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Side:いづみ-12-

 そして、わたしが一方的に健人と別れて四年後……わたしの元には、三歳の義愛ヨシュアという名前の、可愛い息子がいた。

 わたしはあれから、身元を調べられなくても済むような仕事を転々とし、ある古い産院の看護助手をしている時に、自分が妊娠していると知った。もちろん、健人との子供で、総白髪の人がいい医院長は「ここで生んで育てるといい」と言ってくれた。

 もっとも、わたしが義愛を生んでのち、この病院は閉院することが決まったので――その後、わたしはそこの医院長の紹介で、ある教会の孤児院に住みこみで働かせてもらうことになっていた。

 そこはプロテスタント系の教会で、牧師はわたしよりひとつ年上の女性だった。彼女は茅野愛美かやのまなみといい、実の両親に虐待されたことから、わたしと同じように十代の頃は児童養護施設で育った過去を持っている、一見平凡そうに見える女性だった。

 わたしは出会ってすぐ、自分の事情をすべて愛美に話したわけではないけれど、わたしは彼女に対して直感的に自分とまったく似たもの、同じものを持っていると感じていた。

 つまり、わたしが昔いた児童養護施設では、本当に両親のいない天涯孤独といった身分の少年・少女たちより、親の金銭的事情や虐待、アルコール中毒や麻薬中毒、親に精神的疾患があって育てられない……といった子供たちのほうが多く入所していたのだ。

 その頃わたしは、誰に対しても心を閉ざしてまともに口さえ聞かなかったし、それは施設のスタッフに対しても同様だったといえる。そしてわたしは同じ施設内の他の少年や少女に対し、自分と似たものや同じ匂いのようなものを感じて――彼らと仲良くしようと思うどころか、鏡のように自分の姿を彼女たちの中に見出すような気がして、むしろ一緒にいることさえ嫌だったのだ。

 わたしは愛美に出会った瞬間、あの頃に自分が経験した感情といったものをまざまざと思いだすような感じがしていた。ずっと忘れていたというより、なんとか忘れようとしてきた惨めな過去のことが心から溢れだして来ても、今はもうまったくなんでもない。そして彼女のほうでもわたしに対し、まったく同じ気持ちを目と目が合った瞬間に感じたと聞いた時は……とても嬉しかった。

 わたしは彼女と一緒に、自分の息子を育てるのと同時、孤児院にいる六歳から十七歳までの子供計十六名の世話を、<奉仕>という名の元に行うことになった。つまり、衣食住や義愛ヨシュアの養育費などは教会から負担してもらえるけれども、それ以外のことでわたしに「お給料」といったものが支払われることは一切ない、ということ。

 わたしはそのことを聞いた時、「まるで夢のよう」だと感じたのをよく覚えている。

 何故といってわたしは昔から――何かの<報奨>をもらうことなく、ただ無私の愛のようなものから同じ介護の仕事を出来たらどんなにいいだろう、そう思ってきたからだった。現実問題としてそれが不可能であることはわかっているし、口に出してそんなことを人に話せば、「偽善者」としか思われないだろうこともよくわかっている。

 そして実際に、孤児院にいる子供たちというのは、かつてのわたしと同じく「複雑な問題」を抱えて成長している子が多く、扱いが普通の子供たちよりも難しかったといえる。一応、名称こそ<孤児院>であるとはいえ、実際に蓋を開けてみると院の中は、親に虐待されたり、あるいは親に子供を育てる能力がなくて捨てられた子ばかりがそこには集まっていた。

 たぶん、キリスト教系の孤児院で寮母として働いているなんていうと……何か聖母マリアの後光のようものがわたしの頭からはさしていて、天使ような子供たちがみなわたしに懐いてくれている、だなんて誤解する人がいるかもしれない。

 でも実際の、わたしの孤児院での働きの日々というのは、とにかく毎日が闘いの連続だった。

 一応、愛美が牧師をしているすぐ隣の教会から、教会員の方が子供たちの世話のため、ローテーションを組んで食事の用意や洗濯を代わりにしてくれるといったサポートはある。けれども、わたしは自分の息子の面倒も見なくてはならないし、他の子たちの宿題の面倒やら何やら、とにかく毎日が目まぐるしく忙しかった。

