Side:いづみ-10-
それから、わたしが健人と結婚することになったのには、絶対的に健人の両親の存在が大きい。
何も健人の父親が医者で、すでに財産の多くを彼に残すつもりでいるからとか、そんな理由ではまったくなく……大輔の両親や家族に会った時、わたしはこう思ったのだ。わたしは彼らと同じ<普通のふり>を暫くの間はしていられるけれど、その化けの皮が剥がれたあとは、おそらく互いの関係がぎくしゃくしてくるに違いないと。
でも健人の両親も彼のお兄さんもお嫁さんも――本当に、よく出来たいい人たちだった。
わたしのような人間がそこへ家族として迎え入れてもらっていいのかどうか、心に罪悪感を覚えるくらいの、本当に優しくて心の温かい人たち。
わたしは自分には父親がいないこと、またシングルマザーの母親とも音信不通の関係であり、彼女が今どこでどう暮らしているのかもまったくわからない……また、親戚らしい親戚もいないので、結婚式に呼べるような人はほんの十数名程度しかいないと、結婚が決まった時、健人の両親にそう話さなくてはならなかった。
すると、ふたりともわたしがよほど苦労したからこそ、介護という仕事に生き甲斐を見出すようになったのだろうと、妙に納得した様子で――「変な話、ほっとした」と言っていた。
「ほら、いづみさんってあんまりいい人すぎるから……」
「そうそう、わたしも妻とたまに話してたんだ。いづみさんは一体どこらへんに欠点があるんだろうねって。あんな綺麗な人が健人と結婚してくれるだなんて、あまりに理想的で夢のようだけれど、そのうち二世帯住宅で暮らしていくうちに、お互いの欠点が見えてきたりするんだろうか、なんてね」
結局、小ぢんまりとした極身内だけの結婚式を済ませたあと、わたしと健人は二階堂病院と二階堂治療院のすぐ隣にある敷地に、彼の御両親と二世帯住宅で暮らすことになった。
この時わたしは、とても幸せで――もしかしたら、幸せの絶頂にあったといってよかったかもしれない。
けれど、やはりわたしは健人のひたむきな純粋さと愛情の中だけでは暮らせない人間だった。
もともとわたしが属する世界……醜くて汚れの多い場所から、何かの黒い手が伸びてきて、わたしという人間を元いた場所へ引きずり戻そうとした時――わたしはその手に抵抗するということが、まったく出来なかったのだから。
わたしは健人が、結婚するまでは性的な交渉を持つつもりはないと考えていることが、はっきりそうと彼が口にしなくても、よくわかっていた。
もちろん、わたしのほうからそう誘ってみる、ということは、出来ないことではなかったかもしれない。
でも健人のように純粋な気持ちを持っている人に、そんなことを言いだすのはとても勇気のいることだった。
だからわたしも――実際には処女でなくても、何か処女に戻ったような気持ちで、結婚初夜までそうしたことは取っておくべきなのだろうと思っていた。
けれど、実際にわたしと健人が一線を越すということになったのは、結婚式前のことになる。
あれは結婚を一か月後に控えた、とても蒸し暑い夜のことだった。健人はほとんどお酒が飲めない質なのだけれど、何かそういった場所で結婚前にわたしと思い出作りがしたいと言ったのだ。
そこでわたしは、ホテルの最上階にあるバーで、街の夜景を眺めながら健人と少しだけお酒を飲むという計画を立てた。
「父さんがさあ、俺が二十歳になったら晩酌につきあってくれるのが楽しみだったんだって。でも俺、もう二十三になるけど、ビール飲んでも全然美味しいと思わないんだよな。あんな苦いの、どこが美味いんだろうって思っちゃって……一緒に働いてる人たちもさ、仕事のあとの一杯は最高!とかいうんだけど、俺は酒の味ってまだ全然わかんないな」
そう言って健人は、ミントの葉っぱとライムののったモヒートをちょびちょび飲んだ。
わたしはといえば、健人に合わせたように可愛い感じのカクテルを頼み――健人がモヒートを一杯飲む間、すでにそれを三杯ほどおかわりしていた。
「べつに、お酒なんか飲めなくたって、死ぬってわけじゃないでしょう?それよりわたし、健人が酒乱とか、そっちの気がなくて良かったなって思うの。ほら、わたしの母親って水商売してたから……」
そこまで言いかけて、わたしはハッとした。
