第5話~天秤~
昼食時間を終えると、株式市場の後場が始まる時間になり、
俺はその時間に合わせるようにノートPCを開いて、
デイトレードの準備を始めようとする。
学校内の無線LANが使える部屋へと移動して、
PCの電源を入れたと同時に、
マナーモードに設定していた携帯電話が震えだし、
メールの着信を告げる。
"授業で寝そう…。何か眠気を覚ますいい方法ないかな?"
送信者は神大寺。
ここ最近、神大寺と頻繁に連絡を交わすようになった。
大学の講義や就職活動、友人の話と内容は様々だが、
どれもハッキリ言えば、
今回のメールのような深く突き詰める必要のないような話だ。
少し前の俺だったら結論の出ない無意味な話として、
そのまま無視するか、
あるいはどうでもいい内容のメールを送るなと返信して、
メールのキャッチボールを拒否していただろう。
しかし、相手を理解しようとする努力をすることを決意した、
今の自分には、こういうなんでもないやりとりから、
少しずつ相手を理解していけるということが、
まんざら嘘ではないという事が身に染みて、
我ながら健気に返信している。
退屈なだけだと思ってたメールのやりとりも、
今は少し楽しくなってきた。
どうやら食わず嫌いなだけだったらしい。
"首を2,3回まわして、手をグーパーするといいらしいよ。"
ノートPCを開いて、
Google先生に教えてもらった方法を神大寺に伝えると、
"試してみる"
とすぐに返信が来た。
眠いといいながら、しっかりメールを返せているのだから、
このメールのやりとりこそが一番の眠気覚ましだろうと思い、
更に続けて返信しようかと思ったものの、
時計を見るとすでに12時半を過ぎている。
俺もそろそろ副業を開始しなければいけない時間で、
携帯電話を弄っているわけにはいかない。
ペットボトルのお茶を口に一口含み、
パソコンにインストールされた証券会社の
トレーディングツールを立ち上げる。
さて、小遣い稼ぎの始まりだ。
トレンドラインは右肩上がり。
小刻みに株価が上げ下げを繰り返しているが、
下がるのはあと20円までで、そこからは上がる。
3510円で買い、そして3580円で売りってところか。
モニター画面に集中していると、
不意に視線を遮る手が視線に入り、
横を見ると篠原が立っていた。
「さっきから声掛けているのに、全然反応ないんだもんな。これじゃあ俺が可哀想な人に見えるから、反応くらいしてくれよ」
「悪い、悪い。集中していたから気づかなかったみたいだ」
いつからいたのか分からないが、
集中しすぎでどうやら彼がいることに気づいていなかったようだ。
「そうか。邪魔してしまったか?」
「いや、もう結論は大体出ているし、それほど集中する必要もない状況だ」
近くのイスを俺の座るテーブルに運んで、
俺のPCを覗き込みながら篠原が言う。
「どうだい、景気は?」
「ボチボチだよ」
ここに来たということは偶然というわけではないだろう。
きっと何か用があるに違いないと思いつつも、
それを口にすることなく、お茶を飲む。
「六角、Wordって詳しいか?」
なんだ、そんなことか。
もっと大きな話かと考えていた俺は少しばかり落胆する。
「まあ、一般的なレベルなら分かるけど…斉藤ほどではない」
「あいつは今病気だから駄目だ」
「病気?風邪でもひいたのか?」
PC画面を見ると、予想通り株価が3510円まで落ちた。
指値で入力していた株数が購入出来たことを確認出来たから、
あとは上がるのを待つのみ。
「いや、恋の病だよ。恋の病」
篠原から予想だにしていなかった言葉を聞き、
思わずモニターから目を離して篠原を見る。
「本当か?」
「本当だよ」
大学で会って以来、
一度もフライデーされたことのない斉藤が恋の病とは。
軽い感じの口調で言ってはいるが、冗談ではないようだ。
「それで相手は誰なんだ?」
篠原にそう尋ねながらも、斉藤の相手はなんとなく想像がついた。
もし、その俺の考えが正しいのであれば、
俺は友人に訪れそうな春を心の底から祝福できそうにない。
「神大寺だよ。神大寺双葉」
躊躇することなく俺にそういう篠原。
「やっぱり…」
都合のいい時ばかり予想は外れない。
モニターを眺めると、3510円で買った株は、
3540円へと上昇していた。
篠原から聞いた情報によると、
斉藤はあのバーベキューの日から、
神大寺のことが気になっていたらしい。
確かに普段の斉藤とは違い、初対面で打ち解けていたのだから、
あの日をきっかけに斉藤が神大寺のことが好きになっても、
なんら不思議ではない。
そしてそれから俺も含めて、あれから何回か神大寺と会い、
その度に会話が弾み、
楽しい時間を過ごせていたのだから寧ろ当然のことなのだろう。
篠原が言う前から相手が予想出来ていたように、
俺も斉藤が神大寺のことを好きなのではないか
という考えは持っていた。
だからといって、
俺から彼にわざわざそんなことを聞く必要はないだろうと思い、
自分の心の中に留めていただけのこと。
驚くことではなく、想定内の範囲だ。
ただ、引っ掛かるのは、
斉藤が篠原には自身の気持ちを打ち明けているにも関わらず、
俺には何も言っていないということ。
それが偶然なのか、それとも何か理由があってなのか。
もし後者なのであるならば、
考えられる理由は、
俺に言うと斉藤にとって不利益が生じるということに他ならない。
では、その不利益なこととは一体何か?
