全然知らないんだもーん」

 うりうりと戯れるおはると甚五郎を見て、樋池は再び、溜息を吐いた。

 嫌な予感が拭えぬせいか、ちょっと弱気になっているのかもしれない。

 独善に耳目を覆い、『できるはずだ』を繰り返すだけの上役達の無理難題など、今に始まった事ではないのだ。

 自嘲を振り払った樋池は、背筋に力を込め直した。

「……で、甚五郎。何かあったのか?」

「おっといけねぇ」

 慌てておはるを離した甚五郎は、樋池の方に向き直った。

「つい今しがた、奉行所よりつなぎがきまして。うつぶし明神の方で、大掛かりな仕込みが必要になり、監察医の長春先生と、新崎様の御配下一群が、そちらの方に抜かれちまいました」

「何だと?」

「幸い新崎様が御配慮下さり、舟の扱いが巧い者は、全員残して下さいました。なのであちらの隠し水門からの舟出しは、問題ありやせん。が、このままでは緑青林周辺が手薄となり、鑑定医の方も……」

「代替えは、自分で探せという事か」

「如何しやしょう?」

 流石に即座の返答が出ず、樋池は大きく、腕を組んだ。

 今回の件は、舟の扱いと共に、鑑定医の腕が決め手になると、樋池は早くから読んでいた。

 その点、早い段階から長春を押さえられた事は、幸運の内の一つと思っていたが、まさかこの時点で、引き抜かれてしまうとは。

 甚五郎は、樋池の面をそっと見た。

 無言のまま立つ樋池は、唇のささくれを、指で細かく毟っている。

 そして、沈黙の苦手なおはるが、とにかく何かを言い放とうと、腹に力を込めた時。

「判った」

 眉間の陰気を払った樋池が、静かにさらりと言い放った。

 目を瞬かせるおはる越しに、甚五郎に眼差しを向ける。

「緑青林方面に割り振った者達を、本隊の囲みに合流させろ」

「し、しかし、川縁の土手伝いに逃げ込まれたら……」

「人手が足りない以上、致し方あるまい。下手人よりも、証拠を押さえる事が、一番の大事……証拠さえあれば、事後の追求が可能になる」

「へ、へいっ!」

「鑑定医の手配は、私がやる。誰がどうやっても、かなり恨まれる事になろうからな。後は……」

「ちょ、ちょっと待って、樋池様っ!」

「ん? 何ですか、おはるちゃん?」

 樋池ににこりと微笑まれ、おはるは慌てて言い募った。

「鑑定医って言ったって、長春先生の代わりでしょ? そんな人、この裏葉柳に何人いるか……それにもしいたとしても、今直ぐここにきて、協力してくれる人なんて!」

 いる訳が無い、と断じようとした時。

 樋池の手指がひょいと伸び、今、出てきたばかりの土蔵の三階を指し示した。

 おはるの目が、鳴らんばかりに瞬く。

「え……えええええ?」

「おはるちゃんが顔を出して、二人一緒に不興を買ったら、後々不都合があるでしょう。だからおはるちゃんは、私が土蔵から出てくるまで、一つ、お使いを頼みます」

「お使い?」

 樋池は、自らの腰の辺りを探った。

 そして一つの鍵を取り出すと、固まっているおはるに手渡す。

「この鍵は……」

「そいつを使って、〈トサ〉をここに連れてきて下さい……勿論、極力、人目を避けてね」

 甚五郎が、息を呑んだ。

「樋池様、それではまた、今回も……」

「既に〈シバ〉の力を借りているし、目立つ事は御法度だから、連れてこなかった。しかしこうなった以上は仕方ない。総力戦を、覚悟せねば」

 甚五郎も樋池の配下も、シバやトサとの共同作戦は、何度か経験している。

 しかしそれ故に、この件の難易度の高さを、改めて目の当たりにした事になる。

 甚五郎が息を呑む中、おはるは怖々と、鍵を受け取った。

「だ、大丈夫かな。あたし、鍵を使うのは初めてだし、どう考えても箱に入れて……じゃなくて、入ってもらって、荷車か何かで運び込む事になると思うんだけど……素直に入ってくれるかなあ?」

「大丈夫。トサもシバも、ちゃんとおはるちゃんの事を判ってますから。その辺の一山幾らと違い、皆、素直で信頼できるいい奴らです」

「樋池様にとっちゃ、そうだろうけど……」

 渋面を作るおはるの背を、樋池には見えないように、甚五郎が軽くつつく。

 おはるは、決然と顔を上げた。

「と、とにかく、やってみる」

「頼みましたよ」

「う、うんっ。お任しっ!」

 樋池の、人を見る目に間違いは無い。

 その目に見込まれ、頼まれたのだ。

 男も女も、度胸が肝心!

