愛からはじまる異世界転生 ~囚われの姫と沈黙の騎士~
彼女は哀れな女だった。
彼女は13歳になったばかりでこの家に嫁いできた。
ロレーヌ伯爵家の後妻として。
当主は68歳の男で、孫といってもいいくらい年が離れていた。
長い間続いていた隣国との戦争は和平条約により一応の終結を迎えたが、その実、冷戦状態が続いていた。
表向きは和平の証という名目で結ばれたこの結婚は、結局のところ人質を差し出したのと変わりなかった。
彼女をここまで連れてきた侍女は目を赤く腫らし、
「お嬢様は末は皇后になられるお方でしたのに」
と俺たちを睨みつけた。
「こんな野蛮な国の身分の低い家に嫁がせることになるなんて。かわいそうなお嬢様」
彼女がどんなに大切に育てられてきたのか、どんなに愛されていたのかその侍女の態度でわかった。
そしてそれがどれだけ彼女を苦しめるのかも。
彼女は黙って侍女を見ていた。
豊かなブロンドの髪と、少女らしくふっくらとした頬。
空のように澄んだ青い瞳とそれを縁取る長いまつげ。
その姿はとても美しく、年に似合わぬ気高さがあった。
何度も振り返りながら帰っていく侍女を、小さな拳を握りしめたまま彼女は一滴の涙も流さずに見送った。
一人の侍女も連れてきてはならない。
手紙のやり取りも、国に帰ることもできない。
彼女はその一生をこの小さな屋敷で過ごすことになったのだ。
彼女に与えられたのは、女主人に本来与えられるものとは程遠い、小さな窓があるだけの質素な部屋。
そこだけが、彼女が自由に歩くことの許された場所だった。
年も離れ、政略結婚で迎えた名ばかりの妻に、当主は一切の関心も向けなかった。
ある意味では、それは幸いであったかもしれない。
俺は護衛騎士として、あるいは見張りとして彼女の部屋の隅でずっと彼女の日々を見てきた。
はじめは部屋の外に立ち、部屋から出ないように監視をするだけだった。
だが彼女が屋敷に来て一週間が経ったころ事件が起きた。
侍女を見送ったあの日から何かをじっと我慢し、一言も話すことのなかった彼女の何かが溢れた。
花瓶を窓に投げつけて割り、そこから脱走を図ったのだ。
大きな音がして部屋の中に入った時、彼女は手や足を血だらけにして細い身体をぶるぶると震わせていた。
彼女の青く大きな瞳が、じっとこちらを見つめていた。
怯えているようにも怒っているようにも、諦めているようにも見えた。
新しくつけられた侍女が割れた花瓶から手を離すように呼びかけた。
「奥様、おやめください!」
彼女は散乱した花の一輪を手に取ると、花弁をむしり取った。
「奥様なんて呼ばないで! 私はただの人質じゃない!」
それははじめて聞く彼女の声だった。
かすれてはいたが、芯のあるよくとおる声だった。
遅れてやってきた医者が鎮静剤を打ち、彼女の逃走劇はあっけなく終わりを告げた。
俺は部屋の隅で、ベッドに寝かされたその少女の包帯をまかれた細い手足を見た。
意識なく横たわる彼女は青白く、その唇だけが、何か言いたげに赤く開かれていた。
その日から俺は部屋の中で監視をすることになった。
だが彼女は俺がいることも気づいているのかいないのか、なんの反応も示さなかった。
小さな部屋の中に閉じ込められた小さく哀れな少女。
それが彼女のすべてだった。
本来であれば彼女は、その白く細い手には、割れた花瓶の破片の代わりに小鳥を乗せ、庭園で花に囲まれて小さな茶会を開くのだ。
その頬は柔らかく、内側からにじみ出るような血色が彼女の美しさを引き立たせる。
品よく、しかしその年齢にあったはにかむようなほほえみを口元に乗せ、彼女を愛する人々とともに過ごすのだ。
そういったものすべてが彼女から失われていった。
彼女は孤独だった。
侍女を除けば、俺たちは彼女と会話をすることを許されていなかった。
侍女も、業務的なことを一言二言話すだけで、誰も彼女の話し相手になろうなどとはしなかった。
食事もろくに取らなくなり、艶やかだった髪は輝きをなくし、頬はこけ、手足はより一層細くなっていった。
それと同時に、孤独は彼女の精神をも蝕んでいった。
独り言が増えた。
笑っていたかと思うと怒り出し、そして大きな声で泣きはじめる。