何故といって、健人に自分の母親や育った環境のことなどを話したことは、これまで一度もなかったからだ。
「ああ、そうなんだ」と、健人は何気ない返事をしたけれど、実際は彼が相当驚いているということが、わたしにはよくわかっていた。
「いづみさんって、自分のことは俺に、あんまり話してくれたことないから……いつかは話してくれるかなってずっと待ってたけど、いづみさんが話したくないんだったら、べつにいいんだ。無理して聞こうとも思ってないし」
「うん、そうね……でもわたしたち、来月結婚するのよね。やっぱりこういうことって、結婚前に話しておかないと、フェアじゃないっていうか。健人、わたしの母親って、本当にどうしようもない人だったの。健人にはあんなに立派でいい御両親がいるから、わたしのいう「どうしようもない人間」がどういう部類の存在なのか、もしかしたら想像出来ないかもしれない。健人はね、たぶん「それでもいづみさんの母親なんだから、救いようがないなんてことはない」って思うかもしれない――でも、世の中には本当にそういう、悪魔に取り憑かれているとしか思えない人間が存在するのよ。母親が水商売をやってたせいで、わたしの家には小さい頃から酔っ払いの出入りが結構あったの。それで、わたしはそういうのが本当に嫌で嫌でたまらなかった。わたし、たぶんその時に決めた気がする……絶対にわたしはあんな母親みたいな女にだけはならないんだって。本当に、今も心から思うわ。わたしはこれまで、たくさんの老人の介護をしてきたけど――唯一自分の肉親である母さんのことだけは、老後の面倒なんて絶対に見れないって」
「……………」
もしかしたらこの時、健人の中で初めて、<理想のいづみさん像>に軽くヒビが入ったのかもしれない。
このあと健人は言葉少なに、色々なお酒をちょっとずつ試し飲みし(自分でもこれだけは飲めるというお酒を彼は探していたので)、ホテルのバーを出る頃には、少しばかり足元がおぼつかなくなっていた。
「ほら、白じょう杖をこっちに寄こしなさい。それで、わたしの肩に手をまわすの。うちがちょうど、ここから歩いて十分くらいのところにあるから、少し寄ってくといいわ。それで酔いが醒めたら、家まで送っていってあげる」
「大丈夫ですよ、いづみさん。いづみさんの家のそばの駅から、俺、これまで何度も自分の家まで行ったり来たりしてるんだから……送ってなんかもらわなくても、無事帰れますって」
「馬鹿!いつもならあんたの言葉を信用するけど、今日は駄目よ。第一、この状態で健人を帰したら、わたしがお父さんとお母さんになんて言われるか。それに、もしあんたがプラットフォームから落ちて事故にでも遭ったら、わたしは可哀想な未婚の花嫁ってことになるのよ。そこんとこ、健人はわかってる!?」
「う~ん。いづみさん……俺、気持ち悪………」
健人は突然力なくひざまずくと、煉瓦模様の歩道の上に、おえっと吐いた。
まだ半分未消化の、ボンゴレスパゲティがアルコールの匂いと一緒にまき散らされる。
「やっだ、きたな~い!!」とか、「最悪だな」と、通りすがりのカップルに言われるけれど、まあ仕方ない。
わたしはバッグの中からハンカチを取りだすと、それで健人の口許をぬぐった。
「ほら、立って!わたしに寄りかかって黙って歩くの!!いいわね!?」
「はは……なんだろ、俺。いつにもまして、めちゃくちゃ格好悪いや。いづみさんはさ、なんで俺みたいのと結婚しようと思ったの?さっきもホテルでさ、マスターみたいな人に話しかけられてたでしょ?っていうことは、いづみさんはああいうところ、これまでに何度も誰かと来てるってことだ……まあね、俺はね、こんなだからいづみさんの過去については詮索しないよ。でも、なんで他の男じゃなくて俺だったのか、やっぱりよくわかんないや」
「まったくもう、この酔っ払い!!」
健人自身にまるで歩く気がなく、引っ張って数歩行くのが限界だったので、わたしは彼のことをその場に残しておき、そばの国道へタクシーを拾いにいった。
というより、こんな中途半端なところまでのろのろ歩くことなく、ホテル前からタクシーに乗ればよかったのだと、わたしは心底後悔していた。
しかも、なんという運の悪さなのか――ようやくタクシーを捕まえて戻ってくると、健人はガラの悪いふたり組に絡まれているところだったのだ!