 しかもそんな中で、サポートをしてくれる教会員の方との人間関係的ないざこざというのか、揉めごとといったものまであり、わたしは最初の頃、クリスチャンというのはまったくどういった人たちなのだろうと訝しく感じたものだった。

 たとえば、週に三回、朝の食事作りをしに来てくれるAさん――彼女はうちの子供たちは「だらしなく怠慢で、このままでは将来ろくなものにならない」と出会った瞬間、わたしに対してはっきりそう宣言した。だから寮母であるわたしがもっとしっかりすべきなのだと、何かあるごとに説教めいたことを彼女は繰り返して言うのだった。

 そして子供の余暇活動の支援をしてくれるBさん……彼は四角四面な性格で、子供が寝そべって漫画本など読んでいようものなら、それを取り上げてゴミ箱に捨ててしまうのである。「漫画など読んでいたら馬鹿になる」というのが彼の口癖で、自分たちの<普通の人以下>の境遇を考えたら、漫画を読む時間をもっと有意義なこと――勉強や、活字の本を読むことに当てて然るべきだというのが、彼の信条なのだった。

 さらには、ボランティアで孤児院の家事をすることにはまったく異存はないが、自分はCさんやDさんのことがあまり好きではないので、彼や彼女と一緒にならないローテーションであれば、無償で奉仕活動をしてもいい……なんていう人がいたり。

 もちろん中には、「クリスチャンの中のクリスチャン」とでもいうような、徳の高い素晴らしい人もいたりはするのだけれど、むしろそうした人というのは数として少なく、わたしは(キリスト教の教えなんて、所詮はこんなものなのね)と、そう勝手にひとり決めしてしまった。

 それに加えて、「あなたは結局クリスチャンではないから、こうしたことがわからないのだ」とか、「ここの施設で働く以上は、あなたもキリスト教徒として洗礼を受けるべきだ」といったような、無言の重圧まであり――わたしはそうした気配を感じたり、遠回しに説教めいたことを聞かされるたび、むしろ依怙地になって、絶対にクリスチャンになどなってたまるか、洗礼など受けるものかと思うようにさえなっていた。

 にも関わらず、わたしが最終的に何故、愛美から洗礼の儀式を受けることになったかというと、それは一重に息子のためだった。わたしが産院で義愛のことを生んで、彼の名前を何にしようかと決めかねていた時……わたしはそこの産院の医院長から、愛美と彼女が牧会している教会のことを紹介されたのだ。

 わたしは最初、生まれたばかりの息子に対し、「健○○」といった名前にしようと考えていた。たとえば、「健一郎」とか「健介」とか「健太郎」といったような名前。健人のお母さんは、彼のことを約1300グラムの未熟児として産んだ時――なんでもいいからとにかく、健やかな人として育って欲しいと願い、「健人」と名づけたという話だった。

 わたしにも親として、彼には健人のように健やかな人であって欲しいと願う気持ちがあったから、どうしても「健」という名前を使いたいという拘りがあったのだ。

 けれども、愛美と会ったその日の夜、夢の中でお告げのようなものがあって、「その子は義愛ヨシュアと名づけなさい」と神さまのような人にわたしは言われたのだ……義の愛と書いてヨシュア。わたしは目が覚めた時、流石にその読みには無理があると感じたけれど、次の日にそのことを愛美に話してみると、聖書には実際にヨシュアなる人物がでてくるということがわかったのである。

「旧約聖書にヨシュア記という章があって、まあ簡単にいえば、彼はモーセの後を継いでイスラエル民族を約束の地へ導いた人と言えばいいかしら。それから、イエス・キリストのイエスも、ヘブル語イェシュア――ヨシュアをギリシヤ語から音訳した名前なのよ。意味はヘブル語で「主の救い」っていうこと」

