禁域
時間を遡る事3か月前──アメリカ・ニューヨーク廃工場跡
錆びた鉄の匂いと、遠くで鳴る警報の残響。
彼女は慎重に扉の隙間から外をうかがった。同行していた別の活動家が、さきほど連れ去られた。もう戻っては来ないだろう。
「……あいつら、すぐ近くまで来てる」
少女──いや、見た目は少女にしか見えない彼女は、すでに23歳になる。背は少し伸びたが、すらっとした骨格も、絹の様に白い肌も、緑色の瞳も、当時のようだった。
彼女も「進化」してしまったのだ。
「大丈夫。彼らはまだ、私たちがここにいると気づいていない」
彼女は娘の肩に手を置いた。
娘は言葉少なに頷いた。
彼女たちは今、“二重の追われ人”だった。
ひとつは、表向きの理由。反日的な政府活動に反対するリーダーとしての「罪」。
だが、それよりも深い影には、より危険な事実があった。
15年前、自分たちを言葉巧みに自宅から連れ出した男。かつて父の仕事の取引相手として彼女の幼いころに一度パーティーでたまたま同じ席になった事があった。
だから信用してしまった。
名は東蒼月
表では紅茶やコーヒー豆などを取り扱う貿易商社であるが、実は変異個体狩猟部門(Mutant Hunting Division)通称MHDと呼ばれる闇商人の中心人物だった。
子供の誘拐や拉致、人身売買、奴隷、武器の密輸、情報操作、暗殺。法外な値段でなんでもやる組織の長。
彼もまた進化者であった。
政府関係者、フィクサーと呼ばれる人々にそれらは”納品”される。秘密裏に行われている実験、小児性愛者・・・客は世界中にいた。
日本国内で進化した者たちの遺伝的特徴を解析・複製するため、混血の者たちを対象に極秘の実験が行われ始めていた。日本人が進化したというニュースが世界を揺るがしてすぐ、大国の裏政府はそういった組織に競って”注文”を出していた。 サンプルの採取を と。
2人はその東からも逃げねばならなかった。
アメリカ国内にいる“日系”たちは──主に三つに分かれていた。
迫害され、地下で怯えて生きる者たち。
犯罪に手を染め、暴力を糧にする者たち。
自らの能力を政府に売り渡し、諜報や暗殺に従事する者たち。
娘は、地図を指さす。
「……次は、サンノゼのルートで。港から出られれば、日本へ戻れる」
「それだとあの人たちに追いつかれるわ、それと東・・・あいつからは逃げきれない」
「それでも戻る。お父さんが、どこかで生きてる気がする」
娘は目を伏せ、唇を噛んだ。
彼女は娘の目元に触れた。
その目元は、あの人──日本に残してきた、愛しい人によく似ていた。
十五年前—
「あなたのご主人が会社で倒れました」
彼女はその言葉を信じ、慌てて荷物をまとめ娘と共に黒い車のドアを閉めた。
だがそれが、地獄の始まりだった。
透明な隔壁の向こうで、誰かが泣いていた。
それが人間なのか、それともかつて人間だったものなのか、わからなかった。
コードとチューブで繋がれた身体。
分厚い防音扉が静かに閉じると、外界との繋がりは完全に断たれる。金属と薬品のにおいが支配するその空間に、光は冷たく差し込んでいた。
裕子がそのような部屋に入れられたのは、搬送からすぐのことだった。何が起きたのかもわからぬまま、気づけば拘束され、白衣の男たちに囲まれていた。
「あなたは“適合者”です。血統的に重要な因子を持っている。静かにしていれば、娘さんも助かります。」
「ちょっと何?なんですか?あなた達は誰? ここから出して 娘に会わせて!」無表情で作業を続ける男たちにそう言ったが、鎮静剤を打たれ、やがて意識が混濁していった。
――娘と黒い車に乗った。東から電話がかかってきて――
一花は・・・? 壁の向こうにいるのか、別の棟にいるのかすらわからない。尋ねても返答はない。
看守の一人が低く呟いた。
「母体としての条件は申し分ない。次も成功するといいが……」
孤独と恐怖、そして子を守れない無力感に、夜な夜な声も出せず泣いた。娘が泣いているかもしれないその瞬間にも、触れることすらできない。あの日まで手を引いて歩いていた、あの温もりすら奪われた。
もう一つの隔離室・一花
一花は薄暗い部屋で、ひとりきりで過ごしていた。
「……今日は何日め?」
そんな質問をしても、誰も答えてくれない。時間の感覚は薬で薄まり、眠らされ、起こされ、何かを飲まされ、また眠る——そんな日々。
最初の数日は泣きじゃくっていた。母を呼び、扉を叩き、叫んだ。
しかし、薬が投与され始めると、感情の波は鈍くなった。母の名を忘れたわけではない。ただ、その呼び名に結びつく記憶が霞んでゆくのだった。
看護師のような女が言った。
「あなたは“安全な場所”にいるの。大丈夫よ、痛くないからね」
笑顔のその裏に、子どもでも直感する冷たさがあった。一花は答えない。ただ目を伏せ、黙って透明な液体の入ったカップを受け取る。シロップの様に甘かった。
「ママはどこ?」
その問いを、心の中でだけ繰り返す。
隔たりの中で
裕子と一花は、互いの存在を知っているのに、触れることも、声を聞くこともできない。
それぞれの部屋には、小さな通気口があり、ある夜、裕子はその向こうから微かに聞こえる歌声に気づいた。
――あれは…一花の、歌声……?