「よう、兄ちゃん。いいサングラスしてんなあ」
そう言って、趣味の悪いアロハシャツを着た色黒の男が、健人の顔から強引にサングラスを外そうとする。
「おっと、見てみろよ。こいつ、化け物みたいなツラしてんぞ!うっわ、こえぇ!!」
白いスーツを着た背の高い男が、その間に健人のスーツから財布を探りだし、そこから壱万円札を数枚抜き取っている。
「ふう~ん。目の見えない奴ってのは、クレジットカードなんかは持ってないのかね。でもまあ、名前とか住所がわかれば、闇金融から金を借りさせることくらいは出来るかな……よう、兄ちゃん!!おまえ、なんか身分のわかるもんは持ってねえのか!?」
その時の、男のドスの利いた声で――わたしにはそいつが誰なのかがわかった。
わたしはその場に凍りついたように立ちつくしていたけれど、彼らが健人から所持金以上のものを奪い取ろうとしているのを見て、なんとか勇気を振り絞ることに決めた。
その相手が、自分の母親と長く共犯関係にあった愛人だとわかっていても……。
「ちょっと、あんたたち!!わたしのツレに変なことしないでよ!!」
タクシーの運転手が、まるで揉め事はごめんだというように走り去っていくのと同時――わたしはアロハシャツの色黒男と、白スーツのヤクザの間に立ちはだかった。
「ハハハハハッ!!威勢のいいお姉ちゃんのお出ましか!?こんな化け物野郎にはもったいないくらいのいい女だな。どうする、達郎?この子に免じて、現金だけでずらかることにするか?」
わたしは、アロハ男が達郎と呼んだ男の視線を怖れるように、長い髪で顔を隠すようにしながら、健人のことをなんとか立ち上がらせた。
わたしの家のある方向とは反対になってしまうけれど、このまま、奴らに背を向けるような格好で逃げきれれば……わたしは、心の中で神に対し、必死にそう何度も祈っていた。
「おい、待てよ」
汚い儲け話に抜け目のない坂上達郎は、やはりこの時、わたしのことも見逃しはしなかった。
ぐい、とわたしの肩をつかみ、かなり強引に振り返らせる。
「おまえ……ゆり子の娘だな!?久しぶりじゃねーか。あれから何年になるかな~。あの頃、おまえはまだセーラー服なんか着て、学校に通ってたもんな。まったく、おまえにシャブ打ったくらいでこっちは刑務所行きになっちまってよ。あの時の借り、俺は絶対にいつか返してもらいてえと思ってたんだぜ?」
坂上は、あの頃と同じように――馴れ馴れしくわたしの腰をつかんで自分のほうに引き寄せようとした。
「離しなさいよ!わたしはあんたなんか知らないんだから!!」
「ハハハ。知らないわけ、ないだろう?何しろ俺は、おまえの初めての相手だったんだから……他にも色々、教えてやったろ?男を焦らすためにはどうしたらいいかとか、そんなことをな」
坂上が、あの頃と同じように自分を所有物のように扱うのを感じて――わたしは心底ゾッとした。
あれから十数年たった今でも、この男の本性が何も変わらず、腐りきっているということがよくわかったからだ。
「離せっ!!俺のいづみさんに、汚い手で触るなっ!!」
白じょう杖を片手に、必死の形相で坂上に殴りかかっていく健人。でも、当然坂上はその攻撃を余裕の態度で避けた。
「おっと、目の見えないお兄ちゃん。喧嘩っていうのはなあ、こうやってするものなんだぜ!」
坂上は、相手の目が見えようと見えなかろうと、同情心をかきたてられるような人間ではない。
奴はほんの軽い気持ちで健人の左頬を殴り、彼がよろめくと、今度は容赦なく重いパンチを腹に決めていた。
もしこれで健人の目が見えていて、多少腕に覚えがあったとしても――ヤクザ稼業の傍ら、昔からボクシングジムに出入りしているような坂上には、到底勝つことは出来なかっただろう。
そんな奴に目をつけられたら、とにかく逃げる……善良な市民に出来ることといえば、たったそれだけなのだ。
「ほら、健人。しっかりしてっ!!」
スーツのポケットに両手を突っこんだまま、今度は蹴りを入れようとする坂上のことを突き飛ばし、わたしは健人のことを介抱した。
「ははっ。達郎、もうそのへんにしとけや。しっかし、この娘、あの鬼ゆりの娘かあ。顔のほうは似てねえが、血は争えないっていうからな。おい、兄ちゃん。チンポコくわえてもらっていい気になってると、そのうちケツの毛一本残らないで、お寒い世間様に放りだされるかもしれねえぞォ。いやはや、自分の顔を鏡で見てもわからないってのは、怖ろしいもんだね」
坂上は、ペッと地面に唾を吐くと、スーツの内ポケットから煙草をだして吸いはじめている。
それから、「またどっかで会うこともあるだろうさ」と、不吉な言葉を残して去っていったのだった。