その姿は、とても貴族令嬢のそれとは違っていた。
なにが彼女を変えてしまったのかは明確だった。
だがこの家の誰もがその事実から目を背け、彼女はより一層顧みられることはなくなっていった。
ある日、何かに腹を立てた彼女がヘアブラシで自分の頭を叩きだした。
あの事件のあとから凶器になりそうなものはすべて排除されていた。
彼女が手にしたのはヘアブラシだったが、目についたものならなんでもよかったのかもしれない。
彼女はそれを何度も何度も頭に叩きつける。
ぶつぶつと聞き取れない、隣国の言葉を話しながら。
たいていのことは見て見ぬふりをしていたが、今回は怪我をするかもしれない。
俺は背後から彼女に近づいて、手に触れてしまわないように気を付けながらブラシを奪った。
俺がいることにまったく気づいていなかった様子の彼女は、びくっと体を震わせて振り返った。
「お前、いつからいたの?」
貴族の娘らしい口調で訊ねる。
だが俺は話すことを許されていない。
だからゆっくりと首を横に振った。
するとそれをどう勘違いしたのか、彼女は慈愛に満ちた目で微笑んだ。
「かわいそうに。お前、口がきけないのね」
俺は曖昧にうなずいた。
状況的には同じことだと思ったからだ。
「ここに座って」
彼女が自分のベッドを示した。
俺の手から自然にブラシを奪うと、
「おいで。髪をとかしてあげる」
と人形にするように言った。
彼女の心には寂しさが巣食っている。
簡単に癒せるようなものではない。
人として俺にできることは、彼女の言うとおりに人形になり、ままごとに付き合ってやることだった。
だが俺はそうしなかった。
それはなぜか。
職務の範疇を超えていたから? あるいは、俺は彼女が怖かったのかもしれない。俺の心の中に入り込んでしまいそうで。
俺は静かに首を振った。そしてまた部屋の隅に戻ろうとした。
その背中に、硬いものが当たった。
ブラシを投げられたのだと気づいたのは、足元にそれが転がっていたからだった。
彼女はそのまま俺の背中を折れそうな腕で何度も叩いた。
「私の言うことが聞けないの!? お前は私の人形でしょう!?」
俺はそこから一歩も動かず、ただ彼女のしたいようにさせていた。
そのうちに嗚咽が混ざりはじめた。
聞いているこちらが絶望してしまいそうな、低く唸るような泣き声だった。
まだ幼い彼女の身に起きたことは十分悲劇だが、彼女の悲しみを、辛さを、分かち合えるものは現れない。そのことが最も大きな悲劇だった。
やがて泣き疲れて彼女は床の上で寝てしまった。
俺は隣の部屋の侍女を呼びに行き、侍女は彼女をベッドに寝かせた。
眠りについてもなお悪夢に苦しむ彼女にはどこにも救いがない。
本当に哀れだと俺は思った。
それから5年の月日が流れた。
18歳になった彼女は、細いながらも成長し少女とは呼べないほど大人びた表情をしていた。
彼女の美しさは成長とともに増していったが、翳りが常に付きまとっていた。
70を超えた当主はもう彼女の存在すら忘れているかのようだった。
小さな部屋に囚われた美しい娘。
その美しさも狂気も絶望も、みんな俺だけが知っていた。
彼女は本を読むようになり、普段はずっと読書に没頭していた。
本を読んでいる間だけは、彼女は正気を保っていられた。
読書をしていない時の彼女は、とても不安定で神経質に苛立っていた。
その苛立ちは常に俺にぶつけられた。
「そこにひざまずきなさい」
なにかあるとすぐに彼女は俺に命令した。
彼女の骨ばった手が俺の頬を打つ。
丸みのないそれは力などないはずなのにそこそこ痛い。
彼女の暴力に理由などなかった。
ただ気に入らないから。苛立ったから。雨が降っているから。
何でもよかった。
とにかく彼女は行き場のない怒りを手のひらに込め、俺にぶつけた。
それは彼女が唯一出来る感情表現の方法だった。
俺は目を瞑り彼女の気が済むのを待った。
これで気が晴れるのなら、どれだけ殴られても構わなかった。
一通り叩いて気が済むと、彼女は何事もなかったかのように読書へと戻っていくのだった。
だがある日。
いつものように理由なく俺をたたいていた彼女の爪が俺の頬に傷をつけた。
