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Side:いづみ-6-

 若葉寮へ戻ると、玄関口のところで、薄手のコートを着、白じょう杖を手にして座っている健人と出会った。

「いづみさん、恵太と一体何を話してたんですか?俺も公園まで行こうかと思ったけど……神原さんがやめなさいって言うから、ここで待ってたんだ。恵太が戻ってきたら、今度は俺がいづみさんと出かけようと思って」

 受付の窓口から、少し呆れたような顔をして、神原嬢が肩を竦めているのが見えた。

 彼女の顔の表情を見ているだけで、「止めるの、大変だったんだから」と言っているのがよくわかる。

「えっと、じゃあ一緒に公園にでもいく?」

 わたしは本当に何気なく、自分の手をこすり合わせながらそう聞いた。

「いや、駄目だよ、健人。思った以上に俺、鷲尾さんのことを長話につきあわせちゃったから……鷲尾さん、体のほうがちょっと冷えてると思うし、話をするんなら自分の部屋でのほうがいい。俺はいつものとおり、どっかにいなくなるからさ」

 健人にはこの時、自分にとって不利になるようなことを恵太くんが言ったかもしれないという、多少の猜疑心があったのかもしれない。すでに履き替えていた靴をロッカーへ放りこむと、「ムカつく!」と言って、その扉をバシンと閉めた。

「やれやれ。あいつ、荒れてるなあ。鷲尾さん、俺先に二階の給湯室でコーヒーでも入れて持っていくよ。そしたらほんとにいなくなるから……他の寮の連中が立ち聞きしようとしてたら、速攻追っ払っておくからさ、そういうのは気にしないで健人と話してやってよ」

 プリプリと怒ったまま階段を上がっていく健人のあとを、恵太くんが静かに追っていく。

 そんな彼の後ろ姿を眺めていた神原さんが、わたしと目が合うなり、にっこり笑ってこう言った。

「東條くんって、本当によく気のつくいい子よね」



 わたしは来客用のロッカーに自分のスニーカーをしまうと、コートとバッグを手にして健人の部屋まで上がっていった。

 自分の気持ちを落ち着かせるための選曲なのかどうか、室内にはモーツァルトの交響曲がかかっている……まあ、ベートーヴェンの<悲愴>とかよりはまだましな選曲といったところかもしれない。 

「いづみさん、やっぱり俺に対する気持ちは変わりませんか?」

「あんたに対する気持ちって、つまりわたしが健人のことを人間として好きだって言ったこと?」

 わたしはバッグとコートを床の上に置くと、机の前に座っている健人と差し向かいになって、恵太くんの椅子に腰かけた。

 健人の机の前にも、恵太くんの机の上にもすでにコーヒーが置いてあって、わたしは体が冷えていたせいもあり、まずは指先をカップで温めることにした。

「その、どうなんでしょうか。人間として好きっていうのと、男としての俺が好きっていうのとの違いって、どういうことなんでしょう?俺はこの一週間、そのことについて悩んでいたんですけど」

 健人はパリッとしたワイシャツに、きっちりとネクタイを締めていた。まるでこれからどこかの商社へ面接へ行ってきます……とでもいったような格好。

 わたしは手の感触だけで、何度も健人がネクタイを結ぶところを想像して、再び胸が苦しくなった。

「それが健人が勝負服を着てる理由ってわけね。言っておくけど、先週言ったわたしの言葉に変わりはないわよ。わたしはもう来週の土曜日からはここへは来ない。でもね、それはそうしたほうがお互いのためだと思ったからなの。実際わたし、結構忙しいのよ。前にも話したけど、土曜・日曜でもヘルパーさんが病気で休んだりした場合――携帯に電話がかかってきて、代わりにわたしが行かなくちゃいけないってこともあるし。だから、健人と一緒にいるのがいくら楽しくても、ずっとここへ来続けるってわけにはいかないと思う」

「それはわかってます……っていうか、神原さんと恵太にも、似たようなこと言われました。いづみさんは本当は忙しいのに、そう見せないようにして俺に会いにきてるんだって。でも俺が言ってるのは――たとえば、一か月に一度とか、二三か月に一度とかでいいから、いづみさんがここに来てくれないかっていう、そういうことなんです。ボランティアの人が、俺たち寮生とメールとか手紙とか、何か個人的に交換しあうのは規則で禁止されてるのは知ってます……でも俺、このままいづみさんとずっと会えないまま終わるなんて嫌だ!!それだったら、最初から……」

 健人が俯いたまま、肩を震わせはじめたので、もしかしたら彼が泣いているのかもしれないとわたしは思った。

 でもそうではなく――健人は抑えられない昂る感情を、必死に堪えているようだった。

「そうね。これはわたしの性格の問題として、中途半端なことは出来ないっていう、ただそれだけのことなの。わたしも最近、点字の勉強をはじめたし、健人に自分の書いた手紙を読んでもらいたいとか、色々思ってはいたけど……あのね、健人。こんなことを言ったらいかにも嘘くさく聞こえるだろうけど――わたしはたぶんこの先一生、誰とも結婚しない。もちろん、この先絶対にずっとそうだっていう保証はないけど、でもわたし、恋愛的なことにはもう、本当にあまり関心がないの。利用者さんとか患者さんと、<心が通じる>っていう経験を何度も重ねていると、それが恋愛的なものより、もっと大きな愛情として感じられるせいかもしれない。そうした経験をこれからも積み重ねて年をとっていきたいし、自分の人生はそれで十分だと思ってるの。それでね、健人。わたしの健人に対する想いっていうのも……そういう、かけがえのないもののひとつなのよ。こういう言い方で、わかってもらえるかしら?」