 鍵を握りしめたおはるは、踵を返すと、裏手に向かって走り去った。

 それを見送った甚五郎が、樋池の方をちらり見る。

「養生院に、連絡は?」

「している暇は、無いな。確かにこれ以上、養生院に迷惑を掛けたくはなかったんだが」

「でももし、さわ先生に、何かあったら……」

 甚五郎は、大きく言い淀んだ。

 勿論、さわ自身への心配もある。

 しかしそれ以上に重大なのは、事前に何の承諾も得ず、万が一、さわ……つまり養生院に所属する医師が、何か不都合を被ったとしたら。

 少なくとも、その原因を作った者は、養生院の敵対者と見なされるだろう。

 建前として、あからさまに見捨てられはしまいが、今後、まともな医療は望めなくなるかもしれない。

 しかし樋池の応えには、一髪の滞りも無かった。

「そこは、今は考えずにおこう」

 まるで他人事のように、サラサラと言い流す。

「ここで遠慮して失敗しても、養生院への詫びとしても、私が腹を斬る事に、変わりはあるまいしな」

 思わず噴き出しかけて、甚五郎は、慌てて袂で口元を覆う。

 それを見て、樋池はさらに苦笑した。

「おいおい、大丈夫か? 要の甚五郎ともあろうものが……」

「大変失礼致しやした。その際は必ず、あっしもお供致しますですよ」

「……ま、杞憂だな。杞憂、杞憂」

「へい、隆右衛門様のなさる事に、ぬかりなど、あろうはずもございません」

 樋池の指が、おはるから受け取った鍵の束を、じゃらりと鳴らす。

 咳払った甚五郎は、元の鋭い目つきに戻り、軽く頭を下げてみせた。

「では、あっしは皆様にこの事を」

「うむ、頼んだ」

 来た時と同じように、甚五郎は無音のまま、母屋の方に歩み去る。

 一人になった樋池を、陰気な澱みが取り囲んだ。

 指揮者としての手前、ああは言ったが、それ以前にこの説得とて、命がけだ。

 そう、ついさっき、さわ先生の元に放してしまった、あの少年。

 あ奴がさわ先生を、危険に晒すような真似を、許す?