 わたしはその時、何か深い感銘のようなものを覚えて、息子の名前を夢のお告げのとおり、「義愛ヨシュア」と名づけることにした。そして、わたしは自分がキリスト教徒になることには非積極的だったけれど、息子には生まれてからすぐ洗礼を受けさせたし、彼には健人のように汚れのないままで神さまに守られて育ってほしいと、心から願っていた。

 わたしは愛美に、「何故神さまを信じているのか」、「神を信じて何になるのか」、「自分の過去のことを振り返って、神がいるなら何故これはこうであれはああではなかったのか」と思うことはないのかと聞いてみたことがある……すると彼女は、わたしに対して「いづみにもいつかわかる時がくる」としか言わなかった。そして彼女が「いつかわかる時がくる」と預言したとおり――確かにわたしにも、「わかる時」というのがやって来た時、わたしは彼女から洗礼を受けるということにしたのだった。

 健人と一方的に別れて以来、わたしはずっとこんなふうに感じてきた。母のゆり子さえ現れなければ、わたしはあのままずっと幸福でいることが出来、今ごろ息子の誕生を彼や義理の家族と喜び祝うことが出来ていたはずなのに、と。それから自分の不幸な生い立ちのことなども思いだし、自分はなんて可哀想な運のない女なのだろうと、自己憐憫の涙をベッドの中で流すこともよくあった。

 でも今――孤児院で血の繋がらぬ子供たちの面倒を見ていて、つくづくこう感じる。わたしは最終的にこの子たちの面倒を見るために、この地へ流れ着いたのだと。もちろん、こう書くからといって、わたしが彼らにとってなくてはならないスーパーウーマン的寮母だ、というようなことは決してない。

 むしろその逆で、わたしはかつて自分がいた児童養護施設の寮母や、そこで働くスタッフたちのことをよく思いだしていた。先にも言ったとおり、わたしは彼らに対して一度として心を開いたことはない……そして、わたしが寮母をしている施設でも、そうした種類の子がふたりほどいる。

 孤児院へ来て一年が過ぎても、「自分はこんなところへいたくているわけではない」といったようにふてくされたような顔をした十歳の哲司と、表面的には大人の言うことを素直に聞くにも関わらず、何を考えているのかまったくわからない、十二歳の遊馬のふたり。

 わたしは自分の過去のことを振り返ってみて、彼らの屈折した気持ちというのがわかるような気がしたけれど――だからといって、「わかった」ところで何がどうなるわけでもないのだ。

 たとえば、哲司には学校に友達がいないし、問題行動を起こしたというので学校へ呼びだされたりしたことが、わたしは何度もある。そういう時、わたしに出来ることといえば、とにかく学校の先生や同級生の親なんかに平謝りに謝ることくらいで……彼にとって親友と呼べるくらいの友達が出来てほしいとわたしがいくら心の中で祈り願っても、結局わたしは哲司に対して「何もできない」という無力さしか感じることは出来ない。

 そしてわたしはこの時になって初めて――昔いた児童養護施設で、寮母の女性やスタッフたちが、困惑したような微妙な微笑みを顔に張りつかせていたのが何故なのか、よくわかった気がする。わたしは彼らのその表情を見て、「可哀想に」と思って同情してるんだろう、この偽善者めといったようにしか思わなかったけれど……実際のところ、今は彼らの気持ちが痛いくらい、わたしにはよくわかっていた。

 哲司や遊馬の心には、本人が自覚しているにせよいないにせよ、親の愛情を受けとりたいと願う、スポンジのように柔らかい心があるはずだった。でもわたしが、「実の親ではないけど、代わりのものをそこに注いであげるよ」というのでは駄目なのだ。逆にいうと、哲司や遊馬以外の、比較的わたしに懐いたり心を開いたりしてる子というのは、「チェッ、しょうがないな。仕方ないからそれでもいいよ」と諦めているのだとも、もしかしたら言えたかもしれない。