記憶の底から掘り起こされた旋律に、裕子の目から涙があふれた。返す声すら出せず、ただ唇を震わせ、通気口に手を伸ばした。
どこかで、生きている。
それだけが、裕子を人間として保たせていた。
全てが曖昧な意識のまま3年が過ぎた。
ある日、施設内に爆発音が響いた。けたたましく鳴る警報。走り回る研究員。日本軍の衛星からの破壊レーザー兵器により、ここネバダ州にある巨大な研究施設は壊滅的な打撃を受けた。
全てのセキュリティが解除され、隔離部屋の扉は一斉に開き、意識のある者は検査着のまま駆けだした。
裕子は地震のような揺れで目を覚ました。頭がぼやけて状況が良く理解できない。
見ると隔離部屋の扉が開いており、研究者たちが走りまわっている。
裕子は無意識に駆けだした。そして死に物狂いで一花のもとに向かった。
一花は裕子のいる棟の隣の棟の3階にいる、と、なじみの検査員から聞いたことがあった。
大きな爆発が起こる前、一花は日課の薬を処方される直前だった。
地震のような衝撃が来て、担当の看護師が薬を床にまき散らしてしまった。
「代わりのを取って来るからここで待っててね」と言って看護師は部屋から出ていった。
開きっぱなしの扉。
一花はそれをぼんやり見つめていた。
警報音が鳴り響き、人々が慌てふためいている状況だが一花の精神は曖昧だった。
一花はふと歩き出した。何かに誘われているかのように。
何かの部屋にたどり着いた。体育館ほどの広さの中に無数の培養槽が均一に並べられている。
それらの培養槽の中に沈む、たくさんの人間に似たもの達。
一花はぼんやりそれらを見物しながら、一つの培養槽の前で足を止めた。
119号と書かれたプレートが貼ってある。
ガラス越しに見たそれは蛇のような鱗が生えた女の子だった。
金髪が培養液の中を漂っている。
ふいにその子の目が開いた。海のようなエメラルドグリーンの青い瞳だった。
「綺麗・・・」ぼんやりとした意識の中、その言葉を自然とつぶやいた。
培養槽の中の女の子が一花を見ているのかはわからないが、2人はしばらく見つめあって
いた。
その時遠くで声がした。「ち・・・かーー・・・」
そして声はどんどん近くなる、その時にははっきり聞こえるようになっていた。
「いちかーーー!」
背の高い女性が一目散にこちらに向かってくるのを一花はぼんやり見つめた。
その女性は青い瞳をしていた。
裕子は一花をぎゅっと抱きしめ、わんわん泣いた。
培養槽の女の子はその様子を虚ろな目で見つめていた。
──現在
貨物列車が一瞬揺れた。
一花は跳ねるように目を覚ました。
一花が母親の事や拉致以前の事を思い出したのは、母親が助けに来てから1か月後だった。
その間、意識は混濁し、眠りにつくたび悪夢に悩まされた。
10年以上経った今では殆どその夢を見ることはなくなったが、また悪夢を見てしまった。
娘は、母の膝に頭を預けた。
その温かさだけが、世界で唯一、信じられるものだった。
霧が濃くなってきた。
港のゲートに向かう途中、背後から銃声が響いた。
娘が振り返る。
影のような人影が、クレーンの裏に現れた。
顔の半分を銃で撃たれたのだろうか、その部分は煙を出しながら再生している。
「逃げたってどこに行くんだい?」
「奴よ……!」
2人は素早い身のこなしで貨物の天井を駆け抜ける。
その瞬間、男は闇に溶けるように姿を消したかと思うと、次の瞬間隣の貨物に姿を現した。
とその時、隣の貨物が轟音と共に吹き飛んだ。その衝撃で2人は数メートル吹き飛ばされた。
はいつくばってよろめきながら「大丈夫・・・?」
「うん お母さんは?」
「なんとか・・・ね」
「腹部を押さえる手の隙間から、血液がぬるりと溢れ出していた。彼女は痛みを笑顔で隠そうとしている──いつものように。」
「大変・・・」
万事休す—
その時どこからともなく声が聞こえた。「こっちだ」
2人はあたりを見回すと、10メートル離れた場所の地面から人の顔が飛び出ている。
声の主はその人物らしかった。
「早く来い!」手招きするその人物に対し、二人には選択肢がなかった。
四つん這いになりながらマンホールへ駆け込んだ。
「虫けらどもめが・・・ 逃げたとて楽園など無い どこにも」 シューシューと音を出し、ぼろ雑巾のようになった体を再生しながら東はそうつぶやいた。
彼女たちはこの生活に終止符を打たねばならなかった。
──帰ろう、日本へ。
時系列を盛大にやらかしたので、それに伴い内容を結構変えてます・・・