 樋池は面を、左右に振った。

 とてもじゃないが、考えられない。

 万が一にも、殺しは避けるとするならば、またあの鎖の出番となるか。

 おはるが片づけていた、鎖箱の位置を思い浮かべつつ。

 樋池は土蔵に向かって、歩み始めた。




 さわの身に染み付いた、薬の香りが先を行く。

 急な角度で設えられてはいるけれど、広やかな階段板を踏みしめて、鹿郎はその後を追った。

 湿気を足下に置き去ってゆく度に、乾いた風のたゆたいが、その頬を撫でてくる。

 手足のこわばりが、緩んでゆくのを覚えた刹那。

 階段を上りきったものか、薬香が、ふらりと揺れて立ち止まった。

「ちょっと、そこで待ってて」

 背後をついてきた鹿郎に、一言言い置く。

 そしてさわは、だだっ広い板間を横切り、幾つかの畳が敷かれた一角に歩んだ。

 開け放たれた大窓から、淡い陽射しが差し込んでいる。

 その温もりの最中には、燭台と文机。

 畳に上がったさわは、机の周囲に広げられた、古びた書き付けの束を、手早くかき集めていった。

 空いた畳面を、ぱたぱたと叩く。

「さ、ここに座って」

 階段口に、大人しく突っ立っていた鹿郎は、ひゅっ、と軽く一鳴きすると、面を大きく巡らせた。

 黙って歩み、畳に上がって座り込むと、その面をペタペタと撫でさする。

 その様子を目端に見ながら、さわは、淡々と言い挙げた。

「とにかく、怪我がなくて良かった。樋池様ったらお前に限って、何かと手荒な真似をするから……」

「だったらもうちょい何なりと、口をきいてくれても良かったんじゃないか? ぜーんぶ、聞こえてたんだろ?」

「嫌な子だな。私が、何も言わなかったと?」

 声音に、不機嫌が絡む。

 鹿郎は、小首を傾げて呟いた。

「ま、言ったところで聞きゃあしねぇか。あの犬同心めっ」

「お前もお前だ。直ぐにそういう悪い口をきくから、本来背負わなくてもいい余計な不興を背負い込む」

「けっ!」

 吐き捨てる鹿郎に、溜息を吐いたさわは、集めた書き付けを、文机に置き並べた。

 そして、隅に置かれた茶瓶と湯のみに手を伸ばす。

 陶器を扱う微かな響きと、緑の香りが、宙にふっと立ち上った。

「ほら、飲みなさい」

 面前に差し出された、緑の香り。

 程よく暖まった陶器を、鹿郎は受け取った。

「……白湯じゃないな」

「朝の膳と一緒に、おはるちゃんが持ってきてくれるものよ」

「何か、ヘンなモンが混じってたりして」

「……大丈夫。今朝から私も、同じ茶瓶から飲んでいる」

「ふむ」

 ようやく一口啜ってみる。

 ちょっと温いが、香りも味も、充分に残っていた。

 背を暖める、優しい陽射しが心地好い。

 なるほどな——鹿郎は、鼻を鳴らした。

 さっき、樋池は軟禁ではないと言い張ったが、今、聞き通した感じでは、格子どころか衝立てらしきものすら無い。

 大窓も開け放たれているようだし、敷かれた畳の目も、整っていて清らかだ。

 恐らく、さわの素行が良かったせいだろうが、なるほどこれなら、監禁とは言い難いか。

 鹿郎は、満足の息を吐いた。

 養生院は、江戸南方面の医療だけでなく、医学をも束ねて司る。

 故に、ここに所属する医師に仇なす者は、少なくとも江戸南において、まともな医療を受ける事は望めない。

 まあ同心の中でも、結構な武闘派として囁かれる樋池の事だ、その程度は、判っているはず。

 と、ここまで考えて、鹿郎は、はたと気づいた。

 そんな命に関わる危険を冒してまで、何故、さわを軟禁したりした?