線を引いたようなその浅い傷口から、真っ赤な血が滲んだ。
それに驚いたのは彼女だった。
彼女は血を見るなりその大きな瞳のふちに涙を溢れさせ、「ごめんなさい」と小さく呟いた。
傷なんて大したことじゃない。気にしなくていい。そういうつもりで俺は首を振った。
だが彼女はそれを拒絶ととらえたらしい。
その顔がみるみる青ざめていった。
手当をしないといけないと思ったのだろう。
だが貴族の令嬢は手当の方法など知るはずもない。
滲んだ血はやがて大きな一つの雫となって頬を滑り落ちる。
彼女は俺の肩を引っ張ると、その雫に唇をつけた。
おもわず俺は彼女を引き離した。
彼女の唇には、俺の血がべったりと赤く色づいていた。
それはとてもなまめかしく、見てはいけないものを見てしまったようで俺は目を逸らした。
その日から彼女の態度は目に見えて変わっていった。
叩く回数は減り、彼女から笑顔を見せて話しかけてくることもあった。
相変わらず俺は首を振るか頷くだけだったが、それでも彼女は楽しそうに読んだ本の話をしてくれた。
「ねえ知ってる? 死んだら別の世界で生まれ変わることが出来るのよ」
この国の宗教では、死後は神の住む天界に行きそこで何不自由ない生活を送るのだ。
だからその考えは宗教的には正しくはない。
そう思ったが、彼女がそれを信じるのは彼女の勝手だ。
朝から彼女が眠るときまで彼女の部屋にいて、夜は別の女性騎士と交代をする。
そんな生活がもう5年も続いていた。
誰よりも彼女のそばにいて、彼女が少しでも心を開いてくれる。
ここでも生活が彼女にとって少しでもよいものになればと俺は心から願っていた。
あるとき、俺は急に別の用事を言い渡された。
用事を済ませて昼前に彼女の部屋に行くと、彼女は怒りで顔を歪ませていた。
彼女の不安定さには慣れていた。
これは久々に叩かれるなと覚悟した。
「どうしていつもの時間に来なかったの!?」
甲高い声で叫びながら、彼女がこちらに向かってきた。手を振り上げている。
俺はいつものように静かにひざまずき目を閉じた。
だがいつまでたっても頬に感じるはずの衝撃が来ない。
ゆっくりと目を開けると、彼女は行き場の失った手を宙にさまよわせながら静かに泣いていた。
「もう来ないのかと思った」
目からはとめどなく涙が流れ落ちているのに、不思議なことに声は震えていなかった。
「お前まで私の前から消えるのかと……」
そして彼女は両手をおずおずと伸ばすと、俺の体に手をまわした。
抱きつかれている。
靄のかかったような頭でようやく理解する。
棒のように細い腕が、ぎこちなく俺の背中にしがみつく。
俺は少しも動くことなく、石のように固まっていた。
やがて彼女は体を離すと、ゆっくりと俺の唇に唇を合わせた。
触れるか触れないかのキスは、すぐに離れていった。
彼女がなぜそんなことをしたのか俺にはわからない。
彼女が俺に、恋だの愛だのといった気持ちを持っているなどというおめでたい考えは浮かばなかった。
なぜなら彼女に選択肢はなく、彼女の世界にいるたった一人の人間が、たまたま俺だったというだけだからだ。
そこに意味など見出せるはずもない。
だが俺は。
彼女に抱くこの気持ちは、哀れみや同情とともにずっと巣食っているこの感情は、一体何なのだろう。
何事もなかったかのように日々は過ぎていく。
近頃はまた隣国との関係がきな臭くなってきているらしい。
そうすれば、実質的な人質である彼女はどうなるのだろう。
俺は不安を募らせていった。
だが誰もわからない。
彼女はそんなことは何も知らず、ずっと一日中本を読んでいた。
牢獄のようであったこの部屋は、いまでは彼女を守る城に変わっていた。
彼女はこの小さな部屋で誰にも邪魔をされずに過ごすのだ。
彼女の吐息やページをめくる微かな音、本に没頭する感嘆の溜め息。
顔にかかる髪を耳にかける横顔、涙ぐむ目尻、薄く開かれた赤い唇。
彼女の世界を傍観者として眺めつづけた俺にとって、それはようやく訪れた穏やかな春のような日々だった。
だがなぜ、春はとても短いのだろう。
再び戦争がはじまった。
冷戦中に武器を蓄えてきたのだろう隣国に、市街地すら戦場に塗り替えられていく。
