Side:いづみ-2-
視覚になんらかの障害を持っているという人が入所しているその寮には、すぐ隣にあん摩・鍼灸師になるための専門学校があった。つまり、寮に入っているのはそこに通っている生徒さんたちなのらしい。
寮自体は男子寮と女子寮に分かれ、男子寮は三階建てで約五十名ほどの生徒が、女子寮は二階建てで約三十名ほどの生徒さんが入寮しているとのことだった。
わたしはボランティアをする上での注意事項等のレクチャーをほんの十分ばかり受けると、受付のところにいた女性に建物の案内をしてもらうと同時、部屋にいる生徒たちに挨拶してまわった。
好奇心旺盛なやんちゃな感じのする子は、部屋からドタドタと出てきて「こんにちは」と言って挨拶したり、握手を求めてきたりした。そして少しシャイな感じのする子は、部屋の奥から小さな声で挨拶するだけか、中にはまったく無反応な生徒もいたり……これが女子寮へいくと、すごく賑やかな感じになり、わたしの印象では、女の子のほうが障害があるとかないとかは関係なく、同世代の普通の子とまったく変わらないような印象だった。
寮内の様子を一通り見てまわり、再び男子寮へ戻ってきた時――一階にある寮の詰所のような場所の入口に、車椅子に乗っている男の子がひとりいて、わたしは彼にも挨拶しようと思った。
目も見えない上に足まで不自由だなんて……わたしは見るからに病弱気味で華奢な感じのするその青年に対し、とても胸の痛むものを感じていた。
「あら、二階堂くん。さっきは部屋にいなかったけど、どこで油売ってたわけ?」
受付の神原夏樹さんがいかにも気安げにそう声をかけると、二階堂くんは車椅子で廊下をいったりきたりしつつ、それからわたしの目の前でピタッと止まると、目が見えていないとは思えないような仕種で、わたしに対して手を差し出した。
「僕、二階堂健人っていいます。新しいボランティアの人ですよね?みんな、若い女の人が来たって言って騒いでたので……どんな人なのかな~と思ってここで待ってたんです」
わたしは彼に求められるがまま握手をし、それから「鷲尾いづみって言います。よろしく」と言って挨拶した。
「わ・し・お・い・づ・みさんかあ~。じゃあ僕、いづみさんって呼びますね。いづみさんは僕のこと、健人って呼んでください。呼び捨てで構いませんから……みんな、そう呼んでますし」
新しく出会った人間に対し、健人がいかにも好奇心いっぱいといった様子だったので、神原さんはわたしに軽く会釈すると「あとはよろしく」というように詰所へ戻っていった。
「じゃあ、健人は今いくつなわけ?」
「僕は十九ですよ。いづみさんは僕より当然年上ですよね?二十三歳くらいとか?」
「ざ~んねん!それよりさらに五つ年上。だから、君とは九つくらい年が違うってことになるわね。まあ、べつにおばさんと思ってくれていいけど」
「へえ……いづみさんは珍しいですね。大抵の女の人は三十すぎてもおばさんって呼んだら「お姉さんと呼びなさい!」とかいうのに。まあ、そんなことはどうでもいいや。それよりいづみさん、早速ボランティアしてください。僕の車椅子を押して、近くの公園まで散歩させてほしいんです。お願いできますか?」
「ええ、もちろんいいわよ!」
――このあとわたしは、健人と一緒にすぐそばの公園までいき、お互いを知りあうための世間話を色々したりした。
視覚障害者のための寮へ来て、わたしが初めて個人的に仲良くなったのが彼であり、このあともボランティアへやって来るたびに健人と過ごす時間はとても多かったと思う。
わたしが彼ら、一般にいう<目の見えない人>、視野が極端に狭いなどの視覚に障害を持つ人と出会って最初に思ったのは……「この世の汚れから隔離されている人々」といった印象だろうか。
もっともこののち、この件に関してはわたしも若干考えを変えることになるのだけれど、そう感じた一番の理由は、もしかしたら二階堂健人というやたら人懐こい青年にあったかもしれない。