斉藤は俺が神大寺に対して好意を持っていると思い、
俺と斉藤とで神大寺の取り合いになることを恐れていた?
白幡や三沢も俺が神大寺に気があるのではないかと
疑っていたのだから、
斉藤も俺が神大寺のことが好きだと思っている可能性は充分にある。
まてよ…。
そもそも、俺自身は神大寺のことをどう思っているのだろうか?
一人の気が合う人間としての好意については否定するまでもない。
だが、異性としての好意はどうなのだろう?
白幡のお披露目パーティーのときは、
慌てて決める必要なんてないと後回しにしていたが、
今となってはそうも言ってられない状況になってきた。
Love?Like?
いや、Loveというほど深くないだろうと自問自答しながらも、
斉藤が神大寺のことが好きだという話を聞いたときの俺の心の内は、
おめでとうという言葉よりも、
先に勘弁してくれという気持ちのほうが強かった。
ということは多分、
いや、きっと俺は神大寺を異性として意識しているだろう。
人を理解しようと努力をし始めて、
少しずつ、それが分かり始めてきたって言うのに、
今度は自分自身のことが分からなくて悩み出す。
誰かに相談するか?
それは無意味だろう。
自分自身のことを一番理解しているのは俺のはずだ。
他の誰かに聞いたところで、
それはその人が描いている俺であって現実の俺とは違う。
だったら、自分自身が描いているこの俺はどんな人間だ?
俺はこんなことで悩むような人間ではないはずだ。
それでも現実の俺は悩んでいる。
自分自身の描いている自分の姿とはかけ離れているのだ。
ならばやはり、
自分と長い付き合いの人間に聞いてみたほうがよいのだろうか?
では、誰に?
頭の中で思い当たる相手に相談したらどうなるかを
シミュレーションしてみる。
―篠原の場合―
「俺と神大寺のことをどう思う?」
「どう思うってどうかしたのか?」
「俺は神大寺のことが好きなのかどうか分からない」
「自分で分からないと思っているなら、好きと思い始めているんじゃないの」
―三沢の場合―
「俺、神大寺のことが好きっぽいんだがどうしたらいいかな?」
「好きなら告っちゃえばいいじゃん」
「でも、斉藤も神大寺のこと好きそうだし、どうするべきが悩んでいる」
「それはそれ。これはこれ。気持ちを伝えなきゃ何も始まらないんじゃない?」
―白幡の場合―
「なあ、白幡。友人と恋人の違いってなんだと思う?」
「やるかやらないか。あとはキツイ時に弱さを見せれるかどうかじゃない?」
「真っ当な意見だな。それじゃあ友人としての好意と異性としての好意の違いは?」
「それを望んでいるか望んでいないかの違い」
彼らに相談したら、きっとこんな感じの回答だろうな。
でも、あいつらならなんて答えるかを考えて、
第三者的な視線で今の自分の状況を判断出来た。
俺は神大寺が好きではあるのものの、
俺が求めているものは斉藤との友情を壊して奪うものではない。
だとしたら、俺の"するべきこと"は彼らの仲を祝ってやることだろう。
それが正しい事だ。
次に神大寺と会う予定はいつだったか。
頭の中のスケジュール帳を確認すると、
今週末に行われる花火大会の日で間違いない。
その日は神大寺だけでなく、斉藤も来る。
そしてその脇には篠原もいるし、三沢もいる。
白幡も予定があえば来ると言っていた。
役者は揃った。
あとは斉藤がどう動いて、その行動に俺たちがどう動くか。
そして神大寺がどうするのか。
あらゆる状況をシュミレーションしながら、
俺のするべき行動を事前に確認しておく。
その行動こそが俺が出した答え。
迷うことはないはずだ。
頭の整理がつくと、無性に友人に会いたい気分になった。
時間は夜の9時。
デート中でなければ篠原は捕まるはずだ。
早速、電話をすると彼の声に混じって、テレビの音が聞こえる。
彼も暇を弄んでいたようで、学校近くのバーで集合することにした。
こうして俺の大学生活最後の夏が始まる。
その開始を告げるのは、
夜空に咲く大きな花とほんの少しの火薬の匂い。
俺に与えられた役割は大きな花でもなければ、その作成者でもない。
ただの見物人。
そう、それは傍観者を演じることにすぎない役割だ。