 そしてそんな哲司や遊馬ではあったけれど、赤ん坊の義愛のことは彼らふたりが一番よく面倒を見てくれるのだ。わたしはその様子を見ていて、彼らにはたぶん「自分よりも無力で純粋なもの」を愛したいという気持ちが強いのだろうと思い、思わず感動してしまうのだけれど……哲司が義愛をあやす様子を見ていてわたしが涙を流したのが何故なのか、彼にはまだわからないと思う。

 愛美が言っていたとおり、それは本当に「いつか時が来たら」わかるという、そういう種類の出来ごとなのだろうから。



 それとわたしは、ずっと介護畑というものにいて、人間関係の機微といったものについては相当学び尽くしたと自分では思っていたけれど――人間というのは、こうした種類のことについて一生の間、おそらく<学び尽くす>ということはないのだと思う。

 たとえば、先に書いた週に三回、朝食作りに来てくれるAさん。彼女が食卓にいる時は、子供たちもすぐシャッキリと目が覚め、背筋を伸ばしてごはんを食べていることが多い。またAさんは年配であるせいもあり、正しい箸の持ち方といったことに相当口うるさい人でもある。子供たちは内心、Aさんのことを疎ましく思っているだろうけれど、考え方を変えればAさんという人は、子供の躾けという点で実に助けになっている人だとも言えた。

 それからBさんについても同様で、学校から帰ってきて彼が孤児院の居間にいるのを見ると、子供たちはしぶしぶ黙って自分の机へ向かうのだった。わたしは毎日のように「宿題は!?勉強は!?」と、子供たちに怒鳴ってばかりいる気がするけれど、Bさんがいる時にはそうした心配は何もしなくていいのである。

 CさんやDさんと一緒に仕事をしたくないEさんには――子供の服の繕い物を持って帰ってもらったり、あるいは子供のお弁当のカバンなど、色々な縫い物を家でしてもらうということになった。彼女は手先が器用で、子供服やぬいぐるみを作ってくれたこともあるし、また家で作ったおやつを孤児院へよく差し入れしてくれるという、心優しい人でもある。

 そしてわたしがつくづくと感じるには……この世界には色々な人がいて、みんながみんな、ありのままでいいということだったかもしれない。昔のわたしには、そうした肯定感といったものはまるでなかった。だから介護といった仕事などを通し、少しでも<社会の役に立つ>とか、そうしたことでもしない限りは――自分のような人間は生きている値打ちすらないのだと、いつも心のどこかで漠然と感じていたのだと思う。

 けれど健人に出会ったことで、目の見えぬ光を知らない彼に、<光>をもらったことで……確かに間違いなく、わたしの人生は180度変わっていた。そのことをあらためて思い知ると同時、全国紙の「たずね人」の欄に『いづみさんへ。例の件は無事解決したので、何も気にせず戻ってきてください。健人』という短い文章を発見した時――わたしは一度、彼の元へ帰るということに決めた。

 この時、義愛は三歳で、わたしは彼を生んだ時から、我が子の成長を間近で見れないことへの、健人や義理の父母に対する申し訳なさから……ずっと細かくつけ続けてきた育児日誌と、たくさんの写真を車にのせて、息子と一緒にかつて自分がいた「幸福の場所」へと戻ることにした。

 本当はもっと早くそうするべきだったとか、何故今この時なのかとか、色々思う人はいるかもしれない。でもわたしは自分でも知らないうちに、こう思いこんでいたのだ。母・ゆり子のことだけでなく、自分のような人間がそばにいると、健人のように純粋な人は知らず知らずのうちにもいつか不幸になるのではないか、と……。

 だから、今は離れているしかないけれど、それでもいつかもし会えたらと、そのことだけを心の支えにして、わたしはずっと生きてきたのだ。

 でも生まれた時から死ぬ時まで、ずっと運に見放された人間というのが、この世界には存在するのだと思う。

 わたしが特になんの連絡もとらず、かつての故郷へ戻ろうとした寒い冬の日の朝――わたしはアイスバーン状態の凍った道で、ダンプカーと接触事故を起こし、死ぬ運命にあったのだから……。




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