うまく言えないけれど、彼と出会った瞬間、わたしの中には何か、快い爽やかな風のようなものが吹いていた。そして健人がわたしの手を握って、まるで読心術の心得でもあるかのようになかなか離さないでいる間――わたしにはわかったのだ。
彼もまた、わたしが今心の中で感じたのとまったく同じものを感じているのだということが。
とはいえ、散歩を終えて戻ってきた時、わたしはかなりのところ健人の「やんちゃぶり」に驚かされることなる。
何故といって彼は目は見えなくても足のほうは何も問題なく健康で――寮の玄関口へ戻ってくるなり、車椅子から下りてスタスタと歩きだしたからだ。
「じゃあいづみさん、また来週来てください。僕、とても楽しみにしてますから」
そう言って、別れの挨拶として握手を求めてきたので、わたしは何気なく健人に手を差しだしていた。
(足のほうはなんともないの?)という疑問を口にしかけたけれど、彼が両手で何度も手を握ってから離す仕種を見ていて、なんとなく言いそびれてしまう。
「あの、彼って……」
受付の椅子に座り、何か事務仕事をしながら玄関の様子を見ていた神原さんに向かい、思わずわたしはそう聞いた。勝手知ったるなんとやらという風情で、階段を上っていく健人の後ろ姿を見送りながら。
「ああ、あの子って、ボランティアの人をいつもああやって試すんです。一度なんか、目も悪い上に足まで不自由だなんて……って言って、泣きだしたおばさんもいたんですけどね。どうやら、鷲尾さんは二階堂くんに気に入られたんじゃないかしら。あの子、人懐こそうに見えて、結構人を選んで接するところがあるから。まあ、二階堂くんに気に入られれば、男子寮では大体のところ安泰ですよ」
「えっと、そうなんですか?」
いまひとつ意味が飲みこめなくて、首を捻っているわたしに対し、神原さんは書きものをするのを中断すると、おかしくて仕様がないというようにくすくす笑いだした。
「今日は初対面だから、きっとあの子もネコを被ってたんでしょうね。いつもは自分のこと、<僕>だなんて言わないんですよ、二階堂くんは。まあ今ごろ、隣室の仲のいい同級生にでもこう話してるんじゃないかしら。「いづみさんって、すげーいい女だよ。俺、超好きかも!」とか、そんなふうに」
「そ、それじゃあ、さっきのはもしかして全部演技ってこと?」
わたしは自分が最初に感じた爽やかな風のことを思いだし、なんとなくがっかりするものを感じた。
まさかあれまでもが錯覚だったとは、ちょっと思いたくない。
「う~ん、どうかな。まあ、普段はほんと、礼儀正しいいい子なんですよ。なんていうのかなあ、長くこういうところにいるとだんだんわかってくるんですけど、実際、目が見えないとか障害があるとかないとか、正直最後はあまり関係ないんですよね。結局、人間対人間としてどうかっていう話になってくるっていうか……鷲尾さんも、何回かここへ来るうちに、そのうちわかると思うんですけど」
そんなものですか、なんて脱力とともに思いつつ、わたしは男子寮の玄関口から出ると、秋の美しい夕景色の中、坂道をのぼって駐車場へ向かった。
次にここへ来るのは、仕事が休みの土曜日(土・日・祝はヘルパーを派遣してはいても、事業所自体は開けていない)。わたしは橙色とピンク色に染まった空を見上げて、自分が心楽しくうきうきしていることに気づいていた――そしてそれが何故なのか、その理由についてもわかっていた。
こう言ってはなんだけれど、いつもは老い先短い老人ばかりを相手にしているせいか、まさか前途ある若い男の子と話をすることが、こんなにも自分の心を若返らせることが出来るものだとは、思ってもみなかったのだ。
なんにしても、わたしの心にはこの時、何か<生きるための新しい目的>のようなものが生まれていたといっていいかもしれない。
そして来週、二階堂健人という青年にもう一度出会えることを思うと……一週間の間、とても楽しく仕事をして過ごせそうだと、そんな予感がしていたのだ。