「ねえ、いづみさんっ。さっきのあいつらが言ってたことって本当!?いづみさんが、あんな、あんな男と……っ」
坂上が手加減をして、軽く殴った程度ですんだせいか、健人の顔には痣のようなものはなかった。
けれど、言葉の暴力を経験したことはあっても、こんな肉体的暴力を経験したのは、健人にとって生まれて初めてのことだったに違いない。
坂上たちがその場からいなくなったあとも、健人は体の震えが止まらないようだった。
「ねえ健人、その話はもっと別の、落ち着ける場所でしましょう。うちのマンションはここから歩いて十分くらいのとこだけど、もうわたしには歩く気力もないわ。せっかく捕まえたタクシーにも逃げられちゃったし、さっきのホテルまで戻って、そこからタクシーに乗るってことでいい?」
「……………」
わたしが坂上との関係を即座に否定しなかったことで、健人はおそらく複雑な気持ちになったに違いない。
そのあと、歩いてホテルへ戻るまでの間も、タクシーに乗ってマンションまで辿り着くまでの間も、健人は終始無言だった。
そしてわたしはといえば――奇妙に頭の芯が冴えたように冷静だった。
これでもう、健人には軽蔑されてしまうだろうとか、結婚はなかったことになるかもしれないとか、そうしたことについて、不思議とわたしの心に不安はなかった。
むしろどちらかというと、わたしはやはり坂上のような人間の属する世界にいるべきなのであって、そこから完全に逃げきることは出来ないのだと思うと……おかしなことに、奇妙な安心感さえ心に生まれていたと言えるかもしれない。
三つ子の魂百まで、とはよく言ったもので、わたしは大輔との結婚を自分の手で破談にしたように――今度もまた自分の幸せが駄目になると思うと、いつもの馴れた不幸な環境に戻れることに、ほっとするような安堵感さえ覚えていたのだ。
「ほら、少しじっとしてなさい」
先ほどは暗かったのでよくわからなかったけれど、健人の顔に痣はなくても、口の端が少しだけ切れていた。
わたしがそこを綿棒で消毒しようとすると、健人は飛び上がらんばかりに痛みを訴えた。
「いって!!痛いよ、いづみさん……それにこんな程度の傷、黙ってても何日かすれば治るって」
「そんなの、わかんないでしょう?何日かして傷が化膿してきたら大変だもの。それより今、お茶でも持ってくるわね。さっきの話の続きは、それからにしましょう」
タクシーに乗っている間までは冷静だったわたしも、流石にこの時には――心臓の鼓動がドキドキと速まるのを自覚しないわけにはいかなかった。
健人が初めて出会った時から、何かわたしのことを<理想の女性>として見ていたらしいことは、よくわかっている。そしてわたし自身にもまた、彼のそうした「理想」にあえてつきあっていたような部分がないとはいえない……もともとの自分を実際より良く見せかけようとするのは愚かなことだ。
でも、いつかこういう瞬間がやってくるということを、わたしは心のどこかでわかっていたような気もする。
「あのね、いづみさん」と、健人はわたしから麦茶を受けとると、ソファの腕木のところに一旦それを置いた。「俺、さっきはなんかすごく、取り乱してたみたい。あんな最低な連中の言うことを間に受けるだなんて、どうかしてたと思う。でも、俺がいくらいづみさんのことを守りたくても……そう出来ないんだってことが、よくわかった気がする。いづみさんも流石に俺に愛想が尽きたでしょ?もしそうなら――結婚するって話、なかったことになっても、俺はそれでいいよ」
健人の言葉は、最後のほう、微かに震えていて、彼がどのくらいの決意の力を持ってそう言ったのかが、わたしにはわかった気がした。
てっきりわたしは、健人が坂上の言ったことについて、何度も反芻しているのだろうとばかり思っていたけれど、彼はその点についてはわたしの言うことを信じることに決めたのだ。
それよりも、今夜の自分の失態についてばかり、彼の中では何度も思い起こされていたに違いない。