この屋敷すら安全ではない。
「逃げましょう、奥様」
領地に疎開することが決まり、侍女が声をかける。
しかし彼女は動かなかった。
「逃げるって、どこに逃げるというの? 私にとってはここはずっと戦場だったわ」
それは静かな声だった。
やけになっているわけでも怒っているわけでもない。
ただただ真実を彼女は口にした。
そうだ。
彼女にとってはここは敵国で、ここは常に戦場だった。
彼女は一人、ずっと耐えながら戦い続けてきたのだ。
砲弾の音が近づいてくる。
侍女が叫ぶ。
「奥様! ここにいたら死んでしまいます!」
たとえこの5年の間に、病気などで彼女が死んだとしても悲しむこともなかっただろう人々が、彼女を疎開させようと必死になっている。
名目だけとはいえ主は主。
主を置いて使用人だけ逃げることは出来ない。
彼らは自分のためだけに、彼女に逃げてほしいと懇願しているのだ。
「俺が、ここに残ります」
はじめて口を開いた俺に、彼女が驚いた顔で振り向いた。
「お前、口が利けたのね」
そこには非難する色はなく、むしろ嬉しそうですらあった。
使用人たちは俺の言葉を聞き、そそくさと逃げ出していった。
彼女は砲弾の飛び交う空の下、ベッドに寝そべっていつものように本を開いた。
その口元には笑みが浮かんでいた。
戦争には似つかわしくないほど、美しかった。
突然、砲弾が屋敷の屋根を突き破った。
ものすごい轟音があたりを包み、何の音も聞こえない。
俺は彼女の姿を探した。
やがて彼女の姿を捉えた俺の瞳は大きく揺れた。
ベッドに横になった彼女の腹に、屋根の柱が突き刺さっていた。
「ローズ様!」
俺は彼女の名前を呼んだ。
腹からは赤い血が、泉のように湧き出している。
上を見ると穴の開いた天井からは空が見えていた。
崩れかけた屋根の梁に、まだ爆発する前の砲弾が引っかかっていた。
彼女の腹に突き刺さった柱は長く、抜こうとすれば砲弾が落ちてしまいそうだった。
もしあれが落ちれば爆発する。
そうなれば彼女の命は終わる。
俺は彼女を見た。
苦しそうに口からも血を流す彼女は、だが笑っていた。
それを見て、俺は彼女に駆け寄った。
横たわる彼女を強く抱きしめた。
哀れでみじめでちっぽけな彼女を、一人で死なせはしない。
彼女の一生は何のためだったのだろう。
この牢獄に閉じ込められたまま外の世界を知らないままで人生を終えてしまう彼女を、俺は愛しているのだとはっきりと気づいた。
砲弾が屋根から落ちていく。
その瞬間、強い光があたりを包んだ。
気が付くと、真っ白な光の中を俺は歩いていた。
一面真っ白で何もない。
「あら、お前も来てしまったのね」
後ろから声がして振り返ると、彼女が立っていた。
いつも通りの美しい、むしろいつもより血色のいい彼女が美しいドレスを着てこちらに微笑んでいた。
その顔にはいつも取りついていた翳りはなく、朗らかに笑っている。
「一人にしないでって泣いていたので」
「私がいつそんなこと言ったのよ」
俺の軽口に口をとがらせて、彼女はゆっくりと俺に近づいてきた。
俺はそっと彼女の手を取る。
「あっちが出口なのよ」
「出口?」
「ほら、前に話したでしょう? 死んだら別の世界で生まれ変わるの」
それは俺が信じていたものとは違うものだったが、そんなことはもうどうでもよかった。
彼女といられるのなら、それはもう天国と同義だ。
「何に生まれ変わろうかしら」
歩きながら彼女が首を傾げる。
「私は冒険者になりたいわ。お前は相棒の犬ね」「俺犬なんですか」「いや? じゃあ、魔法使い」「俺、剣士がいいです」「いまも騎士なのに?」「ちゃんとあなたを守れる強い剣士じゃないと」「そんなのいいわよ。私が強くなるから」「それは怖いですね」
俺たちは光の中を出口に向かって歩く。
「実は結構いたかったんですよ、あの平手打ち」「そうなの? もう最強だったってわけね。ていうかお前、喋れるんならそういいなさいよ」「ディオンです」「なに?」「俺の名前」「ディオン……覚えたわ」「忘れないでくださいね」
出口が近い。
つないだ手に力をこめる。
「ええ、絶対に忘れないわ」
彼女が微笑んだ。
俺たちは、生まれ変わってもずっと一緒だ。




