指名
「はて、どうしたというのじゃろう? 刑部狸さまは狸穴で、姫さまの婿殿を連れ帰る手筈じゃのに……」
ひょい、と腰を上げると芝右衛門は刑部狸の近くへ寄って行った。
芝右衛門を見た刑部狸は、ぎろりと目を光らせた。
「なんじゃ、芝右衛門。何か申したい儀でもあるのか?」
芝右衛門は「へっ!」と恐縮した。
「あのう……姫さまの婿殿は……?」
その言葉に、狸姫も顔を上げた。刑部狸は瞬時に、苦い顔になった。
「婿殿は、来ぬ!」
「えっ? いっ、今、何と仰せられたので?」
「だから、来ぬ、と申したのだ。婿殿は、この縁談を断ってきた!」
「ひえーっ!」と、芝右衛門は悲鳴を上げ、半ば腰を抜かした。
宴会場の音楽がぴた、と停止した。狸たちは刑部狸の意想外の言葉に呆然となっている。
そこで、初めて姫が口を開いた。
「お父さま、それは、どういうことですの?」
「どうも、こうもない。婿殿は、この縁談を断ってきたのじゃよ」
「理由をお聞かせ下さいますか?」
「そんなものは、一切ない! とにかく婿殿は、同行を断ってきた。狸穴を離れたくないと言ってな」
見る見る狸姫は柳眉を逆立てた。
「侮辱です! 納得できませぬ! この宴会は、何のためなのですか? わたし、このような恥を掻かされ、生きていけませんわ!」
「どう、せよと言うのじゃ。婿殿は来ぬのだぞ。しかたないではないか」
狸姫は、つん、と横を向いた。
「それでは、替わりの婿殿を探して頂きます。わたくし、どうしても婚礼を挙げたいのです」
刑部狸は呆気にとられていた。
「そんな無茶な……。婿殿といっても、右から左に探すわけにはいかんではないか」
姫は薄っすらと笑った。
「この宴会場に来ている者から探します。それなら、よろしいでしょう?」
「この中で? お前、気に入った相手でもおるのか?」
姫は頷いた。
「あの者を、わたくしの婿殿に!」
さっと躊躇なく指差す。指を差された花婿候補は、翔一だった!