「あのね、健人……わたしは健人にたぶん、話さなくちゃいけないことがあると思うの。健人、さっき言ってたでしょう?自分みたいな男のどこがよくてわたしが結婚しようと思ったのかわからない、みたいなこと。わたしはたぶん、健人が思っているよりもずっと、卑怯でずるい人間なのよ。うまく説明できるかどうかわからないけど、健人が目が見えないことで晴眼者にコンプレックスを持つみたいに――わたしにも似たようなところがあって、障害を持っている人たちと接していると、彼らが自分とまったく同じ存在なんだってことによく気がつくの。ようするに、晴眼で健常で、何不自由ない普通の暮らしをしている人に対して、わたしは物凄いコンプレックスのようなものを持ってる。そしてそういうものをわたしに小さな頃から植えつけたのが……母さんや、さっき会った坂上みたいな人間なの。あのね、健人……わたしの母親がゆり子っていう名前なのは、本当のことなの。それで母と彼が当時未成年だったわたしに麻薬を打って逮捕されたっていう話も本当。わたし、あいつに随分ひどいことされたわ。口にだして言うのも嫌になるような、汚らしいこと……だからね、わたし、本当はいつも健人のことが眩しかった。だってあんたは、あんな坂上のような奴のいる世界とは、まったく対極の場所にいるんだもの。こんなこと言っても、健人には意味がよくわからないかもしれない。でも、これだけははっきり言えるわ。本当は健人がわたしに相応しくないんじゃなくて、わたしのほうが実はあんたに相応しくないんだってこと……おかしな話に聞こえるかもしれないけど、わたし、今少しだけほっとしてる。健人と結婚したあとにこういうことがわかるんじゃなくて、その前にわかって良かったって、そんなふうに思うの」
――こんな時に泣きだすのは卑怯だ、そう思いながらも、わたしは涙が溢れだすのを止めることが出来なかった。
そして声を押し殺して泣く、わたしの涙の気配に気づいた健人が、そっとティッシュをわたしに向けて差しだす。
健人は、もう何回もこの部屋へ来ていて、どこに何があるか、よくわかっているのだ。
「前にいづみさん、俺がなんでいづみさんのことを好きなのかって、聞いたことあったよね」
わたしがした懺悔にも近い告白のことを聞いても……健人の中では何かが揺るがなかったようだった。
もし彼の目が見えていたとしたら、おそらくこういう時には少なくとも神妙な顔をしようとしただろう。でも健人は、どこか嬉しいような微笑みすら浮かべていた。
「俺、その時には「秘密だよ」なんて言っちゃったけど……俺がね、いづみさんのことを最初に会った時から好きだったのには、理由がふたつある。ひとつ目は、目線にブレが一切なかったこと。まあ、目の見えない俺が目線なんていうの、おかしく聞こえるかもしれない。でもね、いづみさんは上から見下ろすでもなく下から見上げるでもなく、とにかくいつも俺と心の目線がピッタリ一緒だったんだ。「あ、この人は他のボランティアの人と違って、わかってるな」って俺は思った。<目の見えない可哀想な人>っていうんじゃなくて、あくまで対等な人間同士として接してくれる人だって、俺にはすぐわかったっていうか。それと理由のふたつ目は――いづみさんの手。俺ね、相手の手を握ると、なんでかその人がどういう人なのかっていうのが、すぐにわかる。それでね、いづみさんの手を握った時にこう思ったんだ。この人は人並じゃない苦労をしてきてる人だなって……だからそれで、俺や障害のある人の気持ちがわかるんだろうって思った。
俺、いづみさんのことが今もあの時と同じくらい、すごく好きだよ。だから、いづみさんの過去に何があってもいいんだ。俺とこれから一緒にいて――俺と一緒にいることがいづみさんにとっても居心地よかったら、それが一番なんだ」
「健人……」
いつもなら、(あんたって子は、まったくもう!!)とでも言っていたかもしれない。
でも、この時わたしは健人と出会ってから初めて、本能的に彼にキスをしたいと思っていた――それも、貪るくらい情熱的なキスを。
「ねえ、いづみさん。これって同情?」
わたしが健人の唇に軽く触れるだけのキスをすると、彼は子供のように笑ってそう言った。
「俺、今日史上最悪ってくらい、格好悪かったから……それで、可哀想だと思ってキスしてくれたってこと?」
「馬鹿ね、本当にあんたって子は……わたしは同情でこんなことをするほど、安い女じゃないのよ」
――ねえ、いづみさん。俺ってさ、化け物みたいなんじゃないの?
――馬鹿ね、健人。あんたみたいな優しい目をした化け物が、いるわけないじゃないの。あんたは、わたしにとって天使みたいな子よ。最初に会った時から、わたしはそう思ってたんだから……。
この会話が、実際本当にしたものだったのかどうか、それともわたしの夢の中だけで交わされたものだったのか、わたしには今はもうわからない。
ただ、坂上のような男に汚された自分の体を、今は健人に対して何か、癒しの道具として使えるということが、わたしにとっては魂が震えるくらい嬉しくてならなかったことだけは、よく覚えている。
なんにしても、これがわたしと健人が本当の意味で結ばれることになった夜の顛末だった。