 健人は暫く押し黙ったまま、何かを考えこんでいるようだった。

 いつものもじもじするような癖はなく、何か重いものが肩にのしかかっているとでもいうように、猫背の背中がますます曲がっているように見える……でもわたしは、自分が今心からそう思っていることを、健人に対して伝えたつもりだった。

「その、俺――いづみさんのような素敵な人には、必ずいい人が現れると思うんです。でもいづみさんは結婚する気はないっていう。俺には、正直よくわかりません。俺のために点字の勉強まではじめてくれたのに、もう会えないとか、それは恋愛とは別のことなのよって言われても……全然納得できません。そのくらいだったらむしろ、目が見えなくてグロテスクな容貌の年下の子とはつきあいたくないって言われたほうが、まだずっと諦めがついていいです」

 流石に、健人の言葉の最後の一言には、わたしも胸を突かれるものがあった。

 わたしはコーヒーを一口飲むと、震える手でカップをソーサーに戻していた。

「わたしが健人のことを恋愛の対象だって思えないのはね、確かに健人が九つも年下だっていうのは、絶対にある。でもそれは、目が見えないとか容姿がどうこうっていうこととは、まるで関係がないの。たとえば、逆に――晴眼者で物凄くルックスのイケてる子がいたとしても、わたしがその男の子を好きになるとは限らないっていうのと同じ。まあ、その場合は向こうも、わたしなんて相手にしないでしょうけどね」

(これでなんとか、切り抜けられたかしら……)と、わたしはそう思ったけれど、健人は逆に膝の上にのせた手を再び震わせはじめていた。

「嘘だ!!そんなの、絶対絶対嘘だ!!もし本当に嘘じゃないっていうんなら、そのことを証明してよ!!俺がもし、次にいづみさんと会った時――きちんと手に職を持ってて、いづみさんを養えるくらいの給料を稼いでたら、ちゃんと男として認めるくれる!?もしそうなら俺、いづみさんと結婚することを目標に、向いてない鍼灸師にでもなんでもなってやるよ。でもたぶんその頃にはいづみさんは、俺のことなんかすっかり忘れて、結婚しないとか言ってたくせに、ちゃっかり誰かと子供を作ったりとかしてるんだ!絶対そうなんだ!!」

「ちゃっかりって、あんたねえ……」

 わたしは呆れたらいいのか、笑っていいものなのかどうかもわからず、なんにしても健人にティッシュケースを差しだした。

 健人はいかにも不本意だという顔をして、ティッシュを何枚か鷲づかみにすると、それで思いきり鼻をかんでいる。

「じゃあ、約束してくれる!?次に会った時、俺がちゃんとした一人前の男になってたら――結婚相手として考えてくれるって。そのためなら俺、どんなことでも頑張って、真面目に取り組むことにするから!!」

「そうね。でも健人、あんたはわたしのことばっかり非難するようなことを言うけど、その時には健人だってわかんないのよ?わたしのことなんかすっかり忘れちゃって、そーいや昔、ボランティアで来てた鷲尾いづみとかいう人がいたけど、あの人今どーしてるんだろうなって、過去の人としてわたしを懐かしんだりしてるかもね。それで、自分は若くて可愛い子とつきあったりしてるかもしれないでしょ?」

 ――この時になってようやく、健人は明るい表情をして見せた。

 そして鼻をかんだティッシュをゴミ箱に捨て、どこか不敵な顔つきをしている。

「そんなことは、ありえないよ。俺はいづみさんがずっと独り身でさえいてくれたら……いつまででもいづみさんのことを追っていける。俺はまだ専門学校に通う半人前だけど、学校を卒業したらちゃんと就職して、自分が一人前だと思えるようになったら、いづみさんに会いにいくよ。いづみさんの勤めるヘルパーステーションの名前と場所は知ってるし、その時になったらきっと、どっちが嘘つきなのかがわかると思う。待ってて、いづみさん。俺は絶対いづみさんのほうが嘘つきだって証明してみせるから!!」

「まったくもう、あんたって子は……」

(ストーカーじゃないんだから)と言いかけて、もちろんそんなこと、わたしは口にしなかった。

 ただ、健人がどう言えば納得してくれるだろうと考えていたわたしにとって、健人が自分なりに考えてだした答えというのは――わたしにとってもどこか心嬉しく、ある意味ベストなものだったといえたかもしれない。

 健人が専門学校を卒業するのは約一年半後、そして彼が按摩・鍼灸師として一人前になるとしたら、さらに何年かかるのかわたしにはわからない。ただ、自分はその頃も小さなヘルパーステーションでじーさん・ばーさんの介護をしているだろうことだけは間違いないだろう。そして、ある日年だけとったわたしの元に、一人前になった立派な青年が訪ねてくるのだ。

 もしかしたらその頃には、健人には森繭香とはまた別の、可愛い彼女なんていうのが横にいたりするのかもしれない。そうしたらわたしは、健人に対して遠慮なくこう言ってやることが出来るだろう。「一体どっちが嘘つきなのよ!?」と、虚しく勝ち誇りつつ、でも顔には満面の笑みを浮かべながら……。




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