「で?」

 黙考する鹿郎の耳朶を、さわの声音が惹き付けた。

「は?」

「は、じゃない。一体、何があった?」

 言われた言葉を反芻し、それが頭に染み渡る。

 思わず尻を浮かして、鹿郎は叫んだ。

「おいおい、一体何がって……お前がオレに聞いてどうする! そりゃあこっちの台詞だろが!」

 畳をにじる音が、鹿郎に迫った。

 急に圧されて仰け反る鹿郎に、さわの声音が、被さる様に響く。

「鹿郎……お前、さっき私に言ったな? 何時まで待っても、私からのつなぎが来ないって。という事は、養生院には……」

 鹿郎は、茶碗をそっと脇に置いた。

 嫌な予感が、火花を散らして騒ぎ立てる。

 一つ咳払った鹿郎は、努めて冷静に言い挙げた。

「お前がここに出向いてから、一つもきてねぇさ。一つでもついてりゃ、オレがここまで、出張ってくる訳がないだろ?」

「それもそうだ」

 ぽつりと、さわが呟く。

 刹那、さわ自身から溢れた陰気が、細波の様に寄ってきた。

 息を呑んだ鹿郎は、妙な汗を堪えながら、真っ直ぐに座り直す。

「ちょっと待て、少し落ち着け。悔やむのは後にして、知っている事を話して……」

「それができれば、こんな苦労……」

「何だよ、口止めでもされてんのか?」

「…………」

 一擲。

 陰気が猛烈な鬱気と成って、さわの総身から爆発した。

 ひょっとして、こいつ、また——思わず口にのぼせかけたそれを、鹿郎は、ぎゅっと呑み下す。

 触れれば、面倒事は避けられない。

 さりとて、放置しておく訳にもいかない。

 もし相手がさわでなければ、最悪でも放置は可能だったろう。

 が、こいつがこうなった場合は、放っておけばおくほど、話がこじれて面倒になる。

 その事は、度重なる尻拭いをしてきた鹿郎にとって、経験則からの悟りと同じものだった。

 鹿郎は、深く息を吸った。

 なーに、出たとこ勝負は、むしろオレの望む処。

 震えかけた膝を強く叩いて、敢えて大きく言い挙げた。

「判った。言えない事は、言わなくていい。オレが知りたい事を聞くか」

 と、突然。

 さわの腕が、鹿郎の肩を、頑と掴んだ。

 息すらもはばかられる、圧倒的な密度の鬱気が、山津波の様に押し寄せてくる。

 こうなるように仕向けておいて、怯えるのも変な話だ。

 が、心積りを圧倒するさわの気迫に、鹿郎は、我を忘れてうろたえた。

「おおお、おいおいおいっ!」

「知りたいんだな?」

「な、何を?」

「しらばっくれるな!」

 最早、叱咤の一声が、鹿郎に炸裂する。

 思わず竦む鹿郎に、さわの掠れた声が迫った。

「この屋敷……いや、この御店で今、何が起こっているのか。知りたいと言ったじゃないか。そりゃそうだろう、知りたいよね、知りたいはず、知りたいって顔をした!」

 思わず顔を押さえながら、鹿郎は急いで座り直した。

「ちょっと待てって、落ち着けって。ひょっとしてお前、また何か重大事を打ち明けられたんじゃ……」

 がっ、と両手が引っ張られる。

 思わず体を泳がせる鹿郎に、さわは伸し倒さんばかりに寄り迫った。

「自分から聞いた訳じゃない。聞かない様に、話されないようにも頑張ったさ。いいか、私は本当に……本っ当に、聞きたくなんかなかったのよ!」

「……お前ってさ、そういう、絶対に口外できないような面倒事に限って、呼びつけられたり絡まれたり、打ち明けられたりするよな。どうして?」

「私が知るか!」

 優秀で、口が堅くて腕利きで、真面目で勤勉でしとやかで——さわが普段から浴びせられている、ありとあらゆる賛辞と尊敬が、脳裏で一斉に沸き上がる。

 思わず噴き出しそうになって、鹿郎は、強引にそっぽを向いた。

 ある意味、可哀想な話ではあるのだが、この女。

 あり得ないほど、口が軽い。

 流石に大人になってからは、三歩歩けば話しだす様な事は、無くなったらしい。

 しかし基本的に、聞いた話を腹に留めておけず、何とか巧く留められても、ちょっと水を向けられただけで、激しく動揺してしまい、結局相手にばれてしまう。

 そしてとにかく、嘘が吐けない。

 驚く程正直だとか、死ぬ程誠実だとかいう事でなく、きっと心身の根底から、嘘が吐けないようにできている。

 医師という立場もあって、さわ自身、この気質には随分悩まされ、あらゆる修正努力を凝らしてはいるのだが、面白いのは——以前そう言ったら、半泣きで怒られた——そんなさわと知り合う殆どの者が、我先とばかりに、さわに秘密を打ち明けたがるのだ。

 何故、どうして、よりにもよって、こんな口軽女に。

 鹿郎には全く理解できない処だから、恐らくその見た目の印象が、『たおやかな人格者』をこれでもかとばかりに刻みつけているに違いない。

 最早、樋池やおはるだけではない、お前らの見えてるという事が、何ほど御立派な事なのか——突然、誰彼無しに問い詰めたくなってきたが、続くさわの虚ろな呟きが、鹿郎の心を、強くこの場に引き戻した。

「何だか最近は、時折目眩がして、息まで苦しくなってきて……こっそり誰かに話しちゃおうかと思ったんだけど、今やここにいる人達は、おはるちゃん含めて殆ど、樋池様の配下だし。いっそ、そこの窓から大声で……」

「おい、まさか」

「いや、まだやってない。でも、もうそろそろ……」

 うわ言めいた言葉尻が、ふらふらと揺れている。

 鹿郎は、大きく息を呑み込んだ。

 確かにこいつなら、面倒な取引など考えなくても、勝手に喋ってくれると読んだ。

 それ自体は、ほとんど的中したようなものだが、思っていた以上に、深刻な事態になっている。

 何処までも生煮えな気持ちを押し殺しつつ、鹿郎は言った。

「とりあえず、説明してくれるか? 樋池の配下だとか、何が何だか、さっぱり……」

 と、突然。

 その言葉尻を拭うように、もう一つ、別の声が響いた。

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